■第5話「はじめてのとなり(完全版)」
地下の空間は、先ほどよりもわずかに静かだった。完全に音が消えたわけではない。水滴の落ちる間隔や、遠くで何かが崩れるような微かな振動は続いている。ただ、それらが少女の中に入ってこない。意識が、別のところに向いていた。
少女はその場に座り込んだまま、動いていない。呼吸はまだ少し荒いが、先ほどの恐怖のピークは過ぎている。腕の力も抜け、指先の震えも収まってきていた。
その代わりに、視線は一点に固定されている。
掌の上。
そこにある、水の球。
「……まだいる」
小さく呟く。
「……消えねぇな」
指先で軽く触れる。球は逃げない。触れた分だけ形を変える。指に沿って、なぞるように動く。
少女はそのまま、しばらく何もせずに見ている。
時間の感覚が曖昧になる。
怖さは完全には消えていない。それでも、この球を見ていると、少しだけ違う感覚が混ざる。
「……おい」
声をかける。
「聞いてんのか」
もちろん、返事はない。
それでも、球はわずかに震える。
少女の呼吸が止まる。
「……今、動いたよな」
顔を近づける。
「……お前、わかってんのか」
言葉に反応しているのか、それとも偶然なのか、それはわからない。
それでも、完全な“無”ではない。
それだけで、十分だった。
少女はゆっくりと手を開く。球はその中心に留まり続ける。落ちない。逃げない。ただ、そこにある。
「……なあ」
視線を落としたまま、言葉を続ける。
「俺さ」
少し間が空く。
「……一人なんだよ」
声は小さい。
「ずっと」
地下の空間は何も返さない。
それでも、球は消えない。
少女は掌を胸元へ引き寄せる。抱き込むように、守るように。
「……どっか行くなよ」
声が少し弱くなる。
「頼むから」
そのとき、球が変化する。
最初はほんのわずかな揺れだった。それが次第に大きくなる。膨らむでもなく、崩れるでもなく、形が不安定になる。
少女の目が見開かれる。
「……おい」
声が強くなる。
「ちょっと待て」
球は止まらない。
分かれる。
一つだったものが、二つ、三つと増えていく。
「……え」
少女は手を引こうとする。
だが、引けない。
目を離せない。
粒はさらに増える。
掌から腕へ、腕から膝へ、床へと移動しながら、広がっていく。
「……やめろ」
声が震える。
「やめろって」
だが止まらない。
粒は集まる。
まとまる。
形を作り始める。
丸が連なり、繋がり、輪郭が浮かび上がる。
少女は動けない。
怖い。
理解できない。
それでも、目の前で起きていることから逃げられない。
やがて、その形が一つにまとまる。
小さな、人の形。
少女の呼吸が止まる。
「……なに」
声がかすれる。
「……なに、それ」
目の前にいるのは、小さな少女だった。五歳くらいの大きさ。輪郭は少しぼやけているが、確かに人の形をしている。
その存在が、ゆっくりと顔を上げる。
目が合う。
少女の体が固まる。
逃げたい。
でも、逃げない。
足が動かない。
「……おい」
かろうじて声を出す。
「……来るな」
そう言いながら、後ろに下がることはしない。
小さな少女は一歩だけ近づく。
止まる。
それ以上は来ない。
ただ、そこにいる。
「……なんだよ」
少女の声が揺れる。
「なんなんだよ、お前」
答えはない。
その代わりに、小さな少女はしゃがみ込む。床に触れる。指で線を引く。
ぎこちない動きで、形を作る。
丸が一つ。
その横に、もう一つ。
さらに小さな丸が、その隣に。
少女はそれを見下ろす。
理解が、ゆっくりと繋がる。
「……これ」
声が震える。
「……俺か」
小さな少女は顔を上げる。
ゆっくりと、頷く。
その動きは拙い。
それでも、確かに意思がある。
少女の喉が詰まる。
何かが込み上げる。
止められない。
「……なんだよ」
声が崩れる。
「なんだよ、それ」
涙が落ちる。
気づかないまま、溢れていた。
小さな少女はその様子を見て、さらに近づく。
手を伸ばす。
少女の頬に触れる。
優しく。
何も奪わない触れ方。
少女の体が震える。
だが、拒絶しない。
できない。
「……いいのか」
かすれた声が出る。
「触って」
小さな少女は答えない。
ただ、そのまま触れている。
それだけで、十分だった。
少女はゆっくりと、その手に自分の手を重ねる。
温度がある。
存在がある。
「……名前」
ぽつりと呟く。
考える。
すぐには出てこない。
それでも、言葉にする。
「……ベビーパピニー」
自然に出てきた。
理由はわからない。
でも、それしかないと思った。
「お前、ベビーパピニーだ」
小さな少女は、その言葉に反応するように、わずかに笑う。
その表情は無防備で、何も知らないものだった。
少女はそれを見て、胸を押さえる。
「……死ぬ時は」
ぽつりと漏れる。
「一緒だからな」
その言葉は重い。
だが少女にとっては、それが唯一の安心だった。
一人じゃない。
それだけで、呼吸が少し楽になる。
少女はベビーパピニーを抱き寄せる。
強く。
離さないように。
地下の空間は変わらない。
危険は消えていない。
それでも、ここだけは違っていた。
隣にいる。
それがすべてだった。




