0 子だぬきちゃれんじ
【書籍化】おかげさまで書籍化させていただくことになりました。
1巻-3巻発売中です。詳細は活動報告をご覧ください。ぜひお手にとっていただけると大変嬉しいです。
今回の更新は、本編中の幕間の出来事で短めです。
七子たちは、キャサリンたちと一時的に協力体制を組むこととなり、目的の街へ移動していた。野営の際に、焚火を囲んで、それぞれが適当に休んでいた時のことだ。
子だぬきが、岩の周囲でもぞもぞと動いている。
(どうしたんだろう?)
七子は気にかかったものの、石に腰かけたまま、様子を見守った。子だぬきはちょうどよいあんばいを見つけたのか、短い手足で、にゅにゅっと二足歩行に立ち上がる。後頭部の丸みが七子の方を向いており、ふわふわの毛に包まれた背中も足も、二等身とあいまって、何とも言えないあぶなっかしさがある。彼は前足を万歳して、岩肌にしがみついた。短足な後ろ足で踏ん張っている姿は、何やら必死に見えるが、行動が読めない。伸びあがって、左右にふらつきながら、岩の表面をぺたぺた触っている。
その様子を、じっと息をひそめて見ていた七子は、あ、と息をのんだ。
(たぬきさん、岩を登ってる!)
見た目とは裏腹に、器用にも、うんしょうんしょと這い上っていくわけである。やがて岩のてっぺんにたどり着くと、前足を揃えて、下をのぞき込んだり、しっぽをおなかの方へ巻き付けたりしながら、辺りの様子をうかがっているようだ。耳が地面を向いて、とても真剣な様子である。
何を見ているのかといえば、岩の近くに座っているエリアスだ。
子だぬきは、エリアスを登るのが好きなようだが、傍から見ていて、容赦なく邪険にされている。七子がもし、子だぬきに背中を登ってもらえたら、嬉しくて仕方ないと思うが、エリアスは特に関心がないらしい。少しでも子だぬきが何かしようとすると、さっさと立ち上がったり、体から払ったりする。状況が許さない時は、無表情に黙り込み、存在ごと無視して、肩や頭に乗せていることもある。それで子だぬきがめげるかというと、そうでもない。もしかして、相性がとてもいいのかな、などと七子は思いもする。エリアスが動じないから、子だぬきもチャレンジャーと化しているところが、少なからずあるような気がした。
(今も、そうなのかも)
子だぬきチャレンジ。そう言わんばかりに、子だぬきは、エリアスを凝視している。少し足を前に出したり、引っ込めたりして、距離を測っているようだ。飛びつくつもりなのか。
エリアスは、子だぬきの不審な挙動には気づいていたらしい。故意に無視していたようなのだが、不意に七子の方を見た。少女はびっくりしてしまい、硬直する。エリアスは表情を変えなかったが、小さく嘆息したようにも見えた。身を乗り出して、今にも落っこちそうになっていた子だぬきの方へ、黙って手を伸ばす。手から腕で橋を創った形だ。子だぬきは、よじよじと、腕の上を押し出すように前足や後ろ足で伝いながら、エリアスの首の後ろに収まった。落ちそうになるのを、エリアスが無言で肩の方に押し上げてやると、きょとんとした顔で、空中を見ている。子だぬきは、しぺ、しぺ、と自分の前足を舐め、また、にゅう、と背を伸ばして周囲を見た。自由だ。居心地が落ち着いたのか、忙しなく動き回るから、エリアスはしぶい顔をしていた。
「……ふふっ」
思わず、七子は口元をおさえて、小さく笑いが零れた。きっと誰にも聞こえていないくらいの、小さなそれだ。
これまで、七子は、自分の中で、勝手にルールを作っていた。息をひそめて、自分の存在を誰にも不愉快に思われないように、けはいを消すというものだ。周囲の空気に迎合して、愛想笑いすることはあっても、それはいびつで失敗しがちなものでしかなかった。しかし今回は、七子の中から、自然と零れて来た楽しさだった。我慢する必要も、笑ってはいけないルールも、少女は忘れて、素直に楽しい気持ちを音にした。
もし、エリアスが聞いたところで、嫌な顔をしたり、怒ったりはしないだろう。エリアスはとっつきにくいところがあるけれども、他者を笑いものにすることにエネルギーを使うような人には感じられなかった。少女は自分の気持ちの変遷を自覚していたわけではない。ただ、無意識にそう思えるから、自然とリラックスして、出てきた笑顔だった。
やがて、子だぬきは、エリアスの肩で落ち着き過ぎて、まぶたが重くなってきたらしい。目を細めては、斜めに傾き、前足で位置を調整しながら、また頭が船を漕ぐ。このままでは、地面に転げ落ちてしまうかもしれない。
七子は意を決して立ち上がった。
「あの、エリアスさ――」
皆まで言う前に、子だぬきがエリアスの背中を滑り落ちる方が早かった。
「あ……!」
ぬいぐるみのように軽い子だぬきだ。怪我はないようだが、ころころと転がり落ちた結果、仰向けに、ぴんと短い手足を伸ばして、目を見開いている。
「こ、子だぬきさん、大丈夫?」
焦って駆け寄った七子は、情けないことに、どうしたらいいのか分からず、おろおろとした。
「……ぼく、なに起きた?」
子だぬきは硬直したまま尋ねた。
「え、えっと、肩から滑り落ちちゃったみたい。痛いところはない?」
「ぼく、落ちた?」
「う、うん」
「ぼく、落ちた!」
合点がいったらしい。子だぬきは繰り返すと、体から力を抜いた。ふわふわのおなかを丸出しにしたまま、前足を体の横にぴたりとつけ、二本足を揃え、
「ぼく、ねる……」
すーっとそのまま寝てしまった。
「え、え?」
完全に七子は混乱してしまう。その七子に、平淡な声で、エリアスが告げた。
「気にされる必要はないかと。それは、何も考えていません」
悪感情も一切ない。事実を述べているといった感じの淡々とした言い方だ。一方、七子はある意味ショックを受けていた。何も考えていない。それってすごいことな気がする、と少女は驚く。子だぬきは、まるで人間のこどもみたいに、妙に姿勢を正した姿で、おなかを上下させながら寝ている。本当に自由だ。
(私が……自分で、自分を身動きできなくするルールを、勝手に作ってるだけなのかな……)
そう思うけれども、今までそのルールで動いてきた世界のシステムを急に変えてしまうのは、とても怖いことな気がする。息苦しいが、確かに、そのやり方で、七子はなんとかやってきたのだ。でも、それは、明日が来るのが嫌な方法だ。明日なんて来なければいいのにと思って、朝が来るのを怖がりながら布団に入るルールだ。
(突然、変わったりするのは無理だけれども、でも、楽しかったら、笑ってもいい、って)
それが許せたら、息をするのが、少し楽になる気がする。そう少女は、肩の力を抜いた。そんな二人のやりとりを見ていたグレンが、一言からかうような言葉を投げてきたが、エリアスはどこ吹く風で気にとめてもいないようだった。
「寒くないですか?」
エリアスが、七子のつむじを見下ろし、声をかけてくる。七子はなんと答えるか少し悩んで、子だぬきの剥き出しのおなかを見た。多分この人は急かしたり、呆れたりしないだろうと、不思議な信頼が少女の中に存在して、錨のように船をつなぎとめている。七子は自分の考えをまとめながら、どもらずに、普通に返すことができる予感がした。




