1579-2 麒麟
<1579年 8月>
佐竹義重から芳賀領の件について承諾する旨の返答が来た。
随分と苦々しい手紙の文面になっている。
宇都宮伊勢寿丸の弟を芳賀高継の養子に据えたのは佐竹義重だ。
つまり今回の一件は彼にも責任がある。
しかし、千葉良胤を支援する成田戦線は相当苦しいらしく、野州に兵を回す余裕は無い。
背に腹はかえられぬ佐竹義重の決断であった。
諸将を引き連れ、社殿新造中の二荒山神社に参拝。
芳賀高継討伐を大々的に宣言する。
「皆のもの、これより芳賀高継を討つ。芳賀高継に味方する者らもまとめて討ち果たす!」
「「「おおーっ!」」」
実弟大久保資近の南会津兵一千に宇都宮城の守備を任せ、芳賀高継の待つ真岡城に向けて進発。
まずは宇都宮城の東方9kmに位置する芳賀方の飛山城を、鬼怒川を渡って攻略する。
飛山城の守備兵は二百名ばかり。
奥州から参陣の大内定綱が、弟の大内親綱と共に先陣を申し出てくる。
「庄内、雄勝と活躍の場がござらなんだ。ここは是非我らににお任せあれ」
「うむ、任せた。久方ぶりにそなたの槍術を見物させてもらおう」
大内勢の活躍で鎧袖一触に飛山城を屠る。
そのまま芳賀領に侵攻。
真岡城に迫った。
真岡城は二年前に芳賀高継が築いた新しい城だ。
出来たばかりの新築ピカピカで、防衛設備が整っている。
芳賀高継は籠城の構えだ。
一千の兵と周辺から集まった民の二千と共に、城から一歩も出てこない。
「さて、ゆるゆると攻めようぞ」
真岡城の構えを見聞しながら、諸将のそれぞれの持ち場を指示する。
こちらもすぐには攻めない。
下総に展開中の北条勢の一部を、下野側に引き付ける佐竹義重との約定だ。
真岡城を囲んで兵糧攻めの格好を取りつつ、北条軍の到来を待つ。
その間に旧益子領の差配を任せていた河東田清重の手勢が合流。
河東田清重に付き従うのは、益子氏没落後に意気消沈していた紀党の国人衆である。
五百年もの間ライバル関係にあった芳賀家の清党をここで叩き、二階堂政権下で復権を果たそうと張り切っている。
更に壬生と鹿沼の国人衆が徳雪斎周長の敵討ちに続々と集まってくる。
まとめて奥村永福の配下に入れておく。
また宇都宮家の譜代重臣の多功綱継が一千の手勢を引き連れて参陣してきた。
多功綱継は宇都宮家中随一の勇将である。
多気山城の南呂院から芳賀高継の下にいる次男を必ず助けるよう、言い含められている模様。
意外と言ったらおかしいが、真室城を囲む我らの手勢は、総勢一万五千という結構な数に膨れ上がる。
<1579年 9月>
天正七年八月二十九日。
関宿城に北条家の援軍が着陣したとの知らせが入る。
援軍の将は北条氏照。
その兵数は約一万。
我が軍の一万五千に劣る数である。
軍議の場にて大内定綱が意外そうな声を上げる。
「思っていたより少うございますな」
「いや、これでも良く捻り出してきた方よ」
大きな紙に描いた関東一円の地図を広げる。
その地図上に兵数代わりの碁石を置いて諸将に状況を説明。
北条家は今、兵が足りない状況にあった。
現在の北条家の勢力圏は石高換算で約百九十万石。
しかし、その内の安房・上総の四十五万石余は昨年制圧したばかりの領地となる。
まだ兵力を抽出可能なほどには統治が進んでいない。
残りの百四十五万石で動員可能な兵数は最大で五万八千。
一見すると多そうに見えるが、里見の残党に対処する為、房総に兵を張り付けておく必要があった。
また、御館の乱で武田家が上杉家と同盟を結び、去る天正七年七月二十日に武田勝頼の妹の菊姫が上杉景勝のもとへ嫁いでいる。
北条家の周囲は全て敵になっており、そこに佐竹義重の指嗾による千葉家の内紛勃発である。
本国である伊豆・相模・武蔵の防衛に一万。
武田勝頼と上杉景勝への備えで上野に八千。
占領中の安房・上総の里見残党狩りに一万。
佐竹勢一万五千に対抗する為に下総に三万。
そう考えると関宿城に入った一万人は、成田方面に展開していた三万の軍勢を割いてなんとか絞り出してきた兵であろう。
これまで北条家は皆川、壬生、益子と北条に靡いていた下野の諸侯を見殺しにしている。
流石に今回の芳賀もとなると外聞が悪く、上野や下総の国人衆たちの士気にも関わる為、無理を押して援軍を出してきた。
俺と佐竹義重の目論見通りの展開である。
「更に有利に戦う為、我らは筑西の小川台で北上する北条氏照を迎え撃とうと思う。結城晴朝殿も駆けつけてくれる手筈よ」
麾下の水谷家や多賀谷家らも含めると下総常陸に二十万石前後の勢力を張る結城家が、こちらの味方になってくれるのは心強い。
「奥村永福。真岡城はそなたに任せる。残りは我に続け!」
真岡城の包囲を抑えの兵三千に任せ、残りの一万二千余で南進する。
小川台に陣を構え、手ぐすねを引いて北条氏照を待ち構える体制を急ぎ整えた。
そこに猛将水谷正村率いる結城勢三千が加わり、一万五千余に兵が増える。
思えば初めての北条軍との本格的な戦さとなる。
こちらは混成軍とはいえ、兵数だけ見れば勝機は十二分にある。
気合いが入る。
昨年発生しなかった小川台合戦イベントを、ここで回収することになりそうだ。
しかし予想に反し、鬼怒川を挟んで対陣した北条氏照はすぐには動かず、なかなか襲い掛かって来ない。
互いの出方を伺う時間が続く。
しばらくすると、板部岡江雪斎と名乗る坊主がこちらの陣に乗り込んで来た。
面長で顎がしゃくれている。
「一戦も交えぬうちに和議とな。北条氏照殿は戦いに来たわけでは無いと申されるか」
「左様。此度の発端は宇都宮家中の内輪揉め。有り体に申さば、当家には関わり合いの無いこと。されど古河公方様の御下命にござる。左京亮殿のお許しを頂ければ、拙僧が芳賀高継を説き伏せて参ろう」
肩透かしを喰らう。
板部岡江雪斎の出して来た和議の条件は、シンプルに芳賀高継の助命であった。
二階堂家は芳賀高継の命を助ける代わりに、芳賀領を没収する。
北条家は芳賀領を見捨てる代わりに、芳賀高継の身柄を預かる。
いきなり助けを求められて北条家も迷惑しておると、板部岡江雪斎はぶっちゃける。
現時点で芳賀領を得ても北条家にはメリットは少なく、逆に負担が増えるだけとのこと。
芳賀高継は本当にタイミングの悪い男よ。
うーん、どうしよう。
これって佐竹義重との約束はどうなるのか。
下総に展開中の北条軍の一部を引き付けたことは確かなので、問題無いよな?
よし、板部岡江雪斎に任せてしまえ!
板部岡江雪斎に迫られた芳賀高継は、北条家の支援を得られぬと悟って降伏を受け入れる。
真岡城は無血開城となる。
宇都宮伊勢寿丸の弟御も無事に解放された。
その代わりに芳賀高継の身柄は北条家が責任を持って保護。
命が保証された状態での国外退去となる。
北条家としては、これで最低限の義務は果たした格好だ。
我が二階堂家との停戦交渉がまとまると、北条氏照は一万の手勢と共にさっさと陣を引き上げていった。
北条氏照が手打ちを急いだ理由はすぐに明らかになる。
小川台から宇都宮城に引き上げる途中、真岡城の受け取りを担当した奥村永福の使者がやって来た。
前田利益である。
「厩橋城主の北条高広が武田家に転び候。武田勝頼、これを機に上州を一気に攻め取ろうとしておりますぞ」
前田利益の報告によると、北条氏照の小川台着陣とほぼ同日、北条方だったはずの北条高広が武田家の傘下に転じていた。
息子の北条景広を上杉景勝に暗殺された北条高広は、既に越後内の所領を全て失っている。
御館の乱に本腰を入れて介入してくれなかった北条氏政に対して怒っており、それ故の変節と推測される。
北条高広に追随し、上杉家に属していた上州の諸侯は武田勝頼に臣従し始めた。
「武田家の先手の旗は六文銭。新しい砥石城主は、相当な戦さ上手のようですな」
いやぁ長篠で戦った真田兄弟は良い敵でござった、とさらりと俺だけに衝撃を与える爆弾を投下してくる前田利益。
そうか。
真田昌幸がここで出てきたか。
後に表裏比興者と讃えられた真田昌幸の名が、初めて歴史の表舞台に飛び出て来る華々しいデビュー戦である。
北条高広の裏切りと、それに続く怒涛の武田家の勢力拡大は、全て真田昌幸の手腕によるものであった。
さすがは信玄の片目のごとき者。
ちなみにもう片方の目は曽根昌世である。
その真田昌幸は今現在進行形で沼田城攻略を狙っている。
沼田城は北国街道の要衝。
沼田城を獲れば、武田家としては上州でも上杉家との連携が可能になる。
反対に北条家としては、絶対に保持しておきたい城であった。
しかし北条家がさらに上州に回せる兵は、今のところ小川台で我らと対陣中の北条氏照の一万しかいない。
つまり北条家は上州と野州のどちらを取るかの二択を迫られたわけだ。
結果、野州への勢力伸張を一旦諦め、上州奪回を選択した。
真岡城開城は我らに追撃されぬための餌。
交渉上手の板部岡江雪斎にまんまとしてやられたな。
まぁ良い。
北条氏照は上州へ向かい、成田方面の佐竹家への圧力は下がったままだ。
結果オーライだが、これなら佐竹義重も文句は言って来ないだろう。
そして真田昌幸の思わぬ援護射撃で、芳賀高継の治めていた芳賀郡のおよそ三万石はあっさり二階堂家のものとなった。
一昨年の益子氏に次いで芳賀氏の消滅。
宇都宮家はその両翼の紀清両党を失った。
それに芳賀高継に味方した宇都宮城周辺の諸城をどさくさに紛れて全て攻め落としている。
これでさらに宇都宮家の力を削げた。
また戦陣を共にした機会を生かし、南呂院に不平を募らせている多功綱継らへ調略を仕掛け、好感触を得ていた。
最早宇都宮家は風前の灯火である。
我が二階堂家の勢力圏は野州の六割近くに達する。
野州の覇権争いの大勢は、今回の芳賀討伐で決着したと言っても過言では無いだろう。
<1579年 12月>
下野の新領土統治の差配を終えた後、急ぎ仙台城に駆け付け、息子の盛隆と共に政宗と愛姫の祝言に参列する。
遠藤基信の段取りにより盛大な婚儀となる。
身綺麗に着飾った十三歳の政宗と十一歳の愛姫が並んだ姿は、まるで雛人形の男雛と女雛のように凛々しく愛らしい。
この祝言に先立って、俺は諸々の策を実行している。
誓紙に基づき、我が二階堂家より田村家に鬼生田城を返却した。
そして鬼生田城の代替地と、先年秋の大宝寺攻めと今年春の小野寺攻めの恩賞。
その三つを合わせて、輝宗殿に伊達郡の城ノ倉城と行方郡の草野館を譲り受けたい旨を請願する。
二つ返事でこれを許され、晴れて標葉郡と楢葉郡の飛び地問題が解消された。
また愛姫の仙台輿入れに付き従う侍女のリストに郡司敏良の娘の政岡が名を連ねていたので、それを穏便に排除。
こちらから田村家に対し、政岡を一門の今泉城主浜尾行泰の嫡男盛泰の嫁に迎えたい旨を申し出たのだ。
先の飛び地解消で、田村領は我が二階堂家にぐるっと三日月の形に取り囲まれる格好となっている。
田村家としては伊達家との友好はもちろんだが、我ら二階堂家との絆も厚くしておく必要があった。
政岡自身は愛姫に付いて行きたいと嘆いたそうだが、田村の紫御前の方へも手を回した結果、泣く泣く岩瀬に嫁ぐ道を選ぶ。
誰も気付いていなかったが、この俺の仕込みは結構ファインプレーだったと思う。
史実では、本当かどうか微妙だが、米沢に嫁いだ愛姫の侍女らが政宗暗殺を企み、全員政宗に成敗されている。
郡司敏良の娘もこの時に殺されており、これを恨んだ郡司敏良は田村家中で反伊達派に転じ、後の田村仕置の混乱に繋がる。
既に史実の南奥州とは大きく情勢は違っているが、不安要素は排除しておいて損は無いだろう。
尚、鬼生田城を取り上げられた格好となった大内義綱・定綱父子に対しては、飛山城攻めの勲功分も含めて十分な褒美を用意している。
新たに得た芳賀領の大部分の差配を大内定綱に任せた。
大内義綱はこれを機に隠居し、嫡男の大内定綱に芳賀領三万石、次男の大内親綱に塩松二万石を継がせる。
この采配により、大内一族は完全に二階堂家の被官扱いとなった。
祝言の宴で大いに盛り上がった翌日の早朝。
盛隆と共に仙台を出立。
急ぎ馬を駆けて須賀川に向かう。
今月は甄姫の産み月であった。
ええぃ雪が邪魔だ!
仙台須賀川間の約140kmを四日で踏破する。
織田信長の本国寺救援や、北畠顕家の強行軍に匹敵する速度である。
盛隆と並んで須賀川城に駆け込んで馬を降りると同時に屋敷の方から、かすかにオギャーの泣き声が。
「盛隆、聞こえたかっ」
「はいっ父上」
盛隆と競うように屋敷に上がって産所に急ぐ。
途中の廊下でささっと現れた須田美濃守こと須田盛秀が膝を着いて報告。
「殿、若殿、おめでとうございまする。先刻甄姫様無事にご出産。男の子にございます」
「美濃守、まことか。甄姫、ようやった!」
喜びを爆発させる盛隆。
男子か。
史実の蘆名盛隆の嫡男、亀王丸が生まれたのは確か今から五年後のはず。
文字通りに完全なオリキャラの誕生であった。
「早う麒麟丸の顔を見たいっ。美濃守、麒麟丸は何処におる?」
「待て待て盛隆。麒麟丸とな?」
「ああ、すみませぬ父上。赤子の名は男ならば麒麟丸にしようと甄姫と決めておりましたゆえ」
伝え忘れていましたと謝ってくる盛隆。
麒麟。
四神相応の中央に座す伝説の霊獣。
平和と仁政の象徴である。
須賀川の地に降り立って苦節三十年。
なんと須賀川に麒麟が来た。
<年表>
1579年 二階堂盛義 35歳
01月
▼磐城の岩城常丸(12歳)元服。岩城常隆を名乗る。
■仙台の伊達輝宗(35歳)、真室城の鮭延秀綱を降す。雄勝の小野寺景道(45歳)に降伏勧告。
▷備前の浦上宗景(53歳)、反宇喜多勢を蜂起させて天神山城奪還。
02月
▼雄勝の小野寺景道(45歳)、腹心の八柏道為(55歳)を軟禁。
03月
◇白河の吉次(29歳)、商隊を率いて上方へ登る。近江に奥州屋安土支店を出す。
■仙台で伊達実元の嫡男時宗丸(11歳)元服。伊達成実を名乗る。二階堂盛義の長女の元姫(5歳)と婚約。
■仙台で伊達輝宗の次男竺丸(11歳)元服。伊達政道を名乗る。亘理重宗の長女の亘理御前(6歳)と婚約。
■仙台の伊達輝宗(35歳)、雄勝に攻め入る。伊達政宗(12歳)、小野寺家の湯沢城を攻略。
04月
■仙台の伊達輝宗(35歳)、雄勝の小野寺家を滅ぼす。小野寺景道(45歳)・光道父子自刃。八柏道為(55歳)討死。
◎須賀川の二階堂盛義、伊達輝宗(35歳)に雄勝の院内の鉱山調査を進言。
◆上越の上杉景勝(23歳)、上杉景虎(26歳)との和睦を拒絶。側近の樋口兼続(19歳)、上杉憲政(56歳)と道満丸(8歳)を闇討ち。
◆中越で上杉景虎(26歳)自刃。御館の乱終結。甲相同盟再破綻。
▷備前の宇喜多直家(50歳)、浦上宗景(53歳)ら旧浦上一党を駆逐。用済みになった浦上久松丸(12歳)も毒殺。
05月
◎須賀川で二階堂盛隆(18歳)の正室の甄姫(19歳)懐妊。
▷備前の宇喜多直家(50歳)、織田方に寝返った東美作の後藤勝基(41歳)を攻め殺す。
★南近江に安土城完成。岐阜の織田信長(45歳)、拠点を安土に移す。
◆下総の千葉胤富(52歳)病死。家督を親北条路線の次男邦胤(22歳)が継ぐ。反北条派の長男良胤(22歳)が決起。
◆常陸の佐竹義重(32歳)、成田に出兵。千葉良胤(22歳)を援護。
◆下野の芳賀高継(53歳)、端午の節句に多気山城で徳雪斎周長(78歳)を族滅。
06月
◎須賀川の二階堂盛義、下野に出兵。勝山城、岡本城を攻め落として宇都宮城に入城。壬生を接収。
▷丹波攻略中の明智光秀(51歳)、氷上城を攻め落とす。
■仙台の伊達輝宗(35歳)、雄勝の院内銀山を発見。
07月
◎須賀川の二階堂盛義、宇都宮方の大門資光が日光山門徒衆に討ち取られたのを契機に、鹿沼と日光を接収。
▷中国攻略の羽柴軍陣中で竹中重治(35歳)病死。重治、羽柴秀吉(42歳)に黒田松寿丸(11歳)を託す。
▼津軽で六羽川合戦。大浦為信(29歳)、津軽に攻め寄せて来た安東方の比企・滝本軍を撃退。
▷丹波攻略中の明智光秀(51歳)、八上城を攻め落とす。波多野三兄弟、安土で磔。
08月
◆越後の上杉景勝(23歳)、武田勝頼の妹の菊姫(21歳)を娶る。甲越同盟締結。
▶︎︎土佐の長宗我部元親(40歳)、阿波で十河存保(25歳)ら旧三好方に大勝。重清城、岩倉城を降す。
▲葛西で洪水。仙台の伊達輝宗(35歳)、北楯利長(31歳)を派遣。
◎須賀川の二階堂盛義、常陸の佐竹義重(32歳)と手打ち。北条方に転じた芳賀高継(53歳)を攻める。飛山城を降す。
09月
▷丹波で第二次黒井城の戦い。明智光秀(51歳)、黒井城を攻め落とす。丹波平定。
☆三河の徳姫(20歳)、夫の松平信康(20歳)の不行状を父織田信長(45歳)に訴える。酒井忠次(52歳)、詰問に狼狽し弁護出来ず。
◆甲斐の武田勝頼(34歳)、上州に侵攻。厩橋城の北条高広(62歳)を傘下に収める。真田昌幸(32歳)、躍動。
◎須賀川の二階堂盛義、小川台で北条氏照(37歳)と対陣するも交戦せず。和議により芳賀高継(53歳)を追放。
☆遠江の徳川家康(36歳)、正室の瀬名姫(36歳)を殺害。
◆相模の北条氏政(41歳)、遠江の徳川家康(36歳)と同盟。
10月
☆遠江の徳川家康(36歳)、嫡男の徳川信康(20歳)に切腹を命じる。
★伊賀で第一次天正伊賀の乱。織田信雄(21歳)失態。
★摂津の荒木村重(44歳)、有岡城を単身脱出。尼崎城に逃げ込む。
◆甲斐の武田勝頼(34歳)、相模の北条氏政(41歳)と遠江の徳川家康(36歳)に東西から攻められ、駿河で退陣。
◆甲斐の武田勝頼(34歳)と常陸の佐竹義重(32歳)、甲佐同盟締結。
■仙台にて伊達輝宗の正室義姫(31歳)懐妊。
11月
▷備前の宇喜多直家(50歳)、毛利家から織田家に寝返り。
★摂津で有岡城落城。黒田考高(33歳)、地下牢から救出される。荒木一族処刑。
12月
◆甲斐の武田勝頼(34歳)の嫡男武王丸(12歳)元服。武田信勝を名乗る。織田との和平を探る。
■仙台で伊達政宗(12歳)・愛姫(11歳)婚姻。盛大な祝言を挙げる。片倉喜多(41歳)、愛姫付きとなる。
◎須賀川で二階堂盛隆(18歳)の正室の甄姫(19歳)出産。二階堂麒麟丸誕生。
◆北信の真田昌幸の嫡男源三郎(13歳)元服。真田信幸を名乗る。真田信綱の息女音姫(13歳)と婚姻。
-------------
▲天変地異
◎二階堂
◇吉次
■伊達
▼奥羽
◆関東甲信越
☆北陸中部東海
★近畿
▷山陰山陽
▶︎︎四国
▽九州
<同盟情報[1579年末]>
[南奥]
- 伊達輝宗・二階堂盛義・田村清顕・相馬義胤・佐竹義重・岩城常隆
[関東]
- 北条氏政・千葉邦胤
- 佐竹義重・宇都宮伊勢寿丸・結城晴朝・那須資胤・江戸重通・多賀谷重径・千葉良胤
- 武田勝頼・上杉景勝
須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 59万5千石
・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 石川郡 18万7千石
・奥州 伊達郡 1万5千石 + 5千石 (NEW!)
・奥州 信夫郡 1万2千石
・奥州 白河郡 7万4千石
・奥州 田村郡 2千石 - 2千石 (NEW!)
・奥州 会津郡 3万石
・奥州 標葉郡 1万5千石
・奥州 楢葉郡 5千石
・奥州 行方郡 2千石 (NEW!)
・野州 塩谷郡 3万2千石
・野州 那須郡 3万5千石
・野州 都賀郡 3万5千石 + 5万石 (NEW!)
・野州 安蘇郡 2万石
・野州 芳賀郡 2万8千石 + 3万石 (NEW!)
・野州 河内郡 2万石 (NEW!)
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