1578-1 御館
〜 第七章 before 1581 〜
主人公:二階堂盛義 34歳 須賀川二階堂家7代目当主 従五位下 左京亮
正室:南の方 37歳
├嫡男:二階堂盛隆 17歳 - 正室:甄姫 18歳
├次男:勢至丸 8歳
└次女:元子 4歳
愛妾:吉次 28歳
├長女:吉乃 7歳
└三男:久丸 2歳
実弟:大久保資近 26歳 - 正室:彦姫 26歳
├姪:れんみつ 8歳
└姪:だんみつ 3歳
義弟:伊達輝宗 34歳 伊達家16代目当主 正四位上 左京大夫 鎮守府将軍
<1578年 2月>
天正六年一月。
伊達家が鎮守府将軍に任じられて初めての正月。
輝宗殿に策を献じ、奥羽の各地の諸大名に対して年賀の挨拶に訪れるよう打診させてみた。
当主自ら仙台に出府して忠勤を示す大名。
使者を寄越してお茶を濁す大名。
無視して手紙の返信で済ます大名。
まちまちな反応となる。
まずは奥州北部の大名連中だ。
浪岡城主の北畠顕村と、大浦城主の大浦為信。
両者は津軽の地で激しく争っている。
北畠顕村の方は「戦さで忙しいので今は無理だわ」とにべも無い返答。
偉大な祖先である北畠顕家が務めた役職を伊達家に名乗られ、思うところがあるのだろう。
反対に謀略だけでなく外交にも目端の効く大浦為信の方は違った。
使者として腹心の沼田祐光を送ってくる。
仙台城の大広間での輝宗殿への謁見。
列席する重臣たちの左右の列の先頭は伊達政宗と俺、二階堂盛義だ。
沼田祐光。
甄姫を須賀川に連れてきて以来となるので、十三年ぶりである。
相変わらずの陰陽師スタイルであった。
一通りの挨拶のやり取りを終えた後、輝宗殿が沼田祐光に問い掛ける。
「大浦為信は浪岡の地で争いを起こしているようだが」
鎮守府将軍として、伊達家は奥羽の静謐を守る役目を担うこととなった。
北畠顕村と大浦為信の争いを仲裁せねばならない立場である。
「然り。我が主人に津軽一円の差配を任ぜられれば、伊達家への忠誠を誓う所存」
「面白い」
沼田祐光は下手な言い訳はせず、こちらが欲する言葉だけを提示してきた。
名族を驕って仲裁の機会を跳ね除けた北畠顕村に比べ、はるかに印象が良い。
チラリと輝宗殿がこちらに視線をよこす。
無言で頷く。
輝宗殿が沼田祐光に対して命ずる。
「良かろう。北畠顕村を討って津軽三郡を平定せよ」
「諾。御下命、承り候」
ここで制止しても、津軽三郡四万五千石を巡っての大浦為信の野望は止まるまい。
ならば恩を着せておくに如かず。
古き権威など最早奥羽には不要。
北畠顕村はその見せしめだ。
三戸城主の南部晴政と、二戸城主の九戸政実。
南部晴政は国内が不穏とのことで、代わりに九戸政実が仙台までやって来る。
一昨年に石川信直に嫁いだ晴政の娘が死去して養子縁組が解消となった後、石川信直は姿を隠している。
南部晴政は石川信直に不信感を抱き続け、嫡男の晴継を昨年に僅か八歳で元服させた上で、九戸党との連衡を強めていた。
久慈郡と二戸周辺に勢力を広げる九戸党には、南北朝時代に我が祖先の二階堂行朝から分枝した一族が入り混じっている。
その縁をアピールして、個人的に九戸政実とは近年手紙のやり取りをしていた。
俺から懇切丁寧に一度仙台まで足を伸ばして欲しいと手紙を書き送った結果の、九戸政実本人の来仙である。
九戸政実と言えば、豊臣秀吉の天下統一の最後の戦さとなった、九戸政実の乱が有名だ。
そもそも南部家は奥州北部の諸侯の連合体であり、九戸氏は南部家の配下ではなく親族や同盟者的な立ち位置にある。
小田原で豊臣秀吉に謁見した南部信直が「九戸領も南部家のものですが何か?」と申告した為に軋轢が生じ、乱へと発展する。
大浦為信はそこら辺を上手くやり、南部信直よりも前に謁見して、実効支配中の津軽地方を所領として確定させたのだが。
要するに九戸政実は、戦さは強いが外交センスに欠けた、武力偏重の武者だったと言えよう。
逆にそれがアテルイや安倍貞任など、中央に騙されて儚く散っていった蝦夷の英雄たちに通じるものがあり、浪漫である。
来訪を知らせる先触れを受け、二階堂屋敷の表門まで迎えに出る。
見事な南部駒に跨った一行が現れた。
九戸政実は四十三歳の壮年の武将。
九戸一族を統率して天下を敵に回しただけあり、威厳がある。
「おお、お会いしとうございましたぞ。身共が二階堂左京亮盛義でござる」
「九戸政実に候。お招きに預かって参上した。ご厄介になる」
遠い親族という事で、我が屋敷に逗留させる。
風呂を馳走した後に宴を開き、その鉄腸を蕩かす為にあらゆる手管を使う。
妻の南の方を宴の席に呼び入れ、九戸政実にお酌をしてもらう。
俺の妻の南の方は、奥州では相当な有名人であった。
年増となって艶に磨きがかかり、その美貌の迫力も大いに増した感がある。
「よう参られた。我が二階堂家自慢の清酒だ。さぁ一献」
「奥州の今巴に酒を注いで貰えるとは光栄じゃわい。わはははは。良い土産話が出来たわ」
九戸政実は上機嫌で杯を重ねていった。
九戸から参った供の者たちも夢見心地のようだ。
そして歓待の宴を終えた後、夜半に密かに輝宗殿が我が屋敷に来訪。
俺に連れられて九戸政実の部屋に向かう。
九戸政実と輝宗殿と俺の三者で、緊急会談を開始する。
「政実殿、この通りだ。明日の会見で儂が上段より色々偉そうなことを口にするが、気を悪くせずにハハーと頭を下げてくれぬか」
「なに格好だけで結構。鎮守府将軍の面目を立てて下さるだけで良い。決して悪いようには致しませぬ」
輝宗殿と二人で九戸政実に頭を下げて頼み込む。
奥羽のナンバーワンツーの平身低頭である。
プライドを満たされた九戸政実はこれに応じてしまう。
「むむむ。御両者とも頭をお上げ下され。ただ平伏するだけでよろしいのですな」
翌日、仙台城の謁見で、九戸政実は伊達家諸将の前で輝宗殿に臣従の意を評してしまう。
やはり政治力は高くなかった。
輝宗殿は上機嫌で九戸政実に城下の屋敷を下賜。
南部家とは別の敷地を用意させた。
土産も主従ともどもたんまり持たせてやる。
三戸の南部晴政は久慈郡、糠部郡、閉伊郡、鹿角郡と岩手郡の一部に勢力を張り、現時点では五万五千石程度の所領を持つ。
九戸政実の所領はそのうちの約一万三千石を占め、居城の二戸城は南部宗家の三戸城を凌ぐ広さであった。
石高だけ見れば小勢ではあるが、南部駒を揃えた九戸党の騎兵部隊は奥州最強の呼び名が高い。
史実の南部家は、石川信直が当主の座を継いだ後に南下の動きを強めていく。
前九年の役の折、安倍頼時は源頼義との本戦場ではなく、北方で謀叛を起こした安倍富忠の鎮圧に失敗して果てている。
いずれ上方勢と対峙することも想定し、安倍頼時と同じ轍を踏まぬよう、今のうちに北の牙を抜いておくのに如くはないだろう。
高水寺城主の斯波詮直。
三年前から最上義光の一家を匿っている。
また同族の大崎斯波家を我らに滅ぼされており、友好度はかなり低い状態だ。
そこに今回こちら側から関係改善の手を差し伸べた形になる。
近年の高水寺斯波家は南部晴政にその所領をだいぶ侵食されていた。
通常の政治センスを持った大名ならば、寄らば大樹の陰とばかりに遮二無二仙台まで駆け付けてくるはず。
しかし斯波詮直は名族特有のおっとりさを発揮し、とりあえずの使者として岩清水義長を出してきた。
大広間で輝宗殿への謁見に臨んだ岩清水義長は、最上義光の庇護の件について冷や汗を浮かべながら弁明して来る。
「御所様は義光殿から源氏相伝の鬼切丸を献じられたが故、ただ高水寺逗留を許可したまで。鎮守府に楯突くつもりは毛頭ござらぬ」
鬼切安綱。
初代使い手は坂上田村麻呂。
その後に源頼光から渡辺綱、源頼仲らを経由して永らくは北条家の手に渡っていたが、新田義貞が鎌倉制圧時に入手。
そして藤島の戦いでその新田義貞を討った斯波高経が、子孫の最上家まで伝えていた。
最終的には天正最上の乱の折に最上義光が山形城から持ち出し、現在は斯波詮直の手中に収まったというわけだ。
斯波の奥の御所と呼ばれる名家を継いだ斯波詮直にしてみれば、何物にも代えがたい逸品であろう。
受け取った後に約束を反故にしないのは、斯波詮直の人の良さか。
大名としては致命的なような気もするが。
最上義光が大人しくしている限りは、事を荒立てる必要は無い。
去年の暮れに第四子の懐妊が明らかになったお東の方の懇願もあったようで、輝宗殿も特に咎め立てはしなかった。
「出羽へ戻る素振りを見せぬならば、追討するまでもない」
輝宗殿の発言にホッとしている岩清水義長に対し、怒涛の接待攻勢の開始だ。
宴の場では輝宗殿に代わり、岩清水義長個人に最上義光の監視役を打診する。
「大崎夫人が高水寺で産んだ高楡小僧丸殿は、すくすくと成長されていると聞いておる。その他なにか変わったことがあれば、必ず我らの耳に入れよ」
「しょ、承知仕った」
伊達家の二百万石越えの勢力に対して、紫波郡と岩手半郡のおよそ二万石の高水寺斯波家では、端から勝負にならない。
岩清水義長に否やは無い。
頼りない御所を支える岩清水義長の苦労は、まだまだ続きそうだ。
二子城主の和賀義忠と、鳥谷ヶ崎城主の稗貫広忠。
和賀と稗貫の両家は殊勝にも当主自らが仙台城までやって来た。
従属関係にあった斯波家から鞍替えし、共に伊達家の傘下に入ることを申し出て来る。
その忠誠を受け入れた輝宗殿は、両者へ仙台城下の屋敷を下賜する。
和賀義忠が言上。
「ありがたき幸せ。忠誠の証として、我が正室と先年生まれたばかりの三男を人質に出すことを誓いましょう」
直接領土を接している分だけ、和賀家の方がより積極的であった。
和賀義忠の三男となれば、恐らく将来の和賀忠親か。
「殊勝な申し出よ。城下の屋敷で養育するがよかろう」
輝宗殿が応ずる。
この会見により、和賀義忠の和賀・江刺郡四万石と稗貫広忠の稗貫郡一万三千石の所領は、伊達家の版図に組み込まれた。
豊臣秀吉には決して屈しなかった両者が首を垂れたのは、稗貫家が伊達家始祖の伊達朝宗の三男の系譜であった事が大きい。
伊達家側も同族ということで歓待ムードだ。
そして稗貫家の累代の当主には和賀家からの養子が幾度も入っており、現当主の稗貫広忠も和賀義忠の庶兄である。
その縁もあり、和賀家の方も伊達家への臣従への心理的抵抗感が薄くなっていた。
和賀家はかつて大崎地方にも大きな所領を持ち、有力な支族を多く抱えていた名門である。
今から百五十年ほど前の永享七年、伊達家の天文の大乱に匹敵する和賀の大乱を引き起こしている。
大乱で本領以外の領地と有力支族を失ってしまい、和賀家に連なる者たちは奥州の各地に散らばった。
和賀惣領家の和賀義忠が忠勤する姿勢を見せたのは、今後の伊達家の奥州支配の行く末にジワジワと効いてきそうであった。
続いて出羽の諸大名たち。
檜山城主の安東愛季と、大館城主の浅利勝頼。
北天の斗星こと安東愛季は仙台への出府を拒否。
手紙によると、ざっくり「自分、織田家直臣なんでー」とのこと。
安東愛季は南北朝の昔より檜山系と湊系に別れていた安東氏を統一した傑物である。
比内の浅利勝頼を組み従え、また湊騒動を通して旧湊系の豊島玄蕃を討ち果たして勢力を広げていた。
その勢力圏は、出羽のうち檜山・秋田・豊島の三郡と、浅利勝頼の治める陸奥の比内郡まで及ぶ。
石高的には七万五千石程度となろう。
律令の古代から、日本海側の越国や出羽の方が関東や陸奥よりも京と近かった。
出羽は海運を通じて京の文化圏に属しており、京と近江若狭を牛耳る織田信長とも通商しやすい環境にある。
遠く蝦夷地との北方交易も盛んな安東愛季を配下にするメリットを、織田信長も認めていた。
織田信長は安東愛季の臣従を許し、昨年の夏には朝廷を通して従五位下の位階を授けている。
今を煌く右大臣、織田信長の名前を出されると、伊達家も引き下がるほか無い。
安東家傘下の比内の浅利勝頼もまた「おいら、安東さんの舎弟なんでー」と出府を断って来る。
浅利家の現当主の浅利勝頼は、兄の浅利則祐を討って比内を手中に収めている。
その謀叛の折に援護してくれた安東愛季への義理立てであった。
史実の浅利勝頼は、いずれ比内の直接支配を狙う安東愛季に暗殺されてしまうのだが、この機会を活かせなかったか。
ここで伊達家に通じていればワンチャンあったものを。
酒宴の発生フラグが立ってしまっていた。
狡兎死して走狗烹らる、である。
角館城主の戸沢盛安。
出羽山本郡からは戸沢家十八代目当主の戸沢盛安が十三歳の若さで出府してきた。
兄の十七代目当主の戸沢盛重は生来病弱。
冬場の仙台出府に耐えきれないと判断されての急遽登板である。
戸沢氏は南北朝時代に南部家に雫石を追われ、角館に居を移した領主である。
山本郡北浦を領し、石高はこの時点で三万石ほど。
近年は隣国の小野寺景道に押され気味であった。
史実では夜叉九郎と恐れられるほど智勇に優れた武将に育つはずだが、その片鱗はもう見て取れる。
凛々しく涼やかで知性の高さが感じられる挙措であった。
「我ら角館衆を鎮守府の末席にお加え頂きたく、罷り越しました」
「うむ。よかろう。まだ年若いというのに立派なものじゃ」
戸沢盛安の臣従の誓いを受け入れた輝宗殿も感心している。
臨席していた伊達家嫡男の政宗は、同年代の戸沢盛安に親近感を抱いたようだ。
「政宗である。戸沢盛安、そなた幾つになる」
「十三になります」
その戸沢盛安の答えに羨ましそうな顔を見せる政宗。
政宗はまだ十二歳であり、初陣も未だであった。
「その年でもう当主か。俺と一つしか変わらぬではないか」
「病の兄になり代わり、兵馬を率いることと相成りました」
未だ先々代の当主である苦労人の戸沢道盛は存命だ。
今回の戸沢家の当主交代は、その戸沢道盛の判断によるものと聞いている。
「越後の上杉謙信に似ているな。彼の者も最初は病弱な兄に代わって当主となったと聞くぞ」
「是非あやかりとうございます」
「うむ。いずれ我らの時代が来よう。その時は共に天下に名を轟かせようぞ」
「はい。お供つかまつる」
それは幼いながらもしっかりとした主従の誓いであった。
史実の戸沢盛安は小田原攻めの秀吉の下へ駆けつける為に、増水中の大井川を泳いで渡りきるなど、かなりの無茶をやらかす。
その時に破傷風にでもかかってしまったのか、小田原にて二十五歳の若さで陣没している。
政宗の配下に収まったこの世界線では、その未来は回避されたと見るべきであろう。
夜叉九郎が独眼竜と共にどのような輝かしい功績を挙げていくのか、その行く末を見守れそうもないのは惜しかった。
大宝寺城の大宝寺義氏と、横手城主の小野寺景道。
大宝寺義氏は出府を拒否してきた。
返信によると、威丈高に「俺、上杉謙信に仕えてるんすよ」とのこと。
かつて越後岩船の本庄繁長が上杉謙信に叛いた折、先代の大宝寺義増はそれを支援した。
しかし上杉謙信にあっさり蹴散らされ、大宝寺義氏は人質として春日山城に預けられてしまう。
そして大宝寺義氏が元服した後、上杉謙信の後援によって大宝寺氏の当主の座を得ている。
関東管領の上杉謙信の庇護。
田川・櫛引・遊佐の三郡に合わせて由利半郡を含む約十六万石の勢力範囲。
そして良港である酒田を抑えての豊かな海高と、海運交易で生じる莫大な租。
この三つが大宝寺義氏のプライドの高さの源泉である。
また、かつて大宝寺氏は父を殺された小野寺景道を匿い、横手城主への復帰を後押ししている。
その縁で小野寺家とは三十年来の同盟関係にあり、小野寺景道の正室も大宝寺家の姫であった。
近年では共同で由利郡に進出し、由利十二頭を従えることに成功していた。
その雄勝の小野寺景道は、使者として八柏道為を送り込んで来る。
小野寺家の柱石にして軍師であり、大物だ。
平鹿・雄勝・山本半郡・村山半郡・由利半郡の約十五万石に勢力を伸ばし、雄勝屋形を称する小野寺家。
天正最上の乱とその後の白鳥長久の乱にて、村山郡を巡って伊達家と小競り合いがあった。
次に矛を交える時に備え、こちらの内情を調べる為であろう。
「二階堂左京亮盛義である。せっかく参られたのだ。仙台城を案内致すゆえ、見物されていくが良い」
輝宗殿から許可を得て、謁見を終えて下がる八柏道為を捕まえ、仙台城を連れ回して武器倉から何から全部見せる。
それと道すがら和賀家や戸沢家の臣従も伝える。
つまり伊達家が本気になれば、東から北から横手城を狙えるということを示しておいた。
八柏道為は五十代半ばの老将である。
その戦歴は長く、百戦錬磨の言葉がこれほど相応しい将もいないだろう。
父を討たれた小野寺景道が庄内へ逃れた折も、その脱出作戦の指揮を取ったのは彼であったと聞く。
それ以降、八柏大和守掟条々を定め、部下たちに侍の何たるかを示す事で軍の規律を正し、小野寺軍の勝利に貢献してきた。
まさに宿将だ。
「これは参りましたな」
一つ息を吐いて、張っていた気を緩める八柏道為。
「無駄な戦さは避けるよう、御屋形様に進言するといたそう」
「それが宜しかろう」
大いに伊達家の強勢をアピールし、我らに逆らうのは危険なことを八柏道為に知らしめる。
小野寺家へプレッシャーを掛ければ、波及して大宝寺義氏にも伝わる事だろう。
残る奥羽の大名は磐城の岩城家となる。
磐城平城の岩城常丸。
使者として船尾昭直がやって来る。
船尾昭直は岩城家累代の家臣ではなく、佐竹から送り込まれた家老だ。
佐竹家の使僧の岡本禅哲も同行しており、今や岩城家は佐竹家と一心同体であった。
謁見は輝宗殿の小言から始まった。
「佐竹義重殿、なかなか込み入った養子縁組を差配された様子。この輝宗に一言も相談も無かったのは、いささか心外よな」
「事後の報告となってしまい真に申し訳ありませぬ。先年同心した結城晴朝殿たっての願いにより、北条が動き出す前に急ぎ手配した次第」
岡本禅哲が言い訳する。
密かに交渉を進めていたのだろう。
この春、佐竹家と宇都宮家と結城家の間で一気に養子縁組と縁組が成立していた。
宇都宮伊勢寿丸の二人の弟たちが、それぞれ結城晴朝と芳賀高継の養子となる。
また結城晴朝の娘が、佐竹義重配下の那須資晴に嫁いだ。
同じく結城晴朝の妹が、佐竹義重配下の江戸重通に嫁いだ。
この一連の養子縁組と縁組で三家の連帯は一層堅固なものとなった。
ただ北条対策と言いつつ、ぶっちゃっけ下野への侵食著しい二階堂封じなのは明々白白だ。
下野の勢力図は二階堂47%、佐竹36%、北条11%、上杉6%と、我ら二階堂家が過半を制しつつある。
やはり下野国一ノ宮の宇都宮二荒山神社を抑えているのが強味であり、更に日光山の後押しもあるのも大きい。
そこでストップザ二階堂、というわけである。
俺からもチクリと嫌味を言ってみる。
「されど里見義弘殿が亡くなられたのは予想外でしたな。さっそく房総に割れる気配があるとか。佐竹義重殿も心中苦しかろう」
いくら西を固めようと、南が北条一色になってしまったら意味が無い。
先年の暮れの天正五年十二月五日。
下総にて北条軍と対峙中だった里見義弘が陣没してしまった。
享年五十九歳。
史実より半年ほど早い死である。
房相一和が成らず、戦陣のプレッシャーが里見義弘の死期を早めたものと見る。
里見義弘は遺言を定めていなかった。
弟の里見義頼と嫡男の梅王丸の間で、さっそく跡目争いが勃発しそうな塩梅である。
岡本禅哲が用件を切り出してくる。
「いかにも。本日はその事でお願いに上がり申した。里見家を救援すべく、関東への出兵をお願い致す」
輝宗殿が難色を示す。
「さて当の里見家からの使者が来たわけでもなし、ここで約束は出来かねるな。それに伊達家が朝廷より鎮守府将軍職を頂いてまだ日が浅い。陸奥での争いも治まっておらぬ。そのような折に関東出兵は外聞が悪かろう」
まずは里見家の面々が己らの家督が何処にあるのかをはっきりさせるのが先。
その上で大義名分を整えろ、という至極真っ当な意見であった。
遠征には人と金と兵糧の莫大なリソースが必要だ。
ほいほいと承諾するわけにはいかない。
俺からも援護射撃を入れる。
「三月の関東管領殿の出征を待たぬ限り、里見の救援は難しかろうと存ずる」
上杉謙信は手取川で柴田勝家率いる織田勢に痛撃を加えた後、七尾城で織田信長本人の出陣を待ち構えた。
しかし織田信長が畿内を動こうとはしなかった為、一旦越後まで引き上げている。
そして天正五年十二月二十三日に、里見義弘の死去を知って関東出征の大号令を発した。
我が二階堂家にもその出兵要請の連絡は来ている。
関東の些事に振り回されるな、との俺の忠告は役に立たなかった。
やはり現人神には何を言っても無駄だな、と達観中だ。
上杉謙信は三月十五日に関東出征の途につくと触れ回っている。
「それまでの間の二ヶ月ばかり、佐竹義重殿は常陸の防衛を考えて動いた方が宜しかろう。多賀谷家の跡取り息子の重経殿は若いながらに中々の猛将と聞く。それにお手前方の佐竹家同様に鉄砲の収集に力を入れているとか。多賀谷重経殿と連携して牛久城を攻めては如何かな。里見を急ぎ攻める北条への牽制にもなろうし」
牛久城は常陸南方に位置し、下総との国境にある北条方の城である。
先年の佐竹義重の攻撃で土浦城から追い払われた小田氏治が逃げ込んでいた。
図らずも佐竹義重の企図していた戦略を言い当ててしまったようだ。
船尾昭直と岡本禅哲の二人は互いに目配せして押し黙ってしまった。
話題を変える。
「さて今年は色々と忙しくなろう。常丸殿の元服の日取りは決まったかな。船尾殿」
「おう義兄上。そうであったそうであった。常丸殿は今年で十二歳か。政宗と同い年だな。元服には良い頃合いぞ」
輝宗殿も乗ってくる。
岩城常丸は伊達晴宗の長男である岩城重隆の息子となり、俺と輝宗殿にとっては甥であった。
更に付け加えるなら、我が姪のれんみつのフィアンセでもある。
れんみつはまだ九歳。
髪結いを終えてからの輿入れとなるので、婚儀は四年後になろう。
佐竹一色の岩城家中を塗り替えるのは中々大変そうであったが、そこは息子の盛隆の代に任せるしかあるまい。
<1578年 4月>
仙台の市中を潤し、排水を滞りなく行う予定の四ツ谷用水。
第一期計画分が晴れて完成する。
吉次の伝手で石切大工を参集出来たことが大きかったが、やはり特筆すべきは北楯利長の手腕だろう。
さすが後に神にまで昇り詰める男だ。
いよっ、北楯水神さま!
続いて第二期計画分も着工が開始しているが、北楯利長が我が陣営にいるメリットをもっと活かしたい。
既に北楯利長の手腕は、俺以外の伊達家首脳陣も認めるところとなっており、より大きなプロジェクトを任せられそうであった。
すなわち北上川水系の整備による大崎葛西一帯の大規模な穀倉地化である。
史実の仙台藩はこのプロジェクトに成功し、表高六十二万石のところ内高百万石まで生産能力を増やしている。
ただ家臣たちに各々の領地の開発を全部ぶん投げてしまった為、藩主の支配力は大きく下がってしまった。
与えられた土地と言うよりも、自分や祖先が必死に拓いた土地という思いが強くなれば、恩を感じるのはそれだけ難しくなる。
突き詰めれば、仙台藩が維新に乗り遅れて討伐される側に回ってしまった根本の原因であった。
輝宗殿が主体となっての計画的な開発が必要だ。
仙台城の一室で北楯利長と計画を練る。
「やはり利府と黒川の留守様の領地が邪魔ですね。資材を送り込む為の申請が煩雑過ぎます」
北楯利長の言う通りであった。
義弟の留守政景の領地は、仙台平野と大崎葛西の連結点を占めている。
一門で家臣とはいえ、留守家は歴とした外様であり、別の家である。
当然ながら素通りというわけにはいかない。
「しかしなぁ。替え地を用意しようにも適当なところがないぞ」
悩んでいるところに注進が入る。
小姓が大慌てで転がり込んでくる。
「左京亮さま!越後にて異変これあり!至急大広間に集まるようにとの、殿のお達しにございます」
一つ息を吐く。
そうか。
やはり北天の星が堕ちたか。
上杉謙信、十八回目の関東出征の準備中に卒中に倒れ、去る三月十三日に死去。
翌日には上杉景勝と上杉景虎の後継候補同士の間で諍いが生じ、上杉景虎方の柿崎晴家が春日山城内で暗殺され、上杉景勝が春日山城の本丸を占拠。
軍神の死と、それに続く越後を二分しての後継者争いを告げるその知らせは、日ノ本全土を震撼させた。
世に言う御館の乱の勃発である。
事態は一気に動き出す。
近畿では、上杉謙信の死に乗じて北陸を手中に収めんとする織田信長が、柴田勝家に改めて加賀侵攻を命じていた。
西国では、上杉謙信との織田信長挟撃策を諦めざるをえなくなった毛利輝元が、新たな策、荒木村重への調略を開始する。
東国では、上杉景勝と上杉景虎の双方からの親書が飛び交い、諸侯が景勝方と景虎方に別れて相争う形勢となりつつあった。
そしてこの奥羽である。
輝宗殿の参集により、一門重臣一同で伊達家が取る道が議論される。
議論の遡上に載ったのは三つの道であった。
一つは瀕死の里見家を助ける道。
しかしこれはもう手遅れだ。
里見義弘の死の直後から、正木頼忠ら上総諸将の北条方への鞍替えが怒涛のように始まってしまった。
勢いに乗った北条氏政は、水軍を使って直接安房に乗り込み、佐貫城を攻めて里見義頼を降伏させている。
その上で佐竹義重の牛久城攻めに見向きもせず、久留里城に寄る里見梅王丸を攻め立てていた。
上杉謙信の関東出征が始まる前に決着を着けようと全力を房総方面に振り向けた成果であった。
そして上杉謙信の死により援軍のあてが完全に無くなった里見家は自壊を始めており、北条氏政の悲願の房総制覇は目前だ。
我ら奥羽勢が兵を整えて仙台を出陣したとしても、今からでは到底間に合うまい。
次の一つは上杉景虎を支援する道。
先の関東管領の上杉憲政は上杉景虎を支援しているようである。
春日山城を占拠した上杉景勝に対し、上杉景虎は上杉憲政の居館である御館を本陣としている。
大義名分的には上杉景虎に若干の分があろう。
関東から逃れてきた上杉一門や、上杉景勝を推す上田衆と仲の悪い古志長尾家などが上杉景虎を支援している。
また上杉景虎の実家は北条家となり、当然北条家は上杉景虎を支援する姿勢を見せる。
北条家と同盟中の武田家も上杉景虎方に属する格好だ。
上杉景虎方は北条家が後ろ盾になっていることが大きい。
逆に言えば、上杉景虎を推すならば、我ら伊達二階堂連合は大きく戦略を転換することになる。
婚姻同盟中の佐竹義重との仲は難しくなるはず。
最後の一つは上杉景勝を支援する道。
やはり堅城と名高い春日山城を入手したのは大きい。
春日山の金蔵には、上方やこの奥羽との青苧の商売で貯め込んだ金が、たんまりと積み上がっているはずだ。
上杉景勝は直江信綱を初めとする上杉謙信の側近たちの支持を集めている。
乱の初期に上杉景虎方の柿崎晴家を誅せたのが地味に効いていた。
そして当然だが上杉景勝の出身元である上田長尾家が一番大きな支持母体となる。
勇猛で知られる揚北衆の大半が上杉景勝方となったのも強みだ。
ただ上杉景勝を推すとなると、これまで絶妙に避けてきた北条氏政との直接対決は避けられなくなる。
そして伊達家が勢力を伸ばせそうな先の下越と庄内はいずれも上杉景勝方であり、支援の旨味は少なそうであった。
得られるのは春日山城の金蔵の金くらいであろう。
議論は紛糾するも、一同の意見は上杉景虎支援の方向で固まりつつあった。
関東での北条家と佐竹家の争いの件は一旦棚に上げ、上杉景虎支援の件のみ協力するというのが、落とし所のようである。
俺は静観の構えだ。
俺と同じように黙ったままなのは、つまらなそうに議論を聞いていた政宗一人。
その政宗に輝宗殿が問う。
「政宗、お主はどう考える」
「知れたことにございます。両方討ち果たして越後を平らげてしまえばよい」
勢い込んで答える政宗。
剛毅なことよ、さすが若殿と一部家臣たちが阿諛追従する。
重ねて輝宗殿が問う。
「大義名分は如何にする」
「そのようなもの要りましょうか」
「要るな。力で抑え込んでも、越後の者どもは決して従うまい」
「なれば、天文のおりに実元叔父が越後上杉家の養子となる話があったはず。時宗丸を担いで乗り込めば良いのではありませぬか?」
時宗丸は伊達実元の今年十一歳になる嫡男だ。
後の伊達成実である。
ちなみに時宗丸にうちのお元を娶せてはどうか、という話が挙がっている。
まだお元は五歳と小さい為、先の話ではあったが。
「はははっ。如何に名族とは言え、越後中条氏の血では大義名分としては弱いな。しかし、よう考えた」
政宗の幼い思いつきの問題点を指摘しつつも、しっかりと褒める輝宗殿。
俺からも政宗を褒めておこう。
「とても面白き考えゆえ、是非採用いたしましょう」
「な、何!?」
俺の突然の発言に驚く輝宗殿と重臣一同。
「採用するのは三点。どちらか片方にはつかぬこと。両方とも滅ぼすこと。そして大義名分を強引に得ること」
「どういうことぞ!」
挑むように問うて来る政宗。
「されば輝宗殿。奥羽の諸将に対して、鎮守府としては此度の越後の乱へ不介入の立場を取ると通知なさいませ。従えとは決して書かず、ただ通知するだけでよろしい。しからば揚北の本庄繁長と関係深い庄内の大宝寺義氏は、必ず勝手に越後に兵を進めましょう。それはすなわち奥羽を統べる鎮守府に逆らったも同じ。庄内を攻める大義名分が立ちまする。両上杉が争う間に庄内を手に入れ、然る後に勝って疲弊した方を討てば良いのです」
佐竹との関係を悪化させず、北条との直接対決も避ける策であった。
正月に八柏道為に対して伊達家に逆らう不利を説いてある。
如何に大宝寺家と同盟関係にある小野寺家であっても、敵には回らないはず。
容易く庄内を攻略出来るだろう。
よしんば小野寺家が敵に回ったとしても、説明したとおり戸沢家と和賀家を使って牽制すれば良い。
雄勝には東洋一の大銀山である院内銀山が眠っている。
平和裏に国替えによる入手を想定していたが、逆らうならば滅ぼして銀山を得るまでだ。
「輝宗殿が鎮守府将軍となって初めての戦さになりましょう。奥羽の平定に尽くす戦さこそ相応しい。政宗殿の初陣にもぴったりではありませぬか」
俺の提示したこの策。
反対する者は誰もいなかった。
政宗が若干不満そうではあったが、初陣と聞いて心躍らせるのが先に立っている模様。
まだまだ幼くて安心する。
さて庄内の国人の来次氏秀あたりに調略の手を伸ばそうか。
由利十二頭の懐柔も必要だな。
六十里越街道の地図も取り寄せねばなるまい。
大宝寺義氏が動き出す前にやるべきことが沢山あった。
だがその前に。
西方に向けて軍神が好んだ須賀川の清酒を一献。
合掌。
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