1575-2 塩谷
<1575年 8月上旬>
気仙沼と陸前高田への遠征を終え、名生城に戻る。
大崎葛西の旧領で伊達家に歯向かう勢力は、これであらかた方が付いた。
胆沢城にて最上義光を見失った後、その行方を調査したところ、最上義光の一党は更に北に落ちていったようだ。
同族の斯波郡高水寺城主の斯波詮真を頼ったと見られる。
同じ源氏なので義経の北行伝説を彷彿とさせるな。
最上義光が出羽に向かわぬというのであれば一旦は放置する。
それよりも新たに得た領地はやたらと広大だ。
葛西六郡と大崎五郡の占領を優先する。
伊達領の最北端は胆沢城と定め、胆沢川より北の江刺は和賀義忠と稗貫広忠の兄弟に預けたままとした。
史実の和賀氏は関ヶ原の折に伊達政宗に利用されて和賀一揆を起こし、失敗したら一族皆大人しく切腹するほどの親伊達派だった。
稗貫氏も祖先は伊達家始祖の伊達朝宗の四男なので、両者とも今後取り込む機会は十分にあるだろう。
この数ヶ月は、長江月鑑斎に切腹を命じたり、気仙沼や三陸に遠征して本吉氏、熊谷氏、高田氏、浜田氏をまとめて成敗したりと、大崎葛西の残党狩りに終始していた。
名生城に戻ると、輝宗殿の大崎来着の知らせが舞い込んで来る。
輝宗殿は最上郡にて白鳥長久を討ち取ってその残党を駆逐し、更に村山郡を荒らしていた小野寺輝道を雄勝に追い払っている。
一連の戦さで天童頼貞と延沢満延以外の天童八楯は全て没落。
また最上郡の過半が伊達家の傘下に入った為、最上郡の統治はこれで万全となった。
伊達家の諸将と共に輝宗殿を名生城に迎え入れ、これまでの戦さの経緯と新領土の状況の報告を行う。
「論功行賞は米沢へ戻ってから行うが、皆の者、大いに期待してくれてよいぞっ」
輝宗殿は至極満足げである。
それもそのはず、白鳥、天童八楯、大崎、葛西の旧領全て合わせれば五十万石を余裕で超える。
また主人がいなくなった国分、長江の領土も伊達家に吸収される。
都合百五十万石以上の大領主だ。
傘下の二階堂家、石川家の所領も合わせれば百九十万石。
笑いが止まらないのも無理はない。
評定を終え、輝宗殿と遠藤基信との三者で会談。
そこで輝宗殿から恩賞が内示される。
「此度も義兄上には随分骨を折ってもろうた。弟の昭光には伊具あたりへの国替えを命ずる故、その旧領の石川郡を進呈しようと思うが如何かな」
石川郡は三万石程度の所領だ。
石高は低いが、隣接する本拠の須賀川の防衛が格段と楽になる。
飛び地を貰うと統治が大変なので、ここは謹んで受け取っておこう。
「しかし、この度の大崎攻め、誰がどう見ても義兄上が一番手柄ぞ。この程度の褒美では皆が納得しまい」
恩賞は石川郡だけでは無いらしい。
信夫郡の一部もくれるそうだ。
さらに遠藤基信が補足してくる。
「近く上方に使者を出しまする。朝廷に請願し、我が殿に相応しい位階を授けて頂く所存。盛義殿の新たな官位も合わせて請願致しましょう」
「ほう、輝宗殿は如何程の位階を求められるのか」
「まずは正四位あたりをと考えており申す」
流石に一足飛びに従三位は求めないか。
参議レベルであれば周辺の大名たちを刺激することもなかろう。
では俺には従五位上くらいを考えているのだろうか。
「義兄上には陸奥守をと考えておる。左京亮は嫡男の盛隆殿に譲ればよろしかろう」
せっかくの輝宗殿の申し出であったが、であればもっと欲しい官位があった。
「いや陸奥守は梵天丸殿元服の折まで取っておかれよ。それよりも欲しい官職がございます。是非にも下野守を頂きたい」
「な、なんと」
「義兄上、それは流石に難しかろう」
下野守は左京亮と同じ従五位下であるが、鎌倉より代々の宇都宮家の当主が引き継いできた官位であった。
「宇都宮広綱は病篤く、病床にあってまともに政務が取れない有様だとか。もしかすれば既に亡くなっており、それを秘匿しておるやもしれませぬ。嫡男の伊勢寿丸はまだ八歳の幼児。とてものことですが下野守の任に耐えられますまい」
須賀川からの知らせでは、この六月についに北条家による下野攻略が開始されていた。
小山城を守る小山秀綱は、北条氏照率いる大軍相手に苦戦していると聞く。
しかし、小山秀綱と友好関係にある宇都宮家は効果的な支援が出来ていない。
宇都宮広綱の生存は限りなく怪しかった。
「我が息子盛隆は日光山別当の孫娘を娶っております。日光山の後押しもありましょう。なに、宇都宮家の伊勢寿丸が成人するまでの繋ぎとでも言いくるめれば、きっと内裏も納得しましょうに」
大崎葛西攻めの恩賞というなら、これくらいの朝廷工作はやってもらわないとな。
遠藤基信は公家の武家伝奏の飛鳥井雅敦と連歌のやり取りをしているそうなので、その伝手も活用して頂こうか。
もちろん、その折は吉次に命じて公卿たちに金をばら撒く必要はあるだろうけども。
微妙な空気になっているのに気付かぬ振りをして、話題を変えてみた。
「上方に使者を送るとなると、織田信長にも何か贈られるのでしょうや?」
「お、おう。そうじゃ。先日遠江で武田勝頼をコテンパンに打ちのめしたと聞く。織田の天下は揺るがぬと見た。今のうちからよしみを通じておいて損はなかろうと思うての」
遠藤基信の進言とのこと。
機を見るに敏。
「織田信長殿は鷹狩りを好むと聞いておりまする。奥州の鷹と名馬は特に悦ばれましょうな」
遠藤基信のリサーチは完璧だった。
しかし、史実の伊達家よりも格段に勢力が増してるだけあって、贈り物もその分豪勢になっていた。
あ、そうだ。
あの逸話は本当なのだろうか。
この際なので確認してみようか。
「織田信長は茶も好むと聞いておりまする。珍しい茶器なども悦ばれるのでは?」
くくく、と輝宗殿が笑い出した。
「おう、それよ。義兄上、聞いてくだされや。この基信にも進物を用意させたところ、なんと家臣の源五郎が鋳た茶釜を持ち寄って参ったのよ。使い勝手が特に良いとな」
遠藤基信は何も言わずにすまし顔だ。
見栄を張らず己の分相応の贈り物を用意する、まさしく賢者の知恵であろう。
天下の茶人千利休も見たことのない、源五郎が鋳たる茶釜「名物遠山」。
俺も欲しいな。
後で作ってもらおう。
「義兄上も何か進物を用意されませぬか?共に送りましょうぞ」
はて。
鷹狩りに茶に、あと信長が好んだものと言えばなんだろう。
金平糖とかかな?
甘味か。
プリンのレシピと計量用の升のセットでも送ってみようか。
織田信長ならたんまり銭持ってるだろうから、カラメル有りの豪勢なバージョンにしよう。
本能寺の変が起こるかどうかはまだ分からない。
媚を売っておいて損は無いだろう。
<1575年 8月下旬>
急使が来る。
南会津にいる弟の大久保資近からの使者であった。
塩谷で変事発生。
塩谷義綱が和約を破って塩谷城を攻めた。
周辺の宇都宮家の諸将が塩谷義綱に味方しており、不意を突かれた塩谷城は既に落城。
塩谷義通は沢村城に命からがら逃れていた。
資近には南会津の兵の動員を命じる返事を送り、大崎葛西での残務を輝宗殿に申し送る。
合わせて進めていた千代の青葉山の縄張りの件も、遠藤基信に引き継いだ。
そして遠征軍を率い、急ぎ須賀川への帰陣の途につく。
徳雪斎周長にお願いしていた仕込みが上手く働いたようだ。
この機を逃すべからず。
須賀川に到着したら、事態は更に動いていた。
「源次郎、状況を教えてくれるか」
「はっ。既に沢村城の塩谷義通殿は、舅の岡本正親の守る松小屋城に逃れております」
須賀川城代の須田盛秀が応答する。
「沢村城も落ちたか」
「攻め手は喜連川の塩谷孝信の手勢だった模様」
好機と見て火事場泥棒に走ったな。
これはありがたい。
「殿の到着を待っていては松小屋城が危ういと、既に資近殿が南会津を進発され塩谷に向かっております」
ナイス判断!
妻の彦姫がもうすぐ第二子の産み月と聞いているが、頼もしいではないか。
松小屋城は塩谷義綱の猛攻に晒されており、何とか持ち堪えている。
大崎葛西への遠征を終えたばかりだが、須賀川城下で数日の休養と再編成を終えた後に今度は南に出立だ。
南会津の大久保資近には上三依より塩谷に進軍してもらい、本隊は最短ルートを南進だ。
松小屋城救援の大義名分を掲げ、塩谷までの道の確保を名目に、那須領を蹂躙するべく手筈を整える。
「源次郎、祐筆を呼べ!」
火事場泥棒を働いた塩谷孝信を庇護する那須資胤に対して、その非を弾劾する書状を発行。
塩谷までの道を貸さねば討ち払うのみと書き送ってやった。
那須を討って塩谷までのルートさえ確保出来れば、十六歳の若造の塩谷義綱など何程でも無い。
塩谷義綱のバックに付いている宇都宮家は、当主の宇都宮広綱が人事不詳もしくは既に他界しており、更に小山秀綱の支援でそれどころではないはず。
よしんば援軍の話が持ち上がったとしても、徳雪斎周長がうまくやってくれるだろう。
そして一番警戒しなければならないのは常陸の佐竹義重だが、今年に入って鹿島地方の経略に集中している。
史実と異なり、佐竹家は南郷からの白河の経略を諦めた代わりに、常陸統一を強力に推し進めていた。
大掾氏に入嗣していた叔父の昌幹が家臣団に追放されるのを強引に阻止し、大掾氏を完全に支配下に組み入れた。
ただし、常陸南部の鹿行に蟠踞する大掾氏一族、南方三十三館は佐竹家に不服従のままである。
先年に北条家の援護で土浦城を回復した小田氏治とも連携しており、佐竹義重に苦労を強いている。
史実の南方三十三館は、小田原征伐への参陣後に豊臣秀吉から常陸一国の支配を認められた佐竹義宣により、騙し討ちで一網打尽にされている。
この世界線では正攻法の佐竹義重とがっぷり四つだ。
佐竹義重が那須に構っている余裕は無く、彼に邪魔はされる恐れはとても低かった。
<1575年 9月上旬>
「では参ろうか!」
「はい、父上!」
二階堂勢五千を率い、息子の盛隆と轡を並べ、白坂より南に踏み出す。
我が父である亡き二階堂輝行の遺した願いが叶った瞬間であった。
自然と心と体が奮い立つ。
下野の那須郡に侵攻。
まず最初のターゲットは、将来奥州街道と呼ばれるこの道沿いに築城されている芦野城である。
迎撃に出てきた那須勢とその芦野城の麓で激突する。
上那須衆の千二百が前面に展開している。
那須資胤率いる那須勢の本隊の姿は何処にも見えない。
恐らく上那須衆が我らの攻撃を受け止め、芦野の細長い地形で間延びしたこちらの陣を、山間に潜んだ那須本隊が横合から突く構えだった。
十五年前の小田倉の戦いで、那須家が結城蘆名連合軍を撃退した時と同じ戦法だ。
違うのは盾役が入れ替わっているところか。
那須資胤の上那須衆への恨みは相当根深いものと見える。
我ら二階堂勢の武装は十五年前の結城蘆名勢とは段違いだ。
二階堂の鉄砲隊を甘く見てもらっては困る。
「源次郎、押し込め」
「ははっ。者共、かかれぇ!」
通常通りに戦って上那須衆に攻撃を加えつつ、那須本隊の突撃を待つ。
しかし一向に那須本隊の奇襲は始まらない。
そうこうする間に上那須衆は崩壊し、総崩れとなる。
遠くを見れば、一合も交えること無く戦場を離脱していく敵影があった。
その数はおよそ千五百。
那須勢の本隊で間違いない。
我ら二階堂勢の精強ぶりを間近で見せつけられて、上那須衆を見捨てたか。
奥村永福の離間の策が功を奏したと見える。
結果、捨て石にされた上那須衆を蹂躙するだけの戦さとなってしまい、芦野の戦いは我ら二階堂勢の圧勝となる。
逃げ遅れた芦野資泰はその場で降伏。
居城の芦野城を明け渡した。
首尾良く芦野城を手中に収めた我ら二階堂勢は、続いて3.6kmほど南に位置する伊王野城に向かう。
城に戻っていた伊王野資信は降伏を拒んだ為、仕方なく力攻めを選択する。
伊王野城を半日で攻め落として一夜を明かした後、次いで12km南方の白旗城に進軍。
白旗城は大関高増の居城であったが、大関高増は更に南の大関城にまで逃げており、無主の城となっていた。
白河勢の班目広綱に白旗城の守備を命じた後、西に7km離れた大田原城に軍勢を進める。
大田原城に迫ると、大田原綱清は抵抗を諦めて一人我が陣中を訪れて降伏の意を示し、開城した。
那須郡に踏み入ってわずか二日で、塩谷郡への道は確保された。
<1575年 9月中旬>
白旗城と大田原城に抑えの兵を配し、四千の軍勢で塩谷郡に突入。
朝駆けを行い、大田原城の西方11kmに位置する山田城を強襲する。
塩谷義綱派の筆頭の山田辰業の居城である山田城は、主将と共にほとんどの兵が出払っており、城兵は僅かであった。
松小屋城を攻める塩谷義綱の下への伝令を阻止する為、包囲を徹底して一気に攻め落とした。
静かに松小屋城に向かうと、松小屋城の北に布陣する弟の大久保資近の軍勢六百と、塩谷義綱の軍勢六百が対峙していた。
資近も到着したばかりらしく、突如現れた南会津勢の姿に塩谷義綱勢は慌てているようだ。
その隙を突いて塩谷義綱勢の後背に布陣。
我ら二階堂勢の兵員の数と士気旺盛ぶりを見せつけ威圧する。
塩谷義綱勢は戦う前から兵たちが方々に逃散し始めた。
塩谷義綱勢には近隣の宇都宮方の君島高胤や玉生高昌らが助勢していたが、構わず一緒に殲滅する。
「このっ、はなせ!」
捕縛した塩谷義綱が本陣に引っ立てられてくる。
息子の盛隆と同年代だ。
ちょうど松小屋城から岡本正親に連れられた塩谷義通が参っていた。
塩谷義通からの初対面の挨拶と援軍のお礼の言上を受けた後、義綱少年の処遇をどうすべきか相談してみた。
岡本正親が意見を述べる。
「この度の戦さにて、義綱殿に味方する者はあらかた成敗されております。最早義通様と争うだけの力はありますまい。義綱殿の暴走は後見の宇都宮家に監督不行届によるもの。その責を咎める書状と共に、義綱の身柄を宇都宮家へ送致しては如何でしょうや」
まぁそれが一番良いか。
頷くと塩谷義通はホッとした顔を見せた。
腹の違う兄弟だが、弟を討つのは忍びなかったようだ。
沢村城と塩谷城の奪還に向かう。
どちらも苦労無く取り返すことが出来た。
沢村城を火事場泥棒的に占拠していた塩谷孝信は、後ろ盾の那須資胤からの連絡を受けていたのだろう。
我ら二階堂勢の精強さを悟り、攻め取った沢村城を放棄して既に喜連川に退いていた。
塩谷義綱の身柄拘束を周知したところ、塩谷城は呆気なく開城する。
塩谷義綱の居城である川崎城も同様である。
塩谷義綱に味方した君島氏と玉生氏は、居城に迫ると早々に降参の使者を遣してきた。
これで喜連川領を除く塩谷郡全域は、我が二階堂家の勢力圏に組み込まれたわけだ。
下野の大きな楔を打ち込むことに成功した。
<1575年 12月下旬>
塩谷郡と那須郡北部の仕置きを終え、須賀川に帰陣して暫く経つ。
その間、米沢にて一連の山形、大崎、葛西の動乱に関する論功行賞が行われ、伊達傘下の諸将の大幅な国替えが決まった。
来春の移動に備え、皆が準備に追われている。
また朝廷の使者が米沢を訪れており、輝宗殿は正四位下の位階を得た。
そして宇都宮広綱の死去も明らかになる。
朝廷の使者が奥州に向かう途中宇都宮に立ち寄った折に、その事実が判明する。
宇都宮家中は動揺しており、身動きが取れないでいる。
引き渡した塩谷義綱の処遇も宙に浮いたままと聞く。
そんな折、俺は白河城下の吉次の実家の商家で娘の吉乃と戯れていた。
吉乃は満4歳。
可愛い盛りである。
プレゼントしたままごとセットで一緒に遊んでいると、奥村永福が現れた。
相変わらずふわりとした所作で涼やかな男振りである。
「京の吉次殿からの手紙にございます」
「おお、そうか。どれ吉乃、母御前からの大事な手紙を読まねばならぬゆえ、少し向こうで遊んで参れ」
吉乃の相手を家の者たちに任せ、奥村永福から受け取った手紙の封を解く。
吉次は織田信長の権大納言兼右近衛大将就任を知らせてきた。
ついに足利幕府の権威が消失したわけだ。
その他には、備中兵乱の顛末や、尼子再興軍の苦戦、宇喜多直家の謀反、長曾我部元親の土佐統一、近衛前久の九州下向など、奥州では手に入り難い西国の情勢が書き記されていた。
俺の知り得ている史実と概ね同じであり、安堵する。
最後に吉次は依頼していた猟官の状況も伝えてきている。
公達への金配りの甲斐あって感触は上々とのことで、大いに期待が膨らむ。
吉次は来春に奥州に戻るそうだ。
今から待ち遠しい。
早く春よ来い!
このとき俺は、吉次の文にあった織田信長が烏帽子親となって長曾我部元親の嫡男が元服したとの一文を、気にも止めずに読み進めてしまっていた。
長曾我部信親。
史実では豊臣秀吉配下の仙石秀久の無謀な采配により、戸次川の戦いで儚く散ってしまった土佐の大器である。
しかし、史実にはない二階堂家の隆盛と伊達家の奥羽一統が、巡り巡って彼の生存ルートへと繋がり、戦国の世を決着させる大戦さにて重要な役割を担わせ、やがてラスボスとも言える存在にまで成長させてしまうなど、とてもではないが予測など出来るはずもなかった。
<年表>
1575年 二階堂盛義 31歳
01月
◆越後の上杉謙信(45歳)、弾正少弼を長尾顕景(19歳)に譲る。顕景、上杉景勝に改名。
☆遠江の徳川家康(32歳)、大賀弥四郎を処刑。
02月
▼陸奥寺池の葛西晴信(41歳)、大崎攻めで最上義光(29歳)に討ち取られる。葛西領混乱。大崎合戦開始。
◎南会津にて大久保資近正室の彦姫(23歳)懐妊。
◆常陸にて佐竹義重正室の宝姫(23歳)懐妊。
◆常陸の佐竹義重(28歳)、南方三十三館攻略を開始。
▲宮城で大地震発生。
03月
■米沢の伊達輝宗(31歳)、大崎に留守政景(26歳)らを派兵するも、黒川晴氏(52歳)の裏切りで中新田城攻めに失敗。
▼大崎の最上義光(29歳)、葛西方に寺池城を攻略。柏山明吉を撃破して北へ進軍。胆沢郡へ乱入。
▼最上の白鳥長久(48歳)、大崎方として参戦。天童八楯の半数と連携して伊達方の寒河江城を攻め落とす。
▼仙北の小野寺景道(41歳)、大崎方として参戦。最上郡の伊達方の所領に侵攻。
■米沢の伊達輝宗(31歳)、山形に出兵。
◎須賀川の二階堂盛義、大崎攻めに出兵。大崎方の相馬軍を名取の座流川で撃破。相馬隆胤(24歳)討死。
◎須賀川の二階堂盛義、新沼城を解放。留守政景(26歳)らを救出。
■井伊谷の井伊万千代(15歳)、遠江の徳川家康(32歳)に近侍。
04月
▼北上の和賀義忠(34歳)、葛西方の江刺郡に攻め入って岩谷堂城を攻略。
▼大崎の最上義光(29歳)、胆沢城を攻略。葛西清高を討ち取る。
◎須賀川の二階堂盛義、氏家吉継(38歳)を調略して中新田城を攻略。大崎義隆(27歳)を捕縛。
■米沢の伊達輝宗(31歳)、延沢満延(31歳)を調略。白鳥勢を押し返す。
◎須賀川の二階堂盛義、長駆して胆沢城を攻略。最上義光(29歳)、身重の妙姫を連れて北へ逃亡。
▽肥前の龍造寺隆信(46歳)、東肥前平定。
05月
■米沢の伊達輝宗(31歳)、白鳥・小野寺連合軍を撃破。白鳥長久(48歳)を討ち取って白鳥城を占領。
★摂津で高屋城の戦い。織田軍勝利。三好三人衆の三好長逸(61歳)戦死。
☆遠江にて徳川家康(32歳)の側室の西郡局懐妊。
06月
☆甲斐の武田勝頼(29歳)、奥平貞昌(20歳)の長篠城を一万五千の兵で攻める。
☆遠江で長篠の戦い。武田軍大敗。山県昌景(46歳)、内藤昌豊(53歳)、馬場信春(60歳)、真田信綱(38歳)・昌輝(32歳)ら散る。
◆北信の真田昌幸(28歳)、家督を継ぐ。昌幸の嫡男源三郎(9歳)と真田信綱の息女音姫(5歳)と婚約。
07月
▷備中の松山城陥落。三村元親(34歳)切腹。備中兵乱終結。
▷但馬の山名祐豊(64歳)、織田家の圧迫を受けて安芸の毛利輝元(22歳)と和議。芸但和睦。尼子再興軍孤立。
▷因幡の山中幸盛(30歳)、若桜鬼ヶ城を攻略して尼子再興軍の拠点を移す。
▷安芸の毛利輝元(22歳)、吉川元春(45歳)と小早川隆景(42歳)率いる大軍を因幡へ派遣。尼子再興軍を攻撃。
▶︎︎土佐で四万十川の戦い。復権を狙った一条兼定(32歳)を吉良親貞(34歳)の活躍で追い返し、長曾我部元親(36歳)が土佐統一。
◆相模の北条氏政(37歳)、武蔵の北条氏照(33)に軍を預けて下野に派遣。小山秀綱(46歳)を攻める。
★近衛前久(39歳)、織田信長(41歳)の奏上により帰洛を許される。
08月
★長浜の羽柴秀吉(38歳)、従五位下筑前守補任。
☆岐阜の織田信長(41歳)、柴田勝家(53歳)を派遣し、越前・加賀を攻撃。越前一行門徒の総大将である下間頼照(59歳)を討つ。
★播磨の黒田考高(29歳)、羽柴秀吉(38歳)の取次で織田信長(41歳)に謁見。圧切長谷部を授かる。
★長浜の羽柴秀吉(38歳)、鷹狩り中に寺で茶を所望し、石田三成(15歳)を登用する。三献茶。
■米沢の伊達輝宗(31歳)、遠藤基信(43歳)に命じて岐阜の織田信長(41歳)に鷹と名馬と釜を献上する。
◎須賀川の二階堂盛義、岐阜の織田信長(41歳)にプリンのレシピと計量升セットを送る。
◆塩谷の塩谷義綱(15歳)、和約を破棄して塩谷城を攻める。塩谷義通(28歳)、沢村城に逃れる。
◆喜連川の塩谷孝信、和約を破棄して沢村城を攻め落とす。塩谷義通(28歳)、松小屋城に逃れる。
09月
■米沢の伊達輝宗(31歳)、国分氏の千代城を接収して縄張りの見直しを開始。
◆常陸の水戸重通(19歳)、絹衣相論を起して従五位下但馬守を叙任。
◎須賀川の二階堂盛義、那須領に侵攻。芦野の戦いで上那須衆を撃破。那須資胤(48歳)、戦わずして撤退。
◎南会津の大久保資近(23歳)、松小屋城に援兵。塩谷義綱(15歳)の軍と激突。
◎須賀川の二階堂盛義、塩谷郡に侵攻。塩谷義綱(15歳)を捕縛して宇都宮城に送致。塩谷郡を併合。
◎南会津にて大久保資近正室の彦姫(23歳)が出産。次女のだんみつ姫誕生。
◆常陸にて佐竹義重正室の宝姫(23歳)が出産。次男の佐竹義広誕生。
▶︎︎土佐の長宗我部元親の嫡男千雄丸(10歳)、明智光秀(47歳)の取次で織田信長(41歳)を烏帽子親として元服。信親と名乗る。
10月
▷因幡駐留の吉川元春(45歳)と小早川隆景(42歳)率いる毛利軍、山中幸盛(30歳)率いる尼子再興軍を若桜鬼ヶ城に追い詰める。
▽近衛前久(39歳)、織田信長(41歳)の依頼で九州下向。伊東・相良・島津の和議を取り持つ。相良義頼(31歳)、義陽に改名。
◆朝廷の下問により宇都宮広綱(30歳)の病没が明らかになる。伊勢寿丸(7歳)が宇都宮家の家督を継ぐ。
■米沢の伊達輝宗(31歳)、正四位下叙任。
11月
▷備前の宇喜多直家(46歳)、天神山城を攻略。備前・美作東部・播磨西部に勢力拡大。浦上宗景(49歳)、播磨に逃亡。
◆越後の上杉謙信(45歳)、関東出征15回目。由良氏を攻める。
★播磨の黒田考高(29歳)の説得により小寺政職(46歳)・別所長治(17歳)・赤松広秀(13歳)が上洛し、織田信長(41歳)に謁見。
▷丹波で第一次黒井城の戦い。明智光秀(47歳)、赤井直正(46歳)を攻める。
12月
★岐阜の織田信長(41歳)、従三位の権大納言兼右近衛大将を叙任。家督を嫡男信重(20歳)に譲る。信重、信忠に改名。織田信忠、正五位下秋田城介叙任。
☆遠江にて徳川家康(32歳)の側室の西郡局、家康の次女の督姫を産む。
☆岐阜の織田信長(41歳)、岩付城を攻略。秋山虎繁(48歳)とおつや(37歳)夫妻を逆さ磔にする。武田勝頼(29歳)の援軍間に合わず。
◆常陸の佐竹義重(28歳)、南方三十三館攻略を完了。鹿島氏を滅ぼす。
-------------
▲天変地異
◎二階堂
◇吉次
■伊達
▼奥羽
◆関東甲信越
☆北陸中部東海
★近畿
▷山陰山陽
▶︎︎四国
▽九州
<同盟情報[1575年末]>
[南奥]
- 伊達輝宗・二階堂盛義・石川昭光・佐竹義重
- 田村清顕・相馬盛胤
[関東]
- 北条氏政・武田勝頼・千葉邦胤・佐野宗綱・壬生義雄・皆川広勝・小田氏治
- 佐竹義重・里見義弘・宇都宮伊勢寿丸・結城晴朝・小山秀綱・那須資胤・江戸重通
- 上杉謙信
須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 33万石
・奥州 岩瀬郡 安積郡 安達郡 15万7千石
・奥州 伊達郡 1万5千石
・奥州 白河郡 7万4千石
・奥州 田村郡 2千石
・奥州 会津郡 3万石
・野州 塩谷郡 1万2千石 + 2万石 (NEW!)
・野州 那須郡 2万石 (NEW!)
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