Prologue HUMANISM - 序章 乱
理想は、人を救うとは限らない。
それが正義と呼ばれるとき、最も多くの血が流れる。
この世界で戦う者たちは、皆それを知っていた。
――
どこからか、ひばりの鳴き声が聞こえてくる。
耳を澄ませてみたが、青空に溶けた声の主がどの方向にいるのかはわからない。
やけにのどかな声は規則正しく何度も響き、静かに時を刻む鐘の音のようにも感じられた。
「平和だな」
間延びした調子で若い男の声が呟いたかと思うと、間を置かず同じ声が吐き捨てる。
「んなわけないってんだ。冗談じゃねえ」
丘に寝転んでいた男はやおら立ち上がり、眼下の草原を見下ろした。
男の足元から続く傾斜は、ほんの数歩先で角度を緩め、視界のほぼすべてに草原が広がっている。
正確には、数日前まで広がっていた。
今、男の目の前にあるのは焼け野原だった。
黒ずんだ地面には緑など見る影もなく、大地が抉られ、穴の空いた場所も十や二十ではない。
焼け爛れた地表を見る者が見れば、ひと目でわかる。
強力な魔術が発動した痕跡だと。
「本当に冗談じゃねえぞ……魔天軍の化け物どもめ……」
人間の男はもう一度独り言ち、唇を噛みしめた。
――
「お母さん、魔族って『悪魔』なの?」
小さな娘にそう尋ねられ、母親は夕食の支度で動かしていた手を止め、振り返った。
「何を言うの、急に。お母さん、びっくりしてお皿を落とすところだったわ」
微笑んで動揺を取り繕う母に、娘は絵本を差し出す。
「あのね、本に書いてあったの。海の向こうには竜のお使いがいる神様の国があって、そのずっと遠くには大きな滝があって……その下には、怖い悪魔がたくさんいるんだって」
「それは、おとぎ話なのよ」
「でもね、悪魔って人が苦しむのが大好きで、酷いことばっかりするって書いてあるの。
魔族って、そうなんでしょ?
人間よりずっと長生きで、怖い魔法をたくさん知ってて、それで攻めてくるんでしょ」
娘は眉根を寄せている。
「お父さん、前に言ってたもん。化け物の魔族が北の国から人間をいじめに来たから、戦って追い返してやるんだって。
お父さんがずっと帰ってこないのも魔族のせいだって、お隣のおじさんが」
「お父さんはお仕事で忙しいの。
おかしなことを言ってないで、お皿を並べてちょうだい。もうご飯ができるわよ」
母親は優しげな笑みと口調で、娘の話を打ち切らせた。
――
ある里で、老いたエルフがかたわらの若者に呟いた。
「従えば、この里の平和は保たれる。ほかに道はあるまい」
若いエルフは端正な顔を引きしめ、頷く。
「では、我が里も魔天軍に」
「生き残るためだ。あの国の王が、これより我らの主人となる」
――
村の広場に集っていた小人たちも、その日、結論を出した。
「寄らば大樹の陰ってやつだ」
「あの魔天王は強い。残った人間の国の王が四人全員集まっても、敵いやしない」
輪の中心にいた老いた小人が、仲間を見回して宣言した。
「それじゃあ決まりだ。魔天軍に、使者を出すぞ」
――
前線に取り残された人間の兵士が、壮年の黒魔族の男の前に座り込んでいる。
黒魔族は、黒髪と黄色人種の肌を持つ。目の色は個人差があり、この男は曇天のような灰色をしていた。
対して人間は多数民族のため、髪色や肌色、目の色も様々だった。座り込む人間は、茶色い短髪と同じ色の瞳をしている。
「我らが王に抗うなど愚かなことだ。降伏すれば、命は助けてやろう」
「ほざけ!」
黒魔族の言葉に、人間が叫んで睨みつける。
同時に身を屈めた瞬間、黒魔族は悲しげにため息をついた。
「残念だな」
人間の体は、そこで動きを止め、崩れ落ちた。
短剣を握り締めたまま、その胸は後ろから貫かれていた。
「殺してしまったか。なかなか優秀な兵士だったようだが、惜しいことをした」
前に立っていた黒魔族が呟くと、人間の背後にいた若い白魔族が剣を引き抜き、頭を下げた。
白魔族は発光しているような白い髪の、白色人種。見た目は黒魔族と大きく異なるが、彼らは長命の同種族である。
「申し訳ありません。まだ武器を隠し持っていたとは」
「仕方がない。人間はまったく物分かりの悪い人種だな。守ってやろうといっているのに」
「彼らはどうしても、他種族が嫌いなようです」
二人はやりきれない様子で、足元の死体を見つめる。
「国を一つ潰されても、まだ世界の行く末を見極められんのでは、話にならん。不本意ではあるが、やはり我らは世界の果てまで、人間を追いつめていかねばならないらしい」
「少なくとも、王の首は取りに行くことになりそうですね」
「最後は陛下が自ら、お出ましになるだろう。決戦が何年先になるかは、まだわからんがな……」
――
この世界には、多種多様な人類が暮らしている。
かつて五つの国を有していた、最多数人種の「人間」。
多くは人間の国に従属する「小人」。
強き者の手足となって働く「巨人」。
世界各地に里を持ち、静穏な暮らしを望む「エルフ」。
すでに絶滅寸前と言われる、伝説の「妖精」。
そして、最高の魔力と生命力を誇る「魔族」。
寿命も魔力も外見も大きく異なる人類は、異なるがゆえに剣と魔術をもって、遥か昔から争いを続けてきた。
争いながらも均衡を保ち、見せかけの平穏に縋り生きる。それが人の道であった。
ある一人の若き王が誕生するまでは。
黒魔族と白魔族の長、魔天王国の国主「魔天王」。
彼は自らの力をもって、その座に就いた。
そして、彼が世界統一を掲げ兵を挙げてより、すでに五十年近くが経過している。
長き乱世の幕を引く、最後の戦乱である。
時は現王ガルシア暦九十九年。
世界の命運は、決しつつあった。




