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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第七章 before 1581
43/83

1579-1 戦果

<1579年 3月>


 白河城下。


 娘の吉乃も大分大きくなった。

 今年で数え歳で九歳だ。

 母と一緒に行きたいと駄々を捏ねる吉乃を連れて、吉次を見送る。

 吉次が隊商を率いて上方に赴くのは、これで三度目となる。


「吉乃、久丸を頼んだわよ」


「むー、わかった。ちゃんと面倒見る。でも次は必ず私も連れって」


「しょうがないわね」


 苦笑する吉次。


「わかりました。約束しましょう。勉強もサボらずに頑張るのよ」


「うん」


 しゃがんで目線を合わせながら、指切りげんまんしている美しい妻と可愛らしい娘。

 幸せな光景だ。


 正確に言うと妻ではない、

 吉次は正室に認められた側室では無い為、ただの愛人である。

 吉乃や久丸は、二階堂家としては厳密には認知していない子供たちとなる。

 吉次がそれを良しとしてくれている為、彼女の意向を尊重し、二人の育成には極力口を挟まないようにしている。


 どうやら吉次は自分の後継に吉乃を据えようとしていた。

 親の贔屓目無しに、吉乃は同年代の童と比べても頭抜けて聡い。

 素質はあると思う。


 いずれは上方の支店の何処かを任せることになるだろう。

 その上方の支店だが、今回の商隊の遠征で安土城下にも店舗を構える手筈となっている。

 織田信長の安土城がもうすぐ完成するのだ。


 げんまんを終え、そのスラリとした腰を上げた吉次に語り掛ける。


「吉次。必ず二年で戻るのだぞ」


「はい、勿論その予定ですけど?」


 吉次が戻るのは二年後の春。

 まだ間に合うはず。


「では、誓いの接吻をいたそうか」


「え?きゃっ、んんっ」


 抱き寄せて唇を吸う。


 織田信長の動向が把握しやすい環境を、息子の盛隆には遺しておきたかった。

 いつまでも吉次の艶やかで白く輝く肌を恋しがってばかりもいられない。


 きっとまた会えると信じて送り出そう。






 出兵準備を盛隆に任せ、一足先に仙台に出府する。


 輝宗殿の次男で最上義守の養子になっている竺丸と、実元殿の一人息子の小僧丸の元服式に出席する為であった。

 二人とも今年で数え十二歳。

 元服式が終わった後、日を置かずに小野寺領へ攻め込み、初陣を果たす段取りとなっている。

 我が二階堂勢の従軍も決定していた。


 小野寺家を攻め落とす準備は万端である。


 孤立無援にも関わらず奮闘を続けていた真室城の鮭延秀綱であったが、文字通り刀折れ矢尽き、冬の間に降参。

 輝宗殿は十七歳の若さで孤軍奮闘を見せた鮭延秀綱の剛勇ぶりを高く賞賛する。

 そして鮭延秀綱を見捨てた小野寺景道の采配を非難し、鮭延秀綱をそのまま幕下に加えることを宣言して、小野寺家中の動揺を誘う。


 更に鎮守府は、年明け早々に小野寺家に対して降伏勧告を行った。

 その裏で、俺の発案による八柏道為を絡め獲る為の策を発動させる。


 小野寺家へ突き付けた降伏勧告の条件は平鹿郡のみの安堵で、残りの雄勝郡と山北郡は召し上げである。

 合わせて小野寺景道の庶兄である沼館城主の大築地秀道に偽の手紙を掴ませ、八柏道為の裏切りを大築地秀道から報告させる。

 その偽手紙には、小野寺景道から取り上げた雄勝郡を八柏道為に与える旨の約束が記されていた。

 史実で最上義光が小野寺義道をはめた手法を、今回俺が先取りさせてもらったわけだ。

 なりふり構わぬ知識チートである。


 八柏道為は鎮守府の庄内征伐が始まる前から一貫して非戦を唱えており、小野寺景道の反感を買っていた。

 そこに俺が謀臣の守谷俊重に風聴させた、いくつかの流言が追い討ちでヒットする。


 一度出向いた仙台で、奥州の餓狼こと二階堂盛義(俺)と殊更親しく語らい合っていた。

 先年の有屋峠の戦いで優勢なのに退いたのは、何らかの裏取引が有ったからだ。


 それらの噂が横手城内でまことしやかに囁かれ、君臣の間の溝は大いに深まる。

 ただ、さすがにこれまで三十年以上に渡り、八柏道為と労苦を共にしてきた小野寺景道である。

 息子の小野寺義道と違い、問答無用で横手城に呼び寄せて斬り殺すような仕儀にはならない。

 八柏道為は居城の湯沢城から引き離され、小野寺家の本城である横手城中で軟禁されていた。

 今も取り調べが厳しく行われていると聞く。


 由利十二頭もほぼこちらに転んでいる。


 雄勝に攻め込む絶好機の到来していた。






 奥羽の名だたる諸将が列席する中、仙台城の本丸屋敷御殿で盛大に執り行われる元服式。


 小僧丸の烏帽子親は輝宗殿が務め、伊達成実の名が与えられる。

 竺丸の烏帽子親は天童頼貞の予定が病篤く、延沢満延が代打を務めて最上政道の名が与えられる。


 合わせて伊達成実と我が娘お元の婚約と、最上政道と亘理重宗の息女の婚約が発表される。

 最初は逆の組み合わせ話が進んでいたが、輝宗殿の正室の東の方がかなり強烈な拒否反応を起こして話が拗れた。

 最愛の息子である政道に、最上家の天敵である俺の娘が嫁いでくるのが、嫌で嫌で堪らなかったようだ。


 まぁ史実での二階堂盛義の娘は、先年の暮れに元服した岩城常隆に一旦嫁いだ後、伊達成実のもとへ再嫁している。

 一足飛びに史実通りの結果になったわけで、かなり輝宗殿には恐縮されたが、軽く受け入れておいた。


 初陣に先立って伊達成実と向き合う。


「未来の婿殿に贈る言葉がある」


「はい!ありがたく頂戴仕る!」


 政宗と違って、素直な性格なようだ。

 尊敬の目で見られてこそばゆい。


 予め懐に用意していた紙を取り出し、成実に差し出す。


「左京亮さま、こ、これは?」


「見た通りよ。成実殿にはこの四文字を贈る。火の用心!」


 疑問符を浮かべている成実に、とくとくと語る。


「これからは鉄砲の時代。すなわち武具の手入れと同じように火薬の管理も重要となる。火薬の管理を疎かにする者に城は守れぬ。もし籠城中に火薬庫に火が投げ込まれたら如何なる?」


「それは・・・。火薬庫が爆ぜて、城が焼け落ちます」


「そのとおりだ。成実殿、常日頃から近習たちにも火の用心を言い含めよ。行軍中も同じ。持ち運ぶ火薬箱に誤って火が着いたら、それだけで大惨事となる。戦さどころではなくなろう」


 これだけ脅せば大丈夫か。


 史実の伊達成実。

 人取り橋の戦いで奮闘して名を挙げた後、逗留した渋川城を失火で全焼させるという大チョンボをやらかす。

 伊達成実の近習が誤って着けた火で火薬箱が大爆発し、伊達成実自身も右手に一生モノの大火傷を負う。


 その未来がこれで変われば良いのだが。






<1579年 4月>


 鎮守府軍は二万の兵で有屋峠を越えて雄勝に侵攻する。

 先陣を務めるのは、降ったばかりの鮭延秀綱だ。

 だが小野寺軍は迎撃に現れない。


 そのまま湯沢城を包囲するも、小野寺軍は後詰めを出せない状況に陥っていた。

 若干十四歳の戸沢盛安率いる角館軍が、本堂氏と六郷氏を従えて山北郡を席巻し、北から横手城を伺う勢いを見せていた。

 また西からは和賀義忠の手勢が迫っていた。


 湯沢城は肝心の八柏道為が横手城で軟禁状態にあり、城主不在での籠城戦となる。

 八柏道為の子らが守備を固めるも、衆寡敵さず湯沢城は落城。

 鎮守府軍はそのまま横手城に向けて進軍する。

 

 横手城を包囲して戸沢盛安や和賀義忠らと合流。

 由利十二頭も、檜山の安東愛季寄りの赤尾津氏や羽川氏以外は参陣してくる。

 総計で二万五千人以上の兵力で横手城を圧迫する。


 事ここに至って小野寺景道は城を枕に討死する覚悟を決めた。

 降伏勧告を跳ね除け、死出の旅路に付き合う者だけを残し、後の全員を横手城から退散させる。

 小野寺景道の側室もまた、まだ元服前の己の子らを連れて城を出て、実家の鮭延秀綱を頼った。


 嫡男の小野寺光道と共に横手城の本丸に篭る小野寺景道。

 その傍らには軟禁されていたはずの八柏道為の姿があった。

 裏切りを疑われても忠義は揺るがず、軍師として主人の最後の戦いを差配する道を選んでいた。

 見事な生き様である。


 横手城攻めの先手は鮭延秀綱が務め、かつての主君や先達たちと壮絶な斬り合いを果たす。

 返り血を浴びたままの姿で景道、光道、道為の三つ首を輝宗殿の前に持ち帰った鮭延秀綱。

 奮闘の褒美として、先に陣中に保護した従兄弟たち、景道の次男と三男の助命を願い出る。

 その若さで見事な武者振り示した鮭延秀綱の姿に皆が瞠目し、輝宗殿はその願いを聞き入れた。


 一人その決定に政宗が不平を漏らす。

 輝宗殿に嗜められるも、なおもゴネる政宗のゴネ得で、鮭延秀綱は政宗の配下に加わえられた。

 また政宗の意向が通って戸沢盛安の活躍が認められ、戸沢盛安に山北郡六万石の差配を任せることが決定する。


 小野寺家が滅び、雄勝・平鹿・由利の約十万石が新たに伊達家の版図に加わった。

 伊達家が得たものは領地だけではない。


 無尽蔵に湧き出る銀。

 それがこの小野寺征伐の最大の戦果である。






 横手城の落城を見届けた後、院内に向かう。

 保土原行藤を連れて院内を巡検。


 確か由利に抜ける道中の南西にあったはず。


「我が君、このような鄙びた山中に何があると言うのです?もしや・・・」


 二十年程前に高玉金山を発見したときもお供を務めた保土原行藤。

 察しが良い。


「やはり有ったか」


 俺の記憶は確かだった。


 広大な領域が赤いベールで囲まれ、その上空に銀色に輝く幾つもの逆三角形が浮遊している。

 かなり大規模な銀山だ。


 さすが遠くローマまでその名が轟いた院内銀山よ。


「左近、あの山から膨大な銀の気が立ち昇っておる。この院内を伊達宗家の直轄領とし、山師を派遣するよう輝宗殿に伝えよ」


 これで伊達家が上方に対抗する為の武器が一つ増える。

 俺がいなくなっても大丈夫だろう。






<1579年 5月>


 小野寺領の占領作業中、越後の直江信綱から文が届く。


 越後の内乱が鎮圧され、主人の上杉景勝が勝利したことを鎮守府将軍の輝宗殿に伝えて欲しいとの手紙であった。

 景虎方の大宝寺義氏を退治してくれたことを感謝し、先代である上杉謙信の頃と同様の友誼を結びたい旨が書き記されている。


 去年の暮れから今年の春先にかけて、上杉景勝は上杉景虎に対して優勢に戦さを進めていた。

 伊達家の参戦で勢いに乗った上杉景勝は、春日山の金蔵の金と北信濃と上州の領地を差し出して武田勝頼と同盟を結ぶ。

 そして景虎方が雪で北条氏政との連携を断たれている間に、各地で勝利を重ねる。

 特に北条氏政との連携役を担っていた北条景広を討ち取り、三国峠を制する樺沢城を奪還出来たのが大きかった。


 劣勢に陥った景虎方は、和睦を求めて上杉憲政に仲介を頼むも、上杉景勝はそれを同行の景虎嫡子の道満丸ごと闇討ち。

 更に御館に火を放ち、既に景勝方に内応済みの堀江宗親の守る鮫ヶ尾城に上杉景虎を追い込み、妻子ごと自刃に及ばせた。


 上杉憲政は上杉謙信の養父であり、先々代の関東管領だ。

 そして上杉景虎の妻は、上杉景勝の実姉である。

 上杉景勝は、つまり祖父と姉と甥、姪たちを皆殺しにしたわけだ。

 謙信急逝直後に景虎方の有力武将であった柿崎晴家を真っ先に暗殺していることと合わせて、とにかく徹底している。


 何処が義を尊ぶ家風だよと言いたくなる。

 あまりに残忍なその手法をカモフラージュする為の、ファッション感覚の義の御旗なんじゃなかろうか。

 まぁそれくらいしないと、長尾為景以前の時代から謀反しまくりな越後の荒武者たちを統制出来なかった、という言い分はあるだろうけども。


 これらの上杉景勝のやり口には、後年上杉家の家政を任されて果断な裁定を下しまくった、側近の直江兼続の影が見える。

 この時点ではまだ二十歳で、直江家の名跡を継ぐ前のただの樋口兼続であり、何処まで関与しているかは分からないが。


 その直江家だが、上杉謙信が亡くなる一年前に直江景綱が先立っており、お船を娶っていた直江信綱が家督を継いでいた。

 今では表向き上杉景勝の腹心トップの座に着いている。

 以前に息子の盛隆の婚儀の際、上杉家からの祝いの使者として須賀川を訪れており、面識もある。

 直江信綱が青苧の取引の窓口を引き継いだこともあり、手紙でのやり取りを継続していた。


 とりあえず上杉景虎が死んだとはいえ、景虎方の本庄秀綱や加地秀綱らが反抗を続けている。

 弟を殺された北条氏政も怒り心頭だろう。

 御館の乱はまだまだ続きそうだ。


 家中を二分しての大戦さではあったが、所詮は内輪揉めであって上杉家全体の領土が増えるわけではない。

 むしろ越後と越中半分以外は放棄したも同然で、戦果は無いに等しい。

 論功行賞も揉めるだろう。


 史実と同じように毛利秀広に殺されないよう、褒美の分配についてのエコ贔屓は良く無いと書き送っておく。

 そして帯刀したままでの直談判は、極力避けるよう助言。


 さてどうなるか。






 盛隆と共に仙台に帰城すると、嬉しい知らせが待っていた。


「戦陣中ゆえ、そなたらには伝えるなと止められていたが、お甄が懐妊したそうだ」


 南の方から朗報が告げられる。


「でかした!」


 盛隆の肩を叩く。

 初孫である。


「母上、真にございますか」


「嘘を吐いてどうなる」


 しばらく呆然としていた盛隆であったが、しからば御免!と鎧も脱がずに外に飛び出して行った。

 替えの馬を用意させて、そのまま須賀川に向けて爆走していく。


 計算すると出陣前に盛隆と甄姫が励んだ結果になる。

 やはり戦さの前は昂ぶるものだ。


 今回の小野寺征伐に関する、我が二階堂家の最大の戦果であった。






<1579年 6月>


 天正七年五月五日。

 多気山城での端午の節句にて、芳賀高継が政敵の徳雪斎周長を一門ごと鏖殺。

 下野全体に戒厳令レベルの緊急事態宣言が発動される。

 

 その知らせを俺が受けたのは、須賀川城で嫁の甄姫を労っていた最中であった。

 

 須田盛秀から受け取った奥村永福の書状を読んで、しばし絶句。


「父上、いかがなされた」


「う、うむ」


 俺の知識には存在しないイベントが発生してしまった。


 ここで芳賀高継が二階堂方の徳雪斎周長を討つということは、よほどの勝算があるというのか?

 芳賀高継の背後にいるのは、宇都宮の南呂院か、それとも佐竹義重か。

 もしや佐竹義重、方針を転換して北条氏政と和睦したのではなかろうな。

 だとするとマズい!


 何とか再起動して、盛隆に書状を押し付ける。


「源次郎、兵を戻したばかりで難儀なことだが、再び出陣の触れを出せ。急ぎ下野へ乗り込む」


「ははっ」


 どう対処するのが最適解かを導き出す。


 とにかく一番大事なのは宇都宮城の防備を固めること。

 宇都宮二荒山神社の社殿の造営も軌道に乗りつつある。

 来年全ての社殿の完成を予定しており、ここで戦火に焼かれるのは避けたかった。

 弟の大久保資近に宇都宮城の守備を強化するよう、出陣に先行して指示を飛ばす。


 そして無主の地となった壬生と鹿沼の地も一早く抑えねばなるまい。

 もちろん既に芳賀高継が動いているだろう。

 しかし一番厄介なのは、先年に壬生城から追い払った壬生義雄が、北条氏政の後押しを受けて舞い戻ってくることだ。

 その前に最低でも壬生城は抑えておく必要がある。

 岩舟城を預けている奥村永福にも指示を飛ばす。


 それともちろん本国の防衛も大事だ。


「盛隆は須賀川城に残って佐竹義重の動きに備えよ。岩城と東館城の動きを注視するのだ」


 佐竹義重が先手を取って南郷に攻め寄せてくる可能性も捨てきれない。

 

 我ら二階堂家が保有する奥州での総兵力は約一万三千。

 そのうちの三千は、弟の大久保資近と奥村永福らと共に下野に出征中である。

 今回残る一万のうちの半分を盛隆に預けて本国の防衛に当たらせる。


 そして、もう半分の五千を率いて宇都宮城に駆け付けることとする。

 時間との勝負であった。





 上那須衆と塩谷義通らと合流し、六千五百の手勢で奥州街道を南進する。

 宇都宮城への途上、芳賀方の勝山城と岡本城に兵が集結しており、こちらを邪魔する気配を見せていた。

 戦闘モードでも敵軍表示となっていた為、遠慮はしない。


 芳賀高継が後詰に現れる前に、城の防衛力と耐久力が低い箇所を狙って強攻だ。

 両城ともに被害少なく攻め落とす。


 二千の兵で宇都宮城を守備中の弟の大久保資近と合流。

 状況を確認する。


「兄上、待っておりました」


「うむ。それで情勢は?」


 既に岩舟城を進発した奥村永福が、前田利益を先陣に二千五百の兵で壬生城に入城していた。

 鹿沼城の方は、宇都宮方の大門資光なる武将が占拠を試みようとしているとのこと。


 大門家は壬生綱雄と徳雪斎周長の弟となる大門資長の家だ。

 壬生と鹿沼の中間地点にあたる村井城を治めており、第三の壬生家と言っても良い。

 その当主の大門資光が芳賀高継と連携しているようである。


「それよりも佐竹義重に何か動きは無かったか?」


「それが兄上、此度の一件、どうやら事前に佐竹と示し合わせたものでは無いらしいのです」


 詳しく聞く。


 去る天正七年五月四日。

 芳賀高継の暴挙の前日に、関東八屋形の一家である下総の千葉家の当主、千葉胤富が死去する。

 生前より息子の千葉邦胤が執務していたのだが、千葉邦胤には双子の兄の千葉良胤がいた。

 千葉良胤は反北条を標榜しており、千葉胤富の命令で成田城に蟄居させられていたのだが、そこに牛久城を攻め落とした佐竹義重が接近する。


 佐竹義重は随分前から仕込みを行っていたらしい。

 千葉邦胤を補佐する千葉家重臣の原胤栄には、かなり仲が悪い弟の原胤親がいた。

 佐竹義重はその原胤親と千葉良胤の間を取り持った。

 そして千葉胤富の死去に合わせて、千葉良胤と原胤親に武装決起させる。

 二人を支援して、関東の名族である千葉家を丸ごと反北条方に寝返らせる策であった。


 つまり、今現在の佐竹義重は千葉良胤支援に全力を注いでおり、とてものことだが下野の争乱に構っている暇など無かったのだ。

 何しろ事態を重く見た北条氏政が、上杉景勝成敗を諦め、三万の兵を率いて下総に駆け付けようとしていたのだから。


 周辺国の状況から鑑み、今回の徳雪斎周長の暗殺劇を、芳賀高継の独断先行によるものと結論づける。

 二年前の益子城攻めの後の評定で、徳雪斎周長に嘲弄されて顔を真っ赤にしていた芳賀高継の姿を思い出す。

 恨みが積もり積もって暴発したのだろう。


 討った芳賀高継も、討たれた徳雪斎周長も、良い大人がいったい何をやっているのか。






<1579年 7月>


 鹿沼城を占拠した大門資光は、今度は日光を手中に収めようとして失敗。

 日光山門徒に斬り捨てられた。


 無主の地となった鹿沼を容易くゲット。

 もともと徳雪斎周長の日光支配を寄進やら何やらで経済的にサポートしていたのが、我ら二階堂家である。

 日光山側としては、二階堂家の鹿沼支配はモアウェルカムであり、スムーズに占領が進んだ。


 多気山城の宇都宮家は指を加えて見ているだけ。

 芳賀高継は自領の真岡城に篭り、二階堂家に対抗する為、佐竹家に対して下野出兵を矢のように催促していた。

 佐竹家は辟易している、とは目の前に座っている佐竹家の外交僧の岡本禅哲の言葉である。


「さて、禅哲殿。この度の芳賀高継の暴挙、落とし前を付けるには高継の切腹しかあるまい。貴殿から説得してくれぬか」


「難しゅうございましょう。真岡城には宇都宮伊勢寿丸殿の弟御が居られます。人質も同然ゆえ」


 先年の佐竹義重の差配で、芳賀高継の養子に入っていた。

 佐竹義重にすれば甥にあたる。


 佐竹義重はこのまま兵を引けと言いたいのだろう。

 壬生と鹿沼が手に入ったのだから、それで良いだろうと。


 表向きは宇都宮家中での内紛であり、その一方の領地を二階堂家は勝手に横領している。

 冷静に見れば宇都宮家への侵略と変わらない。

 しかし、二階堂家を排除出来るだけの兵力が、今の佐竹家には無い。

 下総で向き合っている北条氏政の三万の軍勢が、それを許さなかった。

 事前の予想よりも千葉良胤に呼応する千葉一門が少ないようで、佐竹義重は苦戦中である。


 そこで提案だ。


「禅哲殿はご存知だろうか。我が手の者に調べさせたところ、芳賀高継は北条家へも救援を求める使者を送っているようだ」


「なんと!まことにござるか」


 驚く岡本禅哲に畳み掛ける。


「もし我が二階堂家が真岡城に攻め寄せれば、北条氏政は手勢の一部をこちらに回さざるを得まい。そうなれば義重殿の成田城支援も、だいぶやり易くなると思うのだが」


「むむむ」


「戦さの後に芳賀領の支配を認めて頂けるのなら、北条軍の一部を受け持つことお約束しよう。伊勢寿丸殿の弟御の命も極力守るよう差配する。この条件でどうであろうかのう?禅哲殿」


 佐竹家としては、ここで二階堂家とその背後にいる伊達家と敵対、という選択肢は端から存在しない。

 答えはもう出ているはずだが、持ち帰って検討したいと述べる岡本禅哲を見送る。


 援軍の北条軍を撃ち破って真岡城を攻め落とせば、今回の遠征の戦果は最大化される。

 壬生・鹿沼・芳賀の都合八万石近くの領地が手に入り、下野の制覇は目前となる。

 手を緩めるつもりはさらさらなかった。


 もうアクセルを緩めている余裕など無いのだ。


 敵は北条氏政か、氏照か、氏邦か、はたまた氏規か。

 誰であろうと関係ない。


 最期まで全力で行かせてもらう!




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