1591-3 慟哭
<1591年 9月下旬>
長年の腹心、守谷俊重を奥州より呼び寄せる。
守谷俊重は俺と同年代だ。
彼の嫡男の守谷重国は既に立派に成人している。
国元での仕事は既にその重国が引き継いでおり、暇をしていた。
守谷俊重にはこの京都にて長宗我部家との渉外役を担ってもらおう。
相手は長宗我部信親の謀臣久武親直。
二階堂家中でも特に謀略の経験とずる賢さに秀でた、守谷俊重の腕が必要であった。
国元で阿蛍の第四子出産を見届けた前田利益に同道する形で、守谷俊重も上洛。
旅の垢を落とさせた後、さっそく二階堂家の京屋敷の一室であれこれ指示を出す。
「出来るだけ値切れ。そして長宗我部家の内情も知りたい。取引に託けて草を四国に送り込め」
「わっかりましたー。吉次殿の商会を使ってもよろしいですかー?」
「構わない。そうだな。吉次との繋ぎにはこの者を使え。名古屋山三はいるか」
「はっ。これに」
隣室に控えていた小姓を守谷俊重に紹介する。
名古屋山三郎。
若干15歳の若武者である。
先日、毛利家の外交僧の安国寺恵瓊に招待されて建仁寺の茶会に赴いた際、見かけてスカウトしたネームドキャラである。
史実では蒲生氏郷の稚小姓として大崎葛西一揆や九戸の乱に参戦。
ド派手な格好で立て続けに一番槍を飾り、その美貌と相まって「名古野山三は一の槍」と世間で広く謳い囃される。
歌舞音曲にも長けていたようで、歌舞伎や浄瑠璃の演目に成ってしまう程の武将である。
この世界線では蒲生氏郷が既に亡く、更に大崎葛西一揆や九戸の乱も発生していないため、まだ浪人のままであった。
「はえー、まるで女性のような美しさではないですかー」
「恐縮です」
あまりの美男子ぶりに驚嘆する守谷俊重に対し、如才なくニコリと笑って応える名古屋山三。
「間違っても手を出すなよ。俊重」
「えっ、・・・ははは。まっさかー。そんなことしませんて」
守谷俊重に釘を刺していたら、何処からともなく前田利益が現れる。
「大殿、ちょっとよろしいですかな?」
何やら急ぎ俺の耳に入れたい情報があるようだ。
「一昨日に鶴松君が病に倒れられ、容態が思わしくないとか」
何?
もうそんな時期か。
「関白殿下は此度も全国の寺社に祈祷を命じられ、東福寺で病気平癒を祈るそうな」
「そうか。では、俺も行かねばなるまい」
さて。
唐突だが、ここで髷切りレースの開催だ。
前田利益を引き連れて東福寺に向かう。
既に東福寺には在京の諸大名が駆けつけていた。
その門前に前田利益に匹敵する巨漢の影が二つあり。
前田利益が声を上げる。
「おや、叔父御殿」
「慶次郎か」
前田利家とかち合ってしまった。
嫡男の前田利長も同道している。
若い頃は織田信長直属の赤母衣衆として戦場を駆け回り、槍の又左と呼ばれて恐れられていた前田利家。
五十代となってもその巨体には気力が漲っており、周囲を圧するものがある。
後ろに控える前田利長も、若干細身ではあるが父親譲りのガタイの良さだ。
確か彼はこの年三十歳であったか。
俺もこの時代で言えば背はある方(175cm)だが、前田利益も含めて190cmオーバーの三人に囲まれると流石に圧迫感が凄い。
気まずい空気感なら尚更である。
先年の小田原征伐の折、前田利家率いる豊臣北陸軍は輝宗殿を暗殺し、直後に復讐に燃える政宗率いる奥羽鎮守府軍に大敗している。
我が息子の盛隆率いる二階堂勢ともその時に矛を交えていたはず。
豊臣秀吉の裁定で手打ちとはなっているが、互いに因縁の相手とも言える。
それに俺に付き従っている前田利益は、前田利家の求めに応じず、養父前田利久の家督相続を放棄して加賀を離れた経緯もある。
更には、史実では前田利長と前田利益の二人が不仲だったと云われていたが、それもどうやら本当だったらしい。
めっちゃ睨んでくる前田利長と、おちょくるようにニヤける前田利益。
バチバチだ。
気づかぬフリをし、前田利家に対して会釈。
「前田様と直接お会いするのは、これが初めててとなりますな。二階堂盛義でござる」
小田原の役の折は、前田勢は上州にいて直接顔を合わす機会は無かった。
上洛して豊臣秀吉の御伽衆となってからは、遠目に眺める程度である。
「前田利家である。慶次郎が世話になっていると聞くが。今は急ぐゆえ挨拶は後回しにいたそう」
前田利益を睨み付けている前田利長を促し、先に東福寺に入って行く前田利家。
盟友たる豊臣秀吉の後継者が亡くなろうとしているのに、その足取りに焦っている様子は微塵もない。
前田利家は、織田信長の茶坊主をその面前で斬り捨てて、後先考えずに出奔するほどの激情家である。
しかし、浪人時の苦労により、算盤に長けている意外な一面も持っている男である。
その計算高さは、秀吉が天下人に成り上がった賤ヶ岳の戦いの折にも証明されている。
柴田勝家の陣営に属していた彼は、絶妙なタイミングで戦線離脱を行って味方の陣形を崩壊させ、秀吉に恩を売ることに成功した。
しかも、敗走中の柴田勝家を討たずに城に招き入れ、茶漬けまで振る舞って己の律儀者の名声を維持する徹底ぶりだ。
鶴松の死を如何に自分の家の利とするか、今も冷静に計っているに違いない。
もしかすると、あわよくば豊臣の天下の乗っ取るところまでも企んでいるやも知れぬ。
しかし・・・。
「利益、そなた利長殿にえらく嫌われているようだが、何かしたのか?」
「昔からあんな感じですよ。俺がおまつ殿に可愛がられているのが、特に気に食わなかったようで」
おまつは前田利家の正室だ。
前田利長はおまつが15歳の時に産んだ、二人目の子供と伝わる。
おまつは11歳で前田家に嫁いでからの二十年間で、利家との間に二男六女(諸説あり)をもうけている。
六男五女を産んだ我が祖母の笑窪御前には劣るが、実子の数で言えばそれでも特筆すべき人数であった。
前田利家ほどの男がそれほど入れ込むとなれば、おまつの女子力と包容力は相当高かったものと推察される。
そうか。
前田利長はマザコンだったか。
豊臣秀吉が祈る中、他の大名たちと共に控える。
途中、徳川家康も駆けつけ、我らの列の先頭に加わった。
やがて昼過ぎに石田三成が現れ、豊臣秀吉の耳元で何かを告げる。
「うぅー、うーっ」
突如身も世もなく号泣しだす豊臣秀吉。
庭に転がり出ていく。
「鶴松よー。なぜじゃぁー」
天に向かって慟哭した豊臣秀吉は、脇差を抜き放って己の髻を切り落とした。
やれやれ。
やはりこうなったか。
さっと脇差を抜き、己の髻を切り落としてみせる。
徳川家康よりも先に髷を落とす。
俺は東福寺にいる間、そのことだけに集中していた。
そして、この髷切りレースに俺は見事勝利した!
周囲の大名たちがギョッとした目を向けてくる中、徳川家康の視線を感じる。
そちらに目を向けて会釈。
徐に髷を切り落とす徳川家康。
家臣の列のトップに座す徳川家康のその対応に、慌てて他の大名たちが追随し始める。
その様子を石田三成が冷めた視線で眺めているのが印象的だ。
天正十九年八月五日。
豊臣鶴松が亡くなる。
享年2歳。
御仏の像の前に、諸大名の髻が積み重なった。
「葬儀は三日後。妙心寺で執り行いまする」
髷を落とした石田三成から、葬儀の日取りと場所が発表される。
それはまるで、鶴松がまだ生きている間に手配を終えていたかのような、手際の良さであった。
妙心寺での葬儀の席。
在京の諸大名が列する中、御伽衆として参じる。
幼児の死を悼みはするが、所詮は他家の不幸だ。
悲しみよりも、焼香に現れた豊臣家歴々の女房衆の姿の方に興味が引かれて仕方ない。
何れも彼も歴史に名高い佳人ばかりなのだから当然だろう。
またと無い機会のため、遠目からよく観察しておく。
まずはあれが北政所と淀の方か。
北政所こと寧々殿は四十代半ば。
悲しむ夫を気遣いつつ方々にも気を配り、落ち着いた振る舞いで葬儀を取り仕切っていた。
豊臣秀吉の正室として、これくらいの逆境はこれまで幾度も乗り越えてきているのだろう。
凛とした態度で芯の強さが感じられる。
豊臣秀吉子飼いの加藤清正や福島正則らが、彼女を強く慕うのも分かる。
鶴松の生母の淀の方こと茶々殿は二十を超えたばかり。
茶々と言えば、様々な作品で登場する人気キャラだ。
大概が愛息の秀頼大事に愚かな選択を重ね続ける、気が強くて情勢判断も出来ない馬鹿な女と描かれがちだ。
しかし戦国一の美女・市姫譲りの整った顔を曇らせ、さめざめと涙を溢している茶々の姿は、全然そんな風には見えなかった。
まだ小娘ということもあるのかもしれないが、ただただ高貴で可憐である。
そして豊臣秀吉の妹の朝日姫と母親の大政所である。
朝日姫は史実では小田原の役の開始前に亡くなっているが、この世界ではまだ存命で、夫の副田吉成と共に葬儀に参列している。
小牧長久手の戦いが半年伸び、副田吉成との離縁&徳川家康への再嫁が無くなった影響と思われる。
大政所は高齢のため確か来年には亡くなるはずだが、まだしっかりとした様子だ。
人質として岡崎に下向するイベントや、朝日姫関連のストレスが発生していないため、ちょっと寿命が伸びている可能性がある。
豊臣秀吉とは家族ぐるみの付き合いの前田家からは、前田利家の正室であるおまつ殿が焼香に現れている。
前田利家に嫁いですぐの約12歳で長女の幸姫を産んでいるだけあり、背がスラリと高く大柄である。
優しげな表情で、母性味溢れた美人であり、まるで某ドラマの女優さんのようだ。
息子の前田利長の母親好きが止まらなくなるのも分からんでもない。
なお、彼女の実の娘で、豊臣秀吉の養女となって宇喜多秀家に嫁いだ豪姫は、現在妊娠中とのことで葬儀には不参加らしい。
次いで豊臣秀吉の側室たちだ。
数多の美女達が身に纏う、喪服の白装束が目に眩しい。
圧倒的な美貌を誇る松の丸殿こと京極竜子、気品溢れる織田信長の娘の三の丸殿、愛嬌に満ちた加賀殿こと前田摩阿。
他にも豊臣秀吉の側室は数多くいるが、その三人が突出して格式が高い扱いになっている。
なお、史実ではあの中に加わっていたであろう甲斐姫は、息子盛行の妻となって今は仙台だ。
第二子を懐妊したとの嬉しい知らせもあった。
豊臣家の今後の苦難を思うに、甲斐姫だけでもその運命が変わってくれて、本当に良かったとしみじみ思う。
四年前に盛行と甲斐姫の縁談話を持ってきてくれた板部岡江雪斎には、マジで感謝である。
そう言えば、その板部岡江雪斎。
北条家滅亡後、岡野融成と名を改めて豊臣秀吉の御伽衆に加わっていた。
今や同僚というわけだ。
久しぶりに顔を合わせたら、めちゃくちゃ睨まれて口を利いてくれなかった。
報いはとっくに受けているんだがなあ。
<1591年 10月上旬>
鶴松の葬儀後に有馬温泉の湯治に赴いていた豊臣秀吉が、帰洛後すぐに在京の諸大名に対して聚楽第登城の号令を発した。
近江蒲生一万石の領主として、俺も急ぎ参上せねばならなかった。
ついに来てしまったか。
大広間に通され、小姓に案内された端の席に座る。
豊臣秀次、豊臣秀勝、豊臣秀俊、豊臣秀保の一門衆。
浅野長政、石田三成、大谷吉継、前田玄以、増田長盛、長束正家らの奉行衆。
毛利輝元、前田利家、長宗我部信親、宇喜多秀家、佐竹義宣らの大諸侯たち。
そして俺を含む有象無象の大名小名連中。
大広間にズラリと列んで、豊臣秀吉の登場を待つ。
なお、大諸侯のうち、徳川家康と島津義久は国元にいて不在だ。
鎮守府将軍の伊達政宗と、我が二階堂家当主の盛隆を含む鎮守府幕下の大名たちも同様である。
豊臣秀吉が大広間に現れると、開口一番唐入りを宣言する。
「来春に明へ攻め込む。皆のもの、戦さの支度をせよ!大戦さじゃ!!」
その言葉を聞いても、集められた大名たちの表情に困惑の色は無い。
来るべきものが遂に来たか、という感じだ。
豊臣秀吉は今年の一月、諸大名に外つ国への出征に備えての造船を命じている。
東海道と北陸道以西の沿岸部に接する所領を持つ大名たちには、十万石に付き大船二艘の拠出が割り当てられていた。
更に四十八万人分もの兵糧が大坂に集積されつつあり、外征が現実味を帯びつつある情勢下であった。
「ようやく船の数が揃ったわ。既に朝鮮国は日ノ本に帰服しておるゆえ、これで海を渡る算段が着いた。何か物申したい者はおるか?」
どちらかと言うと、顔に苦渋と諦念を浮かべている大名の方が多い。
もちろん朝鮮国の帰属なんて豊臣秀吉の勘違いに過ぎず、朝鮮通信使の書を偽造した小西行長は真っ青で汗ダラダラだ。
そんな中でも空気を読めない、あえて読まない者たちはいる。
若干二十歳の宇喜多秀家が気炎を上げる。
「快なり!関白殿下の御威光に、明の奴腹もきっと容易く平伏しましょうっ!是非この秀家に采配を採る栄誉をお預けくだされっ」
そこに長宗我部信親も続く。
「良き考えです。本邦の武威を異域に輝かせれば、元寇のような戦さは二度と起こりますまい」
勢いのある若手二人が場の流れを作る。
豊臣秀吉がその流れに乗る。
「秀家も信親もよう言うた!他の者たちは如何に思う?」
同年代の宇喜多秀家に負けるわけにはいかない佐竹義宣が、その問いに応!と答えてしまったことで大勢が決した。
宇喜多秀家は、かつて山陽地方で謀将として名を馳せた宇喜多直家の嫡男だ。
秀家の母親のお福は夫亡き後に一時秀吉の側室に収まっており、秀吉にとって見れば秀家は連れ子同然であった。
更に溺愛していた養女の豪姫を秀家に嫁がせており、大諸侯ながら豊臣一門と言っても差し支えない立場にある。
あらかじめ仕込んであった、と見るのが妥当だろう。
長宗我部信親はどうだか分からないが。
一門衆や奉行衆は最初から豊臣秀吉の言いなりだ。
残る大諸侯も、前田利家は婿の宇喜多秀家の面子を潰すわけにはいかず、賛同に回った。
すると単独で抵抗出来るわけもなく、毛利輝元も渋々ながらも頷かざるを得なくなる。
一門衆・奉行衆・大諸侯の全員が出兵を是としたとなると、他の大名小名連中が異を唱えられるはずもなかった。
豊臣秀吉が厳かに宣言する。
「よし!文句のある者は誰もおらぬようだな。では、先陣の大将は宇喜多秀家に任せる。長宗我部信親は第二陣の大将よ。各々がた、若いこやつらを助けてやってくれ」
「「「・・・ははーっ」」」
恐らくこの場にいる多くの人間が、徳川家康殿が今ここに居てくれれば、と考えているだろう。
徳川家康ならば豊臣秀吉の無謀な出兵案を上手く諌めてくれたはず。
実際にそれが出来るかどうかは兎も角、各人の胸に宿るその買い被り気味な思いは、やがて徳川家康の声望に繋がっていく。
それは、豊臣秀吉亡き後の徳川家康の天下取りの覇業を大きく後押しするだろう。
反対しそうな徳川家康が不在なタイミングで諸将を集め、唐入りの大勢を決めた豊臣秀吉の策は、上手くハマったようでいて実は完全に墓穴を掘っていた。
そもそも豊臣秀吉は何を思って文禄・慶長の役を企図したのか。
転生前の世界では長く様々な学者たちが議論を重ねていたが、唐入り宣言の場に居合わせて、その理由が良く見えてきた。
愛息の死の鬱憤を晴らすため?
もちろんそれもあるだろう。
最早これしか現世に残す望みは無しとばかりに、豊臣秀吉の表情は鬼気迫るものがある。
征服欲に駆られた?
豊臣秀吉にすれば攻めたいから攻める、攻めれるので攻めるだけである。
アレキサンダー大王の東方遠征や、チンギスハンの世界征服となんら変わりない。
単に領土を拡張したかった?
御恩と奉公が武士の基本とすれば、分け与える原資となる土地があればある程、政権側の基盤は強くなる。
少しでも肥沃な土地を欲するは、この時代の為政者の本能に過ぎない。
国内統一の延長?
朝鮮の人口や石高は、豊臣秀吉が前年に降した関東奥羽の数値とほぼ一緒だ。
近畿に座す豊臣秀吉からして見れば、どちらも違う文化圏に見えており、距離的にも差はほとんどない。
唐入りを中央集権化に利用した?
豊臣秀吉は出兵に賛同しない大名、やる気の無い大名を潰す気満々だ。
まさしく豊臣政権に叛旗を翻しそうな連中を炙り出すための踏み絵と言える。
太平の世を維持するためのガス抜き?
約百年に渡って戦国時代が続いたことで、武士の数は巷に溢れ、皆が戦さ場を求めている。
対外戦争を仕掛けて武士たちの活躍の場を国外に移せば、国内は自ずと静かになって豊臣政権としては万々歳だ。
海外との貿易を独占したかった?
明を征服できれば、貿易など面倒なことをせずとも明の名産品は全て豊臣政権のモノだ。
明との貿易には旨味が有るが、奪えるものなら手っ取り早く奪ってしまえ、と考えるのは自然だろう。
ポルトガルやスペインへの当てつけ?
宣教師から両国の東アジア戦略を聞き出した豊臣秀吉がちょこざいなと感じているのは、これまでのキリシタンへの対応を聞けば想像がつく。
自分が先に朝鮮と明を抑えてしまうことで、両国は迂闊に日ノ本に手を出せなくなると考えていよう。
旧主である織田信長の野望を受け継いだ?
織田信長が天下布武後に海外に打って出る構想を持っていたのは、ルイス・フロイスの手記にも記されている。
かつての主君の夢を我がモノにし、自分が織田政権の正統な後継者とアピールしたいのも凄く分かる話であった。
要するに、どれか一つが理由では無いのだ。
これらの複合的な要素を全て満たすために、豊臣秀吉の唐入りは発動した。
だからこそ、簡単に止められるようなものではない。
ましてや、たった一人この場で反対しようものなら、即時に首が飛ぶ状況である。
こうなれば、如何に己と二階堂家の被害を少なくするか、そこに注力する他に道はなかろう。
来春に決まった唐入りに向けて、次々と奉行衆に対して指示を発していく豊臣秀吉。
「肥前の名護屋に城を築く。縄張りは黒田官兵衛、そなたに任せる。総奉行は浅野長政じゃ」
「唐入りの陣立ては大谷吉継に任せる。思うように編成してみよ」
「人や糧米の確保は大事だな。武家の奉公人や百姓が勝手に逃亡せぬよう法令を定めるとしよう。石田三成、頼むぞ」
「長束正家、大坂に集まっている兵糧を肥前に移せ」
「明の次は呂宋よ。増田長盛、今のうちに服属するよう使者を送れ」
他の諸大名たちと同じく、黙って平伏してそのやり取りを見守る。
最後に豊臣秀吉の口から大きな爆弾発言が飛び出てくる。
「秀次を我が養子とし、関白職を譲る。儂は太閤となって唐入りに専念することとした。前田玄以、関白世襲が円滑に進むよう朝廷工作を進めよ」
諸侯のどよめきが起こる中、豊臣秀次と前田玄以が謹んで拝命。
二代関白豊臣秀次の誕生が確定的になる。
ここまでは史実どおりだったのだが。
次の瞬間に予想だにしない事態が発生する。
「新たに秀次を支える者達を任じねばなるまい。木村重茲、熊谷直之、一柳可遊、服部一忠、徳永寿昌」
俺と同じ列に座っている奴らの名前が、端から順番に豊臣秀吉に呼ばれていく。
「そして二階堂盛義。そなたらを秀次の付家老に任ずる。宜しく頼むぞ」
「「「「「ははっー!!」」」」」「はぁーっ!?」
他の五人には実は内示があったらしい。
息の合った拝命っぷりである。
急な事態に動転した俺は、隣の五人に釣られて頭を下げてしまう。
平伏してから気付く。
あっ、まずいぞ。
史実の粟野秀用のポジションに収まってしまった。
<年表>
1591年 二階堂盛義 47歳
01月
☆会津の伊達成実(23歳)、越後の各城の受け取りを完了。
▼岩城で岩城常隆(24歳)が亡くなり、岩城家継子問題が勃発。
◎二階堂盛義、真田信繁(21歳)と共に大和の豊臣秀長(51歳)を訪ね、伊達雄勝丸(11歳)庇護の礼を述べる。
◆江戸の徳川家康(47歳)、 孫の熊姫(14歳)を本多忠勝嫡男の本多忠政(16歳)に嫁す。
02月
★京の豊臣秀吉(54歳)、洛中の都市整備を開始。御土居築造着手。大坂の本願寺に京都南部への移転命令。
★京の豊臣秀吉(54歳)、唐入りの準備を本格化。沿岸部の諸大名に遠征用の大船の建造を命じ、大坂に糧米と秣の集積を開始。
★大和で豊臣秀長(51歳)死去。甥の豊臣秀保(12歳)が大和豊臣家の家督を継承。
★京の豊臣秀吉(54歳)、鶴松(2歳)の危篤を受けて全国の寺社に病気平癒の祈祷を命じる。
◎二階堂盛義、石川五右衛門(26歳)を士分で雇用。吉乃(20歳)と婚姻。奥州石川郡の出自と偽る。
□李氏朝鮮で西人派の鄭澈が失脚。東人派の柳成龍が朝廷を牛耳る。
03月
★天正遣欧少年使節、聚楽第で豊臣秀吉(54歳)に謁見。ルイス・フロイス(59歳)が同行。
★京の豊臣秀吉(54歳)、北条氏直(29歳)を赦免。大坂に屋敷を与える。
■仙台の伊達政宗(24歳)が上洛。岩城家継子問題を巡って清洲城で佐竹義宣(21歳)と対決。
◎二階堂盛義、豊臣秀吉(54歳)の鷹狩りに同行して清洲に出張。岩城家継子問題について助言。
☆清洲滞在中の豊臣秀吉(54歳)、常州依上保の放棄を条件に二階堂盛行(21歳)の岩城家継承を裁定。
◎磐城の岩城盛行(21歳)、豊臣秀吉(54歳)の推挙により従五位下・侍従叙任。
★京の千利休(69歳)、大徳寺の山門騒動が起こる中、上洛した徳川家康(48歳)と茶会。
04月
☆京に戻った豊臣秀吉(54歳)、伊達政宗(24歳)に南蛮貿易の朱印状を発行。
□朝鮮通信使の黄允吉が帰国。東人派の柳成龍、日本来襲の兆しを黙殺。
■仙台で伊達政宗(24歳)の側室の猫御前(20歳)が懐妊が発覚。
◎二階堂盛義、千利休(69歳)に茶会に招かれる。
★京の豊臣秀吉(54歳)、千利休(69歳)に堺での蟄居を命じる。
★京で千利休(69歳)が切腹。
05月
■上洛中の伊達政宗(24歳)、権中納言叙任。豊臣秀吉(54歳)に随行して初の昇殿。北海道絵地図を献上。
☆後陽成天皇(20歳)、北海道成立の勅を発する。伊達政宗(24歳)に樺太、千島列島の探索の勅許を与える。
■上洛中の伊達政宗(24歳)、豊臣秀吉(54歳)から京屋敷を拝領。仙台に向けて出立。
★近江の豊臣秀次(23歳)、故伊達輝宗の一周忌法要参加のため、伊達雄勝丸(11歳)を連れて再び仙台へ下向。
◎二階堂盛義、豊臣秀次(23歳)に随行して奥州に一時帰郷。
06月
★京の豊臣秀吉(54歳)、方広寺で大仏殿の立柱式を執り行う。
■仙台の伊達政宗(24歳)、故伊達輝宗の一周忌法要を盛大に執り行う。
■仙台で伊達政宗の末弟の伊達雄勝丸(11歳)が元服。豊臣秀次(23歳)が烏帽子親を務め、伊達秀雄を名乗る。
◎仙台で二階堂麒麟丸(12歳)元服。伊達政宗(24歳)が烏帽子親を務め、二階堂盛宗を名乗る。正五位上・中務大輔を叙任。
▼北上の和賀義忠(50歳)が隠居。和賀忠親(15歳)が江刺和賀稗貫の三郡の主人となる。
■仙台の伊達政宗(24歳)、一門の梁川宗直(14歳)を重臣白石宗実の一人娘こころ(16歳)の婿とする。
■白石の片倉景綱(34歳)、伊達政宗(24歳)の推挙により従五位下・備中守叙任。
■越後の伊達成実(23歳)、伊達政宗(24歳)の推挙により従五位下・弾正少弼叙任。
■庄内の留守政景(42歳)、伊達政宗(24歳)の推挙により従五位下・上野介叙任。
■伊具の石川昭光(41歳)、伊達政宗(24歳)の推挙により従五位下・佐衛門太夫叙任。
■亘理の亘理重宗(39歳)、伊達政宗(24歳)の推挙により従五位下・兵庫頭叙任。
■下越の新発田治時(19歳)、伊達政宗(24歳)の推挙により従五位下・因幡守叙任。
■北上の和賀忠親(15歳)、伊達政宗(24歳)の推挙により従五位下・主馬首叙任。
▼角館の戸沢盛安(25歳)、伊達政宗(24歳)の推挙により従五位下・下総守叙任。
▼二戸の九戸政実(55歳)、伊達政宗(24歳)の推挙により従五位下・左近将監叙任。
▼弘前の津軽為信(41歳)、伊達政宗(24歳)の推挙により従五位下・右京亮叙任。
▼行方の相馬義胤(43歳)、伊達政宗(24歳)の推挙により従五位下・大膳亮叙任。
▼斯波の斯波義光(45歳)、伊達政宗(24歳)の推挙により従五位下・民部少輔叙任。
■仙台の伊達政宗(24歳)、大幅な領地替えを敢行。伊達成実(23歳)を越後、白石宗実(38歳)を会津、田村宗顕(17歳)を米沢に転封。
■仙台の伊達政宗(24歳)、大幅な領地替えを敢行。戸沢家に平鹿郡、岩城家に田村郡、新発田家に東蒲原郡、相馬家に行方郡山中郷を加増。
■仙台の伊達政宗(24歳)、大幅な領地替えを敢行。斯波義光(45歳)の出羽帰還を認めて村山郡に転封。斯波家旧領を九戸家と和賀家で分割。
■仙台の伊達政宗(24歳)、大幅な領地替えを敢行。津軽信建(17歳)と松前慶広娘の婚姻を認め、五稜郭城代に任ず。
■仙台の伊達政宗(24歳)、マニラに向けて通商を求める使者を派遣。伊達家とポルトガルの定期的な交易の開始。
07月
◎二階堂盛義、豊臣秀次(23歳)に随行して京に戻る。
■仙台の伊達政宗(24歳)、愛妾ジュリエッタ(26歳)の伝手で南蛮より測量技術を導入。樺太・千島列島の測量計画に着手。
★江戸で徳川家康(48歳)の側室の茶阿局が懐妊。
★岐阜で豊臣秀勝(22歳)の正室の江姫(19歳)が懐妊。
◎仙台で岩城盛行(21歳)の正室の甲斐姫(19歳)の懐妊。
◇京で吉乃(20歳)が石川五右衛門(26歳)の子供を出産。後の五郎市。
08月
▶︎土佐の長曾我部信親(26歳)、伊予転封差配の黒田孝高(45歳)に感謝し、娘の万姫(7歳)と黒田熊之助(9歳)の婚約をまとめる。
★京の豊臣秀吉(54歳)、大谷吉継(32歳)の姪の小屋(12歳)を真田信繁(21歳)に娶せる。
◆江戸の徳川家康(47歳)、遠山利景(51歳)の推挙で太田重正(30歳)と妹はち(13歳)を召し抱える。
◎宇都宮で前田利益(40歳)の正室の阿蛍(30歳)が次男出産。
◎二階堂盛義、隣の長宗我部信親(26歳)の邸宅を訪れて祝いの品を送る。琉球経由で明とフィリピンからサトウキビと甘藷の入手を依頼。
09月
◎二階堂盛義、安国寺恵瓊(52歳)の招待で建仁寺の茶会に出席。名古屋山三郎(15歳)を雇用。
★京の豊臣秀吉(54歳)、北条氏直(29歳)を正式に赦免。河内一万石に内示。
◎二階堂盛義、須賀川から守谷俊重(47歳)を呼び寄せ、長宗我部家との渉外担当に任じる。
★京で豊臣鶴松(2歳)が死去。豊臣秀吉(54歳)慟哭。二階堂盛義、諸大名に率先して髷を落とす。
10月
★京の豊臣秀吉(54歳)、唐入りを宣言。
★京の豊臣秀吉(54歳)、肥前名護屋城の築城を指示。
★京の豊臣秀吉(54歳)、身分統制令を発布。
★京の豊臣秀吉(54歳)、豊臣秀次(23歳)を養嗣子とする。
◎二階堂盛義、豊臣秀次(23歳)の付家老となる。
▽対馬の宗義智(23歳)、朝鮮へ渡って豊臣政権の大陸侵攻を警告。
◆常陸の太田資正(69歳)が死去。三男の資武(22歳)が家督を継ぐ。
11月
★京で立花統虎正室の誾千代(22歳)の懐妊が発覚。
★京の豊臣秀吉(54歳)、ルソンに服属を要求。
★京の豊臣秀吉(54歳)、地子銭永代免除令を発布。
■仙台で伊達政宗(24歳)の側室の猫御前(22歳)が出産。庶長子の兵五郎が誕生。
■仙台で伊達政宗(24歳)の愛妾ジュリエッタ(26歳)が病床の鏡清院(46歳)を治療。
▲浅間山噴火。
12月
★京で真田信幸の正室稲姫(18歳)が長女まんを出産。
◆高野山で北条氏直(29歳)が病死。北条氏盛(14歳)が北条宗家を継ぐ。
■仙台の伊達政宗(24歳)、函館城の天守閣を落成。
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▲天変地異
◎二階堂
◇吉次
■伊達
▼奥羽
◆関東甲信越
☆北陸中部東海
★近畿
▷山陰山陽
▶︎︎四国
▽九州
□外国勢力
須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 102万6千石
・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 石川郡 白川郡 26万2千石
・奥州 伊達郡 2万石 - 2万石 (NEW!)
・奥州 信夫郡 1万2千石 - 1万2千石 (NEW!)
・奥州 会津郡 3万石 + 2万石 (NEW!)
・奥州 田村郡 9万石 (NEW!)
・奥州 標葉郡 楢葉郡 3万石
・奥州 行方郡 2千石 - 2千石 (NEW!)
・奥州 菊多郡 4万石 (NEW!)
・奥州 磐前郡 5万石 (NEW!)
・奥州 磐城郡 3万石 (NEW!)
・野州 河内郡 芳賀郡 都賀郡 那須郡 塩谷郡 安蘇郡 足利郡 梁田郡 46万4千石
・常州 久慈郡 5万石 - 5万石 (NEW!)
・近江 蒲生郡 1万石 (NEW!)
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