■第1話「高所に棲む少女(完全版)」
都市の中央に、その建物は異様な形で突き出していた。本来の設計を無視するように継ぎ足され続けた階層は統一性を失い、下層は古いコンクリート、中層は木材、上層は鉄骨と雑多な素材が混ざり合っている。さらにその隙間という隙間から草が生え、風に揺れていた。誰も手入れをしていないはずなのに、上へ行くほど濃く、強く育っている。まるでこの建物だけが、街の時間から切り離されているようだった。
その最上部、歪んだ円形の屋根の内側に、少女はいた。板切れと布、拾ってきた半透明のシートで囲われただけの空間は、外から見ればただの崩れかけた残骸にしか見えない。だが中に入れば、そこには確かに“住んでいる痕跡”があった。布が重ねられ、風を遮るように工夫され、わずかな荷物が一箇所に集められている。誰かがここで生活していることは明らかだった。
少女はその中央に座っている。膝を抱え、体をできるだけ小さく折りたたむようにしていた。着ているのは黒く色褪せた大きなTシャツ一枚で、膝より下まで隠れるほどのサイズだった。布の中に体を押し込むようにするその姿勢は、寒さを防ぐためではない。露出する面積を減らし、何かから身を守るためのものだった。
少女は自分のことを「俺」と呼ぶ。それは意識的な選択ではない。彼女がこれまで聞いてきた言葉の中に、「私」という一人称がなかっただけだ。父と弟が使う乱暴な言葉だけを覚え、そのままそれを使い続けている。少女は自分が女であることを理解しているが、それをどう表現するのかを知らないまま、今日も「俺」と言う。
「……さむ」
小さく呟く。声はかすれている。長く誰とも話していないため、声の出し方を忘れかけていた。音は空気に溶け、外には届かない。それでも少女は、時折こうして声を出す。出してしまう。
少女は、常に見られていると感じていた。壁も布も意味を持たず、外からの視線がすり抜けてくるような感覚がある。特に男性の視線は重く、皮膚の上をなぞるようにまとわりつく。服の中まで侵入してくるような錯覚に、少女は何度も体を縮めた。
「……見てんだろ」
小さく吐き捨てる。怒りなのか恐怖なのか、自分でも判別できない感情が混ざっている。
「見えねぇのに……なんでだよ」
返事はない。風が布を揺らす音だけが残る。
少女は腕を強く抱きしめる。爪が皮膚に食い込む。痛みがあると、少しだけ現実に戻れる。ここはあの場所じゃない。押さえつけられることも、逃げられないことも、今はない。
記憶は断片的に残っている。押さえられる感覚、逃げようとしても動かない体、近くで聞こえる声。それ以上は思い出さないようにしている。思い出そうとすると、吐き気が込み上げ、体が動かなくなるからだ。
「……もういい」
自分に言い聞かせるように呟く。
「もういいから」
何を止めたいのかは、自分でもわからない。ただ、その言葉を繰り返すことで、少しだけ楽になる。
少女はゆっくりと顔を上げる。片目だけで、下の街を見る。人が歩いている。車が動いている。誰かが笑っている。音は届かないのに、そこに生活があることだけはわかる。
しばらく、何もせずに見ている。
長い時間、ただ見ている。
「……なあ」
ぽつりと声が出る。
「そこ、あったかいのか」
当然、答えはない。それでも少女は、少しだけ口元を緩める。すぐに消える、小さな変化。
「……いいな」
その言葉は、はっきりと出た。
少女は外の世界に興味がある。だが同時に、自分はそこに入ってはいけないと感じている。理由はわからない。ただ、外に出れば何か取り返しのつかないことが起きるという感覚だけがある。
「……俺、行ったら」
言葉が止まる。続きが出てこない。出してはいけない気がした。
少女は膝に顔を埋める。布の中で、小さく息を吐く。静かすぎる空間の中で、自分の呼吸だけがやけに大きく感じられる。
「……誰か」
言いかけて、止める。
「……いや」
首を振る。いらない、と言い聞かせるように。それでも指先は無意識に床をなぞる。何かを探すように、空を掴むように動く。
そのとき、空に違和感が生まれた。遠くに黒い点がいくつも浮かぶ。最初は小さかったそれは、ゆっくりと形を持ち始める。細長く、鋭い影。民間機とは明らかに違う。
少女の呼吸が浅くなる。
「……なんだよ」
小さく漏れる。
「やめろよ」
理由はわからない。ただ、嫌な感じがする。
機体は増えていく。空を埋めるように広がっていく。規則的に動き、同じ場所をなぞるように旋回している。
少女の体が震える。
「……俺、か?」
声がかすれる。
「……俺、見てんのか」
答えはない。それでも、そうとしか思えなかった。
少女は急いで奥へ潜り込む。布を握りしめ、体を丸める。存在を消すように、息を潜める。
それでも消えない。
見られている感覚だけが、はっきりと残る。
「……来るな」
震える声で呟く。
願いのように。
拒絶のように。
「……来るなよ」
空の影は、さらに増えていく。
音はまだ届かない。
だが確実に、何かが始まろうとしていた。
少女は目を閉じる。
何も見ないために。
それでも、見られている感覚だけは消えなかった。




