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弁護士の前島さん、そして(一応)僕。この場に男性陣がいてよかった。ともかく、突然の訪問者には邸に上がってもらう。
身長175~178、均整の取れた身体つき。先日、僕と前島さんが追いかけた時は黒いトレーニングウェアの後姿だったので、青年に見えた。スーツに身を包んだその人は40代から50代といったところ。
一同が居並ぶ中、持参した菓子折りを差し出し、深々と頭を下げる。腰を下ろすと訪問者は口を開いた。
「私の名は中橋慶介と申します。先日の無作法な行為をお詫び申し上げます。今日は、あのようなご無礼を働いた理由の一部始終をお話したいと思いやって来ました」
一呼吸置いた。
「警察に先に出頭するべきかと迷ったのですが、まずは直接、皆様に謝罪し、全てをお話した上で警察に行こうと考えました。それで先日来、毎日こちらに足を運んだのですがご不在のご様子で――一度、お邸の前に立っていたご婦人を見かけてご家族の方かと思い声を掛けたのですが、全然関係のない通りすがりの方でした」
今日は、車が止まっているのを確認して、やって来たのだと中橋氏は言った。
「長い話になります。私は8年間北海道へ単身赴任していて、今年、実家である当地に戻って来ました。それを期に、若かった頃からの趣味を再開しました。家の近辺のジョギングです。私は中学、高校と陸上部に所属し長距離の選手でした。部活後も毎夜欠かさずこの辺りを走っていました。そのかいあって、関東の名門大学に進学、箱根を走る夢も叶いました」
「まぁ! それは良かった!」
即座に、朝野姉妹が祝福する。
「すばらしいですね!」
「ありがとうございます、いや、いかん、脱線しました。私が日課にしていたトレーニングを続けていた頃ですから、かれこれ27年以上前の話になります。その夜もいつものルートを走っていると激しく鳴く猫の声が聞こえたんです。最初は空耳かと思ったんですが、間違いない、鳴き声はこの邸から聞こえて来た――」
小さく身じろぎする。
「それが数日続いて、流石に気になって、とうとうある日、私は塀の一番端にある木戸を見つけ、そこから中へ入りました」
情景を思い出すように言葉を選びながらゆっくりと続ける。
「木戸は押すと簡単に開きました。庭に足を踏み入れると、白猫が走り寄ってきました。私の足に体を摺り寄せて鳴き続けるのです。私は思わず抱き上げ、トレーニングウェアの胸に入れて邸から走り去りました」
中橋氏はいったん目を閉じた。
「正直に言います。『猫を盗んだ』という罪悪感は全くありませんでした。だって、何日も、あんなに泣き続ける猫をほったらかしにしているんですから」
膝に置いた両手をぎゅっと握る。
「それが、先日のあの夜、実家に戻って再び走り始めた私の耳に、数十年前と同じ猫の鳴き声が聞こえるではありませんか! 一瞬で時間が巻き戻り、さながら青春時代にタイムスリップしたかと思いましたよ。気づくと私は17歳の時と同じように木戸を押し開けて中に入っていました。ところが、庭にいたのは猫ではなくお宅のお祖母さんでした。彼女は吃驚して叫び声をあげる、私も、気が動転して、咄嗟に彼女の口を塞いでしまった――次の瞬間、皆さんが屋敷からどっと出て来て、私は無我夢中で逃げ出しました」
真一文字に唇を引き結んだ。
「大の大人が分別のない行動をしてしまったと悔やんだのは自宅に帰り着いてからです。私の家は5キロほど行った先にあるのですが。全く、何故、あの場ですぐに事情を話し、謝罪しなかったのか……社会人として、お恥ずかしい限りです」
僕たちをまっすぐに見て中橋氏は言った。
「お祖母さまには大変申し訳ないことをしてしまいました。お怪我の具合はいかがでしょう?」
「あの方は私たちの家の者ではないんです。幸い、お怪我はありませんでした」
「良かった!」
心底ほっとしたようで、中橋氏はドッと脱力して椅子の背に体を持たせかけた。すぐに気を取り直し、姿勢を正す。
「あ、では、そちらのお宅へも直接謝罪に伺いたいと思います。よろしければお名前とご住所をお教えください」
「それなら、この後で私たちと一緒に参りませんか?」
即座に陽さんが言った。
「私たち旅行に出ていて、今日、帰ってきたんです。その間、猫をそちらのお家に預かってもらっていたので、これから引き取りがてら挨拶に行くつもりなんです」
苑さんも大きくうなずいて、
「そうね、それがいいわ! 私たちが一緒の方が広畑さんも驚かないと思うし」
「お心遣いありがとうございます」
中橋氏は立ち上がって深々とお辞儀をした。
「あんな非常識な真似をしてご迷惑をおかけした上に、私にまでご配慮いただいて」
「でもその前に――」
ここで陽さんが手を上げた。
「私から、お尋ねしたいことがあります」
真剣なまなざしで中橋氏を見つめる。
「鳴き続ける猫を『トレーニングウェアの胸に入れて帰った』っておっしゃいましたよね? その後、その猫ちゃんはどうなったんですか?」
一同シンとなった。
「ああ」
にこやかに笑い出す中橋氏。
「18年間、我が家で過ごしました。私も父母も動物が大好きで、田舎なので自由に子供を産ませて、現在5代目――ちょうどこの前6代目の子猫が生まれたところです。ほら」
差し出されたスマホには白い母猫と4匹の子猫が写っている。子猫の一匹は真っ白だった。
「この母猫の名はビアンカ。ちなみに連れ帰った初代はシロと名付けました。ネーミングセンスがなくて申し訳ない。以降の猫は妻と娘たちが名付けてミルク、ラテ、オモチです。代々、白猫だけを我が家に残し、他の子猫は欲しがる方に譲ってきました」
「キャーー! 可愛い!」
台所兼居間に歓声が響く。
「ビアンカはうちのセレストにそっくりね!」
「ということは広畑さんのお祖母さんがセレストをユキだと間違えたのも当然か」
「あ、ユキっていうのはあなたが連れ帰った猫ちゃんの名前です」
ここで前嶋さんが初めて口を開いた。
「事情はわかりました。ご丁寧に詳細をお話下さって、ありがとうございます。そういうことなら、警察への出頭は必要ありません。僕の方から報告すれば済むと思います」
陽さんが紹介する。
「こちらは前島さん、私たちがお世話になっている弁護士さんです」
「なんと! ――重ね重ね、御礼申し上げます。ありがとうございます」
「でも、ひとつ、これだけは確認させてください」
低いがよく通る声で弁護士が言う。
「あなたのお名前は本当に中橋慶介さんなんですね?」
「ええ、そうです。そうだ、これを――」
中橋氏は財布からマイナンバーカードを抜きだして前島さんに渡した。
「――」
前島さんは確認した。うなづいて、カードを返却する。
つまり――
この人は雨貝秋斗ではないのだ。謎の手紙の件とも全く関係がない人物だった。