欲望《サディズム》
「あ、が…」
背中に靴底の硬い感触が伝わる、それはミナの肺から空気を押し出し、標本の昆虫の様に地に貼り付けていた。
「いや、声が聞こえたから見に来たんだけどさ、馬鹿がのされててビックリしたよ」
あまりにも軽い調子で男は伝える。
「んでも2人居て残ったのは君だけかぁ~、ま、2人は余りだったからいいけどさ」
「あ、余り…?」
ミナは思わず疑問が声に出てしまった。
「そ、余り、いやー今日慌ててみんなで頑張ったらさぁ結構上手く行っちゃって人数以上集まっちゃった」
必要なかったんだけどねえ、とケラケラと男は笑う。
呆然として、ミナはその言葉を頭の中で繰り返す。
あまりにも適当な理由で、ミナ達はかき集められた。
ミナは自分でも説明できない怒りで声を荒げた。
「け、警察がすぐに来る!お前達は捕まるんだ!」
その言葉を聞いて男は笑っていた、失笑と称すのが妥当だろう。
「全然いいよ、船があるからさ、分かる?外の悪魔崇拝者達にも金持ちが居てさ、俺達すぐにそれで海から逃げちゃうんだわ」
海、船、もし警察が来たとしても常識的に考えて陸路だろう、もし気付いて手配したとしてそれは追いつくのか。
ミナにはそれを確かめる術はないが男の余裕がそうではないとミナに伝えていた。
(ダメだ、前提が違ってた、これじゃリーベちゃんは助かるけど、私と捕まっている子供達は助からない)
心の中でガラガラと自分を支えていたものが崩れる音がする。
あの夜から何度も何度もそんな感情を味わってきた、だがこの絶望は極めつけだった。
「あー、ダメだダメだ、もうたまんねえわ」
男の足がミナの背から離れ、脇腹――先程一撃を食らった左――に叩き込まれる。
「う、え…っ」
ミナは口からこみ上げるものを止められず吐き出す。
同時にぐるりとまるでパンケーキをひっくり返すように仰向けになった。
そしてすぐに殆ど腹筋で守られていない、柔らかい腹に靴底が押し付けられる。
吐瀉物まみれ、涙目、そして苦しい呼吸を止められない半開きの口。
遠い蛍光灯の灯りの下に、あまりにも楽しそうな表情が見えた。
「おっほ、やっぱいい表情、俺ロリコンじゃないんだけどその顔は正直そそるんだよね」
踏み潰した腹に体重をかけながら男の顔がミナの顔に近づき囁く。
「君は出荷用じゃなくて、俺達の練習台にしてあげるよ」
出荷用、練習台、その意味をミナは痛みからぼんやりとする頭で考える。
(そっか、やっぱり私達は生贄の為に集められてたんだ)
生贄、誰でも知っている、天使の嘆きの材料――子供の血液。
だからこそ子供達は大人達に不用意な行動を戒められてきた。
ミナにはその過程で何が行われるか詳しくは知らない、だが、そうなった子供達は滅多に帰ってこない事を今のミナは知っている。
ミナの目の焦点はもう合っていない、ただ男越しに天井の灯りを見つめるだけだ。
「あー、もう壊れちゃった?ならさあ」
次の瞬間ミナの左腕に鋭い痛みが走った。
「ああああああああああああああ!!!」
激痛がミナの意識を強制的に現実に揺り戻した。
目が見たくないものを見る、釘、小さな釘がミナの腕に刺さっている。
「やっぱテキメンだなこりゃ、いや、楽しみでさあもう一杯道具を用意してるんだよねえ」
男は嗤った、アリの巣に水を流し込む子供のような嗤い。
苦しむミナを眺めながら男は、自分勝手に男は語りを始める。
「天使の嘆きってさあ、【魔法】使える云々以前にスゲードラッグな訳よ」
「キメた直後は、マジで最悪な気分が襲ってくんだけど、最後の最後に見えンだわ」
(見える、何が)
ミナには何故男が突然自分語りを始めたかは分からない、だが、男がハイになっているのが見て取れる。
もしかするとこの男は既に天使の嘆きを服用しているのかもしれない。
ミナの苦痛と疑問と絶望に染まる顔を見て男は更に気分をよくしていく。
「自分の本当の望みってやつがさ、分かる?望み?性癖っていうの?」
(望み)
ミナは短くその言葉を頭の中で繰り返す。
それが自分にどう関係あるのか。
「それはぁ…」
ずぷりと、腕から何かが抜け、もう一度そこに突き刺さる。
ミナは叫んだ、言葉にもならない、獣のような絶叫。
「こういうのが好きだってこと」
男は繰り返す、硬く鋭いそれをミナの体の中に抜いて刺して、抜いて、刺して、ミナの声を聞きながら。
「俺さぁ天使の嘆き作ってる所見たことあんだけど、マジで勃っちまってさ」
「サイッコーの光景だった…でも、欲が出るんだよなぁ、本当は俺の手でやりたい、俺の手で、芋虫を作りたいんだよな」
芋虫
その言葉の意味は分からない、だが、少なくともその完成図は人間の形ではないだろう。
男は将来の夢を語る子供のようにミナに伝える。
「ちゃんとした場所に行ったら俺の夢、叶えようと思うんだ、協力してくれよ?」
釘がより深く突き刺さった。
ミナは髪を掴まれたまま引きずられていく。
身体に力が入らない、打撲に、腕の刺傷、そしてなによりもう助からないという事実。
ミナの戦いは既に決してた。
敗北、それに尽きる。
男の行為によりミナは徹底的に痛めつけられ、既に後悔などという感情すら奪い去られていた。
歌を思い出す。
『神は死んだ、神はもう死んでんだ、屍を焼く炎が俺らを照らしてんだ、なあ葬式はいつ終わるんだ?』
絶望でも希望でもない、今のミナはそれを事実として淡々と受け入れていた。
(これで、終わり)
ミナにとってあらゆる事は全部終わった事だった。
本当の地獄がこれから始まるのだとしても、少なくともミナの幸福な日々はもう帰ってこないだろう。
あとはヘドロのような奈落の底に落ちていくだけ、深みへ、深みへ、逆はない。
何もかもを奪われていたが、ただひとつだけ気になることがあった。
(リーベちゃん、ちゃんと逃げられたかな)
ミナにとって唯一つだけ得ることができた勝利、それを確認できないのは心残りであった。
男が足を止めた。
「んだテメェ…」
ミナの耳に、カツカツと何かが地面を叩く音がした。
遠くの方から男達の怒声が聞こえる。
「君たちを狩りに来たんだよ、間抜け面」
少年の声、レッドキャップとは違う、落ちついた――底冷えするような――声。
ミナの髪を掴んでいた手が離れ、落下する。
地面に頭がぶつかり、新たな痛みと共に少しだけ意識が覚醒する。
ミナは見た、そこに立つ姿を。
白い杖を持ち、服装は少年らしいポロシャツにチノパン、そして何より目を引く白い覆面。
「テメエは、スプライトか!」
男が怒声を上げる。
少年は苦笑いとも取れる声で答えた。
「それ僕の方も広まってるのか、なんだかなぁ」
スプライトと呼ばれた少年は、ゆっくりと男に歩み寄りながら続ける。
「まあ好きに呼べばいいよ、関係ないから」
その声は強い苛立ちを含んでいた。
「外道共は皆殺しだ」




