1、公都へ
短編として書いた「近衛騎士キーラ」を4話に分割しました。
四百年前、ベガリア王国は魔王の襲撃によって滅んだ。
その領地を引き継いだシスレート公国は、公位継承者に新たな称号――ベガリア辺境伯を与えた。
旧ベガリア王国領の南には果てのない砂漠が続くだけで、他国との国境は存在しない。
だが、かつて魔王が出現した“奈落”だけはいまも口を開け、魔獣を絶えず吐き出していた。
ベガリア辺境伯とその配下の騎士たちの任務は、ただひとつ。
奈落からあふれ出す危険な魔獣から、領民の生命を守り抜くこと――。
◇
夜明け前の空はまだ紫がかっていて、ぶどう畑の葉が乾いた風にかさかさと鳴っていた。
旧ベガリア王国領の南部、砂漠の手前のリステルという小さな村。白い石を積んだ家が斜面に張りつくように並び、その下にどこまでもぶどうの段々畑が広がっている。夏になれば日差しは肌を刺すほど強くなり、収穫のころには村じゅうが甘い匂いに包まれる。
ぶどう畑と城壁の他には、なにもないような貧しい村だった。
その村道に、シスレート公国の紋章を掲げた一台の馬車が停まっている。
七歳のキーラは、母の手で銀髪を結ってもらっていた。
「ほら、じっとして。曲がってしまうでしょう」
母の指が、真新しい藍色のリボンを結び直す。嫁入りのときに持ってきた櫛を売って買ってきたのだと、母は昨夜、笑いながら言っていた。
「キーラ。おまえは辺境伯さまの近衛騎士見習いに選ばれたんだよ。うちのような家から、こんなことがあるなんて」
母の目が濡れている。
父はすこし離れたところで、腕を組んで立っていた。左脚を引きずるようにして歩くのは、五年前に村の城壁の近くまで来た狼型の大型魔獣に食いちぎられかけたからだ。それでも父は、今日も日が昇れば城壁の見張りに立つ。それが、この土地の騎士の仕事だった。
父はキーラの前に来ると、乾いた大きな手で頭をひとなでした。
「よく励め」
それだけだった。だが、その声がすこし震えていたのを、キーラは聞き逃さなかった。
(お父さま)
馬車に乗り込み、扉が閉まる。
窓の外で、両親がいつまでも手を振っていた。畑と、白い家と、ふたりの姿が、坂道の向こうに小さくなって消えていく。
キーラは膝の上で、両手をきつく握りしめた。
父が公国の都から来た騎士たちに受けた仕打ちを、キーラは何度も見ている。
シスレート公国の騎士は、旧ベガリアの騎士を同じ騎士とは扱わなかった。廊下ですれ違えば道を譲らされ、名を呼ばれることもなく「おい」と顎で使われる。魔獣に脚を食われかけた話をしても、鼻で笑われるだけだった。
父はそのたびに、黙って頭を下げていた。
だから、わかっている。
公都の城へ行っても、きっと同じだ。
(でも、それは言えない)
(お父さまとお母さまが、あんなに喜んでいたのだから)
キーラは拳を握ったまま、まっすぐに前を向いた。
◇
北へ進むにつれて、乾いていた空気にすこしずつ湿り気が混じり、五日目の朝には、ぶどうではなく糸杉の並木が窓の外を流れていくようになった。
シスレート公国。ガリウス王国の最南端。
馬車を降りたキーラの首筋を、故郷では感じたことのない涼しい風がなでていった。同じ南なのに、ここは風まで違うのだ。
城は白い石でできていて、庭には見たこともない色の花が咲いていた。
謁見の間に通されたとき、キーラは息を飲んだ。
高い天井から下がるシャンデリア。磨き上げられた床。左右にずらりと並ぶ、紺色のサーコートを羽織った騎士たち。
そして正面の椅子に、小さな少女がひとり座っていた。
白い絹のドレスだった。裾には金糸で細かな刺繍がほどこされ、袖口から覗く手首は折れそうなほど細い。透けるように美しい金髪を、あごの辺りで切りそろえている。
顔を上げたその瞳が、灯りを受けて真紅にきらめいた。
(あの方が辺境伯ソフィアさま。トロワール大公閣下の孫姫で、この国の公女さま)
(可愛い……)
思わず、そう思ってしまった。人形のようだ、と。
だが次の瞬間、キーラの心は冷たくなっていた。
(なにを考えているの)
(どうせ、あの方も私を見下すに決まっているというのに)
そのとき、隣に人が立つ気配がした。
振り返って、キーラは目を見開いた。
自分の右に、同じ年ごろの少女がふたり並んでいる。ひとりはシスレート公国の、もうひとりはトロワール大公国の騎士の娘だという。どちらも仕立てのよい服を着て、腰には子供用にあつらえた本物の細剣を下げていた。
(候補が、三人……?)
そんな話は、聞いていなかった。両親も知らなかったはずだ。
旧ベガリア王国領の騎士の家からも、候補を出さなければならないという古くからの慣例があった。自分はその枠にすぎなかった。
選ばれるのは、ひとり――。
キーラの手のひらに、じっとりと汗がにじんだ。
(選ばれなかったら、どうなるの?)
(お父さまとお母さまは、あんなに喜んでいたのに……)
小さな辺境伯が、椅子に腰かけたまま口を開いた。
「ソフィアです。よ、よろひ……」
少女はそこで言葉を噛み、頬をかっと赤くしてうつむいた。
左右の騎士たちが、わずかに身じろいだ。誰もなにも言わない。だが、その沈黙に含まれたものを、キーラは知っている気がした。
やがて少女は、もう一度、背筋を伸ばした。
「……よろしくお願いします。三人とも」




