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九 ギムナジア《ロディス》 3/3

 新学期が始まって数日が過ぎ、少年たちが久しぶりの授業にすっかり慣れる頃、ふっと、朝の日差しの色が変わる日が来る。廊下に落ちる陰の輪郭が優しくなり、庭木を揺らす風が少し冷たくなる。

 短い夏の後にやって来る、さらに短い秋。それが通り過ぎて――長い長い冬がはじまる、始まりの合図だった。

 一日の授業を終え、最後のチャイムが鳴り終わると、静かだった廊下が慌ただしくなる。木の廊下に硬い靴音と笑い合う子供たちの声が満ちて、傾き始めた太陽が教室に深く差し込む。時刻はだいたい夕方の入り口といったあたりで……これから夕食までのしばらくの時間を、生徒達は思い思いの場所で自由に過ごすのだ。

「なあなあなあ、ロディ、知ってるかい? あの噂」

 寮に戻る支度をして、立ち上がろうとしていた所に、真後ろから少女のような甲高い声が飛んでくる。教室に残っていた者達がついさっき出ていくのを見ていたので、もう誰もいないと思い込んでいたロディスは、面食らって振り返った。

「わ……もう、びっくりするじゃないか、ジャン」

 話しかけてきたのは小柄な少年だった。赤茶のくせ毛に緑色の目をした彼は、同じクラスのジャン・バローニオ。モスクワにあるベリス系の商家の息子で、ひとつ年上の兄アメデオと共にこのギムナジアで学んでいる。

「えへ、ゴメンよ。ちょっとロディの耳に入れておきたいことがあってさ」

「何だい?」

「秘密の話だよ、守れる?」

 悪戯っぽく笑って、ジャンはまるで重大な秘密を打ち明けるように声のトーンを落とした。彼はいつだってこうなのだ。なんでもかんでも秘密の重大ニュースにしてしまって、そのくせ自分は秘密を守れた例がない。

 ロディスは苦笑して座り直した。

「それで……その、噂って何?」

「うん。あのさ、この前兄貴に聞いたんだ。……大鐘楼の噂」

「大鐘楼!?」

 どうせ教師か上級生のゴシップくらいの話だろうと予想していたのだけれど――己の考えを言い当てられたような気がしてしまい、つい、思いきり驚いた顔をしてしまう。

 ジャンは、普段落ち着いているロディスのそんな反応に満足したようで、嬉しそうに机から身を乗り出した。

「しーっ! 声が大きいよ」

「ご、ごめん」

「実はさ……あの鐘楼に最近、怪しい輩が集まってるって。見た奴がいるってさ」

「怪しい? ……幽霊じゃなくて?」

 てっきり幽霊の話かと思ったので、拍子抜けして聞き返した。

「幽霊ぃ? 何だよそれ」

 ジャンはジャンで、胡散臭そうに眉をひそめる。どうやら、ジャンの話はヤコフに聞いた話とは少し内容が違うようだ。まぁ、こういった怪談の類は、往々にしてそんなものなのかもしれない。

 だけど――この場合、もしかすると、ちょっとしたチャンスかもしれないぞ。

「なんだいロディ、ニヤニヤしちゃって」

 面白いことを思いついてしまった。

 何しろジャンは、ロディスが知る限り「決して」秘密を守れないのだ。

「あのさ、ジャン、その話なんだけど。実はね……」

 わざと辺りを伺ってから、深刻めいた顔をして、小さい声で低く囁く。そのただならぬ様子に、ジャンは目を輝かせて顔を寄せた。


 そして、ロディスのそのささやかな計略は、さっそく翌朝には功を奏することになる。


「あ、ユーリ、おはよー」

 翌朝。教室へ向かう途中のユリウスを、のんびりと間延びした声が呼び止めた。

「やあ、おはようアメデオ。君が遅刻しないなんて、珍しいなあ」

「えへへ……今日は早起きだったから」

 人のよさそうな緑の目が、微かに眠そうにユリウスを見ていた。寝癖のついた赤毛が、朝の光を受けながらふわふわと揺れる。

 ユリウスとは同級生の彼はジャンの兄、アメデオ・バローニオ。

 仲良しの弟とは対照的に、のっぽでのんびり屋の彼は、マイペースが過ぎて遅刻の常習犯であったが、ロディスの上をいく読書家で、その上なかなかに博識の少年だ。

「それより、ジャンから聞いたよ。やっぱりユーリは凄いね」

「え?」

 素直な口ぶりで、アメデオは言った。

 彼はそれで伝わると思っているようだったが、ユリウスには何の話だかさっぱりわからない。

「僕なんか、話は知ってても怖くてとても行く気にはなれなかったよ。ほんと、すごいよ」

「あ……の、ええと、アメデオ。それって何の話だい?」

 要領を得ない様子の友人に、アメデオは笑う。


「何って、いやだなあ。決まってるじゃないか、例の大鐘楼のことだよ。君、噂を確かめに行ったんだって?」

「……っ!?」

 尊敬のまなざしで自分を見るアメデオを、ユリウスは信じられないといった表情で見上げた。

 何が起こったのか理解できなかったが、数秒考えて即座に理解する。

 アメデオの弟といえばあのお喋りなジャンだ。

 ジャンが誰と同じクラスだったかを考えれば、この糸がどこに繋がっているのかは自明だった。

「ロディ……」

「どうかした?」

「えっ? いや、あー……あはははは。全く、君たち兄弟は耳がはやいなあ」

 咄嗟に作り笑いで取り繕う。アメデオは鈍いからこれでも別に大丈夫なのだが、問題はそこじゃない。この流れ、親友が糸を引いているに違いない。

 嫌な予感がする。

「夜の大鐘楼だなんて、怖くなかったのかい?」

「えっ……」

「ユーリ?」

 ジャンに話が伝わっているなら、きっとアメデオだけでは済まないだろう。

 どこまで話が広がっているかわからないが、まずは七年の校舎に行って確かめなければならない。

(ロディの奴、一体何を考えて……)

 憤りを感じつつ、けれど、こんな風に話をふられると、息をするように悪い癖が出てしまう。

「ふ、ふふふふふ……そりゃあ、怖くないといえば嘘になるさ」

「やっぱり! そうだよねぇー」

「そうさ。でも、こういうことは確かめておいたほうが良いかなと思ってさ」

「なるほど。でも、そう思ってもなかなか実行するのは難しいことだよね」

「はは、ちょっと暗いというだけで、どうということも無かったよ」

「鍵とかかかってなかった?」

「ああ。それが、壊れていたようでね。助かったんだけど呆れたよ。管理をちゃんとやっていない証拠だから」

「へぇー……」

 友人の前だとつい調子を合わせて、その上格好をつけてしまう。けれど、それをすっかりロディスに見透かされているということに、その時のユリウスは気付いていなかった。

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