10:メアリーズ・ポートの暗雲
中等部三年目の一学期が始まり、そろそろ学期末のレースに向けた準備が必要な時期に差し掛かっていた。俺のみつば3000型はもともとレース向けのマシンではないから、練習で摩耗する機体のパーツ交換代も馬鹿にならない。金持ちのニカと違って俺はいつも金欠だ。バイトも出来るだけ増やしたいけどシズカさんは度を越した過密シフトにはストップをかけてくる。
土曜日の昼下がり、俺は『氷砂糖』のゆるいアルバイトを終えて、キッチンの裏でシズカさんがくれたサンドイッチをかじっていた。
ポケットの中の携帯端末がぷるぷる鳴ってメッセージの受信を知らせてきたのはそんな時だった。
『来週の土曜日に、どこかいっしょに行きませんか?』
それがニカからだと分かって胸がどきんとした。
『うん、行きます』
『よし!どこか行きたい所はある?』
ニカはまた律儀にメールで送ってくる。俺が電話を躊躇うことを気にしてくれているらしい。
どこか行きたいところ……。私は去年の末にお店の常連のお姉さんから貰ってそのままにしていたテーマパークのチケットのことを思い出した。これなら金欠でも遊べるだろう。
『わたし、"メアリーズ・ポート"のフリーパスを二枚持ってるんだ。ここに行きたいな』
そのテーマパークについて簡単に説明すると、ニカも興味を持ってくれた。
『面白そうだね。州都の近くなら喫茶店の前で待ち合わせてから行こうか』
『うん、そうしよう』
初めてのデートか。俺は期待と不安の板挟みになっていた。女の子として『氷砂糖』の外で会うのも、遊園地も初めて。土曜日が凄く待ち遠しい。でもずっといっしょにいれば流石に正体がバレてしまうんじゃないかって少し不安も残った。
「楽しそうね。リリィちゃん」
気がつくとエプロン姿のシズカさんが目の前に立っていて、俺は飛び上がった。
「カレとデートでも行くのかしら?」
「な、何で分かるんですか」
「だって顔に書いてあるもの。リリィちゃんが何を考えてるかなんてお見通し」
シズカさんは俺が食べたサンドイッチのバスケットを片付けながら、歌うような口調でそう言った。
「デートの日は開店前にここに来なさいな。あなたに合うくらいの服を色々持ってるから、いっしょに選びましょう」
「ありがとう、シズカさん」
なんだかお母さんみたいだ、と思って胸がきゅっと切なくなった。
本当のお母さんがいたら、きっとこんな感じなのだろう。
当日の服選びは楽しかったけど、なかなか決まらなかった。
俺は中等部に入る前から元々ハウスの支給服しか持っていなかったから、女の子らしいかわいい服なんか『氷砂糖』のメイド服以外に着たこともなかった。自分の判断に全く自信が持てない俺は、だいぶシズカさんのチョイスに委ねた。
うんうん悩んだ末に決まったのは、白のブラウスと遊園地ではしゃいでも大丈夫なちょっと短い紺のキュロットスカート、草色のショート・ブーツ。
「シズカさん、これで大丈夫かな?」
「ばっちり。私が言うんだから間違いないわ」
ほら行った行ったと、シズカさんは俺を店の外に追い出した。
「しっかり遊んで、楽しんでくるのよ」
「うん、行ってきます」
ぱたんと店の扉が閉まる。
腕時計はちょうど待ち合わせに決めていた朝の9時を指している。静かな表通りに出てあたりを見回すと、向こうからニカが駆けてきた。
「ごめん、待った?」
「ぜんぜん待ってないよ。今来たとこ」
ニカは白い長袖のシャツに茶色の半ズボンという少しお坊ちゃんくさい格好。でもよく似合っていた。まあニカは本物のお坊ちゃんだから様になるのは当然か。悔しいけど何だかかっこよく見えてしまう。
「リリィ、その服かわいいね」
ニカは幸せそうに微笑んだ。"わたし"もそれを見て嬉しくなる。
だって今日は一人の女の子としてデートするんだから。
「じゃ、行こうか」
『氷砂糖』のある宇宙港ビルの裏通りからトラムに乗ってしばらくすると、都市ドームの端っこに着く。そこからチューブ・トレインに乗ってドームの外壁を抜けた途端、草原の中に巨大テーマパーク「メアリーズ・ポート」が姿を現した。
「すっげえ」
同じ車両に乗り合わせた小さい子たちがきゃあきゃあ騒ぐのも無理はない。
ワイヤーのように無数に張り巡らされた亜音速コースターや、空を飛び交う宇宙船を模した乗り物。空に映し出されたアニメーション・ホログラムのお姫様はにっこり微笑んで手を振っている。時折入場客の歓声がここまで響いてきて、わくわくさせてくる。
『ここメアリーズ・ポートは250年の歴史を持つ悠久の大テーマパーク。その始まりは豪商メアリー・ホワイトの私設宇宙港にまで遡り、彼女が開拓民の子供たちを喜ばせるため港の中に作った小さな娯楽施設が起源とされており……』
また猫のマスコットキャラクターのホログラムが現れて長々と喋り出した。わたしは途中から聞くのをやめたけど、ニカは興味深そうにずっと聞いている。それを眺めているうちに終点のゲート前に到着した。
「さあ、何から乗ろうか」
ニカは入り口で貰った指輪型のガイド端末を使い、園内のマップをわたし達の前に投影させた。
「じゃあまずはこの亜音速コースターに乗ろうよ」
わたしはパークの入り口近くの乗り場を指差した。
これは火星開拓期の古くて危険なスキップレースをイメージした作りになっているらしく、乗り場もレトロな開拓民の居住ドームを模したものになっている。一応対象年齢は超えているけれど、あまり子供は並んでいない。
「いいよ。でも結構怖いやつみたいだけどリリィは大丈夫?」
「へーき、へーき」
わたしは昔から速い乗り物に目が無い。スキップレースに出続けるのは賞金を稼ぐためだけじゃなくて、やっぱりわたしはこういう乗り物が好きなんだとおもう。
急加速したローラーコースターは本物のスキップ顔負けのスピードを出し、園内を縦断する谷間を上に下にぐるぐる回った。かと思えば急上昇して谷間から飛び出して、火山の山頂に飛び込んで地底世界を探検したり、今度は湖に飛び込んだりして忙しく「メアリーズ・ポート」全体を駆け巡った。
わたしはやっぱり怖くはなかったけど、他の人たちが楽しそうに悲鳴を上げるのを真似してきゃあきゃあ騒いだ。乗り場に戻ってくるまでは本当にあっという間で、ずっと乗っていたかった。
「これすっごく面白かった!ニカはどうだった?」
「う、うん、面白かった。思ったより速かったし」
なぜかニカの笑顔が少しひきつっている。
「ねえ、もう一回乗ろうよ」
「えっ」
わたしはニカの手を引っ張ってもう一度乗り場の方へ走った。
結局それから三回も乗って、そのあと違う種類のローラーコースターにまた三回乗った。ニカが「そろそろ昼ごはんにしない?」と言わなかったら、そのまま乗り続けていたかもしれない。
わたし達は混み合ったフードコートに入ってハンバーガーとコーラを頼み、テラスに席を見つけてひと息ついた。
「ニカ、ずっと同じものばっかり乗らせちゃってごめんね」
「良いんだよ。ぼくも楽しかったから」
それにリリィがはしゃいでるのを見れて良かったよ、とニカは微笑んだ。
「そんなにわたし、はしゃいでたかな?」
「すごく楽しそうだったよ。リリィは本物のスキップレースに参加するべきだね」
「あはは」
まあ、いつも参加して君と戦ってるんだけどね。
昼ごはんを食べ終えてから、わたし達はまた広い園内を歩き始めた。今度はニカが行きたい所に行こうと言うと、ニカはじゃあここに行きたい、とホログラムのマップを指差した。
「お化け屋敷?何それ」
「怖いお化けが出る建物の中をゴールまで歩くんだよ」
「けっこう原始的なアトラクションなのね」
ニカはにやりと笑った。
「でも、ここのはかなり怖いらしいよ。ガイドもそう言ってる」
「ふーん」
怖さのレベルを選べるみたいだとニカが言うのでわたしは『最恐』レベルを選択した。
この時わたしはパークのアトラクションをかなり甘く見ていた。怖い怖いと脅された目玉のローラーコースターは面白かったけど怖いとは思わなかったから、どうせお化け屋敷とやらも大した怖さじゃないんだと高を括っていたわけだ。
この選択を後悔し始めたのは割とすぐで、『キリング・ミッション』と銘打たれたお化け屋敷の入り口で並んでいる時にはもう怖気付いていた。雰囲気を作るためか、列の脇の古ぼけたモニターからおどろおどろしい解説のビデオが流れていて、それがなかなか怖いのだ。
ようこそいらっしゃいました、とビデオの中で全身包帯姿のお爺さんが喋り始めてからなんだか館内が寒くなったような気がする。
『――このレトロな外観から皆さまもお気づきかも知れませんが、ここは園内でただひとつ宇宙港時代から取り壊されずに残っている建物なのです。独立戦争の際には一時期病院として使われたのですが、まもなく廃院になりました。詳しいわけは伝わっておらんのですが、少しだけ分かっていることが……』
すると急に画面の中の包帯爺さんが苦しみ始め、モニターもノイズが走って映像が途絶えた。列にならぶ客が何人か悲鳴をあげて、わたしも思わずニカの手を握ってしまう。
「大丈夫だよ」とささやくニカはちょっと嬉しそうに見えた。
『失礼、話を続けましょう。この病院の最後の院長となった男には黒い噂が絶えなかったようです。泣きながらここを抜け出してきた看護師のひとりが伝えたところによると、病院長はここに送られた傷病兵へ酷い人体実験を施していたと。ここにいては殺されると看護師は怯えきっていたようで、すぐに警察が出動してこの病院を囲みました。そこに現れたのは、人ならぬ者。全身を返り血で真っ赤に染め上げ、患者の四肢を院長の肉体に混ぜ合わせた強化人間だったのです』
「ひゃあっ」とわたしが情けない声を上げたとき、わたし達の順番が回ってきた。
白衣を着た案内人に「鎮霊塩」という粉の入った袋を手渡され、病院内を粉を撒いて清めてくれと必死に頼まれ、もし万が一何かに遭遇してしまったらこれを使えと言って光線銃を握らされた。
ちょっと設定がチープ過ぎる、と笑っているニカに粉袋を任せて、わたしは光線銃をぎゅっと握りしめて順路を歩き始めた。
要はゴールするまでに粉袋を空にすれば良いらしい。うん、ルールはわかった。
「うわあっ!……なんだ、ただの鏡か」
「リリィ、大丈夫? 無理だったらリタイヤしても良いんだよ」
「いや、まだ頑張る」
わたしがさりげなくニカの手に指を絡めるとニカも黙ってそれを受け入れてくれる。それを続けていたかったから、怖かったけどまだ粘ることにした。
「大丈夫だって。ぼくが君の側にいる」
ニカはちょっと恥ずかしそうに恥ずかしいセリフを呟いた。
それからわたし達は(ほとんどわたしだけだが)騒ぎながらも順調に塩を撒きながら病室や手術室、防空管制室などを回っていった。
「よし、最後はこの部屋だね」
「う、うん」
扉の上のプレートには「院長室」と書かれている。いかにもな感じ。
ニカが扉に手をかけると、後ろの廊下から音がした。
振り返ると廊下の奥、白衣を纏った大男が赤色灯に照らされてこっちを虚ろな目で見つめていた。わたしと目があった途端、もの凄い速さで向かってくる。
「きゃああ!」
「リリィ!?」
わたしは無我夢中で迫り来る怪物に向けて続けざまに何発か撃ち込んだ。
暗闇に眩い緑の火花が散って怪物を覆ったかと思うと、そいつの身体は青い炎に包まれ崩れ落ちた。
ああ良かった。これでようやくおしまいだ。
「やった!倒したぞ」
ニカがそう叫んで安心した瞬間、わたし達の足元の床が急に消えてしまう。わたし達は悲鳴を上げながら宙を舞い、反重力装置により十分な減速をかけられたのちゴールの病室のふかふかのベッドに軟着地した。
きょとんとしているわたし達の前にネコのマスコットのホログラムが現れて、『おめでとう!君たちは英雄だ!』と喧しく祝福し始めた。わたし達は顔を見合わせて、それから馬鹿みたいに笑いあった。
「リリィってば、結構強いじゃないか。あんなに怖がってたのに怪物の頭に三発も当てるなんて」
「ニカだって凄くしっかりしてたよね。いっしょにいてくれて心強かったよ」
今、わたしはすごく幸せだ。ニカと居られるなら、二人いっしょなら怖いものなんて何もない。ああ神さま、どこかにおられるなら今だけは時計なんか止めてください。
でも時間は両手に掬った水みたいに流れ落ちる。それはこの科学文明の世の中でも決して戻って来ることはない。『キリング・ミッション』を出たあと、いくつかアトラクションを楽しんでいると、あっという間に日が沈んでしまった。
わたしはニカと昼間のフードコートに戻ってきて、残り少ない時間を惜しみながら今日の楽しかったことを振り返っていた。するとニカが「そういえば」と言ってコーラのコップを机に置いた。
「リリィってどこに住んでるの?ぼく、スキップに乗ってきたから帰りは送っていってあげるよ」
あっもしかして聞いちゃだめだったかなとニカは慌てた。以前わたしが身の上については話せないと伝えてから、ニカはわたしの個人情報に踏み込むのを出来るだけ避けてくれていた。
「ありがとう。でもわたしは『氷砂糖』の二階に住んでいるから大丈夫だよ。その気持ちだけで充分」
「そっか分かった。じゃあそこまでいっしょに帰ろうか」
夜の園内を彩るネオンサインを見つめる横顔が少し寂しげだった。偽善者なんて、とんでもない。ニカは本当に優しいやつだ。
そんなやつを騙し続けるなんて許されないとおもう。わたしだって、このままではいけないってことは分かっている。レイチェルがこの場にいたら、きっと怒り出していたに違いない。
「わたし、君に言わなきゃいけないことが……」
その時だった。
けたたましいサイレンの音が鳴り始め、園内の照明がぱっと落ちた。フードコートの中も真っ暗になる。周りの客はざわめき、みんなの携帯端末の光が店内を照らし出す。
「おい、何だこの音は」
「どうなってるんだ」
わたしはこの音に覚えがあった。小学生の頃にあった避難訓練の時に覚えさせられたいくつかの警報音のうちのひとつ
――これは、この耳障りな音はそうだ。"空襲警報"。
でもどうしてこんな時に警報なんて流れるのだろう。あれ、こういう時はどうすればいいんだっけ。
『ご来場のみなさまにお知らせいたします。ただ今、新東京防空司令部より空襲警報が発令されております。詳細は不明ですが、警報が解除されるまで屋内に避難してください。繰り返しお伝えしたします……」
「リリィ、窓から離れたほうがいい」
ニカは緊張した様子でわたしの手を握って建物の内側の方へ連れていき、わたしの肩を抱いた。きっと誤報だよ、とわたしは呑気に考えていた。だって普通に生活してるのに、空襲なんてあるわけがない。別に戦争してるわけじゃあるまいし。
でも、それが本当に大変なことになってきたと気づくまで、そう時間はかからなかった。外から走って建物に入ってきた人が、「港がやられてる」と叫んだのだ。
まさか。でもそれを裏付けるみたいにどこか遠くで爆発音が聞こえてくる。
誰かが悲鳴を上げて騒ぎ出し、店内の空気がきな臭くなってきた。人が詰め込まれたここでパニックが起きたら大変なことになるだろう。でもわたしはニカのシャツの裾を握りしめたまま動けなくなってしまう。
――ここにわたしのスキップがあればな。そうしたらニカを連れて颯爽とこんなところから離れられるのに。
みつば3000が近くにないということがわたしを怯えさせた。この場にはユイもシズカさんもいない。さっきから連絡もつかなくなっていて、彼らが無事かどうかも分からない。
ふとニカの顔を見上げると彼はいつもみたいな柔らかい笑顔を消して、見たこともないくらい厳しい顔つきで窓の外を見つめていた。でも、そんなニカが側にいてくれたことが唯一の救いだった。
警報が解除されたのはそれから三時間も後のことだった。わたしにはその時間が拷問じみた長さに感じられた。灯が戻ったフードコートを出たわたし達は、来る時に乗ったチューブ・トレインに押し込められ、メアリーズ・ポートを後にした。
「なんだか大変なことになっちゃったね」
わたしは努めて明るい声を出して喋った。
けれどさっきからニカの顔は険しいままだ。
「うん、そうだね」
「でもどこかが燃えたりしてるわけじゃないし、結局何があったのかな」
チューブ・トレインの中から外を見た限り特に爆弾が落ちた跡などはなく、州都の都市ドームにも被害は出ていないように見えた。
やっぱり誤報だったのかもしれない。
しばらくするとチューブ・トレインが都市ドームの外壁を抜けて終点に着いた。空襲騒ぎのせいで交通が乱れているらしく駅は人でいっぱいだ。
「ぼくから絶対に離れないで」
ニカはわたしの手を痛いくらい強く握って人混みの中をかき分けていった。
苦労の末、『氷砂糖』に向かうトラムの乗り場に辿り着くと、そこでシズカさんが待っていた。
営業中にそのままやってきたのか、仕事着の黒いエプロンを着けたままだ。こちらに気付くと駆け寄ってきて、黙ってわたしを抱きしめた。
「わたし達は大丈夫。怪我もしてません」
店は大丈夫だったのか気になっていたから、シズカさんに聞いてみる。
「こっちも平気よ。あなた達がパニックに巻き込まれているんじゃないかって心配していたの」
とにかく無事で良かった、帰りましょう。
そう呟いたシズカさんの声は少し疲れたように聞こえた。
それから『氷砂糖』に帰り着いたのはもう夜も遅い時間だった。
「そういえば、わたしのセルが使えなくなってるんです」
「それはあなただけじゃないわ。何か強いジャミングがかかっているらしいの」
ちょっと待っててね、と言ってシズカさんは店の二階に上がると、程なくして小さな白い箱みたいなものを持って店に降りてきた。
「何ですか、それ?」
「これはFTLラジオというものよ。量子共鳴通信方式を使っているから、電波みたいに妨害されることがないはずだわ。送れる情報量がすごく少ないから暗号文みたいな文字列になってしまうけど」
こんなもの初めて見た。ちらりと見えた白い箱の裏には、それが官製品であることを示すモミの木の紋章が確かに付いていた。
――でも、どうして喫茶店のオーナーがこんな物を持ってるんだ?
シズカさんは箱のパネルを弄って意味不明な記号文を空中に投影させ、それを真剣な顔をして黙読し始めた。ただの板切れと化したわたしのセルとは違って、その白い箱には情報が絶え間なく送られてきているらしい。ニカとわたしはあっけに取られてそれを見ていた。すると、しばらくしてシズカさんは記号文から目を離して、わたし達の方を向いた。
「何か分かったんですか?」
「ええ、いま軍隊が緊急発報をやっているんだけれど……」
シズカさんにしては珍しくため息をつく。わたし達はこの時ようやく、今夜何が起きていたのか知ることになった。
「――つまり、エウロパの爆撃艦隊が軌道上に侵入したのを州の防空隊が発見して警報を出した、ということらしいわね。州郊外の無人発電所が何ヶ所か空爆されて停電が発生、なお現在は復旧済み。ただしエウロパ艦からの電子攻撃によって新東京州全域で平常通信システムがダウン、復旧作業は数日かかる見込み、か。これじゃとうぶんセルは使えないわね」
「そんな!」とニカが急に叫んだ。
「くそっなんでこんな事するんだよ? こんな挑発みたいなことして、何の意味があるんだ」
わたしははっとした。そうだった、ニカはエウロパの国籍を持っている正真正銘のエウロパ人。わたしはあまり興味を持ってこなかったけど、彼の国とわたしの国はここ最近あまり仲が良くない。今夜の空襲騒ぎで、この国にいるエウロパ人はもっと肩身が狭くなるのかもしれない。
「せっかく父さんが観光でエウロパと火星を仲良くさせようとしているのに……」
「ニカは何も悪いことしてないじゃない。気にすることなんてないよ」
ニカは悔しそうに唇を噛んで下を向いた。
「いつか、こういうことが起きるんじゃないかって思ってたんだ。ぼくはこの国から追い出されてしまうかも」
「そんな……」
わたしは上手い励まし方が分からなかった。問題が大きすぎる。
「現実的にこの先そういうことになってもおかしくはないわ。でもね彼氏くん」
シズカさんはニカの頰に手を当てた。
「あなたには国を代表する必要も責任もないの。国とあなたは同じじゃないのよ。だから今夜のことは負い目に感じなくていい。リリィちゃんとまたデートしてもいいのよ」
「そ、そうだよ!ニカは関係ないじゃん」
「そう言ってくれて、ありがとう」
でもニカはわたしと目を合わせてくれなかった。
結局わたしは今夜は『氷砂糖』に泊まることになった。ハウスに外泊の連絡を入れると、いつもと違って割とすんなり許可が降りた。
シズカさんはニカにも泊まっていくように言っていたけれど、ニカはそれを丁寧に断った。
「ぼくはスキップで帰れますから、大丈夫です」
店を出るとき、ニカは見送るわたしを振り返ってニッと笑顔を作った。
「最後はこんなことになっちゃったけど、ぼくは今日すごく楽しかったよ。また今度一緒にどこかに行けたらいいな」
「うん、また行こう」
ニカの後ろ姿を眺めていると、"俺"は言いようのない焦りを感じ始めた。
その気持ち悪さが尾を引いて、その日はうまく寝付けなかった




