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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第九章 小田原カウントダウン
54/83

1586 講和

〜 第九章 小田原カウントダウン 〜


主人公:二階堂盛義 42歳 従五位下 左京亮


正室:南御前 45歳

├当主:二階堂盛隆 25歳 - 正室:甄の方 26歳

│ ├ 嫡孫:麒麟丸 7歳

│ └ 孫娘:星子 4歳

├次男:二階堂盛行 16歳

└次女:元子 12歳

愛妾:吉次 36歳

├長女:吉乃 15歳

├三男:久丸 10歳

└四男:栄丸 4歳

実弟:大久保資近 34歳 - 正室:彦姫 34歳

├養女:れんみつ 16歳 - 婿:岩城常隆 20歳

├姪:だんみつ 11歳

├姪:こいみつ 5歳

└甥:清丸 2歳

養女:阿蛍 25歳 - 婿:前田利益 35歳


義弟:伊達輝宗 42歳 伊達家16代目当主 正四位上 左京大夫 鎮守府将軍

<1586年 1月>


 天正十三年の霜月の終わりかけ。

 宇都宮城の寝所で休んでいると、夜半にゆらゆらと大地が震えた。


 来たか。


 バッと布団から飛び出て、声を上げる。


「誰かある!急ぎ人を集めよ。四方に人を出して領内に被害がないか調べるのだ」


「ははっ」


 随分と揺れが長かった。

 そして横揺れ。

 震源は遠い。


 時期を鑑みると、この地震は天正大地震であろう。


 遠い宇都宮でも揺れを感じた。

 今頃、近畿や北陸にかけて、多大な被害が発生しているはず。

 数多の城が倒壊や崩落、焼失していると思われる。


 天正大地震のあまりの被害の大きさに、史実では関白秀吉が家康討伐を諦めたという。

 大坂の吉次からの直近の手紙によると、関白秀吉は四国征伐の準備を進めていたはず。

 この世界線ではそちらが延期になるだろう。

 長宗我部元親にとっては天佑だ。


 尚、上方にいる吉次や吉乃たちの安全はチート知識で確保済みである。

 越中や飛騨、近江、美濃、尾張、伊勢と違って城の倒壊の記録は残っていないが、確か摂津も震度五以上の揺れだったと記憶している。

 その為、博多への販路開拓と西国の諸大名の動向調査の名目で、一時的に二人には近畿から離れてもらっている。


 1576年に長崎に渡来した説のあるジャガイモ。

 それを仕入れられないか、博多商人との交渉を頼んである。

 今頃は九州のはずであった。






<1586年 2月>


 天正十四年正月。

 野州の家臣たちを全員従え、宇都宮二荒山神社への初詣を終える。

 宇都宮城に戻って仙台出府の準備を進めていると、所領に戻ったはずの大関晴増、福原資広、大田原晴清の三名が急報を携えて駆け込んで来た。


 彼らはそれぞれ上那須衆の大関高増、福原資孝、大田原綱清の後継で、二十代前半の若武者たちだ。

 大関高増ら大田原三兄弟が二階堂家に臣従してから既に十年。

 代替わりもしたことで、譜代と変わらぬ扱いである。


 一番年長の大関晴増が口火を切る。


「ご注進!那須資晴が暗殺され申した!」


 耳を疑う。


「何だと?下手人は誰ぞ」


 福原資広と大田原晴清が応答。


「千本資政にござる」


「那須資晴が元旦に日枝神社へ参拝したところを狙い、弓矢を持って襲ったとのこと」


 千本資政か。


「確かつい先日、千本資政が逃れてきたら捕縛して欲しいと、那須家から連絡を受けていたな」


 那須資晴は先年の暮れ、那須一族で那須七騎の一家でもある千本資俊を太平寺に呼び寄せ、粛清している。

 千本資俊はかつて芳賀高定の策に乗り、那須資晴の祖父の那須高資を殺害した経緯がある。

 その後は許されて那須資胤に忠勤していたが、孫の那須資晴からすると信用ならなかったのだろう。

 佐竹寄りの立場を崩さず、我が二階堂家との講和に不満を見せていた千本一族の排除に動いていた。


 しかし、那須資晴自ら慣れない暗殺作戦の指揮を取ったのが不味かったようだ。

 当主の千本資俊を討つのは成功するも、息子の千本資政を取り逃している。

 その後に千本資政の行方は杳として知れなかったが、その千本資政の逆襲を許したのか。


「何故この不穏な時期に、那須資晴は僅かな供回りで初詣に行ったのだ?」


「安産祈願に赴いたのだとか」


 大関晴増の話によると、那須資晴の正室の春姫がもうすぐ産み月だそうだ。

 那須資晴は我が子の顔を見ることなく逝ってしまったわけだ。

 尚、千本資政はその場で斬り捨てられたとのこと。


 うーむ。

 那須家の当主がいなくなってしまった。


「で、誰が継ぐ?」


「那須資晴の庶弟の牧野顕高あたりでしょうか」


「那須資晴の妹が佐竹義宣に嫁いでいる為、佐竹が動くやも知れません」


 その福原資広と大田原晴清の回答を受けて即断する。


「仙台行きは取り止める。集められるだけ兵を集めよ。すぐに烏山城に乗り込む。それと結城晴朝殿に連絡を取れ。春姫殿の身柄は我ら二階堂家が保護するゆえご案じめさるな、とな」


「「「ははっ」」」


 佐竹義重にまた野州に出張られるのは困る。

 先手を打って烏山城を占領させてもらおう。


 那須資晴の正室の春姫は結城晴朝の娘だ。

 結城晴朝からの依頼という体裁で押し通すことにする。


 石田三成から通達があったのは、あくまで奥州の停戦令だ。

 関東は含まれないと強引に解釈しておこうか。






<1586年 4月>


 那須進駐の件、心配していた佐竹家からの干渉は無い。

 磐城と棚倉を失った佐竹義重は今、常陸国内で体勢の立て直しに掛かりきりだ。

 つまり本拠地の移転である。

 北の国境に近すぎて防衛面で不安が有る太田城から、常陸一国の統治を考えての水戸城への移転を急いでいた。


 その間に烏山城を押さえ、逆らう者たちをあらかた粛清して那須領を制圧した頃に、春姫が出産を迎える。

 産まれたのは男子であった。

 那須家のしきたりに沿って藤王丸と名付ける。

 そして俺自らが藤王丸の後見となることで、二階堂家の那須郡全域の支配が完成する。


 ちなみに千本家は解体して、その旧領は那須家乗っ取りに功績のあった大関晴増らに分配してやった。

 千本家は那須与一の兄の家系である。

 鎌倉に叛いた為に那須宗家を継げず、那須与一の温情で成立した家であったが、あえなくここで断絶だ。

 史実でも丁度この時期に那須資晴の指示で大関高増らに粛清され、所領を大田原三兄弟に分配されてしまっているので、同じ結果になったと言える。


「大殿、仙台より出府の要請が参りました」


 烏山城に陣取って那須領内の検地を行なっていると、奥村永福が書状を持ってきた。

 書状に目を通すと、どうやら上方で大きな動きがあったようだ。


「佐々成政が敗れたか。そして上杉家が関白秀吉の軍門に降ったとな。ふむ。永福よ。那須の検地の残りはそちに任せる」


 急ぎ仙台に向かい、今後の方針を伊達家の上層部と話合わねばなるまい。






 仙台に向かう前に一旦宇都宮に戻ると、ちょうど上方の吉次と北陸の前田利益からの書状が届いていた。

 彼女らの報告に目を通すことで、状況がわかってくる。


 四国と北陸の戦さが急展開で決着していた。

 全て天正大地震の影響である。


 陥没してしまった木舟城を始めとして、佐々成政の領国の越中の各城塞は甚大な被害を受けていた。

 攻め込まれた場合に防御は難しいと見た佐々成政は、乾坤一擲の攻勢に勝機を見出そうとする。

 同じく関白秀吉と対峙中の長宗我部元親を援護する為にも、雪が溶ける前に越中能登の全軍を率いての加賀侵攻を開始する。


 虚を突かれた前田利家は、佐々勢二万五千の大軍の前にして、金沢城の防衛を早々に諦める。

 殿軍は前田利益が所属する前田利久の軍勢が務め、手取川を渡って小松城に撤退した。


 佐々勢は手取川を渡って小松城に迫るも、そこに前田勢に加勢する五万の援軍が突如割って入った。

 何と関白秀吉自らが率いた軍勢であった。

 長宗我部家と急遽講和して四国攻めを回避し、急ぎ加賀に出張ったのである。


 関白秀吉と長宗我部家の講和。

 吉次の手紙によると、長宗我部家の嫡男の信親の尽力の賜物とのこと。

 長宗我部家は先年の天正の陣で毛利軍を一旦撃退し、四国の覇者の意地を見せている。

 しかし、天正大地震で延期になった四国征伐の関白秀吉軍の陣構えを見た長宗我部信親は、次は決して勝てないと悟ったのだろう。

 佐々成政と結んでの徹底抗戦を主張する父親の長宗我部元親を説得。

 更にキリシタンの伝手で高槻城主の高山右近を経由し、関白秀吉の軍師の黒田官兵衛を頼った。

 最終的には単身白装束で大坂城に乗り込み、讃岐伊予の二カ国割譲での講和を関白秀吉へ申し出たそうである。

 土佐のみ安堵された史実と異なり、この講和によって長宗我部家は阿波の保有も認められるが、佐々成政は完全に梯子を外されてしまったわけだ。


 佐々成政にしてみれば、予期せぬ関白秀吉の本軍との決戦となる。

 しかし、そこは流石に織田信長の下で黒母衣衆筆頭として活躍した佐々成政だ。

 拙速を尊んで大返しを多用する関白秀吉の軍略は熟知していた。


 背水の陣となってしまった自軍の状況を逆に利用し、兵たちの士気を高める佐々成政。

 数に倍するも急行軍で疲れの見える関白秀吉軍に対し、自慢の鉄砲隊の集中砲火を浴びせ、散々に射撃して動揺を誘った上で突撃を敢行する。

 丹羽長秀の跡を継いだばかりの丹羽長重の越前勢は総崩れとなり、勢いに乗った佐々勢は関白秀吉本軍を散々に打ち負かす。

 あわやというところまで関白秀吉を追い詰め、蒲生氏郷の奮闘がなければ関白秀吉本人も危うかったとのこと。


 しかし、勝敗を決めたのは、意外な伏兵であった。

 手取川を渡らずに姿を潜めていた前田勢の殿軍だ。

 ボロボロの状態ながら、手取川を渡って佐々勢の後背を突く。

 前田利益の手紙によると、本営の軍勢まで前線に投入していた佐々成政に対し、穀蔵院飄戸斎なる武辺者が一騎打ちを挑み、死闘の果てにこれを討ち取ったと書いてある。

 いや、自分のことやんけ。


 史実の佐々成政は、関白秀吉の越中征伐に降った後に肥後統治に失敗して切腹しているが、戦場の露と消える。

 ある意味、史実よりも武人らしい最後を遂げたと言えよう。


 とにかく主将の佐々成政を討ち取られた佐々勢は、関白秀吉の首まであと一歩の所で瓦解してしまう。

 激戦の末、第二次手取川の戦いは関白秀吉側が凱歌を上げた。

 結果前田利家は、関白秀吉の援軍で急死に一生を得て大逆転だ。


 関白秀吉はそのまま軍を進めて越中能登を掌握し、越後との国境まで進出。

 佐々寄りだった死に体の上杉家に圧力を掛ける。

 上杉家家宰の直江信綱はその圧力に屈し、八歳の当主の上杉義真を連れて国境の落水城に赴いて、関白秀吉への臣従を申し入れたという。


 ついに伊達家は、上杉家を挟んで関白秀吉と対峙する形となったわけだ。


 決断の刻が来れり。






<1586年 5月>


 輝宗殿の前に置かれた鎮守府将軍宛の一通の書状。

 石田三成から届けられたものである。


 書状の内容はとてもシンプルなものであった。


『上杉家は関白秀吉に臣従したので、中越への侵攻は直ちに止めるように』


 この要求に従うか否か。

 仙台城の千畳敷の大広間での大評定で、激論が交わされる。


 上杉を討って秀吉と決戦に及ぶべし。

 ここは関白に従って現勢力の保全に努めるべし。

 論は真っ二つに割れる。


 主戦論者は若き独眼竜、伊達政宗。

 講和論者はこの俺、二階堂盛義だ。


 論陣を張る。

 まずは、秀吉の出せる兵数を概算してみせる。


「単に戦うと申されても、関白秀吉が動員出来る兵は多い。今回与党で固め終えた北陸勢も含めれば、恐らく二十万は堅かろうと存ずる」


 関白秀吉は越中征伐の仕置きを早々に終えていた。

 制圧した佐々領のうち、前田利家に能登一国を返却し、越中の砺波郡を加増している。

 そして越中の残り三郡には蒲生氏郷、飛騨一国には金森長近を封じた。


 織田信長の女婿の蒲生氏郷については、第二次手取川の戦いでの奮戦を評されての大抜擢である。

 反対に佐々成政の猛攻を食い止められずに醜態を見せた丹羽長重は、若狭一国に大減封となった。

 丹羽家から取り上げた越前と加賀半国は、堀秀政ら秀吉子飼いの家臣らに分配される。

 史実に比べて前田利家が若干割を食った形にはなるが、関白秀吉の北陸方面での支配力と戦力は、格段に高まったのは確かである。


 政宗が獅子吼する。


「我ら奥羽の軍勢だけでは兵が足らぬと申すのなら、徳川、北条と結んで当たれば良いだけの話しよ!」


 現状伊達家が外征に動員可能な兵力は、我が二階堂家の手勢も含め、無理くり捻り出してざっと十万。

 政宗の言う通り、他力を頼めば勝てない差ではない。

 しかしだ。


「徳川家康は先年に重臣石川数正を関白秀吉に引き抜かれ、軍制を大慌てで武田流に改めている最中と聞き及びまする。今の時点で関白秀吉と戦さに及ぶ考えはございますまい」


 まぁ、それすら内外に向けた徳川家康のポーズに過ぎない。

 単純に如何に自分を高く売り付けるか、時期を測っているだけであった。

 仮に伊達家が越後経略を継続し、北陸で関白秀吉軍と激突した場合、徳川家康は十中八九関白秀吉方に転ぶだろう。


「北条氏政の率いる兵は、弱兵のため当てになり申さぬ。四公六民などと謳っておりますが、要するにそこまで民に配慮せねば、関東の国衆は北条に従わぬということ。戦さでは頼りにはならぬ者どもにございます」


 圧倒的な動員兵力を誇りながら、後北条氏が五代掛けても関東全域を制覇出来なかった理由がそれである。

 かつて坂東武者と言えば、泣く子も黙る武辺者たちの代名詞であった。

 だが四公六民のぬるま湯に長く浸かり、すっかり使えない兵に堕してしまっている。


 徳川家康も北条氏政も決してあてにはならない旨を、ビシッと政宗に突き付ける。


「・・・なれば北条を喰ってから、徳川を東から脅しつけ、秀吉と決戦に及べば良かろう」


「さすれば、弱り果てた北条氏政は転じて関白秀吉に助けを求め、共に仙台まで攻め下ってきましょうぞ」


 地政学的に、既に現時点で天下が望める情勢では無い事を冷静に告げる。


 激発する政宗。


「ええいっ、戦いは数ではなかろう!」


 言い張る政宗に、確かにその通りと頷いてみせる。


「されど、それも時と場合によりけりに御座ろう。政宗殿。日輪と竜が戦えば、いずれが勝つと思われますかな」


「禅問答など要らぬ。秀吉など一呑みにしてくれるわ」


 聡い政宗は、日輪と竜が秀吉と自分の比喩であるとすぐに把握して、突っ張ってくる。

 そこを諭す。


「旭日を呑み込めば喉は焼け、竜も弱り果てましょう。されど落日なればどうか」


「どういう意味ぞ」


「関白秀吉は今年五十歳になると聞き申す。しかし実子がおり申さぬ。弟の大和大納言の子も姫御たちのみ。そして甥の秀次に将才が無いことは、先の長久手の戦いで明らかになっております」


 吉次からの知らせによれば、養子にしていた織田信長の四男の於次丸秀勝も、先日丹波にて病死している。

 豊臣政権の弱点である次世代の頼りなさは、既に見え隠れしていた。


「つまりあと十年二十年もすれば、関白秀吉の天下は斜陽となるのは必定。それまで力を蓄えて待つのです。政宗殿が天下取りに乗り出すのは、それからでも決して遅くありませぬ。それがしは政宗殿の天下を見てみたい」


「なっ」


 史実の政宗は二十年早く生まれたかったと嘆いていた。

 しかし、ここまで伊達家が巨大化し、父である輝宗殿も存命なこの世界線では、その若さが何物にも代え難い最強の武器となろう。

 秀吉も家康らが寿命で亡くなるまで奥羽鎮守府の勢力を維持し続ければ、労せずに天下は政宗の下に転がり込んで来よう。

 そうなれば我が二階堂家も安泰というものである。


 ん?

 政宗、何で驚いた顔をしてるんだ?


 何故か押し黙ってしまった政宗に代わり、これまで俺と政宗の問答を黙って見守っていた輝宗殿が、ここでようやく口を開く。


「ふはははっ。政宗。儂も義兄上と同じ思いよ。ここは我慢致せ」


 輝宗殿は非常に上機嫌であった。

 その輝宗殿の鶴の一声で、伊達家の方針が決する。


「して義兄上。どのような条件で講和を進めるべきかな?」


「越後のうち三島、蒲原、岩船の三郡と佐渡は鎮守府の支配域とし、新発田家を含む揚北衆は伊達家の寄騎とすること。蝦夷地の探索、開発を鎮守府に一任すること。また鎮守府将軍職の世襲を認めること。その三点の確約でよろしいかと。秀吉は今すぐにでも九州に兵を向けたがっております。旗幟を明らかにしない徳川家康に重圧を掛ける為にも、こちらの申し出に応じて参るでしょう」


 この講和によって秀吉政権に下越以東への手出しを控えさせ、その間に在らん限りの富国強兵策を講じる。

 その為の内政プランは、現在北楯利長と絶賛検討中であった。


 二ヶ月後の評定で計画を披露する旨を約束し、大評定は幕を閉じた。






<1586年 7月>


 遠藤基信の尽力により、関白秀吉と伊達家の講和は無事成立。

 伊達家は中越攻略から撤退し、燕三条まで兵を引いていた。

 奥州を治める伊達家との講和を受けて、関白秀吉は九州攻撃令を発布。

 九州征伐に本腰を入れる。


 今日は仙台城の大評定の場で、那須疏水開発計画と庄内大堰開発計画のプレゼンである。

 まぁ説明役は北楯利長に丸投げなのだけども。


「では北楯利長。頼む」


「はっ。まず那須疏水でござる」


 下野北部に位置する那須野が原の大扇状地は、水捌けが良すぎて不毛の地となっている。

 那須疏水を開発すれば、将来的に四千ヘクタールの農地が切り開かれ、約四万石の増収が見込めた。

 我が二階堂家が主体となり、宇都宮城の拡張と並行して開発を進めるが、工夫の派遣に関して鎮守府にバックアップをお願いする。


 続いては出羽の最上川下流域の治水計画である。

 庄内大堰の開発により、庄内平野の水田は五千ヘクタールの拡張が見込まれ、約五万石の増収となる。

 こちらは大崎、葛西で継続中の新田開発と合わせ、鎮守府主導で計画が進められることとなった。


「さて、予算や工夫の割り当てについてだが・・・」


 む?


「北上より早馬が参りました!」


 具体的な数字の話に入ろうとしたら、遮られてしまう。


「鹿角よりご注進にございます!」


「九戸から急使参上!」


 次々と大評定の場の駆け込んでくる小姓たち。


「何事ぞ!」


 大上段に座っていた輝宗殿がすっくと立ち上がって吠えた。






 複数の急報。


 北上の和賀義忠は『斯波領内の岩清水城で不穏な動き有り』と報告を上げて来た。

 鹿角の最上義光は『斯波軍が九戸領に攻め込みました』と報告して来る。

 九戸の九戸政実は『斯波軍を撃退したが攻め返してもいいか』と問い合わせて来た。


 岩手と紫波の二郡を差配する斯波詮直。

 どうやら領内で謀叛に及ばれて勝手に兵を動かし、あろう事か鎮守府に無断で九戸領内に攻め込んでしまったらしい。


 昨年の関白秀吉の奥州停戦令を受けて、輝宗殿は鎮守府に属する諸大名たちに対し、固く私戦を禁ずる通達を出している。

 昔気質で反発しそうな九戸政実には、何かあったらまずは連絡してくれと、俺の方からも念入りに何度もお願いしてあった。

 宥め賺して機嫌を取っていた甲斐があり、九戸政実は反撃を思い止まってくれている。


 遅れて当の斯波家からも二通の書状が届く。


 一通は家老の岩清水義長からの書状だ。

 無礼な振る舞いに及んで出奔した家臣の中野康実を討つ為に軍を動かしただけ。

 今回の出兵は、決して鎮守府に隔意のある軍事行動では無いとの弁明であった。


 もう一通は岩清水城で挙兵した岩清水義教からの書状である。

 岩清水義教は岩清水義長の弟となる。

 遊興に耽って政務を疎かにする主君の斯波詮直を弾劾し、九戸領に逃れた同志の中野康実の赦免を求める内容であった。


 輝宗殿は怒り心頭で、両方の書状を握り潰す。


「何たる愚挙か!」


 斯波詮直の暗君ぶりも相当だが、斯波家臣たちの奥州外の情勢への無関心さも酷い。

 あまりにも時流から取り残されている。


「一罰百戒でござろう」


 大評定に参加している一同に対して、斯波家の改易を進言。


 満場一致で斯波家の取り潰しが決まった。






<1586年 8月>


 斯波家に改易を通達。

 当事者以外の最上義光と和賀義忠に高水寺城の受け取りを命じる。


 九州征伐の準備に忙しい関白秀吉にもこの措置を報告済みだ。

 石田三成を通して了解は得ていた。


 戦っても勝ち目が無いのは明らかで、斯波詮直も抵抗を諦めて、大人しく開城の道を選んでいる。


 偉いのは最上義光であった。

 高水寺城引き渡しの際、高水寺城内の蔵に収められていた源氏相伝の鬼切丸も没収となる。

 もともとは最上義光が大崎から紫波に逃れた折に、斯波詮直に献じた太刀である。

 しかし、最上義光は鬼切丸をそのまま鎮守府に引き渡してきた。


 これには輝宗殿もたいそう喜んだ。


「鬼切丸は最上家伝来の太刀。山形城にいる政道も、これで最上の国衆どもに真の当主と認められよう」


 次男の最上政道の元に早速鬼切安綱を送り届ける手配をした後、輝宗殿が問うて来る。


「最上義光の態度、まことに殊勝。褒美に斯波詮直から取り上げた岩手・紫波の二郡への転封を命じようと思うが、義兄上はどう思われる」


「ははっ。問題は無いとは思います。しかし最上義光殿は梟雄。その首に鎖を付けておくに如くはありませぬ」


 六歳になる娘の駒姫を人質として仙台に送らせるよう助言する。

 これで駒姫が豊臣秀次に嫁ぐために上洛し、その場で斬首される悲劇は回避出来るだろう。






 俺の助言を輝宗殿が採用してから数日後。

 加増の打診を受けた最上義光は、謹んで拝領する意を表した。

 駒姫の人質にも文句を唱えないばかりか、更には名乗りも最上から斯波に変えるという。

 徹底した恭順ぶりだ。


 史実の最上義光は、羽州の狐と評された程の謀略値の高い武将である。

 それ故に油断のならないところではあったが、その所領は転封後もたかだか二万五千石程度。

 倍の所領を持つ九戸政実と和賀義忠・稗貫広忠兄弟で周囲を固めている為、楽観視をしておく。

 仙台に送られてきた駒姫は、叔母にあたるお東の方の下で養育されることとなる。


 尚、最上義光の旧領である鹿角については、俺の推挙で九戸政実に分配となった。

 斯波詮直に攻められても勝手に戦線を広げず、鎮守府の指示を待った功績を評されての加増だ。

 九戸政実はたいそう喜んでおり、鎮守府の指示に従う重要性を学習出来たと思われる。

 今後は手綱も取り易くなるだろう。






<1586年 10月>


 仙台にて我が娘のお元の髪結いを行う。

 次いで輿入れだ。

 嫁ぎ先はもちろん、会津を治める伊達実元の息子の伊達成実である。


「お父様、お母様。今まで育てて頂き、ありがとうございました」


「うむ。しっかり妻としての役目を果たすのだぞ」


「お、お元。うううう」


 妻の南御前はサバサバしたものであったが、お元の出立の挨拶に涙が止まらない。

 お元はまだ十三歳。

 覚悟はしていたものの、月日が流れるのは早い。

 まだまだ可愛い盛りに手放さなければならないとは、戦国の世とはかくも残酷なのかっ。


「夫殿、いつまで泣いておるのだ。みっともない」


「そうですよ父上。川向かいの実元殿の屋敷に越すだけではありませぬか」


 南御前と下の息子の盛行に呆れられる。


 そうなのだ。

 岩城常隆に嫁いだ姪のれんみつと同様に、お元は会津には移らず仙台暮らしとなることが決まっていた。

 絢爛豪華な輿入れ行列を用意したが、二階堂屋敷から伊達実元邸は目と鼻の先である。

 おそらく行列の先頭が向こうに着いても、行列の最後尾はまだこちらの屋敷を出てない状態になりそうである。


 しかし、距離的な問題ではないと声を大にして言いたい。

 この涙は、今後のお元の苦労を思ってのものである。


 この婚姻が無事に終わるのを待って、婿の伊達成実は会津伊達家の家督を継ぐ。

 伊達成実は若干十九歳で会津二十五万石を差配する立場になるわけだ。

 会津伊達家は下越の揚北衆を統括する責務を担っている。

 仮に関白秀吉と手切れとなった場合、伊達成実はいの一番に越後に向けて出陣し、揚北衆を率いて上方の軍勢と一戦交える立場であった。

 お元は正妻として今後その伊達成実を支えていかなければならない。


 通常ならば、伊達成実が一人前の武将として独り立ちするまで、先の当主の伊達実元殿がフォローする形となろう。

 だが先日顔を合わせた際、伊達実元殿は「やっと肩の荷が降りるわい」と感無量の表情をしていた。

 来年還暦の伊達実元殿は、どうやらさっさと隠居して悠々自適に暮らす気満々であった。

 あてになりそうにない。


 繰り返すが、愛娘のお元はまだ十三歳。

 辛い思いをさせるのは、あまりに不憫なお年頃である。

 お元が辛い立場に追い込まれずに済むように、我が二階堂家は総力を挙げて、婿の伊達成実をサポートせねばなるまい。


 須賀川の盛隆にも、よくよく言い含めておくべきであろう。






<1586年 11月>


 三春の田村清顕が亡くなる。

 春先から体調を崩していたらしいのだが、何とも急な話だ。

 とりあえず葬儀の準備は進められているが、田村家の家督を誰が継ぐのかが問題となる。


 田村清顕の実子は、政宗に嫁いでいる愛姫しかいない。

 愛姫の伊達家への輿入れ時に、政宗との間に産まれた次男を田村家の後継とする約定が交わされている。

 しかし、そもそも愛姫にはまだ第一子を身籠る気配も無い。

 田村家中に無用な混乱が生じないように、急ぎ仮の当主を立てる必要があった。


 輝宗殿と共に三春城に赴き、葬儀に参列した後、田村の(ゆかり)御前と協議に入る。

 (ゆかり)御前は田村清顕の実母であり、輝宗殿にとっても叔母に当たる。

 田村清顕亡き今、事実上の田村家のトップであった。


「叔母上、お気を落とされますな」


「そうね。悲しむのは後にして、決めるべきことを先に決めてしまいましょう。氏顕の息子の宗顕に田村の名跡を継がせます。それでどうかしら?」


 田村氏顕は(ゆかり)御前の次男で、二年前の三坂城を巡る磐城勢との戦さで戦死してしまっている。

 田村宗顕はその田村氏顕の忘れ形見となり、若干十三歳の元服したばかりの若武者だ。

 (ゆかり)御前から見ると愛姫と同じく孫となる。

 田村宗顕を愛姫の御子が産まれるまでの名代とし、伊達家との協議の上で田村家を運営していく体制を(ゆかり)御前は望んでいた。

 田村家は主体性を放棄する形となり、実質的な伊達家の傘下入りである。

 

「叔母上がそれでよろしければ、その線で進めたいと思うが。義兄上はどう考える?」


 俺が何か言いたげなのを察して、輝宗殿が意見を求めてきた。


 あくまで田村宗顕は、未来に産まれるであろう愛姫の御子から田村家の家督を預かっているだけ。

 すなわち三春郡の領有権は今この時より伊達家に移り、輝宗殿の領地となる。

 その事実を満天下に知らしめておくべきであった。


「田村家といえば、遡れば征夷大将軍の坂上田村麻呂に行き着く名門。その田村家の宗家の血が絶えるのは、朝廷にとっても一大事。是非、朝廷の長たる関白の豊臣秀吉に今回の経緯を説明し、了解を取っておくべきでしょう」


 史実の小田原征伐の際、伊達政宗は従う石川昭光や小峰義親、田村宗顕らを己の配下として扱い、小田原の豊臣秀吉の下へ参陣させなかった。

 しかし、豊臣秀吉は南奥諸将らをあえて独立大名として扱い、参陣を怠った罪でその所領を没収してしまう。

 蘆名を討って百万石以上に膨れ上がっていた伊達政宗の所領を、一気に削減する為の強引な施策であった。


 この世界線でも、関白秀吉は朝廷より豊臣の姓を賜っている。

 ならばその豊臣秀吉に難癖を付けられないよう、隙や粗は予め無くしておかねばなるまい。

 それには、当の豊臣秀吉に三春郡が伊達家の直轄領となった旨を認めさせてしまうのが一番手っ取り早い。

 田村家中の家臣たちも、朝廷の承諾を得ての伊達家従属という大義名分があれば、不平や不安を抱くことも無いはず。

 また、これを機会に留守や石川、亘理なども、しっかりと伊達家中の臣下であるとアピールしておくべきだ。


 豊臣秀吉は九州征伐に忙しい。

 その隙を突いての既成事実化工作を開始する。

 これもまた、豊臣政権を相手取った立派な戦さであろう。






<年表>

1586年 二階堂盛義 42歳


01月

◇吉次(36歳)、娘の吉乃(15歳)と共に博多を訪問。購入したジャガイモの花を二階堂盛義のもとへ発送。

▲天正大地震。越中の木船城陥没。飛騨の帰雲城埋没。近江の長浜城全壊。美濃の大垣城焼失。尾張の蟹江城壊滅。伊勢の長島城倒壊。

★大坂の関白秀吉(49歳)、四国攻めの延期を決定。

◆那須の那須資晴(29歳)、千本資俊(67歳)を粛清するも千本資政(25歳)を取り逃す。

★丹波で羽柴秀勝(18歳)が病死。


02月

◆常陸の佐竹義重(39歳)、本拠地を太田城から水戸城に移転。

◆那須の那須資晴(29歳)、初詣中に千本資政(25歳)に暗殺される。

◎宇都宮の二階堂盛義、那須家に進駐。那須資晴の正室で懐妊中の春姫を保護。


03月

◎宇都宮の二階堂盛義、春姫が産んだ藤王丸の後見となって那須を横領。

◎宇都宮の二階堂盛義、ジャガイモの試験栽培を開始。


04月

☆越中の佐々成政(50歳)、金沢城を二万五千の兵で先制攻撃。前田利家(47歳)、小松城に撤退。

▶︎︎土佐の長宗我部信親(21歳)主導で四国和平成立。長宗我部元親(47歳)が隠居し、伊予と讃岐を割譲。

☆大坂の関白秀吉(49歳)、越中征伐開始。五万の兵を率いて加賀に急行。

☆加賀で第二次手取川の戦い。背水の陣となった佐々成政(50歳)、善戦するも穀蔵院飄戸斎(35歳)に討ち取られる。

☆越中進出の関白秀吉(49歳)、佐々領を前田利家(47歳)、蒲生氏郷(30歳)、金森長近(62歳)らに分配。

☆越中進出の関白秀吉(49歳)、丹羽長重(18歳)から越前と加賀半国を没収。堀秀政(33歳)らに分配。

◆上越の上杉義真(7歳)、直江信綱(31歳)の補佐を受けて落水城で関白秀吉(49歳)に拝謁。臣従を誓う。


05月

◆相模の北条氏政(48歳)、北条氏邦(38歳)に沼田城の再攻撃を命令するも攻め倦む。

★イエスズ会日本準管区長のガスパール•コエリョ(60歳)、肥前から上洛して関白秀吉(49歳)に謁見。布教の許可を貰う。

★豊後の大友宗麟(56歳)、上洛して関白秀吉(49歳)に謁見。九州出兵を懇願。

◎宇都宮の二階堂盛義、仙台城での大評定で伊達政宗(20歳)の天下取りへの道筋を明らかにする。

☆三河の徳川家康(43歳)の異父弟、駿河久能城主の松平康俊(34歳)が病死。



06月

■仙台の伊達輝宗(42歳)、関白秀吉(49歳)と折衝。揚北衆の寄騎化と佐渡差配、蝦夷地征討を確定させて中越計略から撤退。

★大坂の関白秀吉(49歳)、九州攻撃令を発布。

★堺で茶人の荒木村重(51歳)が病死。


07月

▼紫波の斯波詮直(38歳)、出奔した中野康実を討つべく九戸領に侵攻。

◎宇都宮の二階堂盛義、那須疏水の開削計画と庄内大堰の建造計画を発表。

▼九戸の九戸政実(50歳)、斯波詮直(38歳)の攻撃を撃退。鎮守府に斯波討伐を申請。

■仙台の伊達輝宗(42歳)、斯波家の取り潰しを通達。最上義光(40歳)と和賀義忠(45歳)に高清水城受け取り役を命じる。


08月

▼鹿角の最上義光の嫡男高楡小僧丸(11歳)元服。最上義康と名乗って高清水城受け取りに出陣。

■仙台の伊達輝宗(42歳)、斯波家を改易。最上義光(40歳)を岩手・紫波の二郡に転封。九戸政実(50歳)に鹿角の一郡を加増。

▽薩摩の島津義久(53歳)、九州統一を掛けて筑前・筑後・豊後に大軍を派遣。龍造寺政家(30歳)、島津家に降る。


09月

★洛中で正親町天皇(70歳)の第一皇子の誠仁親王(26歳)が急死。

▽筑前で岩屋城の戦い。島津忠長(35歳)率いる大軍の前に高橋紹運(38歳)玉砕。

◆相模の北条氏政(48歳)、弟の氏忠(32歳)を里見義頼(43歳)の養子とする。


10月

◎宇都宮の二階堂盛義、次女の元姫(12歳)を伊達成実(18歳)に嫁す。

■会津の伊達実元(60歳)隠居。伊達成実(18歳)、会津伊達家の家督を継ぐ。黒川城の改修開始。

▽筑前の立花山城の立花統虎(19歳)、寡兵で島津方の軍勢四万を防ぎ止める。

★大坂の関白秀吉(49歳)、毛利輝元(33歳)・長宗我部信親(21歳)・仙谷秀久(34歳)・十河存保(32歳)らに九州出陣を命令。

★大坂の関白秀吉(49歳)、正親町天皇(70歳)より豊臣姓を賜る。

☆伊勢で滝川一益(61歳)が病死。


11月

▷安芸の毛利輝元(33歳)、島津方の小倉城を攻略。薩摩の島津義久(53歳)、豊後への兵力集結を決断。

▼三春の田村清顕(49歳)が没する。伊達輝宗(42歳)の裁定により、甥の田村宗顕(12歳)が三春衆の総代となって伊達家の傘下に入る。

◎宇都宮の二階堂盛義、ジャガイモの試験栽培結果に満足。ジャガバターうまー。


12月

▽薩摩の島津義弘(51歳)、肥後から三万の兵で豊後に侵攻。大友方の志賀親次(20歳)、岡城で防戦。

▽薩摩の島津家久(39歳)、日向から一万の兵で豊後に侵攻。大友方の佐伯惟定(17歳)、堅田で防戦。

★洛中で正親町天皇(70歳)譲位。後陽成天皇(16歳)即位。

▷石見の吉川元春(56歳)が九州出征中に死去。吉川元長(38歳)が後を継ぐ。


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▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州


<同盟従属情報[1586年末]>

- [伊達輝宗]・二階堂盛義・相馬義胤・岩城常隆・新発田重家・結城晴朝

- [豊臣秀吉]・毛利輝元・長宗我部信親・大友宗麟・上杉義真・真田昌幸・佐竹義重・多賀谷重径

- 北条氏政・徳川家康

- [島津義久]・龍造寺政家・有馬晴信・秋月種実


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 80万1千石

・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 石川郡 白川郡 26万2千石

・奥州 伊達郡 2万石

・奥州 信夫郡 1万2千石

・奥州 会津郡 3万石

・奥州 標葉郡 楢葉郡 3万石

・奥州 行方郡 2千石

・野州 河内郡 芳賀郡 足利郡 梁田郡 17万石

・野州 塩谷郡 3万7千石 + 3千石 (NEW!)

・野州 那須郡 3万7千石 + 4万3千石 (NEW!)

・野州 都賀郡 8万5千石

・野州 安蘇郡 2万石

・常州 久慈郡 5万石


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