霧の向こうに灯る村
――鐘が、鳴っている。
ごおん。
ごおん。
霧の奥から届く、低く澄んだ音。
その音を聞いた瞬間、ニナの小さな手が震えた。
「……おうちだ」
少女は、泣きそうな声で呟いた。
「この鐘、エルダ村の鐘だよ!」
俺は霧の向こうを見つめた。
確かに鐘の音がする。
けれど、村らしい建物はまだ見えない。
青白い石畳が、途切れ途切れに続いているだけだ。
「もう少し……もう少しで帰れる……!」
ニナが歩き出そうとする。
「待って、ニナ!」
俺は慌ててその手を引いた。
少女の足が、石畳の端で止まる。
「……え?」
そのすぐ先には、深い谷が広がっていた。
霧に隠れているせいで分かりにくいが、道の一部が崩れている。
もう一歩進んでいたら、ニナは落ちていたかもしれない。
「……ごめんなさい」
ニナがうつむいた。
「鐘が聞こえたから、嬉しくて……」
「謝らなくていいよ」
俺はしゃがんで、少女の目を見た。
「帰りたいよね。分かってる」
「……うん」
「でも、あと少しだからこそ、慎重に行こう」
ニナは唇を噛み、こくんとうなずいた。
その様子を見ていたセラが、俺の隣に立った。
「……ルカ」
「うん?」
「ここから先、かなり危ないんじゃない?」
「……そうだね」
俺は足元を見た。
青白い石畳の輪郭が、先ほどより薄くなっている。
しかも、時折、光が消えかけていた。
道そのものが不安定になっているのだ。
「普通の橋なら、私が先に渡って確かめるんだけど」
セラが谷を覗き込む。
「この道は、あなたにしか見えない部分があるのよね?」
「うん」
「だったら、勝手に進むわけにもいかないか」
彼女は剣の柄に手を置いた。
少し考えてから、こちらを向く。
「どうする?」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
「……俺に聞くの?」
「ほかに誰がいるのよ」
「でも、セラのほうが戦いには詳しいし……」
「今、敵と戦ってるわけじゃないでしょ」
セラは、当たり前のように言った。
「道のことなら、あなたのほうが詳しい」
俺は言葉に詰まった。
昨日までの俺は、誰かの指示に従う側だった。
バルドが決めた道を調べ、安全かどうかを報告する。
それが、俺の役割だった。
けれど今は。
セラが、俺の判断を待っている。
ニナも、俺を見上げていた。
「……分かった」
俺は一度、深呼吸した。
「少し時間をちょうだい。安全に渡れる場所を探す」
セラがうなずく。
「了解。ニナは私が見てる」
「ありがとう」
俺は崩れた道へ向き直った。
◇
谷を渡る方法は、三つ考えられた。
一つ目は、壊れた石橋を飛び越えること。
もちろん、却下だ。
二つ目は、谷底まで下りて、反対側から登ること。
けれど谷底は霧に包まれていて、何がいるのか分からない。
そして三つ目。
橋の残骸に残された、古い補助通路を使うこと。
「……たぶん、これだ」
俺は、橋の右側へ視線を向けた。
普通の人には見えない、細い石の道。
崖の壁面に沿って伸び、崩れた橋の下を回り込むように続いている。
ただし、問題があった。
途中に、石畳の欠けた場所がある。
足場が完全に消えているわけではない。
けれど、大人一人がやっと通れるほど狭い。
「セラ」
「見つかった?」
「うん。でも、ちょっと難しい」
俺は道の位置を説明した。
セラはしばらく考え、崖の壁面を確認する。
「……なるほど。じゃあ、私がニナを抱えて渡ればいい?」
「それだと、二人分の重さが足場にかかる」
「……確かに」
「それに、途中で石畳が見えなくなったら危ない」
俺は鞄からロープを取り出した。
昨日、岩狼から逃げたときにも使ったものだ。
「まず俺が道の状態を確かめる。セラには、その間、ニナのそばで待っててほしい」
そう言うと、セラの眉が動いた。
「……また一人で行くつもり?」
「え?」
「第4話……じゃなくて、さっき約束したばかりでしょ。自分の命も大切にするって」
「……そうだった」
危ないところだった。
俺は無意識に、自分が先に危険を引き受ければいいと思っていた。
「ごめん。じゃあ、どうしよう」
セラは、少し驚いたように俺を見た。
「……ちゃんと聞いてくれるのね」
「え?」
「いや、何でもない」
彼女は小さく笑い、ロープを手に取った。
「私がここで支える。あなたは届く範囲だけ足場を確かめて。無理そうなら、別の道を探しましょう」
「……うん」
「ニナを帰したいのは、私も同じだから」
セラは真剣な顔で続けた。
「でも、三人とも無事に帰らないと意味がないでしょ?」
その言葉が、胸に残った。
三人とも。
彼女は、俺もその中に入れてくれている。
「……ありがとう」
「お礼は、渡り切ってからにして」
セラは笑った。
「さあ、案内人さん。出番よ」
◇
崖の壁面に、古い鉄輪が打ち込まれていた。
補助通路を使っていた人たちが、手すりを固定するために使っていたものらしい。
セラが剣の柄で軽く叩き、腐食していないことを確かめる。
俺もロープを通して何度か引っ張った。
「……まだ使えそうだね」
「ええ。でも、これだけに頼らないで」
セラがうなずく。
俺たちはロープを補助として使いながら、少しずつ進むことにした。
まずは俺。
そのすぐ後ろにニナ。
最後尾をセラが守る。
互いの距離は、二歩ほど。
俺が道を認識できている間は、近くにいる二人にも石畳が見える。
けれど、その力は万能じゃない。
少しでも道が薄くなったら、すぐに止まる必要がある。
「……行くよ」
「うん!」
「了解」
一歩。
二歩。
石畳が、靴の下で淡く光った。
谷の奥から、冷たい風が吹き上がってくる。
俺は岩壁に手をつき、ゆっくりと進んだ。
途中、足元の石が小さく欠けた。
カラカラ、と音を立てて谷底へ落ちていく。
「……っ」
思わず足が止まる。
「ルカ?」
セラの声。
「大丈夫。今のところは」
俺は慎重に足を置き直した。
石畳の端は脆くなっている。
けれど、中央の部分にはまだ十分な厚みがあった。
「ニナ、俺が踏んだ場所を歩いて」
「……うん」
少女は真剣な顔でうなずいた。
一歩ずつ。
俺の足跡を確かめるように進んでくる。
セラはその後ろで、いつでも支えられるように手を伸ばしていた。
そのときだった。
ふっ。
足元の光が、薄くなった。
「……え?」
俺は息を呑んだ。
石畳の輪郭が、揺れている。
まるで霧の中に溶けていくように。
「止まって!」
俺は叫んだ。
ニナとセラが、その場で足を止める。
「どうしたの!?」
「道が、薄くなってる!」
次の瞬間。
俺の足元から、青白い光が消えた。
「……っ!」
視界がぐらりと揺れた。
足場そのものはまだ残っている。
けれど、輪郭が分からない。
どこまで踏み出せば安全なのか、判断できなくなった。
「ルカ!」
セラの声が聞こえた。
「動かないで!」
俺は必死に岩壁へ手をついた。
冷たい石の感触。
その向こうに、細い溝がある。
昔の道の縁だ。
……まだ、ある。
道は消えていない。
見えにくくなっているだけだ。
俺は目を閉じ、深く息を吸った。
母さんと歩いた、古い森の道。
誰にも見えない石畳。
子供の頃、怖がる俺の手を握ってくれた、母さんの温かい手。
『ルカ。道に迷ったら、まず立ち止まりなさい』
懐かしい声が、頭の奥によみがえった。
『急いで探すと、見えるものまで見えなくなるから』
……そうだ。
焦るな。
道を探すのは、俺の仕事だ。
俺はゆっくりと目を開いた。
岩壁。
足元の石。
古い鉄輪。
そして、その先に続く、かすかな光。
「……あった」
青白い石畳が、もう一度輪郭を取り戻した。
細い道は、まだ続いている。
「……見えた」
俺は小さく呟いた。
背後で、セラが安堵の息を吐く。
「……よかった」
彼女の声も、少し震えていた。
俺は振り返った。
「ごめん。怖かったよね」
「当たり前でしょ」
セラは、少し怒ったように言った。
「でも、ちゃんと止まった。今はそれでいいわ」
その言葉に、俺は小さく笑った。
「……うん」
そして、もう一度前を向いた。
「あと少し。ここを越えれば、広い道に出られる」
ニナが、ぎゅっと俺の服を握る。
「……ルカお兄ちゃん」
「ん?」
「私、ちゃんと歩けるよ」
少女は、涙をこらえながら笑った。
「だから、一緒に行こう」
俺はうなずいた。
「……うん。一緒に行こう」
◇
どれくらい歩いただろう。
ようやく、足元の石畳が広くなった。
「……抜けた!」
俺は思わず声を上げた。
ニナが両手を上げる。
「やったー!」
セラも大きく息を吐いた。
「……はあ。魔獣と戦うより疲れたかも」
「そんなに?」
「だって、剣じゃどうにもできないんだもの」
彼女は肩をすくめた。
「でも、あなたがいて助かったわ」
俺は、少し照れくさくなった。
「……俺も、セラがいてくれて助かったよ」
「そう?」
「うん。俺一人じゃ、たぶん無茶してた」
セラは一瞬、目を丸くした。
それから、少しだけ笑った。
「……自覚はあるのね」
「最近、分かってきた」
「それは何より」
そんなやり取りをしていると、ニナが突然走り出した。
「あっ!」
「ニナ!?」
慌てて追いかけようとする。
けれど。
少女は、数歩先で立ち止まっていた。
その背中が、小さく震えている。
「……ニナ?」
俺が声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。
大きな瞳から、涙がこぼれていた。
「……見える」
小さな声。
「……え?」
「おうちが……」
ニナは、霧の向こうを指さした。
「おうちが、見える……!」
俺は顔を上げた。
そして。
息を呑んだ。
◇
霧の向こうに、村があった。
最初に見えたのは、果樹園だった。
緩やかな丘に沿って、リンゴの木が何列も並んでいる。
枝には赤い実がたわわに実り、ところどころに木製の梯子が立てかけられていた。
その先には、小さな家々。
赤い屋根。
白い煙突。
石造りの井戸。
村の中央には、大きな鐘楼が建っていた。
その鐘が、ゆっくりと揺れている。
ごおん。
ごおん。
さっきから聞こえていた音だ。
「……本当に」
俺は、思わず呟いた。
「本当に、あったんだ……」
百年前に消えた村。
誰も見つけられなかった場所。
地図から消され、記録の中にしか残っていなかった村が。
今、確かに目の前にある。
セラも、言葉を失っていた。
「……嘘でしょ」
彼女は周囲を見回した。
「こんな場所に……村が……」
けれど、ニナはもう立ち止まっていなかった。
「……お母さん!」
少女が走り出した。
「ニナ!」
俺は慌てて追いかける。
セラも、その後を追った。
道は、いつの間にか普通の土の道へ変わっていた。
足元の青白い光は消え、柔らかな土の感触が返ってくる。
草の匂い。
焼きたてのパンの香り。
遠くから聞こえる、子供たちの笑い声。
村は、生きていた。
畑では人々が作業をしている。
果樹園では、木箱を運ぶ男たちの姿が見えた。
道端には、洗濯物が揺れていた。
誰もいない廃村なんかじゃない。
ここには、確かに人々の暮らしがある。
「……すごい」
俺は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
道が、つながった。
まだ、俺たち三人が通れただけだ。
それでも。
百年間、誰もたどり着けなかった場所へ。
俺たちは、来ることができたんだ。
◇
「……ニナ?」
村の入り口にいた女性が、少女の姿を見て声を上げた。
洗濯籠を抱えた、若い女性だった。
「……あら?」
女性は目をこすった。
そして、もう一度ニナを見る。
「……ニナちゃん!?」
「こんにちは!」
ニナが元気よく手を振る。
女性は、持っていた籠を落とした。
洗濯物が道に散らばる。
「ちょ、ちょっと待って!」
女性が慌てて駆け寄ってきた。
「あなた、どこに行ってたの!?」
「森!」
「森!?」
「うん! ポポを追いかけてたら、知らない街に出ちゃって……」
「知らない街って……!」
女性は青ざめた。
「みんな、あなたを探してたのよ!」
その声を聞いて、近くにいた村人たちが振り返る。
「……ニナ?」
「おい、ニナじゃないか!」
「見つかったのか!?」
あっという間に人が集まってきた。
ニナは少し驚いた顔をしたけれど、すぐに笑った。
「ただいま!」
その言葉を聞いて、村人たちの表情が和らいだ。
けれど。
誰かが、俺たちに気づいた。
「……おい」
低い声が響く。
「あの二人は、誰だ?」
村人たちの視線が、一斉に俺とセラへ向けられた。
その瞬間。
空気が変わった。
さっきまでの温かな雰囲気が、急に冷たくなる。
「……外の人間か?」
「まさか……」
「どうやって、ここへ……?」
小さなざわめきが広がった。
俺は、思わず足を止めた。
セラが、さりげなくニナの近くへ移動する。
「……ルカ」
彼女が小さく呟いた。
「歓迎されてる感じじゃないわね」
「……うん」
俺も、そう思った。
けれど。
「……ニナ!」
そのとき。
村の奥から、女性の叫び声が聞こえた。
ニナが、はっと顔を上げる。
「……お母さん?」
人々の間をかき分けるように、一人の女性が走ってきた。
栗色の髪を後ろで束ね、白いエプロンを身につけている。
頬には小麦粉がついていた。
きっと、料理か何かをしていたのだろう。
女性は、ニナの姿を見た瞬間、立ち止まった。
「……ニナ」
その声が、震えていた。
ニナも、動かなかった。
ほんの一瞬。
二人は、互いを見つめていた。
そして。
「……お母さんっ!」
ニナが駆け出した。
女性も、両手を広げた。
「ニナ!」
小さな身体が、母親の胸に飛び込む。
女性はニナを抱きしめた。
強く。
まるで、二度と離すまいとするように。
「……よかった……!」
女性の声が震える。
「よかった……本当に……!」
「お母さん……!」
「どこに行ってたの!? どれだけ心配したと思って……!」
「ごめんなさい……!」
ニナが泣き出した。
「ごめんなさい、お母さん……!」
女性は、何度も少女の髪を撫でた。
「……いいの」
涙を流しながら、笑う。
「もう、いいのよ……」
「……うん……!」
「帰ってきてくれたなら、それでいい……」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
帰ってきてくれたなら、それでいい。
……ああ。
そうか。
俺は、この言葉を聞きたかったんだ。
十年前。
母さんが旅に出たまま帰ってこなくなったとき。
何度も、何度も夢に見た。
玄関の扉が開いて。
母さんが、いつもの笑顔で帰ってくる。
そして、俺を抱きしめてくれる。
そんな夢を。
でも、現実には一度も起こらなかった。
俺は、ずっと待っていた。
母さんの帰りを。
なのに。
今、目の前では。
ずっと帰りたかった子が、ちゃんと家族のもとへ帰っている。
……よかった。
本当に、よかった。
俺は思わず目をこすった。
セラが、ちらりとこちらを見る。
「……ルカ?」
「……ううん」
俺は首を振った。
「何でもない」
少し声が震えていた。
セラは何も言わなかった。
ただ、そっと隣に立ってくれた。
それが、ありがたかった。
◇
「……ニナ!」
今度は、低い男の声が聞こえた。
振り返ると、大柄な男性が走ってきていた。
作業着を着た、四十歳くらいの男だ。
手には、まだ木工用の道具を持っている。
「……お父さん!」
ニナが叫ぶ。
男は、ニナを見つけた瞬間、顔を歪めた。
そして、母親の隣に膝をつく。
「……この、馬鹿娘……!」
怒っているような声だった。
けれど、目には涙が浮かんでいる。
「どこに行ってたんだ……!」
「……ごめんなさい」
「森の外は危ないって、何度も言っただろう……!」
「……うん」
「お前に何かあったら……」
男は、そこで言葉を詰まらせた。
そして、ニナを強く抱きしめた。
「……よかった」
その声は、ひどく小さかった。
「……無事で、よかった……」
ニナも、父親の背中に腕を回した。
「……ただいま、お父さん」
「ああ……」
男は、涙を拭いながら答えた。
「……おかえり、ニナ」
その言葉を聞いて。
俺は、ようやく息を吐いた。
帰れた。
ニナは、本当に帰れたんだ。
役立たずと呼ばれた俺が。
剣も魔法も使えない俺が。
この子の帰り道を、見つけることができた。
それだけで。
今までの全部が、少しだけ報われたような気がした。
◇
しばらくして、ニナの両親が俺たちの存在に気づいた。
「……あなたたちは?」
父親が立ち上がる。
その表情には、警戒が浮かんでいた。
俺は慌てて頭を下げた。
「ルカ・アルベインといいます。こちらはセラ・ヴァレンティアです」
「……ルカ?」
「はい。王都でニナと出会って、ここまで案内してきました」
その瞬間。
男の顔色が変わった。
「……王都?」
「はい」
「……王都アレストか?」
「そうです」
父親は、信じられないものを見るように俺を見つめた。
「……馬鹿な」
その言葉は、第1話で聞いたものと同じだった。
けれど、今度は意味が違う。
「……どうして」
男の声が震えた。
「どうして、外から人が来られるんだ……?」
俺は、返事に困った。
普通の人には見えない道が見える。
そう説明しても、信じてもらえるだろうか。
「……実は」
俺が話し始めようとしたとき。
「お父さん!」
ニナが割って入った。
「ルカお兄ちゃんはね、私を助けてくれたの!」
「……ニナ?」
「知らない街で迷ってたら、一緒に村を探してくれたの! 怖い魔物が出たときも、守ってくれたんだよ!」
少女は、必死に説明した。
「セラお姉ちゃんも、すごく強くてね! 二人がいなかったら、私、帰れなかったの!」
その言葉に、父親の表情が変わった。
母親も、俺たちを見つめる。
「……あなたたちが?」
「……はい」
俺はうなずいた。
「でも、俺一人じゃ何もできませんでした。セラが助けてくれたから……」
「ルカ」
セラが、俺の言葉を遮った。
「また、それ?」
「……え?」
「私が剣で守って、あなたが道を見つけた。それでニナを帰せたんでしょ」
「……あ」
「だから、二人で助けたの」
セラは、少しだけ笑った。
「そういうことにしときましょ」
俺は、思わず笑ってしまった。
「……うん」
父親は、しばらく俺たちを見つめていた。
そして。
深く、頭を下げた。
「……ありがとう」
その声は、震えていた。
「娘を……ニナを連れ帰ってくれて、本当にありがとう……!」
母親も、涙を拭いながら頭を下げる。
「……ありがとうございます」
俺は、慌てて首を振った。
「そ、そんな! 頭を上げてください!」
「いいえ……」
母親は、優しく笑った。
「あなたたちは、私たちの大切な娘を連れて帰ってくださったんです」
その言葉に。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
大切な娘。
帰ってきてくれて、よかった。
……ああ。
俺は、こんな仕事がしたかったんだ。
誰かを倒すことでも。
強い冒険者になることでもなく。
誰かが、帰る場所へ帰れるようにすること。
俺は、そのために道案内人になったんだ。
そう思えた。
◇
「……ところで」
父親が、少しだけ声を低くした。
「本当に、王都から来たのか?」
「……はい」
「森の道を通って?」
「そうです」
父親は、周囲の村人たちを見た。
その表情が、険しくなる。
「……まずいな」
「……え?」
「外から人が来たなんて、村長に知られたら……」
そのときだった。
村の奥から、低い鐘の音が響いた。
ごおん。
ごおん。
ごおん。
さっきまでの穏やかな鐘とは違う。
短く、強く、何度も鳴らされている。
村人たちの顔色が変わった。
「……警鐘だ!」
「何があった!?」
「外の人間が来たって……!」
ざわめきが広がる。
ニナの父親が、俺たちを見た。
「……すまない」
「……え?」
「娘を助けてくれたことには、心から感謝している」
男は、苦しそうな顔をしていた。
「だが……この村では、外から来た人間を簡単には受け入れられないんだ」
俺は、息を呑んだ。
セラが、一歩前に出る。
「……どういう意味?」
その問いに答える前に。
「――そこまでじゃ!」
鋭い声が響いた。
村人たちが、一斉に道を開ける。
その向こうから、一人の老人が歩いてきた。
白髪を短く切り揃え、古びた外套を羽織っている。
背筋は真っすぐで、年齢を感じさせないほど歩き方がしっかりしていた。
その後ろには、槍を持った村の男たちが数人。
老人は、俺とセラを見た。
そして、低い声で尋ねた。
「……お主らが、外から来た者か?」
俺は、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
「どこから来た?」
「王都アレストです」
その瞬間。
老人の顔色が変わった。
「……王都だと?」
「はい。ニナを家まで送り届けるために……」
「……ありえん」
老人が、かすれた声で呟いた。
「外へ続く道は、閉ざされたはずじゃ……」
俺は、思わず聞き返した。
「……閉ざされた?」
老人は答えなかった。
代わりに、周囲の村人たちへ声を張り上げた。
「全員、家へ戻れ! 子供たちを外へ出すな!」
「……村長!」
ニナの父親が叫んだ。
「待ってください! この人たちは、ニナを助けてくれたんです!」
「分かっておる!」
老人の声が、強く響いた。
「だからこそ、今すぐ追い返すわけにはいかん。どこから来たのか、何を知っているのか、確かめねばならん」
その言葉に、セラが眉をひそめた。
「……私たちは、ただ女の子を家に帰しただけよ」
「それは承知しておる」
老人は、静かに答えた。
「だが、問題はそこではない」
そして、俺を見た。
その瞳には、強い警戒が浮かんでいた。
「お主は……どうやって、この村への道を見つけた?」
俺は、一瞬迷った。
けれど、嘘をつくわけにはいかない。
「……俺には、見えるんです」
「……何?」
「普通の人には見えない道が、俺には見えるんです」
老人の表情が、凍りついた。
「……見える、だと?」
「はい」
「……まさか」
その声が、小さく震えた。
老人は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、深く息を吐く。
「……オルフェン村長?」
誰かが、心配そうに声をかけた。
けれど、老人は答えなかった。
ただ、俺をじっと見つめていた。
そして。
「……よいか」
低い声で、告げた。
「お主らは、決してこの村の外へ続く道を広めてはならん」
「……え?」
俺は、思わず聞き返した。
「どういうことですか?」
老人――村長オルフェンは、鋭い目で俺を見た。
「……外の者を入れてはならん」
その声には、怒りだけではないものがあった。
恐怖。
後悔。
そして、何か大切なものを守ろうとする、強い意志。
「二度と……」
老人は、ゆっくりと言葉を続けた。
「二度と、あの日を繰り返すな」
その瞬間。
俺は、ようやく気づいた。
百年前に消えた村。
誰もたどり着けなくなった場所。
けれど。
この村の人々は、ただ道を失ったわけじゃないのかもしれない。
もしかしたら。
誰かが、この村への道を――閉ざしたのだとしたら。
俺は、胸元の方位磁針を握りしめた。
針は、村の中心を指していた。
その先には、大きな鐘楼がある。
そして。
鐘楼のさらに奥。
村の中心にある古い石碑が、かすかに青白く光っているのが見えた。
あれは、何だ?
俺が目を凝らした瞬間。
石碑の光が、ほんの一瞬だけ揺れた。
まるで。
俺がここへ来たことに、気づいたかのように。




