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 この日、珊瑚樹邸の台所兼居間のテーブルで供されたのはアイスティだった。

「今日は皆さまに簡潔な答えをお伝えするつもりなので、冷たい飲み物を用意しました。時間をかけたくないので」

 まず陽さんが言う。続いて苑さんが、

「だって、今日まで、もう充分に、皆さん――前嶋さん、桑木さん、来海ちゃんには私たちの件で貴重なお時間を使わせたんですもの」

 再び陽さん、

「どうぞ、喉を潤してください。私が代表して、今回のお祖父様から譲られた遺産――邸と土地の取り扱いをどうするか、その明瞭な答えをお伝えします」

 咳払いして、取り出した紙片を読み上げる。

「私たち姉妹は――」

 ここで、ふいに苑さんが顔を上げた。

「待って、猫の声がする――」

「え」

 一同、ハッとして耳をそばだてた。

「ほら――猫が鳴いている」

 あの日と同じだ。刹那、僕が思ったあの日(・・・)とは〈無断侵入〉があった夜のことだ。だが、よく考えれば――その〈侵入者〉中橋慶介氏が明かした27年前(・・・・)も、またそうだった?

 中橋氏は言った。


 ――その夜、走っている僕の耳に激しく鳴く猫の鳴き声が聞こえてきました……


 それから、近所の住人は言っていた。


 ――だから、ここは一時期、〝珊瑚樹邸〟ではなくて〝猫柳邸〟……猫や鳴き邸(・・・・・)だ、なんて冗談で言いあってね……


「やめてよ、苑ちゃん、またそんなこと言って……」

「でも、聞こえるんだもの、ほら」

 確かに。遠くで猫が鳴いている。但し、今日は外からではない。明らかに、邸内から響いて来る。

「陽ねぇ、セレストはどこ?」

「部屋に入れてきたわ。大切なお話が終わるまでと思って、ドアを閉めて来た。あなたこそ、苑ちゃん」

 姉は妹の顔を見つめた。

「部屋のドアはちゃんと閉めた?」

「多分、閉めたはず……そう思うけど……」

 姉がこう言ったのは二人の部屋の間には猫用の扉(猫が行き来できる通路)があるからだ。

「いやだ、落ち着かないから、私、セレストが何処にいるか、ちょっと見て来る」

「私も行くわ」

「私も!」

「それなら、僕たちも――」

「行きましょう!」

 結局、全員で鳴き声のする方へ向かった。

 声の主はやはりセレストだった。

 台所兼居間を出ると、まっすぐ続く長い廊下の一番端に小さな影が見えた。その部屋のドアの前でしきりに鳴いている。

「どうしたの、セレスト? こんなこと今までなかったのに、今日に限って――」

 近づくと、鳴いているだけではなく、ドアに爪を立ててガリガリやっている。

 僕は訊いた。

「この部屋は何なんです?」

「物置です。そうよね、前嶋さん?」

「そう聞いています」 

「中を見たことはないんですか?」

「一応、ザッとですが邸内の部屋は全部見ています。唯ここは」

 弁護士は紅潮した。

「鍵がかかっていたので、後日、遺言指定人――相続人のご姉妹とともに一緒に見ようと思って……でもその後、色々あったので延び延びになって……つまり、まだ見ていません」

 直角に腰を折って謝罪する。

「申し訳ない! もらった図面では、ここは納戸と言うか物置とのことで、雨貝氏曰く『要らなくなったもの、価値のないガラクタ置き場』だそうで、それなら急いで見る必要はないかと今日まで確認を怠りましたっ」

「前嶋さんだけのせいじゃないわ」

 陽さんが(かば)った。

「私と苑ちゃんがイキナリ速攻で引っ越してきて、そのまま居ついてしまったから落ち着いて邸内を見て回る時間を前嶋さんに与えないままだった――」

 苑さんも同意する。

「そうよ。そしたらすぐ怪異現象でしょ。あ、これは私の勘違いで桑木さんや来海ちゃんのおかげで、即、解決したけど、元を正せば、全て陽ねぇを怖がらせた気味の悪い手紙のせいだと知って……」

「前嶋さんから、鍵は全てもらっています。ここ以外は、鍵はかかってなかったから、私たちも全く気にしてなかったんだけど――待ってて、鍵を持ってくるわ」

 (きびす)を返して陽さんが駆け去った。

 陽さんはすぐに大きな輪っかに繋いだ鍵束を持って戻ってきた。その中で一番、古色蒼然とした鍵――最近、前嶋さんが貼ったらしい〈物置〉と記された真新しいシールが目立つそれをドアの鍵穴に差し込む。カチリという音。

 苑さんがセレストを抱き上げドアの前から離した。

「開けるわよ」

 軋んだ音とともにドアは開いた。


 目が慣れるまで暫く時間がかかった。

 ドアの数歩先に手すりがあって、中は半地下のようになっている。そのせいで天井がいやに高く感じられた。

 向かって左側に数段階段があり、そこから室内へ下りて行けるようだ。

「電気のスイッチがある」

 陽さんがドア横のそれを押した。

 電気は通っていた。ドアの前の手すりに身を乗り出すと室内が一望できた。

「ここは……」

 僕たちは全員、すぐにわかった。そこは、あのザンクト・ガレン修道院図書館とそっくりの造りだった!

 細長い窓が並んでいて鎧戸が降りている。その鎧戸の真下の窓辺には彫刻を施した腰壁――あれは折り畳み机を内包しているはず。室内の両脇の壁とその中央に三列、背中合わせに書棚が置かれている。

 もちろん、スイスの本家に比べれば規模は小さい。とはいえ、個人の家の中にこれほどのものがあるとは……!

 次に気づいたこと。室内入ってすぐ、右側の壁、そこにかかっている絵はゾロトゥルン美術館で見たあれではないか――

「〈野イチゴの聖母〉!」

「うそ! ありえるの、こんなことが?」

「でも、大きさも、色も、構図も、何もかもおんなじだわ!」

「作者不詳、ライン派とのみ伝わる絵画だから、同様の絵が何作か描かれていた可能性はある」

「それを先代もしくは先先代の雨貝氏が入手した?」

「あ、セレスト?」

 皆が絵に心奪われている間に苑さんの腕から白猫が飛び降りた。猫は階段を駆け下り、室内左端の奥へ姿を消した。その先は書棚の陰になって全く様子が見えない。

「待って、セレスト!」

「どこへ行くのよ?」

 猫を追ってドッと皆、階段を駆け下りる。

 左端の書棚の奥――猫のいる場所が見えた時、最後の衝撃が僕たちを襲った。

 刹那、僕は、それもまた〈絵〉だと思った。ザンクト・ガレン修道院図書館の天井近くにあり、それからゾルトゥルン美術館にも模写絵があった、それ……


 〈墓の中の死にゆくキリスト〉


 その場に突っ立ったまま、誰一人、身動ぎできなかった。

 どのくらいそうしていたのか……

 少しづつ周囲の様子が見えてきた。

 絵ではない。本物の人間(・・・・・・)がそこに横たわっている。

 脚立が倒れて、周辺にはボストンバッグ、そして数冊、本が散乱している。どれもラテン語の古書だ。

 ちがう、一冊だけ僕が書名を読めた本があった。デザインも内容も素晴らしいと絶賛されているフランスの絵本。幼いころから僕も大好きだった! 作者はアンドレ・フランソワ。あれはその原書だ。〈Les Larmes de crocodile 〉 わにのなみだ……

 真横で頼もしき我が相棒、来海サンがつぶやいた。

「ブラックウォッチ」

「え?」

あの人(・・・)、ブラックウォッチのシャツを着ている――」

 最初に声を上げたのは前嶋さんだった。弁護士は悲痛な声で叫んだ。

「お父さん―― ――!」


  挿絵(By みてみん)



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