第1話 気づいたら悪役令嬢でした。
「レティシア・グランシエール。貴様との婚約を破棄する」
王太子ユリウスは高らかにそう宣言した。
音楽が止まる。談笑が止まる。ついでに、レティシア・グランシエールの思考も一瞬止まった。
王立学園の卒業パーティー。
磨き上げられた大理石の床。天井から吊るされたシャンデリア。色とりどりのドレス。整えられた楽団の旋律。
貴族の令息令嬢たちが将来の縁と権力を探り合う、華やかで少しばかり息苦しい夜のことだった。
いま、なんと?
婚約破棄。誰が。王太子が。誰との。私との。どこで。王城の大広間で。誰の前で。王国中の有力貴族の前で。
なるほど、正気ではない。
「……殿下」
レティシアは、どうにか声を絞り出した。同時に素早く状況を整理する。
公爵令嬢として、みっともなく取り乱すわけにはいかない。たとえ王太子が、卒業パーティーという祝いの席で、王家と公爵家の正式な婚約を足蹴にするような発言をしたとしても。
いや、だからこそだ。ここで感情的になれば喜ぶ者はいくらでもいる。
レティシア・グランシエール。
王国でも指折りの名門、グランシエール公爵家の長女。銀の髪と端正な顔立ちを持つ、幼い頃から王太子の婚約者として育てられてきた娘。
王妃教育、礼法、歴史、政治、外交、神殿との関係、貴族の力学、王家の財政、民の暮らし。少女の身には重すぎるものも、未来の王妃となるなら当然の務めだと受け入れてきた。
その結果が、これである。
返してほしい。私の睡眠時間。
「まだ白を切るつもりか」
ユリウスは眉をひそめた。
金髪碧眼、整った顔立ち、凛とした立ち姿。王家の血を引く者らしい華やかさはある。顔だけ見れば絵になる王子だ。――顔だけなら。
「お前がミシュリーヌにしてきた数々の嫌がらせ。学園での圧力。私への束縛。公爵家の権力を笠に着た傲慢な振る舞い。すべて聞いている」
ユリウスの隣に一人の少女が立っていた。
ミシュリーヌ・ポアレ。
幼い頃から聖女候補として神殿に育てられてきた娘で、栗色の髪に大きな瞳、小動物めいた可愛らしさと可憐さを併せ持っている。
ユリウスはその肩を抱き寄せていたが、当のミシュリーヌに勝ち誇った様子はない。
むしろ困っていた。困惑していた。なぜ自分はここに立たされているのだろうか。誰か説明してほしい。できれば今すぐ帰りたい――その顔には、だいたいそんなことが書いてあった。
レティシアは少しだけ同情した。
この子、完全に巻き込まれている。被害者がここにもいた。
「わたくしは、そのようなことはしておりません」
「黙れ!」
鋭い声が大広間に響いた。周囲の貴族たちが息を呑む。
同情の視線は少ない。好奇、冷笑、嘲り。完璧な公爵令嬢が崩れるところを見たいという、品の悪い期待が広間に満ちていた。
覚えがない。嫌がらせなどしていない。権力を振りかざしたこともない。
ユリウスが他の令嬢と親しくしても笑顔で受け流し、政務の補佐を求められれば夜遅くまで資料を読み、王妃教育で叱責されても泣かずに頭を下げてきた。
すべては、王太子の婚約者として恥じぬように。未来の王妃として、国を支えるために。
その努力を、ユリウスは一言で踏みにじった。
「お前のような悪女を、王妃にはできない。私は真実の愛に目覚めたのだ」
真実の愛。
便利な言葉である。特に、自分の不誠実を美談にすり変えたい人間にとっては非常に使い勝手がいい。
背が高く生真面目で可愛げのない公爵令嬢より、小さくて可憐な聖女候補の方が愛おしくなった。
まぁ分かる。人の心は移ろうものだ。そこまでは理解できる。
でも「真実の愛に目覚めた」って何? それを言いたかっただけなのでは?
――なるほど。腹が立ってきた。
その時だった。視界の端を何かが横切った。
〈悪役令嬢断罪イベントきたあああああ〉
文字だった。白い文字が半透明の帯のようにレティシアの視界を右から左へ流れていく。
〈王太子、顔だけはいいな〉
〈レティシア様かわいそう〉
〈ミシュリーヌちゃん困ってて草〉
〈ここで泣いたら破滅ルート〉
〈いやこれ王太子が悪くね?〉
〈婚約破棄RTA開始〉
何ですの、これは。
レティシアは息を止めた。声ではない。誰かが喋っているわけでもない。けれど確かに文字が流れている。
視界の上に重なるように、次々と。まるで見えない観客がこちらを眺めながら好き勝手に感想を垂れ流しているかの如く。
〈この浮気野郎〉
〈公爵家敵に回すのまずいんじゃね〉
〈あーあ、地雷踏んだ〉
〈地雷原でダンスしてる〉
〈レティシア様、ブチギレ案件〉
失礼な。ブチギレてなどいない。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、王太子の頭を王家の紋章入り花瓶で小突いたらどんな音がするのかな、と考えただけだ。
もちろん実行はしない。わたくし、公爵令嬢なので。
心の中で突っ込みを入れながら、レティシアは考える。
この状況。普通であれば自分の頭がおかしくなったと思うだろう。しかし不思議と受け入れている自分がいる。
理由は分からない。分からないが、それは紛れもない事実だった。
「どうした、レティシア。言い訳もできぬか」
ユリウスの声でレティシアは我に返った。
いけない。謎の文字に気を取られている場合ではなかった。目の前で王太子が現在進行形で国政級の失態を重ねているのだ。こちらもこちらで、それなりに忙しい。
「……殿下。恐れながら申し上げます。婚約とは、わたくしと殿下だけの問題ではございません。王家とグランシエール公爵家との正式な取り決めです。それを、このような場で一方的に破棄なさるおつもりですか」
「そうだ」
即答だった。迷いがない。
――つまり、考えていない。
〈即答で草〉
〈脊髄反射かw〉
〈顔面にステータス全振り〉
やめてほしい。笑ってしまう。
レティシアは唇を引き結び、公爵令嬢としての表情筋に全力で働いてもらった。
「では、陛下とお父様には、すでにお話を通されているのですね」
ユリウスの表情がわずかに揺れる。
通していないのだ。知っていた。
「そ、それはこれからだ。父上も、真実を知れば分かってくださる」
分かるだろうとも、別の意味で。自分の息子が何をやらかしたのか、それこそ痛いほどに。
〈陛下の胃が死ぬ〉
〈グランシエール公爵「ほう?」〉
〈王太子、王太子やめるってよ〉
コメントは相変わらず視界を横切っている。全部を読んでいる余裕はないが、妙に的確なものが混じっていて困る。
レティシアはこの感覚を知っている気がした。横切るコメント。断罪イベント。悪役令嬢。破滅ルート。
その言葉たちが、頭の奥に沈んでいた何かを叩き起こす。
痛みが走った。
「っ……」
白い天井。ぬるい紙コップのコーヒー。深夜の会議室。壁一面に貼られたキャラクター相関図。イベント分岐表。攻略対象の好感度管理。聖女候補。悪役令嬢。婚約破棄。断罪イベント。
そして、ひとつのタイトル。
『セイント・オブ・フェルメリア ―聖女と七つの誓約―』
記憶が雪崩のように押し寄せてくる。
日本。会社。乙女ゲーム。企画書。世界設定。シナリオ会議。納期。修羅場。没案。仕様変更。
深夜二時に『この断罪イベント、もう少し派手にしよう』と言った上司に対して、『では王城の卒業パーティーで公開婚約破棄にします』と答えた自分。
……自分? あぁ、私だ。
やっとわかった。理解した。
これはゲーム……いや、ゲームだった世界だということを。




