十一 ギムナジア《ロディス》 3/3
「はっはっはっは! というわけなのだよ、君たち。幽霊はいないし、盗賊団のアジトでもなかった」
ユリウスの大言に、年少の生徒達がわっと声をあげる。
翌日の昼休み、食堂で大得意のユリウスは自慢話をぶちまけていた。
消灯後に寮を抜け出して、というちょっと後ろめたい一点を除けば、昨夜の出来事は探検というよりせいぜい散歩といった程度のものなのだが――どうやら、いつの間にか大仰な冒険譚に作り替えられているようだ。
まぁ、登場人物が勝手に増えていないだけマシかなと、盛り上がる後輩達を横目に、ロディスはあくびをかみ殺しつつ食後のアップルティーを啜る。
今日はユリウスの独壇場だが、結局のところ、うわさ話を刺激的にしていた幽霊や悪漢の類いが存在しないということがわかったので、鐘楼の話はこれで終わりになりそうだ。
それにしても、眠い。昨夜は外出ですっかりテンションの高くなったユリウスの話し相手をしていて、明け方にうたた寝程度の睡眠をとっただけなのだ。彼だってそれは同じはずなのに、どうしてあんなに元気に喋り続けられるのだろう。
朝ろくに食べずに寮を出て、午前の授業が終わってさっきランチを食べて、もう既に眠くて死にそうだ。
「大丈夫ですか?」
白い顔で、手にしたカップを今にも落としそうなロディスに、アキームが心配そうに声をかけた。
「君こそ……大丈夫?」
「僕はあの後、部屋に戻ってすぐに寝ましたから」
「そ……か。羨ましい。どうしてあんなにユーリは元気なんだろ」
「どうせ午前中の授業を寝て過ごしたんですよ、王子は」
なるほど、それならば合点がいく。あの要領の良さは見習いたいかもしれない。
「いやー、僕だって多少は恐ろしかったんだけどね。やっぱり、事実は突き止めておかないとスッキリしないし。ははははは! しかし、君たち下級生はくれぐれも真似をしては駄目だぞ。こーゆーことは、もう少し大人になってからだ。なっ!」
「でも王子、ほんとに盗賊が隠れてたらどうするつもりだったの?」
「フッ。それはだね……」
機嫌良く芝居がかったユリウスの言葉と、にぎやかにそれを取り巻く者たちの高い声が遠く、遠くなっていく。
全く、そういうことならなおのこと、自分だけがこんな眠気に悩まされるのは理不尽だ。ああ、もう、このままちょっとだけ、チャイムが聞こえるまでの間だけ、眠ってしまおうか。
ちょっとだけ、と、思ったことすら覚えがあるような、無いような。
暖かな昼下がりの窓辺に、ほんの一瞬闇が訪れたと思ったら、次の瞬間にはロディスの意識は途切れていた。
甘美な午睡。開け放した窓から、日差しに暖められた芝のにおいが、そよ風と一緒に流れてくる。
まだ午後のこの時間は充分に暖かい。手触りの良い上等の生地で縫われた制服の上着が、ぽかぽかと背中を暖めてくれていて――おかげですっかり眠気の波に逆らえなくなってしまった。
夢は見ていなかったが、肉親や友人や、教師や召使いや、色々な人の声をずっと聞いていたような気がした。
まだチャイムは聞こえない。だから、まだ昼休みのはず。
……けれど、何だか静かだな。
ユーリの話が終わったんだろうか。
(でも……)
「おい……」
(誰?)
「おい」
うるさいなあ。チャイムはまだなんだから、そっとしておいてくれればいいのに。
「ロディス!」
声は窓の外からだった。名を呼ばれてぼんやり目を開けて、食堂に人の気配が無いことを知る。
「え……?」
まだ、どころじゃない。これはもう、とっくに昼休みが終わっている。
「さぼり?」
開け放たれた窓の下から、仕事中らしいジルがこちらを見上げていた。
「あれ。寝てたのか?」
「……そうみたい」
「寝不足?」
「まぁね……あーあ、ユーリ、起こしてくれればいいのに」
寝ぼけ眼をこすりつつ立ち上がる。テーブルはすっかり片づいていて、どうやら起こしてはくれなかったが食器は下げていってくれたらしい。
整然と空のテーブルが並ぶ周囲を見回して、改めてため息をつく。壁の時計を見ると午後二時前、もう午後一つ目の授業が終わる頃だ。
「授業は?」
「あるけど……ああ、ちょっと待って、そっちに回るよ」
そそくさと席を立って、誰もいない食堂を後にした。
庭に出る。太陽が眩しい。一時間以上瞼の裏を見ていたのだから無理もない。
「なーんか、意外とそそっかしいんだな、お前」
陽光に顔をしかめながら出てきた新しい友人を、ジルは悪戯っぽく笑って迎えた。
「いつもこうなわけじゃないよ……」
ロディスは緩んだ髪を結わえ直しながら、呆れた様子のジルに苦笑して答える。不本意ながらたっぷり昼寝をしたおかげで、すっかり頭は冴えていた。
「君は大丈夫? 昨日、遅かったでしょう」
「別に慣れてるし、そもそも、お前らより朝は遅いからな」
「そっか。仕事、今ごろからなの?」
「ああ。昼前からなんだ」
「へぇ……仕事って、庭の手入れだけ?」
「まぁ……そうかな。あと、敷地内の掃除とか」
「なるほど、じゃあ、ここら辺は君がいつも綺麗にしてくれているってわけなんだ」
「ただ……仕事なだけだ」
「うん。そうだろうけどさ」
短い夏の終わりを惜しむかのように、遠い小鳥のさえずりが聞こえる。
皆が午後最初の授業を受けているこの時間、昼下がりの庭は幻のように静かで明るく、暖かい。
「ねぇ、ジル、ひとつ聞いてもいい?」
「何だ?」
「君って、もしかしてエウロ生まれ?」
「え……? と、あの……な、何で?」
昨晩訊ね損ねた問いを口にしてみると、ジルは狼狽の色をみせ、戸惑うように俯いて呟く。聞いて悪いことを言ったつもりはなかったので、予想外の反応だった。
「聞いては悪かった?」
「や、そ、そうじゃなくて……」
「トッカルの人はエウロ皇帝のことを『陛下』なんて言わないからさ」
そう。種明かしをすれば単純なことだった。
「……僕もエウロ人だ」
ロディスは、同郷の友人を安心させようと穏やかに微笑んで続けた。
「こっちでエウロの人に会うことはあまりないからね。ちょっと嬉しくて」
「……そ、そうか……」
ニコリと笑ったロディスにつられるように、俯いたままのジルがホッとした様子で微笑む。目深に被った帽子からはみ出した、ロディスと同じ色の前髪が、高い日差しを受けて白く光っていた。
休み時間のざわめきに紛れて、そっと教室に戻るつもりだったロディスを、廊下の途中できつい視線が引き止めた。
「お前が授業をさぼるとは、珍しいな」
眼鏡の向こうの不機嫌な瞳。マルクが立っていた。サボったことを怒っているのか、姿を見せたことを怒っているのか。
両方なのかなと思いながら、ロディスは曖昧に笑って返事する。
「ちょっと、うっかりしててね」
「さっきの授業では歴史の課題で共同発表があることを忘れていたのか?」
「え……あ……」
言われて思い出す。グループでの課題発表が予定されていたのだ。
「……そうだったね」
「お前の入っていた班の奴らはとても困っていた。午前中は出席していたのに、午後から消えるだなんて誰も思わないからな。その上、具合が悪くなったわけでもなく、次の授業には顔を出すだと」
「ご、ごめん……」
きつい言葉だが、言い返すことは出来なかった。悪いのは自分の方だ。
「課題が出来ていなかったのか?」
「違う……」
「なら何だ、どうして勝手をして、平気な顔で戻ってくる」
「戻らないわけにはいかないよ」
「ふん……どうせ貴族根性で、自分は何をしても許されるとでも思っているんだろう」
「だ、だから、それは後で謝っ…」
「この際だから、クラス委員として言っておく」
ロディスの言葉を遮って、マルクはよく通る声で言った。
「お前のような輩が混じっているだけで不愉快、かつ不自然なんだ。八年のユリウス=ノーマ・バートと同室で仲が良いからといって、でかい顔をするな」
普段、優等生のロディスを堂々と非難できるような機会は殆ど無い。そのせいもあって余計に意気込んだマルクの言葉は止まらない。
「貴族だかなんだか知らないが、クラスの者に迷惑をかけるなんて、もっての外だ。エウロ人のくせに」
「!?」
刹那、チャイムが鳴った。
高い日差しがマルクの短い金髪の上をキラキラと反射して、空けた窓からは気持ちの良い風が緩やかに流れ込んでいる。
すれ違った生徒の何人かは、マルクが放った言葉が聞こえたようで、あっと驚いた顔でこちらを見て、そのままそそくさと教室へ入っていった。
何を言われたかは分かっていたし、マルクなら言いそうなことだとも思っていた。
トッカル人の中にはエウロ人に差別意識のある者が少なくないことも知っている。けれど、ここまではっきり、それが自分に向けられたのは初めてのことだった。
残響が響いているのはたぶん自分の頭の中だけのことだろう。
明確な侮蔑、差別の言葉。
頭をガツンと殴られたかのような衝撃と、足を床に縫い付けられたみたいな感覚。何と返事をしようかと考えているうちに気が遠くなって、授業に来た教師に声をかけられてやっと現実に戻った。
はっとしてマルクの立っていた方を見ると、彼はいつの間にか教室に戻っていたようで、そこにはもう姿はなかった。
エウロ人だから、自分が嫌いなのか。
自分が嫌いだから、エウロ人が嫌なのか。
今日級友に迷惑をかけたことに言い訳はできないとはいえ、謝っても許されないほどの過ちではないはずだ。実際あの後謝りに行ったら、彼らは別に怒っている様子でもなかった。
要するに、自分の行いを気に入らないのはマルクなのだ。
「…………」
放課後、ユリウスと食事をしてまっすぐ自室に戻り、そのまま机に向かって――長いこと動けずにいた。勉強をしている風に本を開いてはいたが、内容は何も頭に入ってこない。
マルクに対して何か悪い事をした覚えは無い。嫌われていることは知っているけれど、改めて考えてみると、どうしてここまで嫌悪されなければならないのか理解に苦しむ。
「……おおい。ロディってば」
「……え?」
ルームメートの控えめな呼びかけにふと我に返る。
風呂上がりの濡れた金髪が目に入る。ユリウスが心配そうな顔で、ロディスの顔を覗き込んでいた。
「昨日の雨で風邪でもひいたのかい? それとも、昼間起こさなかったのを怒ってるとか?」
「え……と……僕、何か変だった?」
「難しい顔してた」
「顔はもともとだよ」
「いーや、いつもと違う。ぜんぜん!」
大げさな身振りでそう言って、それからふと真面目な顔になる。
「何かあった?」
「え……」
「そういう顔」
こういうことを口にするときのユリウスは悔しいが大人びていて、頼りにできそうな感じがする。けれど、
「…………」
何も言えない。ユリウスは差別が嫌いだ。話したらきっと、怒ってマルクに抗議しにいくに違いない。
そして、マルクはユリウスが言ったからといって持説を曲げるようなタイプではないから、たぶん、けんかになってしまう。
「……別に、何でもないよ」
ユリウスは不満そうだったが、それ以上無理にロディスから話を聞き出そうとはしなかった。
じゃあいいけど、と、言って机から漫画雑誌を取り出すと、さっさとベッドの上に上がってしまう。ロディスはその姿を見送りつつ窓際に椅子を持ち出して、長い間夜の庭を眺めていた。
生まれを変えることはできないし、父と母の元に生まれたことを誇りにも思っている。だけど、だからといって、級友に無条件に嫌われてしまうことを仕方ないとは思えなかった。