1588-1 上洛
<1588年 1月>
雪の宇都宮城で本多正信を迎える。
言わずと知れた徳川家康の最側近だ。
年の頃は五十前後。
昨年の徳川家康上洛時に従五位下佐渡守を叙任している為、官位的には俺と同格となる。
「寒い中、よう参られた」
「我が主人、徳川家康は関白様より東国取次役を任されましてな。まずはそのご挨拶に罷り越しました」
「丁寧にいたみいる」
「それと、こちらは我が主人の東国取次役としての初仕事にございます。左京亮様に宛てられた文にございまれば、御一読下され」
「拝読致そう」
その書状は、豊臣秀吉の発した私闘禁止の通達を、関東と奥羽のあまねく武家へ周知するものであった。
二年前に発令された奥州停戦令よりも一段上の、関東奥羽惣無事令である。
「ふむ。我が二階堂家としては否やはない。徳川殿には承知したと伝えてもらおう」
「はっ。ありがとうございまする」
側に控える奥村永福に受け取った書状を渡す。
「永福。この書状を須賀川の盛隆に届けよ。あと本多殿はこれから奥羽に向かわれるとのことゆえ、遠藤基信に諸将を仙台に集めておくよう連絡せよ。奥羽は広い。その方が本多殿も手間が省けよう」
「ははっ」
「これは。お手間をおかけしてしまい申し訳ありませぬな。大変助かります」
お礼を述べて来る本多正信。
恩を着せといて雑談にもっていく。
「何の何の。それよりも小田原城に立ち寄って参ったとか。北条家の様子はどうであったか聞かせてくれぬか。惣無事令を承知されたのかな?」
「はい。それはもう。ご当主の氏直様からは『関東公方様の威光により、関八州は既に静謐』との一言を頂いておりまする」
本多正信は飄々と答えてくるが、神経質な氏直のこと。
その一言のニュアンスはだいぶ違っているはず。
関白がなぜ関東公方の領分に口を出してくるのか!と憤激してそう。
「ふむ、北条氏政殿の反応はどうであった?」
「いろいろ思うところがお有りになる様子でしたが・・・。されど同時にお伝えした里見氏忠殿の上総介叙任で、関白様のご配慮は十分に伝わったものと考えまする」
「その里見の一件も、余計な差し出口と捉えていないか心配だな」
親王任国である上総の国司は、上総守ではなく上総介が務める。
その上総介への北条氏政実弟の推挙は、北条家の上総安房支配の黙認を意味した。
既に臣従済みの佐竹義重の不満を抑えつけてでも、豊臣秀吉はあえて北条家へ譲ってみせたのだ。
もう豊臣秀吉の意識は、唐入りに向かっているのだろう。
関東、奥羽の制圧を省略し、北条・伊達の武力も活用することで朝鮮出兵を成功させようとしている。
臣従するなら今であった。
しかし、関東の惣無事については障害が一つ残っている。
「徳川殿は如何なされるおつもりかな?」
「はて、如何とは?」
「沼田よ。北条家と真田家の間で、未だに揉めておろう」
本能寺の変の後の天正壬午の乱で徳川家と北条家が争ったおり、両家はいくつかの約定を交わして和睦した。
その約定の中には、甲斐信濃は徳川家で上野は北条家と取り決めた、武田家遺領の配分案が含まれていた。
だが、信濃上野に領地を持つ真田昌幸の従属先が、当時は徳川家だったことから話がややこしくなる。
真田昌幸は己の自力で切り取った領土と譲らず、北条家への沼田の引き渡しを拒否し続ける。
徳川家康は真田昌幸に佐久に代替地を用意する旨を約束するも、結局その約束は果たされることなく、両者が激突する第一次上田合戦へと繋がっていく。
その後、真田昌幸は豊臣秀吉の直臣となり、沼田の一件は棚上げされてしまっている。
「噂では、関白様の仲介で徳川家と真田家は近く縁組するとか」
「これはお耳が早い」
豊臣秀吉は東国平定の為の準備の一環として、まず己の幕下に入った徳川と真田の両家の仲立ちから着手する。
徳川家康は豊臣秀吉の意向を受け入れ、徳川四天王の本多忠勝の娘の稲姫を己の養女とし、真田昌幸の嫡男信幸に嫁がせようとしていた。
同じく真田昌幸の方もまた、信幸が既に娶っていた亡き兄信綱の娘を側室扱いに格下げし、嫡男の正室として稲姫を迎え入れる準備を進めていると聞く。
「婚儀に合わせ、徳川殿が沼田の代替地を真田殿にご用意すれば如何かな?それで全て丸く収まろう」
「それは、なかなかに難しゅうございますなぁ」
「難しいか」
「はい。当家が天正壬午の折に北条家と交わした約束は、上野は北条家の手柄次第、とだけにございます。このたびの惣無事令で、それも難しくなってしまいました」
その言が正しければ、そもそも沼田はまだ真田の手の内にあるゆえに、徳川家が真田家に対して代替地を用意する義理は無し。
更に言えば、かつての代替地に関する徳川家と真田家の君臣間の約定は、一度手切れをした時点で無効になっているとの主張だ。
徳川方からしてみれば、至極真っ当な意見である。
やはり沼田の問題は、豊臣秀吉に動いてもらうしか解決方法は無さそうだ。
小田原征伐を食い止めるには、沼田方面以外からのアプローチを探るべきであろう。
<1588年 3月>
須賀川城。
「おぎゃーおぎゃー」
「よしよし、良い子だ」
嫁の甄の方が第三子を出産したとのことで、須賀川城に足を伸ばす。
産まれた孫は女の子であり、盛隆夫妻にとっては次女の誕生である。
彩子と名付けられた孫娘を抱いてあやしながら、盛隆に語りかける。
「元気な赤子ぞ。これでそなたも心置きなく上洛出来るというもの」
「はい。父上。留守中、須賀川を頼みまする」
大阪の豊臣秀吉から通達があった。
備後にいた足利幕府第十五代将軍の足利義昭が京に帰還し、朝廷に征夷大将軍職を返納した。
これで足利幕府は解散となり、関白太政大臣の豊臣秀吉を頂点とした豊臣政権の正式発足である。
更に後陽成天皇の聚楽第行幸の日程も決まったので、万難を排して参列するようにとのお達しである。
その為、輝宗殿とともに息子の盛隆も三月の後半には京に送り出す手筈となっている。
「上洛して関白に会ったら、久丸の佐野家への婿入りを認めてくれるよう談判せよ。あとあと難癖をつけられても困るのでな」
「はっ」
吉次の息子である久丸は今年で十二歳。
今秋に佐野家の珠姫の婿養子に入る予定であった。
この婚儀は亡き織田信長も認めている。
織田政権の後継者を自任する豊臣秀吉のこと。
その点を押せば、決して無碍には出来ないだろう。
「大阪の吉次に命じ、船の手配は済ませてある。もしもの時は輝宗殿を連れて大阪方面に逃げよ。船で奥州を目指すように」
「さて。関白の面目もありましょう。そのような仕儀にはならぬとは思いますが」
「何事も備えがあれば憂い無しぞ」
来月に差し迫っている盛行と甲斐姫の縁組も、その備えの一環であった。
北条家を屈服させたい豊臣秀吉としては、盛隆に北条家の姫を娶った弟がいると知れば、余程のことが無い限り手出しを控えるはず。
まずは上洛に先立ち、北条家との婚儀に注力すべし。
<1588年 4月上旬>
我が次男の二階堂盛行の所領は、伊達郡の川俣と海道筋の標葉と楢葉の二郡となる。
しかし、普段は仙台の二階堂屋敷で母の南御前と暮らしており、成田家から輿入れの甲斐姫との祝言も仙台で執り行われることとなる。
さすがは関八州に武威を張り、その総石高は二百五十万石を余裕で超える北条家だ。
小田原から半月かけて仙台まで到来した輿入れの行列は、絢爛豪華であった。
婚儀に先立ち、南御前とともに甲斐姫から挨拶を受ける。
「甲斐です。ふつつかものですが、よろしくご指導ください」
甲斐姫は十七歳。
後に東国無双の美人と謳われるだけの片鱗は、既に十二分にあった。
整った目鼻立ちで化粧映えする容貌に加え、スラリとしつつも出るところはきちんと出ている体型で、全体的に艶やかな印象を受ける。
この世界のベースとなっているフィールドタイプの乱戦型格闘ゲームでは、間違いなくプレイヤーキャラクターだったはず。
それもだいぶ人気で、ダウンロードコンテンツ満載の女キャラだ。
外見えだけ捉えれば、立ち振る舞いが華やかな盛行とは似合いの夫婦となろう。
「顔を上げられよ。そなたの義父となる盛義である」
「はい」
視線を交わす。
瞬間、バチリとサウンドエフェクトが鳴ったかと錯覚する。
頭を上げた甲斐姫の瞳には、それ程に熱い意志の炎が宿っていた。
おおう。
ちょっとびっくり。
「フフッ。力み過ぎだな。まるで初陣に臨む若侍のごとき気合いの入りようではないか」
隣に控えていた妻の南御前がその様を笑う。
だが、甲斐姫は気遅れすることなく応答してきた。
「成田家の女は皆、嫁ぎ先は戦さ場と同じと育てられますゆえ。ご無礼があれば、ご容赦くださいませ」
「ふむ。その覚悟や良し。盛行の母の南ぞ」
甲斐姫と南御前の歳の差は三十歳。
二人とも長身でスタイルが良いので、どことなく雰囲気が似ている。
しかし、一番似ているなと思ったのは目だ。
なまじ華やかな顔立ちをしてるだけに、その目ヂカラの圧が凄い。
南御前にそっくりだ。
まずは初見の挨拶を終える。
長い戦いになりそうであった。
仙台での盛行と甲斐姫の婚儀は、仲人役を務める鎮守府将軍の輝宗殿の主催で行われる。
北条家からは北条氏照、松田憲秀、板部岡江雪斎、成田長親らが参列していた。
北条氏照は亡き北条氏康の三男で、当主氏直の名代としての来仙である。
居城は武蔵の八王子城となるが、北条領の北東にあたる下野・下総・常陸方面の軍事外交を担当している。
松田憲秀は初代早雲を支えた草創七手家老の一家である相模松田氏の当主で、北条家の筆頭家老である。
史実の小田原征伐では、タカ派を宥める為にせめてものの籠城戦を主張し、陰で和睦交渉を進めて結局裏切り者扱いされてしまった悲哀の人だ。
板部岡江雪斎は北条家の使僧であり、今回の婚儀の立役者である。
先年の佐相一和に向けての調整で仙台を訪れたことがある為、北条家の使節団の案内役を担っている。
成田長親は甲斐姫の実家の成田家の家老となり、甲斐姫にとっては従叔父にあたる。
なんとも愛嬌のある人物で、仙台までの旅を物見遊山気分で大いに楽しんでいる模様である。
錚々たる面々だ。
北条家は豊臣秀吉の上洛要請を断りながらも、たかだか養女一人の輿入れに、これだけの面子をわざわざ仙台まで送り込んできた。
小田原から仙台に至るまでの距離は、小田原から大阪に向かう道のりと全く同程度。
鎮守府の底力を見定める為の首脳陣の仙台視察も兼ねているのだろうが、大阪にいる豊臣秀吉への当て付けに見えなくもない。
まずは今回の婚儀の宴の席で、その北条家の好戦的な姿勢を正すべし。
その為に陰で板部岡江雪斎と謀り、タカ派の筆頭とも言える北条氏照が氏直の名代となるよう誘導したのだ。
北条氏照をこの場で説き伏せられれば、隠れ和平派の松田憲秀もきっと靡いてくるはず。
陽気に祝酒で酔っぱらってる成田長親は放っておこう。
輝宗殿だけでなく、政宗をはじめとする伊達家の主要どころも顔を並べる大宴会である。
宴もたけなわなところで、北条家相手に問答を開始。
「北条殿は帝の聚楽第行幸へ参列されぬとか。何故断られたのか?」
「それは、あまりに急な申し出だったゆえ。物事には段取りというものがござろう」
「いや、そもそも行幸など所詮は貴人たちの催事。我ら武家には関係の無い話ではないかな」
松田憲秀が形式論で逃げようとするも、北条氏照がズバリと答えてくる。
それに応ずる。
「建て前の話をしても仕方なかろう。北条家は箱根の韮山城と足柄城を堅牢な城塞に改修し、また伊豆に新たに下田城を築城されたとも聞き及ぶ。豊臣秀吉を刺激し過ぎるのは危ういと思うが如何か」
最近の意気軒昂な北条家の態度を揶揄し、北条氏照から『豊臣秀吉恐るるに足らず』の言葉を引き出そうと試みる。
そこから戦略論に持っていき、論破を重ねて説得しようと考えていたのだけれども。
予想外にも後ろから撃たれる。
撃ってきたのは、面白くなさそうに酒を呑んでた伊達政宗であった。
「仮に秀吉が東海道を攻め下って来たなら、兵を二手に分け、まずは万余の兵で箱根に押し出して敵兵を防ぎ止める。その間にもう一方の兵で他の敵を討てば良いではないかっ」
伊達政宗の火の出るような言葉に場の空気が一変した。
ふー、やれやれ。
「ほぅ!伊達の御曹司殿もそう思われるか」
「応よ。ただ、いかに箱根山中に大きな城を構えたとて、守るのに適切な兵の数が揃わねばかえって城は脆くなる。構えて兵の出し惜しみはせぬことじゃ」
北条氏照と伊達政宗とが意気を通じ合い始める。
頭が痛いな。
「政宗!滅多なことを申すでない」
俺の代わりに輝宗殿が政宗を叱りつける。
そして、おもむろに北条家の面々に対して語り掛けた。
「北条氏政殿も氏直殿も、少し意固地になられてるのではないかな。あまり上洛を重く捉える必要はなかろう。関白にではなく、朝廷に頭を下げると思えば腹も立つまい」
「つまり、左京大夫様は関白に忠誠を誓いに行くわけではないのですな?」
その板部岡江雪斎の問いに朗らかに答える輝宗殿。
「『彼を知り己を知れば百戦殆からず』と言うではないか。従うにしても争うにしても、豊臣秀吉と言う男をこの目で見ねば先の道は決められぬさ」
孫子の有名な文言である。
北条家の面々は、輝宗殿の雄大さを見せつけられて二の句が告げられない。
「心配であれば、まずはこの輝宗が秀吉に会うて参る。帰る途中で小田原に立ち寄り、氏政殿に秀吉の為人をとくと語り伝えようぞ」
輝宗殿の大徳が全てを飲み込んでいく。
不要とは思うが、一応は俺からもダメ押しだ。
「関東公方の関八州の差配は、所詮足利幕府という枠組みの内でのみ成り立つもの。その足利幕府の消滅により、北条殿が頼りとする関東公方の権威も露と消えました。これも豊臣秀吉が成した事。時代は動いておりまする。北条の御家中で、しっかりとお家の行く末を考えられるが宜しかろうと存ずる」
だが、ここでも予想外のところから邪魔が入る。
「あいわかり申した!」
問答中、だんだんと不機嫌な顔になりながら酒杯を煽っていた成田長親が、やたらと良く響く声で唐突に割り込んできた。
衆目の耳目が一気に集まる中、成田長親は俺に向かって頭を下げてくる。
「それはそれとして。甲斐姫様のこと、末永くよろしくお願い致しまするー。うっぷ」
芝居がかった大仰な喋り方で 主筋の姫の嫁ぎ先への挨拶を言上してきた。
そして酔いが回り過ぎたのか、そのままバタンキューと潰れてしまう。
場の空気は一気に白け返り、上洛に関する問答の続きは何処かへ飛んで消えていく。
でくのぼうの成田長親。
人道第一のその姿勢、さすがである。
<1588年 4月中旬>
慌ただしい。
北条家との婚儀を終えてすぐに上洛の準備に切り替え、なんとか諸事万端整え終える。
仙台城で輝宗殿と盛隆の一行を見送る。
出立に先立ち、輝宗殿は伊達宗澄、梁川宗清、亘理元宗の三叔父に政宗の後見を依頼していた。
「叔父上方、政宗のことを頼みまするぞ」
「承知」「安心せい」「任されよ」
いずれも伊達家の元勲だ。
今回の上洛は遠藤基信も同行する。
残る伊達家中で政宗にモノを申せるのは、彼らくらいである。
「政宗。五稜郭の築城、遅滞なく進めておくように」
「わかっておりまする。ご心配なさいますな」
鎮守府はこの春に北奥羽の諸将に命令し、蝦夷地の函館に新城を築城中であった。
伊達家からは鬼庭綱元が現地に赴き、築城の指揮を振るっている。
他にも北上川の改修や、庄内大堰の延伸、会津の戸ノ口用水の開削と、並行して伊達家が抱えている公共事業は多い。
佐渡金山と院内銀山で得た金銀で広く東国から人を集めて、景気良く槌音を響かせていた。
謀略や戦さも大得意だが、晩年は仙台藩の領内整備に精魂を傾けていた伊達政宗。
仙台城下の町割りや鹽竈神社の造成などを見れば、相当に土木関連が好きだったのがわかる。
その特性はこの世界線でも引き継がれているようなので、輝宗殿が留守の間に内政と築城に熱中させておけば、まず間違いは起きまい。
「盛隆、輝宗殿を必ず守るのだぞ」
「はっ。父上、お任せあれ」
輝宗殿に同行する盛隆に声を掛ける。
既に伝えるべきことは伝え終えてあるゆえ、見送りも言葉数は少な目だ。
我が息子の盛隆はもはや史実の蘆名盛隆ではなく、二階堂盛隆という別キャラであった。
幼い頃から玉肌花貌の甄姫に心底惚れ込み、側室も寵童も一切置かず、側近の大庭三左衛門に刺殺される運命を回避している。
その若死の原因の大庭三左衛門も人知れず始末済みの為、盛隆の今後に憂いなど無い。
既に盛隆との間に三人の子を成している甄姫と共に、精一杯その生を謳歌してもらいたい。
問題はもう一方の息子の盛行だ。
盛隆が不在の間、自分は須賀川城に入って麒麟丸を後見することになる。
仙台に残って政宗を監視するのは、次男の盛行の役目であった。
甲斐姫との婚儀から一週間。
多忙を極めて気が回らなかったが、果たして盛行と甲斐姫はうまく夫婦生活を送れているのだろうか。
南御前が盛隆と言葉を交わしている間に、その盛行に声を掛ける。
「政宗殿におかしな動き有れば、すぐに須賀川へ使いをよこすのだ」
「はい。父上」
「それで、甲斐姫とは仲良くやれているのか」
「なかなか手強いですが、可愛いらしい方ですね。まるでクマのようです」
クマ???
ようわからん。
しかし盛行の朗らかな表情を見るに、恐らく大丈夫なのだろう。
仙台を出立する鎮守府将軍の一行は、まずは陸路で酒田まで赴く。
酒田からは海路となり、留守政景率いる庄内水軍に守られて船出し、京を目指す。
新潟、佐渡、能登の順に船を進め、敦賀で再び陸路に切り替える手筈となっている。
今は天正十六年の三月二十一日。
京まで都合二週間の行程だ。
それから二ヶ月程は京・大阪近辺に滞在する予定である。
帰路は陸路で東海道を下り、仙台に戻るのは六月に入ったあたりとなろう。
その間、自分は須賀川城に入り、那須疏水と宇都宮城の拡張工事の進捗を見守りつつ、上洛の結果を待つことになる。
<1588年 5月下旬>
須賀川城にて、京から届いた書状を確認する。
上洛して豊臣秀吉に拝謁した輝宗殿は、鎮守府将軍職はそのままに従三位権中納言を叙任。
古の北畠顕家に準ずる待遇となった。
古式に慣えば、三位以上の公卿が鎮守府将軍を兼任する場合、鎮守府大将軍と呼称することが許可されている。
つまり、征夷大将軍と同格だ。
そして我が息子の二階堂盛隆は正四位下参議である。
盛隆の元の官位である下野守については、天正十年に織田信長と交わした約定どおり、佐竹家に身を寄せている宇都宮国綱に譲り渡される。
しかし、宇都宮城については、既に一度譲って約定は果たされたものとして、改めての受け渡しは不要とされた。
また、三男久丸の佐野家婿入りも認められ、これで小山を除く下野全域が二階堂家の所領と確定する。
輝宗殿も盛隆もこれで公卿である。
続く四月十四日から十八日まで盛大に催された聚楽第行幸では、二人とも関白である豊臣秀吉に付き従い、後陽成天皇に拝謁している。
帝への四海掌握アピールの出しにされた感が強いが、すべからく上洛は上手く進んでいるようであった。
反対に奥州の地では一つの難題が発生していた。
先触れの早馬の知らせを受け、須賀川城の大手門に赴く。
待っているとドガガッと南部駒を見事に操って南御前が駆けてくる。
「夫殿、阿彦の容態は如何に!」
「資近から連絡は無い。容態に変わりは無かろう」
弟の大久保資近の妻である彦姫が病を得てしまい、居城の鴫山城で伏していた。
彦姫は俺の従姉妹であるが、我が妻の南御前の妹でもある。
妹が倒れたと聞いた南御前は、自ら馬に跨って仙台から須賀川まで一気に駆けて来てしまった。
伊達家への人質役を嫁の甲斐姫に押し付けての自由行動である。
ちなみに盛行が先行して寄越した早馬での知らせによれば、ゴネた甲斐姫を薙刀で叩き伏せての決着だったそうだ。
「替えの馬をこれへ!」
「少し休んでからにせよ。貴女にまで倒れられてはかなわぬ」
替え馬に急ぎ乗り換え、鴫山城への強行軍を続けようとする南御前を止める。
「貴女にとっては久方ぶりの須賀川ではないか。それに、こんな時にとは思うが孫たちの顔も見せたい」
南御前が須賀川から仙台に居を移し、もう十年以上の月日が経つ。
そして自由に動けた俺と違い、南御前はまだ麒麟丸や星子、彩子らの顔も見れていなかった。
「よい。まずはこの包仁丸を阿彦に届けてからよ。須賀川と孫の顔は、帰りにゆっくりと眺めるつもりゆえ構うな」
なんでも、南御前は以前から万病に効く妙薬を京から取り寄せており、重宝していたとのこと。
その包仁丸とやらを自ら彦姫に届けると言い張り、南御前は譲らない。
他の者に託して届けさせればよかろうと言い聞かせても、いずれ見舞うのだから今行っても一緒だ!と聞く耳を持たなかった。
ええい仕方ない!
「源次郎!我が馬も曳けぃ。我も南会津へ参る」
整備してあるとはいえ、鳳坂峠越えの南会津への街道は難所続きだ。
俺が先導して行くしかあるまい。
南御前が手ずから運んだ丸薬が効き、彦姫の症状は小康を保っている。
包仁丸とは何とも凄い薬である。
史実の彦姫は蘆名が滅ぶ前年に亡くなっており、今回倒れたのもタイミング的には合致する。
ただ夫である弟の資近には、衛生環境を整えることと栄養バランスの取れた食事を家族で常日頃摂ることを、若いうちから厳しく指導してあった。
それが功を奏しており、史実と異なって彦姫の命脈は細くも繋がっている。
長女のれんみつは岩城常隆に嫁いでいるが、次女のだんみつは髪結いしたばかりで、三女のこいみつは禿姿である。
長男の清丸に至ってはまだ五歳であった。
幼い子供たちのためにも、母親である彦姫の命は助けてあげたい。
しかし、包仁丸の効果は症状を一時的に抑えるだけだ。
本格的に快癒させるには医者の力がいる。
我が二階堂家では俺が家督を継いで以降、医学の発展にも力を入れている。
だが、何如せん俺自身の知識チートは医学の分野には及んでいない為、発展度合いも時代相応だ。
京と同じレベルにまで達していると自負しているが、それも日本の中だけでの話。
そもそもこの時代の日本の医学レベルは、西洋に比べてだいぶ劣っていた。
須賀川や京の医者たちでは彦姫の命は救えまい。
必要なのは南蛮の医者だ。
先年の九州征伐時に豊臣秀吉が発布したバテレン追放令は、大名が勝手気ままに自領をキリスト教へ改宗してしまうのを禁じたものである。
あくまで現時点に限った話だが、民衆の自由意志での入信は禁じていない。
その為、まだ多くの南蛮人が平戸を中心に日本に留まっていた。
今ならまだ南蛮の医者を奥州に呼べるかも知れない。
大阪の吉次に急ぎ手紙を出すとしよう。
都合が良いことに、輝宗殿と盛隆が上洛中である。
同じく上洛中の九州の諸大名と交友関係を築ければ、その伝手で南蛮の医者を紹介してもらえる可能性もある。
彦姫は輝宗殿にとっても妹にあたり、盛隆にとっても叔母・従叔母となる。
二人に対しても急ぎ手紙をしたため、使いの者を京に向かわせる。
輝宗殿と盛隆の上洛は、豊臣政権との融和ミッションから家族である彦姫治癒ミッションへと、いつのまにかイベント内容が様変わりしていた。
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