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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第七章 before 1581
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42/93

1578-2 踏破

<1578年 7月>


 越後で御館の乱が続く中、房総の里見が滅んだ。

 相模の太守、北条氏政に潰された。


 佐竹義重に奪われた常陸の牛久城と引き換えに、北条氏政は安房と上総の二ヵ国、石高にして四十万以上をその版図に加わえる。

 さらに里見家に保護されていた小弓公方、足利頼純とその子息たちの身柄を抑えることにも成功する。

 これで古河と小弓の二つの関東公方が、北条家の手中に収まった。

 上杉謙信の死によって関東管領が消滅した今、北条氏政が名実共に関東の覇権を握りつつある。


 里見の残党狩りを優先したい北条氏政は、同盟勢力である武田勝頼に実弟の上杉景虎支援を依頼。

 武田勝頼は北条氏政の要請に従い、二万の兵を上越に向けて進発させている。

 また、上州の厩橋城主の北条景広が景虎方として参戦し、三国峠を越えて中越に乗り込むべく宮野城攻めを開始した。


 これらに合わせて動いたのが、出羽庄内の大宝寺義氏だ。

 大宝寺義氏の父の大宝寺義増の頃より、大宝寺家は下越の村上城主の本庄家と繋がり深い。

 ただ大宝寺義氏は、景勝方の本庄繁長と連携するかと思いきや、景虎方の息子の本庄顕長の方と手を組み、五千の手勢を率いて下越に乱入する。

 我ら仙台鎮守府の越後内戦不介入の宣言を尻目に暴れ回り、景勝方の揚北衆と交戦中である。


 これらの国外勢力の支援により、若干ながら景虎方が優勢な状況で推移する御館の乱。


 そんな中、仙台城下の我が二階堂屋敷では、病臥した伊達晴宗が最期の刻を迎えようとしていた。






 伊達家の先の当主にして、我が義父である伊達晴宗。

 梅雨頃から体調を崩し始め、先頃完成した仙台城内の二ノ丸屋敷に移ることなく、二階堂屋敷に逗留を続けていた。

 義母の笑窪御前と我が妻の南の方の看病も虚しく、ここ数日で症状が一気に悪化。

 晴宗の要望で青葉山に使いを出し、輝宗殿と政宗ら親族一同をその枕元に呼び寄せた。


 晴宗が駆け付けた輝宗殿に掠れた声で語り掛ける。


「わざわざすまぬな」


「父上、何を仰られる」


「輝宗よ。上杉謙信が亡くなった今、お前の読み通り織田信長は東国まで踏み込んで来よう。もしその信長と手切れすることになれば、必ず奥羽の外で戦え。盛義がその為の策を練っている。その策に乗れ」


 俺の方を見てニヤリと笑う晴宗。

 そんなに期待されても困るんだが。


「政宗」


「はっ。お祖父様」


「こやつを上回らねば天下は取れぬぞ。二階堂盛義を超えよ」


 煽られてしまった。

 政宗、ムッとして「無論のこと!」と吠えている。

 将来族滅はマジ勘弁だな。


「近頃夢を見る。西山城で父を閉じ込めた時の夢よ。もしあの時、実元を越後に送るのに反対していなかったら、伊達家はどうなっていたであろうな。今頃は東国に覇を唱えていたやも知れん。俺の決断で伊達家は二十年無駄にしたのやも知れん。今になって後悔がこぼれてくる。ふん、俺らしくもない」


 皆が晴宗の独白に耳を傾ける。


「もう身内争いで刻を無駄にしている暇など無い。政宗、輝宗と仲良くやれ。皆も二人をしっかり支えろ」


 これは俺の遺言だ。

 そう呟いて目を瞑る晴宗。


 最後までダンディであった。






 天正六年五月二十日。


 伊達家十五代晴宗逝去。

 享年六十歳。


 保山公と諡号す。


 天文の大乱という産みの苦しみに堪えつつ、(うつろ)による奥羽の馴れ合い統治を打破する。

 そして奥州探題職就任や晴宗公采地下賜録の制定により、領国支配を強化した。

 次代の輝宗殿の躍進の土台を整えたのは、まさしく伊達晴宗その人である。

 良い意味でも悪い意味でも、伊達家の有り様に大きな変革をもたらした君主であった。


 俺が世に出られたのも、晴宗に見出されたからと言っても過言ではない。

 南の方や輝宗殿との縁を繋いでくれたのも晴宗だ。

 頭が上がらない。


 晴宗の期待に応える為にも、知識チート全開で伊達家の敵の排除に努めようと思う。

 俺の残り時間も残り少なくなってきた。


 多少強引な手を使うのも止むを得まい。






 北山五山として米沢から移された東昌寺で、粛々と葬儀が執り行われる。

 

 葬儀の最中、喪服の南の方が語りかけてくる。


「この半年余り、親孝行する機会を作ってくれて感謝する。この仙台の町を父に見せてくれたこともな」


 妻のその瞳の色を見れば、偶然ではないと気付いているのは明らかであった。


 南の方は俺が未来を把握していることを知っている。

 これまで俺の知識が著名人物の寿命にまで及んでいるのは曖昧にしていたが、もう誤魔化しきれまい。


「夫殿。教えてくれ。貴方自身の命数はあといくら残っているのだ?」


 南の方らしい大上段の問いだ。

 家督の件から推測したのだろう。


「さて。わからん。既に須賀川二階堂家の有り様は、俺の知っている未来とは大きく外れている。最早死ぬも八卦生きるも八卦よ」


 お茶を濁しておく。


 戦さで死ぬるは別にして、天命は避けられない。

 祖父の伊達稙宗に始まり、北条氏康、武田信玄、上杉謙信、里見義弘、そして今また黄泉路に旅立った伊達晴宗。

 これまでの先人たちの命日から類推するに、前後したとしても良くて半年程度。

 つまり、あと三年あるかないか。


 ずいっと顔を近づけられて脅迫される。


「私より先に逝くのは許さない」


「もちろんだ」


 堂々と守れない約束をする。


 俺の下手な嘘など、とっくにお見通しで。

 悲しい目で見つめられ、ふんっとそっぽを向かれてしまった。






<1578年 9月>


 伊達家の四十九日の忌が明ける。


 下越で五十公野治長に苦戦中の大宝寺義氏は、葬儀にも、初七日法要にも、四十九日法要にも、弔問の使者を寄越さなかった。

 また、忌中に輝宗殿の正室の東の方が姫子を産んでいたが、忌明けに届けるべき出産祝いの品も大宝寺義氏は怠っていた。


「鎮守府に敬意を払わぬ大宝寺義氏は不届き千万なり。また奥羽の平穏を乱すその行い、鎮守府将軍として決して許せん!」


 輝宗殿の庄内征伐の号令に、大宝寺義氏の無礼に憤っていた伊達家中の者共は沸き立った。

 新たに産まれた主君の二の姫に勝利を捧げるべく、刀槍を掲げる。

 なお輝宗殿は六月に産まれたその姫子に、杏子と名付けている。


 仙台から葛西大崎以外の領地への動員令と、奥羽中南部の諸家に対して出兵要請が飛ぶ。

 全軍が村山郡の舟形に集結し、舟形街道を通って庄内に踏み入ることが決定した。

 なお、我が二階堂家は北関東に大兵を動かした北条氏政に備える為に、表向き今回の戦さへの参陣は不要とされる。


 御館の乱は混迷を深めている。

 北条氏政の要請で越後に出兵した武田勝頼がやたら怪しい。

 中立を装いつつ、明らかに景勝方に利する動きを見せていた。


 北条氏政も武田勝頼に不審感を抱き始めたようだ。

 占領間も無い房総を離れ、上州の厩橋城まで出陣して武田勝頼にプレッシャーをかける。

 そして北条氏邦の軍を中越に向けて進発させた。


 そんな中での奥羽の雄、伊達家の参戦だ。

 それも景虎方の大宝寺義氏を討つともなれば、北条氏政を更に刺激しそうであった。






<1578年 10月>


 舟形に集結する三万の鎮守府軍。

 小野寺景道の参陣が遅れていた。


 庄内攻めへの味方を約束しつつ、鮭延秀綱に自領最南端の真室城を固く守らせ、小野寺軍の本隊は雄勝の湯沢城に留まったままだ。

 「嫡男光道の病が癒え次第、後から追いかける」との連絡があったとの話だが、庄内に攻め入った伊達家の後方を断つ気満々だ。


 八柏道為への説得は無駄になった。

 諫める八柏道為を振り切って、小野寺景道は妻の実家を守る道を選んだというわけだ。


 伊達家が小野寺家の動きを待てば待つほど、それはそれで大宝寺義氏の為の時間稼ぎになってしまう。

 戸沢盛安と和賀義忠と連携して小野寺景道を討つよう、輝宗殿に手紙を書き送る。

 そして須賀川を三千の兵で出立する。


 向かう先は六十里越街道。

 月山と湯殿山の麓を通る修験道だ。

 険しい道である。


 窮地に陥った大宝寺義氏は、史実に鑑みて織田信長に後ろ盾を頼み込むはず。

 その前に一気に庄内を制圧すべく、舟形街道を攻め下る輝宗殿の本軍に隠れて、奇襲を敢行する手筈となっていた。


 庄内の田川郡を目指し、二階堂家の精兵で踏破する。


 六十里越街道を抜けた先。

 庄内平野に至る山間に名川城はある。

 田川郡への入り口を守る関門であった。


 庄内勢の大部分は舟形街道側に布陣しており、こちら側の兵数は少ない。

 ざっと戦闘モードで確認したところ、兵士の数は千に満たなかった。

 一気に攻め立てる。


 俺に率いられて数多の戦場を巡ってきた二階堂家の精兵たちは、まったく手慣れたものである。

 昼も夜も間断なく名川城を攻め立て、城兵に損耗を強いていく。


 そもそも庄内勢は兵が足らず、後詰めは望めない戦さだ。

 城を守る武藤何某は、主君に忠義して玉砕することを良しとせず、早々に降伏を選択する。

 将来悪屋形と呼称される大宝寺義氏の普段の家臣たちへの態度の影響が、ここ一番の大事な戦場で発露してしまったと言えよう。


 城兵たちの退去と引き換えに名川城は開城。

 予定通りに庄内平野への侵入を果たす。






<1578年 11月>


 田川郡の南の守りである丸岡城を攻略し、大宝寺氏の父祖の地である大宝寺城まで侵攻した頃には、庄内を巡る戦さは決着していた。


 船形に集結した鎮守府軍は、輝宗殿率いる一万八千と政宗率いる一万二千に別れ、西と北に進軍する。


 初陣の政宗は、輝宗殿から小野寺攻めを任されて欣喜雀躍。

 伊達実元と梁川宗清に補佐され、まずは小野寺方の鮭延秀綱が守る真室城攻めに向かう。

 鮭延秀綱が八百の兵で守る真室城を、二千の兵で包囲する政宗。

 そして一万の兵で有屋峠に進軍し、後詰めに現れるであろう小野寺勢五千を迎え撃つ体制を取る。


 その間に輝宗殿の軍勢は、留守政景を先陣に舟形街道を西進する。

 下越から慌てて戻った大宝寺義氏は、数の多い鎮守府軍の侵攻を隘路で防ぐ為、舟形街道の清川関に陣を構えていた。

 兵の数は羽黒山信徒衆も含めて六千と鎮守府軍の三分の一ではあったが、狭い戦場での戦いとなって大兵の利は生かせない。

 戦端を開いてしばらくは互角の戦いが続く。


 しかし、我ら二階堂勢が庄内に侵入した知らせが届き、大宝寺勢は裏崩れを起こしていく。

 まず由利衆の離脱から始まり、予め調略済みであった観音寺城主の来次氏秀の離反が発生して、伊達軍の攻勢を支えきれなくなった。

 崩壊と追撃が始まる。


 屋浦城まで逃れた大宝寺義氏は、腹心の前森蔵人にも裏切られて自刃。

 屋浦城のある高館山まで兵を進めた輝宗殿の下へ、その首が届けられる。


 大宝寺義氏、苛政を敷いて悪屋形と呼ばれる前の退場であった。






 屋浦城で輝宗殿と合流する。

 本丸から加茂港を見下ろしながら、庄内の統治や諸々の談義に及ぶ。


「政景が今頃酒田港を抑えている頃だ。残るは羽黒山の信徒衆だが、どう宥めるべきであろうか。義兄上、良い腹案は無いか?」


「大宝寺義氏の弟の義興に羽黒山別当職を継がせましょう。それで信徒衆の反発もある程度は収まるはず」


 大宝寺義氏が庄内を統治出来たのは、羽黒山別当を担って出羽三山の権威を背景にしていたことが大きい。

 されど時代の流れは政教分離だ。

 大宝寺義興にはあくまで修験道に励むことを助命の条件とし、下界の統治には一切関与させない。


「信頼できる留守政景殿をこの庄内に封じ、利府と黒川を輝宗殿の直轄領とするべきです。庄内の統治と大崎葛西の開発。両方が上手く運びましょう」


「うむ。昭光の石川家の如く留守家も扱うということか」


 外様の長沼実国や、義弟の石川昭光は輝宗殿の命令で国替えしている。

 父祖の伝来の地から引き剥がされ家臣たちは主君を頼るしかなく、当主の力は一気に高まる。

 その当主が伊達家の一門の場合、最早伊達家に心腹せざるを得ない。

 奥州の名家である留守氏を完全に取り込む為にも必要な措置であった。


 さらに提案。


「政景殿には庄内で水軍を用立ててもらいましょう」


「なに、水軍とな」


「はい。越後と戦うには水軍の整備は必須。それに佐渡では金が取れると聞きます」


 まだ佐渡でゴールドラッシュは起こっていない。

 大規模な相川の金鉱脈が発見されるのは、関ヶ原の戦いで徳川家康が佐渡を領有した直後。

 それにまだ佐渡は上杉家も支配しておらず、本間家の領地であった。


 織田政権、もしくはそれに代わる勢力と向き合う上で、絶対に先に抑えておきたい超重要スポットである。

 それが佐渡ヶ島だ。




 鉱山と言えば、雄勝の院内銀山も佐渡に負けず劣らず重要スポットである。

 庄内攻めと並行して、鎮守府軍はその雄勝へも侵攻を目論んでいたのだが。


「有屋峠の戦い。結局痛み分けだったと聞きました」


「そう喧伝しているだけで実質は負けよ。初陣の政宗にはちと難しい相手だったわ」


 政宗は若干十二歳だ。

 責められるのは会津衆を率いていた伊達実元と、米沢衆を率いていた梁川宗清の両名だろう。


 有屋峠で小野寺勢五千とぶつかった政宗麾下の鎮守府軍一万は、八柏道為の軍略に引っ掛かって手酷い被害を被っていた。

 細長い間道に引き込まれ、隊列が間延びしたところに周囲から攻撃を浴びせられ、初戦で一千もの死傷者を出してしまう。

 翌日には若干ながら鎮守府軍側も盛り返したものの、戦線は膠着。


 結局、角館の戸沢盛安が小野寺家の北面を扼し、西和賀から和賀義忠が直接横手を狙う動きを見せたことで、小野寺勢は有屋峠から後退。

 それに合わせて鎮守府軍も一旦兵を退いていた。


 政宗は追撃を主張したようだが、もし攻めていたら八柏道為の術中にはまり、さらに被害を増していたことだろう。

 その点では実元殿は良く政宗を諫めたと言える。


「まぁ良いではありませぬか。小野寺勢の後詰めを追い返したのは事実。これで真室城の鮭延秀綱は孤立無援となりました。程なく降参いたしましょう」


 村山郡に唯一残った小野寺方の拠点の真室城では、鮭延秀綱が未だ奮闘を続けていた。

 史実では、最上義光の下で剛勇を奮った猛将である。


 輝宗殿も頷く。


「政宗にとって得難い経験になったであろう」


 既に奥羽には、伊達家を負かせるだけの戦力を持った敵勢力はいない。

 伊達政宗を英傑に成長させる為に必要な、人生の逆境が見当たらないのだ。


 それだけに、この敗戦は貴重な糧となろう。





「もうそろそろ冬が来る。雄勝攻めは来春となろうな」


 日本海の寒風を浴びながら輝宗殿が呟く。


 大宝寺家が滅んだ今、小野寺景道には最早周囲に頼れる勢力がいない。

 強いて挙げるならば檜山の安東愛季か。

 安東愛季の背後には、右大臣と右近衛大将を辞して無官となった織田信長がいる。


 朝廷さえも超越した存在と化した織田信長は、御館の乱を奇貨として北陸侵攻を加速している。

 先日には、飛騨方面から越中に侵攻した麾下の斎藤利治が、月岡野の戦いで上杉方の河田長親を撃破。

 富山城を支配下に置き、能登と加賀を完全に上杉家から分離することに成功していた。


 上杉家は内乱中で本国の越後から援兵を出せなかったのが痛かった。

 最早上杉に織田と戦う力無し、と諸国に知らしめた上杉家の敗戦となる。

 関東と奥羽の諸侯にも、織田信長の軍勢の足音が現実味を帯びて聞こえ始めたことだろう。


 小野寺景道に泣きつかれた安東愛季が、奥羽での自身の影響力を増す為に調停役を買って出て、織田信長の名前をチラつかせて来る未来が見える。

 安東愛季に織田信長への取り継ぎ役を自認されるのは厄介だ。

 奥羽に権威は二つもいらない。


 そうなる前に手を打つ必要がある。


「冬の間に由利十二頭の懐柔を進めまする。それと少々強引な手を使いますが、よろしいか?」


「構わん。また義兄上の手を煩わせてしまって申し訳ないが、存分にやってくれ」


 輝宗殿の許可は得た。

 面識もあり尊敬すべき敵将である八柏道為を陥れる策を講じるのは心苦しいが、これも戦国の世の習いだ。

 史実での最上義光の謀略、そのままなぞって使わせてもらおう。


 謀臣の守谷俊重に指示を出す。

 その瞬間、大事な何かを踏み破ってしまった感覚が心に残った。


 その何かとは、今まで無意識ながらも避けてきた、知識チートのボーダーラインだったのかもしれない。

 俺の二階堂盛義の戦国ライフは、新たなフェイズに移行しつつあった。






<年表>

1578年 二階堂盛義 34歳


01月

■仙台にて伊達輝宗の正室義姫(30歳)懐妊。

▽日向の伊東義祐(65歳)、島津の圧迫に耐えかねて逃亡。豊後の大友宗麟(48歳)に出兵を求める。

◆下総の結城晴朝(44歳)、下野の宇都宮国綱の弟朝勝(9歳)を養子に迎える。佐竹・結城・宇都宮の三者連合成立。

◆安房上総の里見義弘(48歳)急死。里見義頼(35歳)と里見梅王丸(8歳)が対立。

◆越後の上杉謙信(48歳)、次回の関東出征を三月十五日に定める。


02月

▽北日向の土持親成(59歳)、伊東家に敵対。薩摩の島津義久(46歳)と手を結ぶ。

■仙台の伊達輝宗(34歳)、奥羽の諸将に年賀の挨拶を要請。

▼和賀の和賀義忠(37歳)、仙台に出府。伊達家に臣従する。正室と三男を人質に出す。

▼稗貫の稗貫広忠(38歳)、仙台に出府。伊達家に臣従する。

▼二戸の九戸政実(42歳)、仙台に出府。伊達家に臣従する。

▼津軽の大浦為信(28歳)、腹心の沼田祐光(39歳)を仙台に派遣。伊達家に臣従する。

▼紫波の斯波詮直(28歳)、腹心の岩清水義長(34歳)を仙台に派遣。伊達家との友好を回復する。

▼雄勝の小野寺景道(44歳)、腹心の八柏道為(54歳)を仙台に派遣。伊達家の内実を探る。

▼角館の戸沢盛安(12歳)、病弱な兄の戸沢盛重(27歳)に代わって仙台に出府。伊達政宗(11歳)に臣従する。

☆遠江の徳川家康(35歳)、従四位下右近衛権少将叙任。

▽肥前の龍造寺隆信(49歳)、松岡城の有馬晴信(11歳)を降して肥前統一。

▷播磨進駐の羽柴秀吉(41歳)、毛利方の最前線である上月城を攻略。尼子再興軍に城を任せる。第三次尼子再興運動開始。

◆上総勝浦の正木頼忠(27歳)、北条氏政(40歳)に寝返る。上総の諸将が雪崩を打って北条方に鞍替え。

◆帰京した近衛前久(42歳)、准三宮宣下を受ける。


03月

◆常陸の佐竹義重(31歳)、牛久城を攻めて北条勢と激突。

◆相模の北条氏政(40歳)、房総制圧を本格化。佐貫城を攻めて里見義頼(35歳)を降す。

▷播磨の別所長治(20歳)、突如岐阜の織田信長(44歳)に敵対。三木城籠城。本願寺顕如(35歳)と毛利輝元(25歳)が長治を支援。

▶︎︎土佐の長宗我部元親(39歳)、阿波白地城を攻めて三好方の大西覚養(39歳)を降す。


04月

◆相模の北条氏政(40歳)、上総の里見梅王丸(8歳)を攻める。

▶︎︎土佐の長宗我部元親(39歳)、讃岐の香川之景(51歳)を攻略。次男親和(11歳)を香川家の養子に入れる。

▽豊前の大友宗麟(48歳)、日向に派兵。土持親成(59歳)を滅ぼす。千年王国建設のため日向北部の寺社仏閣を徹底的に破壊。

▷丹波の赤井直正(49歳)病没。明智光秀(50歳)の丹波攻略加速。

◆越後で上杉謙信(48歳)死去。御館の乱勃発。上杉景勝(22歳)と上杉景虎(24歳)が対立。

■米沢の伊達輝宗(34歳)、鎮守府の越後の内戦への不介入を宣言。


05月

☆遠江にて徳川家康(35歳)の側室のお愛の方(26歳)、家康の三男の長丸を産む。

★岐阜の織田信長(44歳)、右大臣兼右近衛大将を辞す。正二位の散位となる。

◆常陸の佐竹義重(31歳)、牛久城を攻め落とす。小田氏治(44歳)、下総に逃亡。

◆相模の北条氏政(40歳)、上総の久留里城を攻め陥とす。里見梅王丸(8歳)、仏門に入る。


06月

◆相模の北条氏政(40歳)、房総を制圧。小弓公方の足利頼純(46歳)と嶋子(10歳)と乙若丸(6歳)を保護。


07月

◆甲斐の武田勝頼(33歳)、北条氏政(40歳)の要請で上杉景虎(24歳)支援の為に越後へ出兵。

▼庄内の大宝寺義氏(27歳)、下越に侵攻。景虎方の揚北衆と連携。

■仙台で伊達晴宗(59歳)死去。伊達輝宗(34歳)、喪に服す。

■米沢にて伊達輝宗の正室義姫(30歳)出産。杏子姫誕生。


08月

◆甲斐の武田勝頼(33歳)、方針を転換して上杉景勝(22歳)と甲越同盟の締結。

▷播磨の羽柴秀吉(41歳)、信長(44歳)の命で三木城攻めに注力するため上月城から書写山に兵を引く。

▷播磨の毛利軍、上月城を攻略。尼子勝久(25歳)切腹。山中幸盛(33歳) 謀殺。第三次尼子再興運動失敗。尼子遺臣団壊滅。

▼津軽の大浦為信(28歳)、浪岡城を攻め落として北畠顕村(23歳)を自害に追い込む。


09月

▼庄内の大宝寺義氏(27歳)、下越で景勝方の五十公野治長(31歳)に苦戦。

★坂本の明智光秀(50歳)、織田信長の勧めで娘の玉(15歳)を細川藤孝の嫡男忠興(15歳)に嫁がす。

◆相模の北条氏政(40歳)、厩橋城まで出陣して武田勝頼(33歳)を牽制。

■仙台の伊達輝宗(34歳)、庄内派兵を決定。


10月

◆相模の北条氏政(40歳)、上杉景虎(24歳)支援を本格化。北条氏邦(30歳)を越後に派兵。三国峠を越えて坂戸城攻略に着手。

■仙台の伊達輝宗(34歳)、舟形に三万の兵を集め、大宝寺義氏(27歳)と小野寺景道(44歳)と対陣。

▽豊後の大友宗麟(48歳)、日向に入り牟志賀で連日のミサ。

◆岐阜の織田信長(44歳)、月岡野の戦いで勝利。加賀と能登が織田方に転じる。上杉家の勢力範囲が越中東部へ後退。

★摂津の荒木村重(43歳)、岐阜の織田信長(44歳)に叛く。小寺政職(49歳)も連動。

◎須賀川の二階堂盛義、来次氏秀(22歳)を調略。三千の兵で六十里越街道を踏破して庄内に乱入。


11月

■仙台の伊達政宗(11歳)、初陣を果たす。有屋峠の戦いで小野寺軍率いる八柏道為(54歳)に惜敗。

■仙台の伊達輝宗(34歳)、大宝寺義氏(27歳)を自刃に追い込み庄内を制圧。留守政景(29歳)を庄内に移封。水軍設立を命じる。

★摂津の荒木村重(43歳)、有岡城を訪れた黒田考高(32歳)を幽閉。


12月

★摂津で第二次木津川口の戦い。九鬼嘉隆(36歳)率いる鉄甲船が毛利水軍を撃破。

▽日向で耳川の戦い。豊後の大友宗麟(48歳)、島津軍に大敗。

▽豊後の大友家の高橋鎮種(30歳)剃髮。高橋紹運と名乗る。


-------------

▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州


<同盟情報[1578年末]>

[南奥]

- 伊達輝宗・二階堂盛義・田村清顕・相馬義胤・佐竹義重


[関東]

- 北条氏政・上杉景虎・千葉邦胤

- 佐竹義重・宇都宮伊勢寿丸・結城晴朝・那須資胤・江戸重通・多賀谷重径

- 武田勝頼・上杉景勝


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 49万石

・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 石川郡 18万7千石

・奥州 伊達郡 1万5千石

・奥州 信夫郡 1万2千石

・奥州 白河郡 7万4千石

・奥州 田村郡 2千石

・奥州 会津郡 3万石

・奥州 標葉郡 1万5千石(飛び地)

・奥州 楢葉郡 5千石(飛び地)

・野州 塩谷郡 3万2千石

・野州 那須郡 3万5千石

・野州 都賀郡 3万5千石

・野州 安蘇郡 2万石

・野州 芳賀郡 2万8千石


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― 新着の感想 ―
[一言] これは、新たなフェーズということは運命からも開放され寿命も延びるということですな!? せめて、南姫より長生きしてほしいものです、、、
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