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パピニー  作者: 柑橘みかん


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■第4話「降りてくるもの(完全版)」

地下の空間は、上にいた場所とはまったく違っていた。空気は重く、湿っている。土の匂いと、どこか鉄のような匂いが混ざり、呼吸をするたびに肺の奥に残る。壁は一定ではなく、場所によって硬さが違う。コンクリートのように冷たい部分もあれば、指で押せばわずかに沈む柔らかい部分もある。それらが継ぎ接ぎのように繋がり、一つの空間を形作っていた。


少女はその中央に座り込んでいた。膝を抱え、体を丸め、できるだけ小さくなろうとしている。だが、上にいたときのような“隠れている安心感”はない。ここは隠れる場所ではなく、ただ“奥”にあるだけの場所だと、感覚で理解していた。


「……さっきの」


小さく呟く。指先を見る。そこには、まだ水の球がある。消えていない。逃げてもいない。ただ、そこに残っている。


「……なんだよ」


指を少し動かす。球はそれに合わせて形を変える。伸びるでもなく、崩れるでもなく、ただ沿うように動く。


少女は眉を寄せる。


「……気持ちわりぃ」


そう言いながらも、指を離さない。むしろ、もう片方の手を近づける。触れる。すると球は二つの指の間に移動する。挟まれるように、しかし潰れない。


「……逃げねぇ」


ぽつりと落ちる。


「……なんでだよ」


今まで触れてきたものは、全部嫌だった。触れられるのも、触るのも。どれも痛みや嫌悪と繋がっていた。それなのに、これは違う。拒絶しない。何もしてこない。ただ、そこにいる。


少女はそのまま、じっと見つめる。


「……なあ」


誰に向けたのかわからないまま、声が出る。


「お前、なんなんだよ」


返事はない。それでも、言葉をかけてしまう。


「……動くなよ」


少しだけ強く言う。


その瞬間、球がわずかに震える。


少女の呼吸が止まる。


「……今、動いたよな」


顔を近づける。目を細める。球はまた、わずかに揺れる。


「……は」


短く息が漏れる。


「……いるじゃん」


その言葉には、驚きと、ほんのわずかな安堵が混ざっていた。


少女はそのまま手を開く。球は掌の上に移動する。転がるのではなく、吸い寄せられるように位置を変える。


「……なあ」


視線を落とす。


「俺さ」


言葉が詰まる。


何を言いたいのか、自分でもわからない。


それでも、続ける。


「……一人なんだよ」


その言葉は静かに落ちる。


「ずっと」


空間は何も返さない。それでも、球は消えない。


少女は掌を胸に近づける。逃がさないように、包み込む。


「……どっか行くなよ」


声が弱くなる。


「頼むから」


そのとき、空気がわずかに揺れる。


最初は気のせいかと思う程度の変化だった。だが、すぐにそれははっきりとした振動になる。遠くで何かが動いている。重たいものが擦れるような音。


少女の体が強張る。


「……またか」


喉が乾く。


「……来てる」


指先の球がわずかに震える。それが、自分の鼓動と同じタイミングであることに気づく。


少女はゆっくりと立ち上がる。掌の球を落とさないように、慎重に。


「……こっち来んな」


小さく呟く。


音は近づいてくる。壁の向こうで、何かが這うような気配。土が押され、形が変わる。


少女は一歩下がる。


「……来んなって」


声が震える。


次の瞬間、壁の一部が崩れる。


音は鈍い。だが、その中から現れたものは、明確に異質だった。丸いものがいくつも連なり、形を保とうとしながら蠢いている。完全な形ではない。だが、生きている動き。


少女の呼吸が止まる。


「……なんだよ、それ」


塊はゆっくりとこちらへ向く。目はない。それでも、見られているとわかる。


少女は後ずさる。


「……来るな」


声が低くなる。


「来るなって言ってんだろ」


塊は止まらない。むしろ速度を上げる。床を擦り、粒が弾け、また集まる。その動きは不安定だが、確実に距離を詰めてくる。


少女の心臓がうるさい。


「……やめろ」


怒りが混ざる。


「来んなよ!」


その瞬間、少女の周囲に粒が現れる。掌の球だけではない。床から、壁から、小さな水の粒がいくつも浮かび上がる。


少女自身も、それに気づく。


「……なんだ、これ」


粒は少女の周囲を回る。一定の距離を保ち、まるで守るように配置される。


塊が迫る。


少女は反射的に手を前に出す。


その動きに合わせて、粒が一斉に前へと流れる。


ぶつかる。


柔らかい衝撃。


塊の一部が崩れる。だがすぐに再構成される。


「……壊れねぇ」


少女の声が震える。


粒は戻る。再び周囲を囲む。


「……なんなんだよ」


息が荒くなる。


怖い。


でも、さっきとは違う。


逃げるだけじゃない。


何かできる。


その感覚が、わずかにある。


「……来んな」


もう一度言う。


今度は、少しだけ強く。


粒が再び前へ出る。


塊は一瞬だけ動きを止める。


完全には止まらない。


だが、進みも遅くなる。


少女はその隙に後ろへ下がる。


逃げる。


今はそれしかない。


通路へ戻る。


足がもつれる。


それでも止まらない。


「……くそ」


息を切らしながら進む。


「なんで俺なんだよ」


答えはない。


ただ、追われている。


その現実だけが残る。


少女はさらに奥へ進む。


暗闇が濃くなる。


音が遠ざかる。


やがて、小さな空間に辿り着く。


少女はその場に崩れるように座り込む。


呼吸が乱れる。


体が震える。


「……怖ぇ」


やっと言葉になる。


「……怖ぇよ」


掌を見る。


そこには、まだ球がある。


消えていない。


逃げていない。


「……お前」


小さく呟く。


「……まだいるな」


その言葉は、少しだけ安心を含んでいた。


少女はゆっくりと目を閉じる。


完全に安全ではない。


逃げ切れたわけでもない。


それでも、この瞬間だけは、ほんの少しだけ違っていた。


一人ではない。


その感覚が、かすかに生まれていた。

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