07:州都のリリィ
スキップレースが終わって父さんと家に帰ってから、麻酔が切れたみたいにひどい頭痛がし始めた。薬を飲んでさっさとベッドに倒れこんだとたん、ぼくはぷっつりと気を失った。
「ぼく、ちゃんと寝たはずなんだけどな」
翌朝起きるとき体が鉛みたいにやたらと重くて億劫だった。初めてのレースでかなり消耗したらしい。次のレースもこんな感じだと先が思いやられる。
「やっぱりリルはすごいや」
昨日リルと勝負の約束を交わしたときの高揚が、今やすっかり冷めていた。
なんというか、勝った気がしないんだ。肝心のレース最終盤のことはすっかり記憶が抜けているし、スキップの洗練された機動もまだ全然ものにできていない。
リルの動きを真似して後ろに食らいつくことが今のぼくの限界。それは新人スキッパーとしては我ながら結構すごいことだと思うのだけど、自分の操縦の腕が良いおかげではないという自覚はある。
レースの時、ぼくは不思議な感覚に呑まれた。時間が遅くなるような、常人をはるかに超えた超集中状態。そのおかげでぼくはリル機の飛び方をトレースすることができたし、代償として響く体の不調に苦しめられている。このじゃじゃ馬な能力をいかに上手く操れるかが今後のレース結果を左右するのだろう。
『ニカ、父さんは仕事で州都まで行ってくる。昼までに終わるけど、もし気分が悪くなったら躊躇わずに医療ドローンを呼んで診察を受けること』
居間に置きっ放しにしていた携帯端末に父さんからのメッセージが残っていた。
『ぼくはもう大丈夫。スキップで迎えに行くよ』と返信しておく。
残り物のパンケーキをフォークでつついていると父さんから返信が来て、州都の宇宙港で待ち合わせていっしょに昼ご飯を食べることになった。ぼくは静かな店をマップで適当に見繕い、カレーが食べたかったから、カレーのメニューがある店を選んで父さんにも教えておいた。
結果的にこの選択が後々ぼくの運命を変えることになる。
そういえば州都にやってくるのは初めてだった。けれど携帯端末のナビのおかげで道に迷うことはなかった。都市ドームの外縁部にある宇宙港ビルは、ドーム外の発着場へと繋がる巨大な半円形のチューブのようになっている。旅行客で賑わう商業エリアの中で時間をつぶしていると、一時間遅れで父さんが走ってきた。
「遅くなってすまん、会議が長引いてしまってな」
スーツ姿の恰幅の良い父さんはいかにも企業の重役という感じが出ているけれど、顔つきが優しいせいで、なんだかちょっと頼りないようにも見える。腹が減っていたぼくは、待っているあいだに調べておいた経路を通って父さんと港の裏通りに出て、目当ての店に入った。
喫茶店『氷砂糖』は小さいけれど静かでお洒落な店。けれどぼくはとにかく空腹を満たしたかったからさっさとカレーを注文することばかり考えていた。
でもそんな考えはいっぺんに吹き飛ばされたんだ。
「ご注文は何になさいますか?」
そのとき初めて彼女の姿をしっかりと見た。
ちょっと古くさいメイド服を身に纏った女の子。少し背が高いけれど、歳はたぶん僕とそんなに変わらないんじゃないか。
服の端からのぞくすらりとした白い手足、くっきりとした顔立ちに長い睫毛、それでいてちょっと不安そうに揺れるアーモンドの蒼眼。赤く色付いたくちびるは挑むように横に結ばれ、柔らかそうな短髪が細い首すじをくすぐっている。
たちまちぼくは彼女から目が離せなくなった。
「私はこのサンドイッチとコーヒーを頼むよ。ニカはどうする?」
ぼくは父さんの問いかけにも答えずにぼおっと彼女を見つめていた。
「ニカ?まだ具合が悪いのか」
「だ、大丈夫だよ。ええと、ぼくはこのトマト・カレーとミルクにします」
かしこまりました、と言って彼女はキッチンに戻っていった。そのとき彼女はちらりとこっちへ振り返ってぼくと目が合った。
短めの栗色の髪がふわりと揺れて、深い青色の瞳がきらきらして見えた。ちょっと困ったような顔をして彼女はすぐに目を逸らしてしまう。
その目の色には覚えがあった。何の因果か、あのリル・クラークと同じ目だ。まさか、兄妹だったりするのだろうかと勘ぐってしまうくらい、そっくり。
トマト・カレーは美味しかったけど、頭はあのメイド服の少女のことでいっぱい。有り体に言えば、ぼくは恋をしてしまった。ひとめぼれである。
恋は盲目。この時はスキップレースもクラスのみんなも頭から消え去って、猫を被るのも、ここが喫茶店だということも忘れて、ぼくは彼女、リリィに告白した。
「ぼくと付き合ってください」
リリィの顔がみるみるうちに赤くなっていくのを見て、ぼくも頰が熱くなった。大きな目がさらに大きく見開いて、口もとはぽかんと空いている。
「どうして……わたしなんですか? 会ったばっかりじゃないですか」
「なんでこうなっちゃったのか、それはぼくにもわからないんです。でもあなたを好きになってしまったんです。あなたのことをたくさん知りたいです。もっと喋ったり、デートしたりしたいって思うんです」
ぼくはいっぺんに言い切った。
リリィは俯くと、自分の手を握るぼくの手を見つめ始めた。
「わたしはあなたに釣り合うような女の子じゃないんです、たぶん」
「リリィさん……」
「どうしたら良いんですか?シズカさん」
リリィは父さんと一緒にこっちを眺めている店主のほうへ振り返った。父さんははらはら見ていたけど、女店主はニコリともせずに腕を組んでいる。でもリリィの方を見て少し笑みを見せた。
「それはリリィ、あなたが決めることよ」
「彼の勇気に応えるのも、それを拒否するのも、無視するのもあなたの自由。でもどんな結論にせよ、それはあなた自身が決めないといけないわ」
リリィはぼくの方に向き直って目を合わせた。少し不安そうに、でもしっかり。
「わたし、こういうことを言われたのは初めてなんです。どうしていいか分からなくって。えと、わたしって嫌われ者だから、好きだって言ってくれるひとがいるなんて考えたこともなかった。だから、その、ちょっと嬉しかったです」
でも、とリリィは言った。
「わたしと関わるときっと後悔しますよ。嫌いになるとおもいます。だから」
ごめんなさい。そう言って目を伏せた彼女はひどく悲しげで、崩れてしまいそうだった。
「ぼくは後悔なんてしませんよ」
リリィとここで終わりだなんて、ぼくは嫌だった。
「ぼくの学校にみんなから嫌われている、あなたみたいな綺麗な目をした男の子がいるんですけど、ぼくがクラスでいちばん仲良くなりたいのは彼なんです。会ったときから彼と仲良くなりたいって感じたんです」
リリィが少し驚いたふうにぼくの目を見つめた。
「同じなんです。なんかこう理屈じゃないんです。だから絶対に後悔なんてしません。あなたの全部を知りたいって思ったから」
「いきなり勝手なことを言って仕事の邪魔をしてごめんなさい。でもあなたと離れてしまいたくないんだ」
ぼくはリリィの手を握る自分の手が震えているのがわかった。これはリリィが震えているのか、はたまたぼくが震えているのか。
「あの」とリリィは遠慮がちに言う。
「最初は友達としてではダメですか?まずお互いをよく知らないといけないとおもう」
その瞬間、店の中がぱっと明るくなったような気がした。
「ダメじゃないです。ぜんぜん大丈夫です」
「こんなわたしで良ければ、これからもよろしく」
そう言ってリリィはぺこりとお辞儀した。ぼくもつられて頭を下げたけれど、それがなんだかおかしくなって二人で笑った。
それからぼくらは連絡先を交換して、また会うことを約束して別れた。
帰りのスキップに乗っているとき、冬空が雲ひとつなく澄み渡っていて、肩に当たる冷たい風も心地良かった。もっとも後席の父さんは寒がっていたけれど。
「まったくお前も隅に置けないな。あんな可愛い娘を射止めるなんてな」
父さんは、わっはっはと中年のおじさんらしく満足そうに笑った。




