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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第十三章 関ヶ原へ至る道
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1599-10 日向

<1599年 10月>


 大分郡の復興と相次ぐ二階堂一族の慶事の事務処理に追われる臼杵城へ、上方より徳川内府の正使が下向してきた。

 遣わされてきたのは、寺沢広高である。


 寺沢広高は尾張国生まれの生え抜きの豊臣家臣であり、今年で三十七歳と大名の中ではまだ若い部類に入る。

 秀吉の九州征伐の後に肥前国唐津六万石を拝領し、従五位下・志摩守に叙任。

 先の唐入りにおいては肥前名護屋城の普請奉行の一翼を担い、前線基地となった名護屋周辺での兵力輸送や兵糧の補給、船舶の運航統制といった複雑極まる兵站実務を滞りなく完遂した功により、八万石へと加増された能吏であった。

 長崎代官を務めるなど異国との折衝や外交能力にも極めて長けており、秀吉の没後は、その実務能力を高く買われて徳川家康にも重用されていると耳にする。


 寺沢広高の臼杵入りに先んじて届いた吉次からの手紙によると、上方における徳川家康の権勢はいよいよ天下人のそれへと昇華しつつあった。

 江戸で去る慶長四年六月十一日に生まれたばかりの徳川秀忠の次女・珠姫を、前田利長の養嗣子にして世子である五歳の前田利常に嫁がせるという破格の縁組を徳川側から持ちかけ、家康に対して強い警戒心を抱いていた利長の頑なな緊張を鮮やかに解きほぐすことに成功している。

 そして警戒を解いた利長は、徳川家康の『利家公の没後、国元の統治に滞りが生じているのを正すためにも一度加賀へ戻られてはどうか』という巧みな甘言に容易く乗せられ、加賀への帰国を承諾してしまったのである。

 前田利長は『向こう三年は秀頼君のそばを決して離れるな』という亡き父・前田利家の遺言を、あっさり自ら破ってしまったわけだ。


(……やられたな)


 手紙を読んだ瞬間、俺は奥歯を噛み締めるしかなかった。

 前田利長が軽々しく帰国して上方での発言権を失うのを食い止めるため、前田利益を加賀の芳春院おまつの近くに派遣し、利長を押し留めるよう裏から手を回していたのだ。

 だが、それでも防ぎきることはできなかった。


 史実において珠姫が利常と婚約するのは、後の加賀征伐の危機に際し、母の芳春院が人質として江戸へ下ったことに対する返礼としてのはずだった。

 それをまさか、この序盤の段階から初手で切ってくるとは夢にも思い寄らなかった。

 生後二ヶ月にも満たない赤子を躊躇なく政局の盤上に叩きつけ、人倫の枠すら飛び越えて縁組の手を打ってくる徳川家康の老獪さと執念には、完全に虚を突かれた形だ。

 完敗である。


 こうして大老・前田家を上方から体よく追い払った直後、八月十四日には毛利秀元、前田玄以、山岡道阿弥らを従えて後陽成天皇のもとへ参内。

 紫宸殿にて、あたかも天下人の如き威儀で「三献の儀」を執り行い、太刀や折紙、銀百枚、中折紙百把を進上して朝廷を完全に懐柔してみせた。

 さらに秀吉の一周忌にあたる八月十八日には、毛利輝元や宇喜多秀家ら名だたる諸大名を引き連れて豊国神社へと大々的に参詣し、太閤の霊を悼む大老首座としての存在感を天下に誇示している。


 もはや名実ともに政権の主座に君臨した徳川家康が、九州の諸大名に向けて発した二通の直書。

 それをもたらした寺沢広高を、俺は臼杵二階堂家の次代を担う行栄を伴い、臼杵城の大広間にて出迎えた。






 上座に立った寺沢広高は、澱みのない怜悧な声で徳川家康の書状を読み上げていく。


 一つ目は、九州諸大名に対する海賊の厳重な取り締まりの指示であった。

 これについては、我が臼杵藩としては苦笑せざるを得ない内容だ。

 我が領内では、佐賀関の上浦湊と下浦湊を臼杵水軍の根拠地とし、若林統昌の差配のもとで水軍衆の訓練代わりに徹底的な海賊狩りを日常茶飯事として行わせていた。

 そのおかげで、豊後の沿岸一帯には賊船の類が一切寄り付けないほど治安が保たれている。

 海賊どもが我が領海を恐れて逃げ出し、他の海域へと流れて暴れ回っているのだとすれば、それは他国の領主の怠慢というべきで、こちらとしては知ったことではない。


 そして二つ目の命こそが、本題であった。

 やはりと言うべきか、九州の諸大名たちに向けた、日向庄内への出陣の下知である。


 この動員令に合わせ、伏見に留め置かれていた小西行長と立花宗茂も急ぎ国元へと帰国させられていた。

 書状に記された下知の対象は、豊後からはこの俺、二階堂盛義。

 筑後からは立花宗茂、高橋直次の兄弟。

 肥後からは小西行長と相良頼房。

 日向からは伊東祐兵、秋月種長、高橋元種ら。

 南九州を中心とした諸大名が軒並み名を連ねていたが――奇妙なことに、肥後半国を領するあの加藤清正の名だけが、綺麗に抜け落ちていた。


 厳かな儀礼を終え、使者の寺沢広高を饗応の席へと送り届けた後、大広間に残った行栄が怪訝そうに眉を寄せて問いかけてくる。


「父上。此度の日向への出陣、南九州の諸将がほぼ網羅されておりまするのに、なぜ加藤肥後守殿のお名前だけがないのでしょう。武勇にかけては並ぶ者のないお方であるはずですが……」


 若き行栄の純粋な疑問に、俺は手にした書状を床に置き、静かに首を振って応じた。


「情勢の裏を読め、行栄。日向の乱は、今や単純な力攻めで片付く盤面ではなくなっておるのだ」


 庄内の乱の緒戦は、確かに島津中務大輔豊久の凄まじい個人的武勇によって、山田城や恒吉城が力づくで落とされ、島津軍の優勢で進むかに見えた。

 だが、豊久自らが率いる佐土原勢は精強無比であっても、急ごしらえの総大将を頭に戴いた本家側の他部隊の戦意は極めて低い。あからさまなサボタージュが横行し、軍の足並みは乱れきっていた。

 その隙を伊集院側も見逃さない。

 伊集院家の客将である歴戦の老将・白石永仙、当年六十歳。

 この紀州根来の一向門徒の生き残りと噂される老練な武将が島津本軍の隙を突き、奪われた山田城へ痛烈な逆襲を仕掛けて島津軍に手痛い損害を与えることに成功したのだ。

 これによって豊久は力攻めを断念せざるを得なくなり、現在は志和池城を取り囲んで兵糧攻めに切り替えているものの、伊集院方の士気は高く、容易には落ちない持久戦へと泥沼化していた。


「……そしてな、行栄。まことしやかに囁かれている噂がある。隣国肥後の加藤清正が、密かに伊集院方へ兵糧を融通し、この乱を長引かせようと糸を引いているとな」


「なっ……! 清正殿が、伊集院に……!?」


 行栄が驚愕に目を見張る。

 加藤清正にとって、南に隣接する薩摩の島津家は将来にわたる最大の仮想敵だ。

 その島津家が内紛で疲弊し、国力をすり潰してくれるのであれば、これほど都合の良い話はない。

 清正が裏で手を回し、伊集院に兵糧を送り込んで抵抗を長引かせようと画策しても何ら不思議ではなかった。


「徳川内府はその企みをとっくに察知しておられるのだ。だからこそ清正を動員から外し、逆に清正を取り囲む南九州の諸将すべてに動員をかけた。これは日向への出陣であると同時に、加藤清正に対する無言の包囲と強烈な牽制よ」


 加藤清正には、先月、家康の養女となったばかりのかな姫が輿入れしたばかりである。

 婚姻によって縁を結んだ自派閥の愛弟子であろうとも、政権の法度に反く不穏な動きを見せれば容赦なく干し、厳しく締め上げる。

 その冷徹な姿勢を天下に知らしめることで、徳川家康は己の絶対的な威厳を示してみせたのだ。


「清正に厳罰じみた態度を取って見せることで、文治派寄りで内府を警戒していた小西行長殿らも、恐れ入って大人しく下知に従わざるを得なくなっておる。清正一人を揺さぶることで、九州全体の諸大名を一網打尽に統制下に組み敷いたわけだ」


「……徳川内府殿、そこまで深く情勢を読んでおられるとは」


 行栄は小さく息を呑み、戦慄を隠せない様子で立ち尽くした。

 武力で敵城をこじ開ける島津豊久の苛烈さや、裏で策謀を弄する加藤清正の狡猾さすらも、巨大な天下の盤面の上で手玉に取る徳川家康の老獪さ。


「さて、関ヶ原の前哨戦たる日向の火種、いよいよ我が家も無関係ではいられなくなったな」


 俺は立ち上がり、軍令を待つ我が軍の将たちを呼ぶべく、行栄に向けて力強く告げた。

 天下の怪物が放った一手に応え、二階堂の武名を日向の荒野に刻み付ける時が迫っていた。






<1599年 11月>


 豊後を発ち、南へと続く険しい峠道を越えて、我が二階堂軍は日向の地へと踏み入った。


 率いる兵は精兵千五百。

 新領地となった大分郡七万石は、先の福原長堯による苛政の爪痕がいまだ深く、田畑の復旧や民心の安定に追われており、とても兵を抽出できる状況ではない。

 出陣要請に対する義務を果たしつつ、領国の防衛と復興に支障を出さぬよう、秋の刈り入れが終わるのを待って、臼杵の直属部隊を中心に必要最低限の員数に絞り込んでの出陣であった。


 道中、まずは日向延岡五万石の高橋元種、ついで日向高鍋三万石の秋月種長らの軍勢と合流する。

 秋月種長が三十三歳、高橋元種は二十九歳とまだ若い大名となるが、この二人は実の兄弟である。


 秋月家は平安の昔より筑前に根を張る九州屈指の名族だ。

 先の九州征伐前には三十万石を誇る大名として北九州に君臨していた。

 しかし、父の秋月種実は島津方として豊臣秀吉に最後まで抗戦した末に敗れてしまう。

 名宝・楢柴肩衝を献じて滅亡こそ免れたものの、先祖伝来の筑前を追われて日向高鍋三万石へと減転封されてしまった経緯を持つ。

 弟の元種もまた、かつて養子に入っていた筑後高橋家の名跡のまま日向延岡五万石に封じられ、兄弟揃って日向北部に押し込められる形となっている。


 かつて筑州一帯に隠然たる影響力を誇った秋月家も、今やその地盤を奪われ、中央の意向に抗う力など残されていなかった。

 徳川家康の動員令にも従わざるを得ず、秋月兄弟は兵を供出してきた。

 我が二階堂家の手勢と合わせ、庄内への派遣軍は総勢三千にまで膨れ上がったのである。


 陣列を整えて薩摩街道高岡筋を南下していくと、佐土原領の境界へと到着する。

 日向佐土原は、いまや島津家の世子となった島津中務大輔豊久の本領である。

 いくら徳川家康の命による庄内討伐軍とはいえ、島津の世子の領内を無断で通過するわけにはいかない。

 領内通行の許可を得るべく、佐土原城に向けて正式に使者を送り、島津方の返答を待つことにした。


 だが、待てども待てども、佐土原城からの使者は一向に戻ってこなかった。


(……豊久殿め、都城攻めで城を空けているとはいえ、留守居は何をしている。単なる連絡の不手際か、それとも外様軍の立ち入りを警戒してのことか)


 刻々と秋の日が傾き、やむなく街道沿いの平野に布陣して野営を張ることにした。

 篝火が焚かれ、冷え込む夜風が吹き抜ける陣中、寝所に宛てた幕舎で帳面を眺めていると、篝火の影が不自然に揺らめいた。

 音もなく、風が払われたかのように一人の人影が膝をつく。

 風魔八卦衆の一人、陽門の御影(みかげ)であった。


 御影は石川五右衛門とともに大坂城の台所へと潜入し、城内で美味い餃子を振る舞って料理人としての足場を固める傍ら、豊臣の中枢で密かに情報を収集する任務に就いていたはずだ。

 その御影が、遠く九州の陣中まで直接駆けつけてきたのである。尋常の事態ではない。


「……御影か。大坂で何事かあったな」


「はっ。五右衛門様よりの文にございます」


 懐から差し出された密書を受け取り、蝋燭の火に透かして手早く目を通す。

 そこに記されていたのは、上方で巻き起こった凄まじい政変の顛末であった。


 伏見の徳川家康は、重陽の節句の祝いを名目として大坂城へ上坂した。

 しかし、豊臣秀頼との面会の直前になって、唐突に「大坂城内にて内府暗殺の企みあり」として登城を取りやめたという。

 その暗殺計画を家康に密告したのが、なんと先に伏見城を追い出されていた五奉行の長束正家、増田長盛、前田玄以の三名であった。


 翌日、徳川家康は警備の兵を幾重にも厳重に固めた上で登城し、豊臣秀頼に拝謁。

 無事に儀礼を済ませて宿舎に戻るや否や、伏見城から徳川の大軍勢を大坂へと呼び寄せ、暗殺計画の詳細な調査を開始した。

 そして徳川家康は、暗殺計画の首謀者を大老・宇喜多秀家と奉行・浅野長政、実行役を大野治長と土方雄久であると一方的に断定し、発表したのだ。


 事態は電光石火の勢いで進んだ。

 名指しされた浅野長政が、抗弁するどころか即座に己の罪を認めて徳川家康に赦しを乞うたため、梯子を外された残る三名はまともな弁明すら許されない窮地に追い込まれたという。

 特に宇喜多秀家への追及は苛烈を極めた。

 秀家が、亡き太閤殿下の御遺言である「西国大名は伏見に詰めるべし」という掟を守らず、勝手に大坂城内に留まり続けていることも徳川方から激しく非難され、いまや進退極まる苦境に立たされている——と、文には生々しく綴られていた。


 なお、文の末尾には、大坂城の台所や茶々姫の閨の近くで日々情報収集に奔走していた石川五右衛門の、太く力強い筆跡でこう断言されていた。


『大坂城内において家康暗殺の手はずが整えられていた気配など、微塵も無し』


 俺はふうと息を吐き、読み終えた文を畳んだ。


(やはりな……。何から何まで、徳川家康が仕組んだ狂言に違いあるまい)


 秀吉の死後、政権の枠組みを合法的に解体し、己の覇権を確立するための筋書きだ。


 史実においては、年明け早々の慶長五年正月に重臣対立から「宇喜多騒動」が勃発し、家中が真っ二つに割れて秀家の権力と宇喜多家の軍事力は大きく失墜するはずであった。

 しかしこの世界線では、その騒動の首謀者の宇喜多詮家が不可解な急死を遂げており、宇喜多家の家臣団に亀裂が入る気配はなくなっている。

 だが、軍事的な打撃を受けず無傷で残るはずだった宇喜多家であっても、このタイミングで家康に対抗するのは無謀と言えた。


 秀家にとって最大の頼み綱であり、妻・豪姫の兄でもある大老・前田利長は、先の珠姫の婚姻によってすっかり徳川家康への警戒を解き、すでに加賀へと帰国済みなのである。

 秀頼が動けば別であろうが、今回徳川家康は大野治長と土方雄久を暗殺計画の実行犯に仕立て上げており、片桐且元をはじめとする秀頼の側近衆も迂闊に動けない状況に追い込まれている。

 宇喜多秀家は大坂において孤立無援になっていた。


(前田を取り込み終えたと見るや、宇喜多が内紛で自滅するのを待たず、間髪を容れず暗殺の首謀者に仕立て上げて叩き潰しにかかったか……)


 前田という後ろ盾を失った秀家が、徳川の圧倒的な軍事力と政治的圧力に一人で抗い切れるはずもない。

 早晩、大坂からの退去を余儀なくされ、五大老としての実権を剥奪されるのは目に見えていた。


 史実の内府暗殺計画の首謀者を、前田利長からそのまま宇喜多秀家へとスライドさせ、豊臣一門宗とも呼べる大老を追い詰める鮮やかな手際。

 これほどの絵図面を描ける男は、徳川家中にも一人しかいない。

 好々爺のような柔和な笑みの裏に、剃刀のような怜悧な眼光を宿した男——徳川家の知恵袋、本多正信の冷え切った顔が、篝火の揺れる闇の向こうにくっきりと浮かび上がってくるようであった。






 自分が今も上方に踏み止まっていれば、何らかの手は打てただろう。

 だが、現実に俺がいるのは、遠く九州の地・佐土原の境界である。

 こうなってしまった以上は、もはや致し方ない。


(まず間違いなく、徳川家康は宇喜多秀家を大坂から追い落とす。その上で、茶々姫に大きな顔をされたくない北政所を味方につけ、彼女が京都へ退去した後の大坂城西ノ丸へと堂々と移り住むはずだ……)


 武力で城を占拠すれば合戦になってしまうが、天下の政務を執る場所、そして自らの生活の拠点として西ノ丸に入り込まれれば、豊臣家といえども容易には追い出せない。

 実質的に大坂城の主座を徳川に握られることになる。

 俺は膝をついている御影を見据え、静かに命じた。


「御影、大坂へ取って返せ。そして石川五右衛門には『茶々姫が不安に駆られぬよう、そなたは己の務めに注力せよ』と伝えよ」


「御意にございます」


 御影は音もなく頭を下げると、夜気の中へ溶け込むように陣中から姿を消した。


 翌朝。

 幕舎の中で行栄と差し向かいになり、朝餉の湯漬けを啜っているところへ、慌ただしい足音とともに注進が入った。


「申し上げます! 佐土原城より、島津方の使者が参着いたしました!」


 ようやく返答があったか。

 俺は茶碗を置き、軍議の幕舎へと向かった。

 同道していた秋月種長、高橋元種の兄弟もすでに着座しており、揃って島津の使者を迎え入れる。


 だが――幕を掲げて入ってきたその男の姿を見て、一同は息を呑んだ。


 埃まみれの陣羽織を纏い、血走った眼光を放ちながら大股で入ってきたのは、名代の使者などでは断じてなかった。

 島津家世子、島津中務大輔豊久――その人であった。


「……豊久殿!? 自ら来られたのか!」


 現在、豊久は佐土原の遥か南西、庄内の志和池城を取り囲んで兵糧攻めの指揮を執っているはずだ。

 志和池城から佐土原まではおよそ十五里――六十キロ弱もの険しい山道と街道が続く。

 それを昨夜のうちに、馬を乗り継いでただ一騎で駆け抜けてきたのだ。

 常軌を逸した膂力と行動力である。


 豊久は荒い息を整える間もなく、床に片膝をつくどころか、一同の目の前で勢いよく両手を床につき、額を擦りつけるようにして平伏した。

 そして、独特の濁音と巻き舌が入り混じる、極めて訛りのきつい薩摩弁を叩きつけてきた。


「二階堂殿、秋月殿、高橋殿! 遠路はっばっ、徳川内府様ん御下命にてご出陣くだされたこと、心底かたじけなかち思うちょる! じゃっどん……頼みがあっと! こん戦さ、他家ん助勢は要りもはん! 島津ん問題は、島津の手ぇで決着ばつけさせてくりゃい!」


 総大将たる世子の突然の土下座に、秋月兄弟は目を白黒させた。

 豊久は床に額を擦りつけたまま、必死の形相で言葉を重ねる。


「島津の世子がこげんして頭を下げっぎ、どうか、どうか聞き届けてほしかと!」


 おそらく、家臣の反乱を鎮圧するのに他家の援軍を仰ぐことを「島津の恥辱」として潔しとしない、薩摩の本領に君臨する伯父・島津義久の強固な意向もあるのだろう。

 だが、それ以上に豊久自身が、肌感覚で前線の危うさを嗅ぎ取っているのだ。


 ただでさえ急ごしらえの総大将であり、家中からの求心力に乏しく、他部隊のサボタージュに悩まされている。

 ここで他国の兵を領内に招き入れて伊集院を討伐させたりすれば、「豊久には内乱一つ収める力すらない」と薩摩隼人たちの間で決定的な不満と軽蔑が噴出し、軍団そのものが空中分解しかねない。

 戦さ人である島津豊久は、味方の将兵が抱く意地や僻み、その心の機微を明敏に感じ取っているからこそ、この一見屈辱極まる土下座に出たのだ。


(戦に勝つための方便なら、世子の沽券だろうが土下座だろうが、いくらでも泥を被る腹づもりか……)


 その猛々しい双眸の奥には、今は耐え忍び、必ず己の手で伊集院を叩き潰して家中を屈服させてみせるという、凄まじい反骨の炎が燃え盛っていた。


 だが、頭を下げられたからといって、そのまま引き下がるわけにはいかない。

 秋月種長が眉根を寄せ、毅然とした口調で反発の声を上げた。


「……豊久殿のお立場と島津家の誇りは理解いたす。されど我らとて、徳川内府様の出陣下知を受けてここまで軍を進めて参ったのだ。何一つ手柄も立てず、ただ引き返したとあっては、上方への面目が丸潰れとなり申すぞ」


 弟の高橋元種も腕を組み、険しい顔で頷いている。

 内府の命令を無碍にして手ぶらで帰れば、今度は秋月や高橋、そして我が二階堂家が徳川から責任を追及されかねない。


 板挟みとなった陣幕の中に、重苦しい沈黙が落ちた。

 張り詰めた空気を破るように、俺の傍らに控えていた行栄が、表情を引き締めつつ身を乗り出してきた。


「父上、如何しましょう?」


 豊久の誇りと秋月兄弟の面目、その双方を推し量りつつ、決断を委ねてくる息子の真摯な眼差し。

 睨み合いになりかけたその空気を割るように、俺は静かに口を開いた。


「豊久殿。……ならば、こういたそう。折衷の策がある」


 床から顔を上げた豊久と、行栄、そして秋月兄弟の視線が俺に集中した。


「日向飫肥の伊東家は、伊集院の領する庄内と南で直に境を接しておる。かの家は、肥後の加藤清正殿と同じく、背後から伊集院方へ密かに物資や兵糧の援助を行っておる気配が濃厚だ」


 元より島津への怨恨が骨の髄まで染み付いている伊東祐兵が、島津を疲弊させる絶好の好機を見逃すはずがない。

 史実においても、伊東家が裏で伊集院忠真に支援の手を差し伸べていた形跡は濃厚であった。


「我ら三家の軍勢は、その伊東家の不穏な動きを牽制し、補給路を遮断するために庄内の外縁へと布陣する。伊集院の城への直接の攻め手には一切加わらん。それならば島津の武名を傷つけることもなく、我らも徳川内府殿に対して『伊集院の退路と支援を封鎖した』と胸を張って報告が立てられる。……その代わり、伊東家への公の抗議は、島津家の名において毅然と行ってもらいたい。これならば如何か」


 俺の提案を聞いた瞬間、豊久の顔に驚きと、次いで深い安堵の色が広がった。

 城攻めの手柄を横取りされることもなく、他国兵が前線に割り込んで家中の反発を招くことも防げる。

 その上、背後の伊東に対する蓋までしてくれるのだ。これ以上の渡りに船はない。


「……ありがたや! まことに、まことにかたじけなか!」


 豊久は勢いよく立ち上がると、再び頭を下げ、きつい薩摩訛りで熱い謝意をまくしたてた。


「二階堂殿のおはからい、生涯忘れもはん! 伊東へのねじ込みは、我が島津本家よりただちに厳重に申し入れもす! ……かくなる上は、志和池の敵を必ずや我が手で揉み潰してみせ申す!」


 言うが早いか、豊久は風のように陣幕を飛び出し、愛馬に飛び乗ると、再び志和池城の包囲陣へ向けて電光石火の勢いで駆け去っていった。

 立ち込める土煙を見送りながら、俺は苦笑交じりに息を吐いた。

 ひとまず最悪の同士討ちや家中崩壊を回避させつつ、二階堂軍としての体面も保てた形だ。

 俺は行栄と秋月兄弟に向き直り、静かに進軍の采配を振り下ろした。






<1599年 12月>


 佐土原の境界において島津豊久と交わした不戦の密約から、早くも一月ひとつきの月日が流れる。


 南国・日向とはいえ、霧島山麓を背負う庄内の盆地は内陸特有の底冷えが厳しい。

 奥州の豪雪とはまた異なる乾いた寒風が吹き抜ける中、我が臼杵二階堂軍千五百は、秋月・高橋の兵とともにいまだ庄内の外縁に陣を据え続ける。


 島津豊久の戦いぶりは、まさに凄絶の一語に尽きる。

 

 豊久は豊臣政権(徳川家康)の許可を得て、公の軍令の下で庄内の乱の鎮圧に動いている。

 だが、伊集院方の抵抗は頑強を極め、戦況は徳川家康の予想を遥かに超えて泥沼の様相を呈しつつあった。

 豊臣家と帝に対して「天下静謐」を約している徳川家康にとって、自らが差配した島津の内乱がいつまでも収まらぬ事態は、国政を預かる大老首座としての沽券に関わる失着に他ならない。

 そのため家康は、早期に乱を終息させんと幾度も庄内に和睦調停の使者を送り込んでいた。


 しかし豊久は、送られてくる調停の使者を都度頑として追い返している、

 島津の世子として、あくまで島津の手による武力解決に異様なまでの執念を燃やす。


 その鬼気迫る気迫は、戦況を確実に動かしつつある。

 先日は、都城に籠もる伊集院忠真が包囲網を破って試みた、志和池城への決死の兵糧運び込み作戦を、豊久自ら率いる佐土原勢が迎撃。

 鮮やかな伏兵によってこれをことごとく叩き潰し、輸送部隊を壊滅に追い込むのに成功した。


 肥後の加藤清正、そして日向飫肥の伊東祐兵による物資援助の道も我が軍の牽制によって遮断され、外からの命綱を断たれた志和池城が飢えによって落ちる日は、もはや目前に迫っている。


 だが、この九州の辺境で泥臭い力比べが続く間に、天下の中心たる上方では、抗い難い歴史の奔流があらゆる者を呑み込んで激しく突き進んでいた。


 史実と打つ手の順番こそ違えど、結末は寸分違わず同じであった。


 徳川家康が、ついに大坂城の西ノ丸へと入城を果たす。

 仕組まれた暗殺計画の首謀者と名指しされた大老・宇喜多秀家は、「暗殺の企みなど断じてないと言うならば、潔白の証として太閤殿下の御遺言通り伏見へ行け」と徳川方に詰め寄られ、泣く泣く大坂を退去、伏見へと引き揚げるしかなかった。


 これも元を正せば、亡き太閤秀吉が宇喜多秀家と徳川家康の双方に相反する遺言を残したことが発端だ。

 病床の太閤は、死の直前に秀家の耳元で自ら「秀頼の側に近侍せよ」と直々に囁き、その一方で、秀頼が成人するまで国政を預かる家康に対しては「西国の大名は伏見に、東国の大名は大坂に詰めさせよ」と正式な掟として命じていた。

 結果として西国大名の宇喜多秀家の居場所は、完全に矛盾することになる。


 だが、徳川家康にしてみれば、太閤が臨終の間際に宇喜多秀家の耳元で何を囁いたかなど知ったこっちゃない。

 表向きの正式な遺命を大義名分として掲げる家康に対し、秀家が密かな口頭の約束をぶつけたところで、結局は純然たる政治力と発言力の勝負になる。

 宇喜多家の五十七万石に対し、徳川家は二百五十五万石。

 小が大に呑み込まれるのは、乱世の冷徹な理に違いない。


 北政所が京都新城へと退去した後の西ノ丸に乗り込んだ徳川家康。

 今頃は、己の権威を天下に知らしめるべく、豊臣秀頼の御座所である本丸の天守に対抗するように、西ノ丸天守の普請を諸大名に命じている頃であろう。


(臼杵へ下る前、大坂の真田屋敷で自ら語った“天下の命運を分ける最大の分水嶺”……)


 陣中の幕舎で独り腕を組み、俺は自嘲の笑みを漏らす。

 あの時、真田信幸と信繁を前にして、家康に秀頼という「玉」を握らせてはならぬと熱弁を振るった。

 そのために、前田利長の加賀帰郷を押し留めるべく利益を送り込み、宇喜多秀家の力を減じさせないように様々な布石を打った。


 だが、現実にはあっさりと、徳川家康が幼き主君を懐に抱き込む方向へと、政局の盤面は転がってゆく。

 本物の天下人である徳川家康の執念と老獪な手腕の前には、己のチート知識も全く歯が立たなかった。

 完敗を認めざるを得ない。


 大老・前田利長は加賀に引っ込み、宇喜多秀家は失脚、毛利輝元は保身と家の都合で家康に擦り寄っている。

 政権を支えるはずの五奉行も、石田三成は凶弾の傷で伏見にて長期の療養を強いられ、暗殺への関与を認めて平伏した浅野長政は領国の甲斐へと逃げるように退去して隠居・蟄居。

 残る増田長盛、長束正家、前田玄以の三人は、もはや家康の剛腕に振り回されるばかりで独自の差配など望むべくもない。


 もはや、徳川家康の天下取りへの野望を表立って正面から阻み得る巨頭は、奥羽と越後を束ねる独眼竜・伊達政宗ただ一人という形勢だ。


 その伊達政宗はといえば——。

 下野宇都宮の盛隆から届いた奥羽鎮守府の近況を知らせる文によれば、政宗は牡鹿郡月浦において建造を命じていた大型ガレオン船の記念すべき第一号を無事に竣工させている。

 大船の完成に政宗は大いに歓喜し、家臣の支倉常長を船奉行に任じて太平洋への試験航海を開始させていた。

 かつて豊臣秀吉のバテレン追放令によって改易された後、仙台へと居を移していた熱烈なキリシタン・高山右近も、念願のローマ渡航という大願を果たすべく、南蛮の知識と人脈を総動員して政宗の大船建造計画に熱心に協力しているという。


(片や、日ノ本の中枢で血で血を洗うような権謀術数を積み重ね、着実に天下人としての実力を養い続ける徳川家康。片や、玩具を手に入れた子供のように満面の笑みを浮かべ、奥州の海で船遊びに興じる伊達政宗か……)


 かつて政宗は、伏見で繰り広げられる中央の政争を指して「小さな瓶の中での権力争いに過ぎぬ」と冷笑してみせた。

 だが、果たして人物としての器が本当に大きいのはいずれなのか。


 夜の冷気が陣幕の隙間から忍び込み、背筋にすうっと冷たいものが走る。


 そして——京伏見に残る吉次からの最新の密書には、もう一つの極めて重い報せが記されていた。


 森忠政配下の暴発による凶弾に倒れ、伏見で生死の境を彷徨い続けていた石田三成。

 その三成が、半年におよぶ治療の末にようやく自力で動けるまでに傷を癒やし、徳川家康が大坂城西ノ丸へと入ったのと時を同じくして、療養を名目に伏見の屋敷を引き払って己の居城である近江佐和山城へと身を移したという。


 大坂城中枢に君臨した徳川家康と、蟄居同然の身となって近江へ引き籠もった石田三成。

 両雄の距離が物理的に離れたその瞬間こそ、豊臣政権の屋台骨に入った亀裂が決定的となり、武力衝突を避けられぬ段階へと移った合図であった。


(……だが、この先どう転がるのかは、もはや史実の知識すらあてにならぬな)


 天下が単純に東西真っ二つに割れるのかどうかすら、今の盤面からはまるで見通せない。

 大坂、関東、奥羽、それぞれの思惑が複雑怪奇に絡み合い、誰と誰が結託し、誰が誰の背を撃つのか、すべては濃い霧の向こう側にあった。

 五里霧中の大乱へと、日ノ本全体が足を踏み入れようとしている。


 火鉢の炭が爆ぜ、小さく火の粉を散らす。


 慶長四年も間もなく暮れようとしている。

 予測不能の混沌を孕んだ動乱の刻が、足音を忍ばせて着実に近づいていた。






〜 第十三章完 〜






<年表>

1599年 二階堂盛義 55歳


01月

▽島津義弘(64歳)と島津忠恒(23歳)が博多に到着。唐入り撤収完了。

◇宇都宮で石川五右衛門の妻の吉乃(28歳)が出産。五右衛門次女の阿泪が誕生。

★伏見で真田信幸の正室の稲(26歳)が第四子懐妊。

★伏見で真田信繁の側室の桐(27歳)が第二子懐妊。

◎二階堂盛義、唐入り出征軍の諸将と石田三成(39歳)らに同道して京に帰還。

◆伏見の豊臣秀頼(6歳)、唐入り出征軍の諸将の帰国挨拶を受ける。徳川家康(56歳)が大老首座として豊臣秀吉の死を公表。


02月

★前田利家(60歳)、豊臣秀吉の遺命に従い豊臣秀頼(6歳)を大坂城に移す。

◆伏見の徳川家康の七男の松平松千代(6歳)が病死。

◆伏見の徳川家康(56歳)、弔問に訪れた伊達政宗(32歳)と会談。愛姫(31歳)と五郎八姫(5歳)の帰国を許可。

◎二階堂盛義、愛姫(31歳)に呼び出されて伊達屋敷を訪問。帰国の挨拶を受ける。

★伏見の伊達政宗(32歳)、愛姫(31歳)と五郎八姫(5歳)を連れて帰仙。代わりに伊達盛重(46歳)を人質に出す。


03月

★五大老五奉行、連名で島津家に5万石を加増。島津義弘(64歳)が参議、島津忠恒(23歳)が左近衛少将、島津豊久(29歳)が中務大輔を叙任。

★伏見の島津忠恒(23歳)、島津義久(66歳)より時雨軍旗を受領。島津宗家の家督を正式に継承。

▲浅間山で異変。

▼仙北の戸沢盛安(33歳)の正室のれんみつ(29歳)が第二子を懐妊。

◎伏見の二階堂盛義、石川五右衛門(34歳)を京に呼び寄せる。八卦衆参上。

◎伏見の二階堂盛義、大坂に赴いて茶々(30歳)に面会。石川五右衛門(34歳)を大坂城の台所頭に推挙。

◎伏見の二階堂盛義、三条西実条(24歳)への古今伝授を早めるよう、茶々(30歳)に要請。


04月

◎0404 伏見の二階堂盛義、前田利益(48歳)と共に大坂の病床の前田利家(60歳)を見舞う。

★0404 伏見の島津忠恒(23歳)、茶会の席で手ずから伊集院忠棟(58歳)を誅殺しようとするも失敗。相打ちして毒死。

★0405 伏見の島津義弘(64歳)、実窓夫人の説得に失敗。五男忠清(17歳)の世子継承ならず。島津家混乱。

★0406 伏見の徳川家康(56歳)、大坂の病床の前田利家(60歳)を見舞う。

▽0409 大隅の島津義久(66歳)、庄内との通行を遮断。都城で伊集院忠真(23歳)が籠城。庄内の乱勃発。

★0411 伏見の石田三成(39歳)、森忠政(29歳)配下の井戸宇右衛門の手の物に狙撃され重傷。世情不穏となる。

◆0424 江戸の徳川秀忠(20歳)、大軍を率いて上洛。諸国の兵が京周辺に参集される。

★0425 備中の水野勝成(35歳)、徳川家康(56歳)の陣に加わる。山岡景友(59歳)の仲介で父の水野忠重(58歳)と和解。

★0427 大坂で前田利家(60歳)が死去。遺体が長持に納められて金沢に送られる。


05月

★京の森忠政(29歳)、勝手をした井戸宇右衛門を誅殺。徳川家康(56歳)に詫びを入れる。高野山に蟄居処分。

★京の徳川家康(56歳)、三奉行の増田長盛(54歳)と前田玄以(60歳)と長束正家(37歳)を追い出して伏見城に入る。

★伏見の徳川家康(56歳)、島津豊久(29歳)の中継ぎを容認。伊集院忠真(23歳)の朱印状継承を認めず。

★伏見の徳川家康(56歳)、蔚山の戦いを再評定を決行。福原長堯(48歳)を減封。太田一吉(33歳)の大野代官職を解任。両名を蟄居処分。

◎伏見の二階堂盛義、大野7万石を加増。大分7万石の代官職を拝命。国許に戻って大分の民心回復への専念を命ぜられる。

◎二階堂盛義、臼杵に向けて出立。大坂城に立ち寄り豊臣秀頼(6歳)に挨拶。宇喜多秀家(27歳)に鷹を献上。

★大坂で真田信繁の正室の小屋(20歳)が懐妊。

▼二戸の九戸政信(26歳)の正室のれんみつ(24歳)が第二子を懐妊。

☆金沢の宝円寺で前田利家の葬儀が営まれる。前田利家の正室まつ(52歳)が落飾。芳春院と号する。


06月

★大坂の豊臣秀頼(6歳)、豊臣秀吉の遺体を東山阿弥陀ヶ峰に埋葬。朝廷から豊国大明神の神号を賜る。

★特赦により大友義統(41歳)の幽閉が解かれる。大坂城下に屋敷を構え、豊臣家に再び仕える。

■仙台で伊達政宗の正室の愛姫(31歳)が懐妊。

◎佐野の佐野行久(23歳)の正室珠姫(23歳)が第二子を出産。桔梗と名付けられる。

◎二階堂盛義と二階堂行栄(17歳)、臼杵に帰国。二階堂行栄(17歳)、高麗人参の世話中のジュリアおたあ(15歳)に一目惚れ。

▷大坂の宇喜多秀家(27歳)、長船綱直(41歳)に命じて宇喜多詮家(37歳)を毒殺。


07月

▽薩摩の島津豊久(29歳)、薩摩に戻って妻と離縁。亀寿(28歳)と縁組して日向に出陣。

▶︎︎土佐で長宗我部元親(60歳)が死去。

▽柳川で立花宗茂の側室の八千子(31歳)が懐妊。

★伏見の徳川家康(56歳)、婚姻外交を進める。水野勝成の妹かな(18歳)を養女とし、加藤清正(37歳)に嫁がす。

★伏見の徳川家康(56歳)、婚姻外交を進める。松平康元の娘満天(10歳)を養女とし、福島正之(14歳)に嫁がす。

★伏見の徳川家康(56歳)、婚姻外交を進める。小笠原秀政の娘・家康外孫の万姫(8歳)を、蜂須賀至鎮(14歳)に嫁がす。

★伏見の徳川家康(56歳)、長門周防の毛利秀元(20歳)の独立を承認。小早川隆景の遺領を毛利輝元(46歳)に返還。


08月

◆江戸で徳川秀忠の正室の江(26歳)が出産。秀忠次女の珠が誕生。

▽薩摩の島津豊久(29歳)、日向山田城を攻略。続いて恒吉城を攻略。

★伏見で真田信幸の正室の稲(26歳)が出産。信幸三男誕生。

★伏見で真田信繁の側室の桐(27歳)が出産。信繁三女の梅が誕生。


09月

▽日向の伊集院家の客将の白石永仙(60歳)、山田城を攻めて島津軍に打撃を与える。

▽薩摩の島津豊久(29歳)、志和池城を兵糧攻め。

★伏見の徳川家康(56歳)、前田利長(37歳)に金沢帰国を勧める。前田利常(5歳)と珠姫(0歳)の婚姻を打診。


10月

★伏見の徳川家康(56歳)、毛利秀元や前田玄以を引き連れて参内。三献の儀を行う。

★伏見の徳川家康(56歳)、諸大名を引き連れて豊国神社を参拝。豊臣秀吉の一周忌を悼む。

★伏見の徳川家康(56歳)、九州の諸大名に海賊の取り締まりを指示。

★伏見の徳川家康(56歳)、寺沢広高を派遣して九州の諸大名に庄内出陣を下知。小西行長と立花宗茂が帰国。

▽薩摩の島津豊久(29歳)、庄内に物資援助する加藤清正(37歳)と伊東祐兵(40歳)に抗議。

■仙台の伊達政宗(32歳)、月浦で伊達家自前のガレオン船一号竣工。支倉常長(28歳)、試験航海開始。

▼仙北の戸沢盛安(33歳)の正室のれんみつ(29歳)が第二子を出産。眞子と命名。

★伏見の徳川家康(56歳)、加藤清正(37歳)の上洛を禁ず。

★伏見の徳川家康(56歳)、大坂入り。増田長盛(54歳)と前田玄以(60歳)と長束正家(37歳)が家康暗殺計画を密告。

★大坂の徳川家康(56歳)、警護を固めて重陽の節句のお祝いで豊臣秀頼(6歳)に面会。

★大坂の徳川家康(57歳)、伏見城より兵を呼び寄せ、暗殺計画の徹底究明に及ぶ。

★大坂の徳川家康(57歳)、暗殺計画の首謀者を宇喜多秀家、浅野長政、実行犯役を大野治長、土方雄久と断定。

★大坂の徳川家康(57歳)、浅野長政(53歳)を詰問。浅野長政、弁明できず奉行職を辞任。甲斐に蟄居。


11月

◎臼杵の二階堂盛義、徳川家康の要請に応えて日向に出陣。傍観に徹する旨を島津豊久(29歳)に約す。

★大坂の北政所(50歳)、京都新城へ移る。

★大坂の徳川家康(56歳)、宇喜多秀家(27歳)を伏見に追い払う。

★大坂の徳川家康(56歳)、大坂城西ノ丸に入る。

★大坂の徳川家康(56歳)、寺沢広高(33歳)を庄内に派遣。島津豊久(29歳)、広高を追い返す。

◆浜松の堀尾吉晴(56歳)が隠居。堀尾忠氏(22歳)に家督を譲る。


12月

◎南会津で大久保資近(47歳)の嫡男清丸(15歳)が元服。大久保資清を名乗る。

▽日向の伊集院忠真(23歳)、志和池城への兵糧運び込みに失敗。

★伏見で真田信繁の正室の小屋(20歳)が出産。信繁四女の阿栗が誕生。

▼二戸の九戸政信(26歳)の正室のれんみつ(24歳)が出産。信子と命名。

★大坂の徳川家康(56歳)、大坂城西ノ丸に天守閣の造成を指示。

★伏見の石田三成(39歳)、佐和山で療養に入る。


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▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽以北

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州

□海外


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― 新着の感想 ―
島津の内乱が終わるのが早いか、奥州に言いがかりをつけるのが微妙ですね。九州をまとめあげても、関ヶ原に間に合わないかも。続きを楽しみにしてます。
まるで三国志の如き情勢になってしまった
うぅむ。 これじゃぁ、独眼竜じゃなくて独眼蛇だ…
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