最終回
+-=∞
どこかで蝉が鳴いている。眩暈のするような熱気に包まれ、額を汗が一筋伝った。
(――暑い)
七子は気が付くと、教室の自分の席に膝を揃えて座っていた。 あまりにも現実感が圧倒的に迫り来て、七子は咄嗟に追いつけなかった。思考が飴細工のように間延びし、呆然とする。
がたがたと音がして、クラスメイト達が席を立つ音だと気づいた。彼らは思い思いにだらけたり背筋を伸ばしたりのかっこうで、鞄を手に次々と席を立つ。掃除当番がロッカーから塵取りと箒を取りに行く。
「帰ろー」
「部活さぼりたい」
「商店街寄ってくか?」
「無理。今日は塾」
蝉の声と入り混じるざわめきの中、彼らは互いに会話を交わし、ひとりまたひとりと教室を出て行く。教壇に教師の姿はない。
(今はいつで、どこ)
周囲を見回し、右斜め上の壁時計が目に入る。時刻は十六時十五分を過ぎたところで、SHRが終わった時刻だった。今度は視線を下げ、黒板の隅に書いてある日付に目を留める。
――7月13日(火) 日直 山田 矢吹
心臓が何者かの手でぎゅっと握りしめられたかのようだった。七子は、はくはくと口を開けたり閉めたりした。あの日だ。今日だ。今日じゃないか、と彼女は混乱し青ざめて行く。
今日のお昼休みに、別館の図書館に行って、七子は一人で涙を流した。
『――もしあなたがこの世界から逃げ出したいというのなら。あたしがお手伝いしてあげる』
幻聴がする。夏の暑さで、くらくらと眩暈がする。あれがすべての始まりで、終わりだった。もうずいぶんと遠くに思えるけれど、現実には四時間ちょっとしか経過していない。この落差に、眩暈は一層強くなるように思えた。
(帰って、来た、んだ)
夏の蝉。クラスメイト達のいつもどおりのおしゃべり。元の世界へ帰ってきた。自分の二の腕を見る。夏のセーラー服だ。ずっと着衣していた冬服ではない。
(私、帰って、来た、んだ)
岩に染み入るように、その思いは七子の隅々まで行き渡る。ここは、自分の世界だ、と強烈に思う。
(私、ずっと、幽霊だった)
泣きたいような気持ちで七子は俯き、唇を噛みしめた。幽霊で、異物だったのは、七子だったのだ。未来も過去もない断片化世界で、ゴースト状態に冬服の七子は存在していた。七子は誰かの記憶だった。あるいは自分自身の記憶だった。自分の居場所がなかった。ただゴーストとしてループする断片化世界を繰り返していた。生きているのに死んでいたのかもしれない。物理的に自分を殺すということではなく、七子はずっとずっと自分を殺し続けて来た。
身体が真夏日だというのに震えて来る。怖いからだろうか。それとも。
不意に、目の前に影が差す。
はっと、面を上げると、数人の男子生徒に囲まれていた。
「おい、篠原」
にやにやと笑う彼らの一人が、目の前に一冊のノートを掲げた。あっと息を呑んだ七子は、それが自分の描いた創作ノートの一冊だと気づく。今朝方回し読みされた際に、必死に『返してください』とどもりながら集めたが、一冊回収し損ねたらしい。
驚きに打たれ、まずは言葉を失った七子に、男子生徒は間延びした声で言った。
「篠原さあ、こういうの、ひとりで描いてたわけ?」
七子が何も答えないうちに、数人が吹き出し、「引くわ」などと忍び笑いを漏らす。そのあと何か言われたようだが、七子は頭に入ってこなかった。
「なあ、ちょっと篠原こっち来いよ」
腕をつかまれる。無理やり引きずるようにして、一切手加減も躊躇もしない強い力で立たされようとして、七子は。
愕然と。
ひたすら愕然として、反応が遅れた。
少女は衝撃を受けていた。
これだ。
これだったのだ、と。
つんのめるようにして椅子から引きずり降ろされた形の七子に、誰も何も言わない。クラスメイトはみんな、他人事で透明人間が引きずられていく光景など知らないとばかり、自分たちの会話をしている。
七子は長い髪がカーテンのように一度頬の横に落ちた後、ゆっくりと目線を上げた。
あ、何だ、と七子の手をつかんでいる男子生徒が一瞥する。
七子はその手を逆の手でつかんだ。
「放して」
時間が止まった。
一瞬、何か信じがたい、ありえないものを見たかのように、彼らは目を見開く。周囲の生徒たちすら透明人間が急に姿を現したのを見てしまったかのように凍り付く。
ただ七子だけが、恬淡と繰り返した。
「放して。腕、痛いから」
男子生徒が動かないので、七子はそれこそ無理やりに手をはがさせた。相手が固まっていたためか、あっさりと五指は外れる。それからすっきりと背筋を伸ばすと、世界がぐん、と広がって見えた。同時に、教室がとても狭く見えた。この教室は、こんなに小さかっただろうか。
七子はためらわずに手を差し出す。
「返して」
男子生徒は「は?」と壊れたロボットのように口を開けた。
「それ、私のノートです。貸した覚えはありません。返して」
淡々とした口調は崩れない。羞恥も怒りも沸いて来ない。自分のものが、不適切な手段で不適切な相手に渡ってしまっている。だから自分のところに取り戻す。ただそれだけのことだった。
言葉を失ったのは男子生徒の方で、七子は返事を待った。返事がないのなら、無理やり取ればいいのだろうか。それもあまりよくないかもしれない、と少し迷う。
考えて、相手が固まっているから、と納得した。さっとノートを取り上げると、七子はあるべきものがかえってきたと自然に唇が綻んだ。
「ありがとう」
相手が返したわけではない。しかし、お礼の言葉が口を勝手に突いて出た。
「返しにきてくれたんだね」
違う、とも、そうだ、とも言わないうちにそう結論づけて、七子はさっさとノートを鞄に入れると、「私、今日早く帰らないと」と言って、相手に背を向けた。ふと、何か忘れたような気がして、振り返る。
「さよなら!」
クラスメイト全員にそう言った。みんなぽかーんとしている。その中に、瑞樹優花の姿もあった。彼女は、何がなんだか分からないという顔をして、化け物でも見るような目で七子を見ている。向こうで七子が会った瑞樹優花なのかもしれない。七子と同じタイミングでこちらに引き戻されたようだ。きっと本当に事態が呑みこめていないのだろう。
後で話すべきかもしれない。しかし、七子は気が急いていて、それどころではなかった。
(早く――!)
背後の教室からどっと騒ぎ声が聞こえてきたが一切気にしなかった。
どうでもよかった。
殴っても良かった。怒鳴りつけても良かった。責めても良かった。
でも、そうしなかった。
それでいいじゃないか、と七子はどんどん早足になる。
七子が元の七子じゃないから、回避出来た。未来は変わった。あんなちっぽけなことだった。しかし、元の七子は、あの場面で、何を言えただろう。
今更ながら、ぞっとする。坂道を転げ落ちるように、どん底まで行ってしまう未来が、七子自身だからこそはっきりと見えてしまった。
あの瞬間。
あの瞬間は、もう、変わってしまった。
七子が、変えた。
皆が、七子を変えてくれたから。
だから、今の七子は、ちっぽけなことだと、思えた。
この世界は、元の世界だろうか。まるで違う世界に思える。こんなに世界は明るくて、空は青くて、夏は暑くて、体は飛ぶように軽かっただろうか。
今度こそ、異なる世界に来てしまったのだろうか。
違う。
そう、違う。
七子が変わったから、世界も姿を変えた。
七子は、以前よりも、自分のことが好きになれた。誰かが好きだ。大好きだ。大好きな誰かが自分を抱きしめてくれた。だから、自分の中にいる怪物も、いらないなんて言わずに、自分が抱きしめよう。
そうすれば、怪物もきっと寂しくないから。
「――七子!」
生徒指導室の扉が開く。そこから出てきた数人の人影は、逆光に塗り潰されている。見知ったシルエットが叫ぶ。七子は驚き、くしゃりと顔面を歪めて応えた。
「お母さん、ただいま!」
人影は飛び込んだ形の七子をしっかりと抱きしめる。二度と失わないように。その頭を掻き抱くようにして抱きしめる。
その後ろからぞろぞろと出てくる形になった青年達は顔を見合わせ、肩をすくめて笑い、やがてその肩を叩きあう。特に背の高い青年――辻境滝彦の笑いの発作は激しく、半分涙を流しながら馬鹿笑いしていた。
「おかえり、篠原七子」
first stage →→→
ending 2015年10月5日 篠原家 女子刑務所面会室
鉄格子窓の女子刑務所の面会室に、ふわりと風が吹く。小さな子供のじゃれるような笑い声が聞こえた。夫と面会中の篠原瞳子は知らず頬を涙が伝う。
「――七子?」
声は弾けるようにして応える。
――おかあさん、ただいまっ
ending 2015年10月5日 K大附属病院 瑞樹優花 病室
優花は目を覚ます。身体が動かない。ここはどこだろう、白い部屋――ベッドに寝ている。目が熱い。涙が流れた。
「おか、さん、ごめ、」
ひゅう、ひゅう、と零れる溜息のような呼吸で言った。
「おに、ちゃん。ただ、いま」
おかえり、と風は応えた。その瞬間、うつらうつらとしていた母、さゆりが風に肩を揺らされたように目を開ける。
言葉を呑みこむ。目に涙が溢れる。
「――優花ッ」
それからはめまぐるしく、あっという間だった。父親が休みを取ったらしく病室に駆けつける。頭のセットも乱れ、スーツはよれよれで酷い恰好だ。
目を覚ました優花の姿を認めて、病室の入口に片手を当てたまま、全身支えるようにして、やがて肩が震え出す。
肘をもたれるようにして突いた手で顔面を覆い、息子を喪い、娘をも喪おうとしていた父は、無言で肩を震わせ続けた。
ending 2010年10月1日 喫茶『シャガール』
からん、と涼やかなベルが鳴る。冬服のセーラー服を着た少女がそっと窺うように覗き込み、珈琲の豆の匂いに、すん、と鼻を鳴らした。やがて、先客である二人の青年に手招きされ、鞄を両手で持ったまま頭を下げる。ふわふわした兎の脚のキーホルダーが楽しげに踊った。
「寄り道させてごめんなあ」
彼女を呼び出した木島礼津が謝り、少女――七子は首を横にふる。そして遠慮がちに、だがにっこりと笑う。
「いいえ、あの、ありがとうございます」
「何だ?」
もう一人の青年滝彦がじろりと目つきも悪く一瞥すると七子はもう一度頭を下げる。
「この日を、迎えることができました。2010年10月1日、私、衣替えできました」
この日は休日だが、わざわざ制服で来た七子は、一つのけじめのつもりだった。特に、滝彦は言葉では尽くせぬ感慨があるだろう。
「七子ちゃん、ダンスはどうや? おもろいか? 修学旅行はどうやった? 楽しかったか?」
矢継ぎ早に質問を飛ばす礼津にも、七子は「はい!」と楽しげにああだったこうだったと報告する。滝彦は「平和だな」と言わんばかりの顔で興味のない顔をして一応聞いている。
時間は飛ぶように過ぎ、二人の青年は会計を済ませて、七子はここで本を読んでから帰りますと残ることにした。礼津はしきりに「送るで」と言っていたが、まだ日も明るいから、と七子は「お気持ちだけで」と辞退する。
去り際、滝彦が振り返って言った。
「――大丈夫か」
七子はぎゅっと本を握り、ゆっくり頷いた。
ピアノの音がする。静かな店内に、ジャズ好きな店主は「ちっと両替行ってくるよ」と店を留守にしてしまった。七子はいいのかなあ、と毎回どきどきするが、よくあることでもあった。
「あ。雨」
たつ、と硝子扉を叩いたと思った雨音は、すぐに白濁するヴェールのように世界を覆った。ぼんやりと外を眺める七子のスマートフォンが震え出す。一連の騒動で瞳子が七子に無理やり買い与えたものだ。
ロックを解除し、ダンススクールの友達からかな、と指を滑らせた七子は、瞠目した。
画面いっぱいに、二重に割れた禿頭の男の顔が映し出されていた。
「きゃ、キャサリン、さん」
言うか言わないかの内、
「つながったわよぉおおおおう!」
雄叫びめいた歓声が響き渡る。ここしばらく涙とはさよならしてきた七子だったが、鼻の奥がつんとして、目が熱くなってきた。
異世界は遠ざかり、七子は現実に帰ってきた。異変は起こらず、もう二度と会えないのだと呑み込むのは、胸を圧迫するような痛みを伴う作業だった。
キャサリンは、はしゃぎながら振り返り、マリアや、グレンの姿が画面の端に映る。二人とも呆れた顔をしていて、グレンがひらひら手を振って説明する
「よーう、こっちゃ、不確定が確定になって、ようするに断片が断片じゃなくなったらしいわ。よくわからんけどまあ、明日も明後日も世界は続行だ」
そのまま「おーい」と更に背後を振り返り、キャサリンが「こっちよこっち」と腕を引っ張った。
鉄面皮な顔が、戸惑いを僅かに浮かべて映し出される。
七子は必死に何度も目を瞬かせた。
エリアスは、ためらうように、変わらずこう言った。
「こちらは、途絶していた先の未来視が可能になり、復興作業にも目途が付いたところです――」
ばしん、と音がする。キャサリンがエリアスの背中を叩いたらしい。
「もっと言うことあるでしょ!」
エリアスは生真面目に頷く。再度こちらを見た際には、どこか翳りのあったこの青年が、はっきりと慈しむように七子へ柔らかな視線を向けた。
「お元気でしたか」
「はい」
「痛いところはありませんか」
「大丈夫です」
「辛いことはありませんか」
「大丈夫です」
「よかった」
それで満足してしまったらしいエリアスに、背後で「そうじゃないでしょーっ」と奇声が聞こえるが、七子はあまり耳に入って来なかった。逆に、エリアスさんは元気ですか、と尋ねようとして、声が出て来なかった。
心配させてはいけない。
自分は元気ですって、大丈夫ですって、笑顔で今度こそさようならを言わなければ。
そう思うのに。
そう思うのに。
笑おうとする端から、唇が震え、七子は気が付くと、どうやっても笑顔を作れなくなってしまった。
こんな顔を、どうしてしてしまうんだろう、と少女は顔面を覆いたくなる。
大丈夫です、と再度言おうとして、
「――です」
エリアスに聞き返すように促され、七子は、ぽた、ぽた、と滴が液晶画面を汚しているのに焦る。そして、言おうとした言葉は、全然違うものになってしまう。どっと目に涙が溢れた。
「エリアス、さん。さびしい、で、いっぱいです。さびしい、です。えりあすさんや、たぬきさんや、みなさん、とあえない、のが、さびしくて、つらい、です。えりあす、さん。もう、あえない、なんて、いや、です」
ごしごしと涙をぬぐう。ぬぐってもぬぐっても涙が零れ落ちて、液晶の画像がぼやける。子供みたいな我がままを言って、エリアスを困らせて、それで最後にしてしまうつもりなのか。そう思うと余計に息が苦しくなった。
「ごべ、ごべんなさいっ、困らせるようなこといって」
無理やり振り切ろうとした七子に、エリアスがぽつりと言う。
「私もです」
彼は真っ直ぐに液晶を挟んで七子を射ぬくように見た。
「あなたは。私に助けてもらったと言いますが、本当は逆です。私は、本当は、どうなっても良かった。死ぬつもりだった。生き残った自分が、死んでもいい理由を、捜していた。恨んだのも、憎んだのも、真実だ。だが、あなたは、私に生きる言い訳と理由を作ってくれた。人は」
彼は言葉を切り、形容しがたい苦しみに打たれたかのように顔面を歪めた。
「人は、誰かに、必要とされなければ、生きていくことができない。どれほど、救われたか、私は、言葉に言い表すことができない」
顔面を歪める――それは、泣き顔だ。エリアスは静かに泣いていた。
「エリアスさん」
七子は、机に両手を突き、泣きながら尋ねた。
「エリアスさん、また、会えますか。また、会えますか」
顔をぐしゃぐしゃにして、七子は尋ねる。エリアスは頷く。彼は彼らしく端的に答えた。
「必ず」
七子は、それだけで、救われた。映像はやがて波紋に掻き消え、何も映らなくなった。
だけど、と少女は胸に携帯端末を大切に抱きしめる。
大丈夫。笑う。笑おう。
何故なら、七子はもう知っている。
どこまでも、走って行ける。
自分が自分を信じれば、未来は無数に広がっている。
私が私を応援すれば、私は必ず応えてくれる。
ひとりじゃない。
ひとりぼっちだと思っていた七子は、いつだって一人じゃなかった。
ただ、目を閉ざしていただけ。
ただ、耳を塞いでいただけ。
目を開けて、耳を澄ませば、声が聞こえる。
もちろん、嫌な言葉だって聞こえてくる。
大嫌いな自分だって、いつもそこにいる。
でも、彼女達は私の影。
彼女達を抱きしめよう。
一緒にがんばろう。
いつでも、どこだって行けるから。
漕ぎ出して行ける。
――向こう側の世界に。
ここまでご覧いただき、ありがとうございました。終わりです。
執筆途中、何度全部飛ばして最終回にしようかと思ったか分かりませんが、最初にこの話はなるべく飛ばさないという縛りを設けたとおりにほぼ進めることができましたのは、すべて読者の方のおかげです。
ご感想毎回くださった方、絵を描いてくださった方、評価ポイント入れて下さった方、お気に入りに入れてくださった方、皆さんが応援して下さったおかげで、最終話まで辿り着くことができました。
読者の皆さんと書き上げた話でした。
あまりにも話が暗い、鬱だ、気分が悪くなったなどのご意見も承りました。読むんじゃなかったとのお声もいただきました。
そこを押して、最後まで読んでくださった方へ、本当に本当にありがとうございました。自分でも、正直言いまして、面白いから! と人に勧められない話です。私自身には、とにかく最後まで読んでやってくださいとしか言えず、最後まで読んでも良かったとは言えないかもしれないと覚悟しております。
もし読んでも良かったと思っていただけたなら、それは本当に作者にとってありがたいことです。
よろしければ、ご感想お待ちしております。
またお会いできますように!
<お知らせ>
【書籍化】おかげさまで書籍化させていただくことになりました。
1巻-3巻発売中です。時系列整理や新要素もあります。
ヒーロー文庫/主婦の友インフォス様です。
応援くださった皆様のおかげです。本当に、ありがとうございます。
なお、過程から結末まで、ウェブ版より、完成度が高くなっておりますのと、ウェブ版でふわっと濁してしまった部分にも筆を入れておりますので、初めて読まれる方は書籍もご検討ください。




