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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第五章 英傑たち
28/83

1569 砂塵

〜 第五章 英傑たち 〜


主人公:二階堂盛義 25歳 須賀川二階堂家7代目当主 陸奥守護代 従五位下 左京亮


正室:南の方 28歳

└嫡男:鶴王丸 8歳

愛妾:吉次 19歳

実弟:大久保資近 17歳 - 正室:彦姫 17歳


義弟:伊達輝宗 25歳 伊達家16代目当主 奥州探題 従四位下 左京大夫

<1569年 4月上旬>


 東国が熱く揺れている。


 甲斐の武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄。

 今川氏真の治める駿河への侵攻を開始した。


 その発端は二つ。

 三年前に武田信玄の嫡男義信が起こした謀反騒動と、三河の徳川家康の遠江への影響力拡大による今川家の弱体化だ。


 一つ目の義信事件は、三国同盟により今川氏真の妹を娶っていた武田義信が、東美濃の領有を巡って織田信長と結んだ父信玄に反発して発生する。

 祖父信虎を駿河に追い払って甲斐の主人となった父に習い、腹心の飯富虎昌らと共に父信玄を排除しようと画策し、逆に返り討ちとなる。

 これにより武田家中の親今川派は一掃されていた。


 そして二つ目の今川家の凋落は特に顕著で、今川氏真は徳川方に靡く遠江在来の井伊直親や飯尾連龍らを次々と粛清するも、家運の傾きに拍車をかけるだけであった。

 家中の忠誠度の低下は酷いもので、武田軍の侵攻を防ぐ為に薩埵峠に布陣した今川軍中核の譜代二十一将が、一夜にして全員武田方に寝返ってしまったほどである。

 一戦にも及ばずに今川氏真を遠江に追い払った武田信玄は、易々と駿府の占拠に成功してしまう。


 この裏切りに激怒した相模の北条氏康は、四万の軍勢を率いて駿河に出陣。

 現在も薩埵峠を挟んで甲相両軍の睨み合いが続いている。

 その間、武田信玄と結んだ徳川家康が、今川氏真の籠る掛川城を包囲中であった。


 そんな中、この須賀川より吉次を頭とした商隊が上方に出発しようとしている。


 城下まで見送る。

 晴れやかな表情で挨拶してくる吉次。


「では、行ってきます」


「うむ、しっかり頼むぞ」


「はい、美濃の着いたら手紙を送りますね」


 吉次の商隊が向かう先は、まずは東山道を上って美濃の加納と定めた。

 織田信長のお膝下である。


 加納は岐阜城に程近い町である。

 織田信長はその加納で楽市楽座を敷き、市場を発展させようとしている。

 吉次の商家である奥州屋が上方に初めて出店するのに、これほど相応しい場所も無いだろう。


 織田信長は今年に入って二回も上洛し、その威勢を益々高めている。

 一度目は反撃に出て来た三好三人衆を本圀寺で撃退する為。

 二度目は浮かれる足利義昭の掣肘の為であった。


 元は僧籍の覚慶が運良く足利の名跡を継ぎ、武家の棟梁である将軍の座まで手に入れてしまった。

 勝手が分からず、浮かれるままに好き放題してしまうのも、ある意味仕方のないのかもしれない。

 新政権の発足後の二ヶ月足らずで幕政は早速混乱し始め、後見役の織田信長の下には苦情が多々上がってくる。

 その足利義昭の行いを改めさせる為に、織田信長は上洛して都合十六条の殿中御掟を叩きつけたのである。


 この時点では、足利義昭も自分にも非があると自覚はあったのだろう。

 幕臣たちの忠言に耳を傾け、織田信長の言い分を認め、大人しく殿中御掟を受け入れる。

 結果として、織田信長あっての足利義昭政権という事実が広く内外にアピールされていた。


 まさに今、織田領は上り調子であり、好景気に沸き始めている。

 多くの人と物が加納に集まってくるだろう。

 情報収集も商いも成果が大いに期待できる。

 支店を構えるには多くの金が必要になるだろうが、そこは我が二階堂家の金山の力がものを言うはずだ。


 そして、加納は長良川にも程近い。

 輝宗殿と図り、近い将来に阿武隈川の拡幅工事を始めるつもりである。

 長良川の鵜飼船の導入は必須であり、その為の人脈作りも吉次の仕事の一つである。


 それと、あともう一つ大事な役目があった。


「美濃で優れた浪人がいれば必ず推挙して欲しい。奥州まで連れてくれば、百貫なり二百貫なり用意しよう」


「任せてください」


 上方で商売を展開するにあたって、人も多く雇い入れる必要がある。

 そのついでに、腕に立つ者や才が有りそうな者を見つけ、説得して奥州に連れて帰るのだ。

 吉次の美貌と賢さに惹かれ、名のある武士も寄ってこよう。


 白河を併呑したことで、二階堂の当主としての所領も一気に増えている。

 合計一万石(五千貫)分は吉次からの推挙枠として用意していた。


 吉次が須賀川に戻るのは二年後になる。


 吉次と離れるのは辛いが、再会の時が今から楽しみであった。






<1569年 6月中旬>


 須賀川城での家族団欒のひと時。


 吉次が遠くに去ったからであろうか。

 それとも我ながら甲斐甲斐しい日頃のご機嫌取りの成果か。

 南の方は最近非常に機嫌が良い。


 今日の夕食もニコニコである。

 逆に怖い。


 ちなみにこの戦国時代。

 庶民も含めて朝と昼の日に二食が普通である。

 その代わりに馬鹿みたいな量の米を食う。


 我が二階堂家はその習慣を改め、鶴王丸やお甄の生育の為、三食制を導入していた。

 炭水化物も適量に抑え、野菜とタンパク質多めである。

 転生知識を活用して俺が直接賄い方を指導し、出来るだけバリエーションを増やしている。

 今日は老鶏を捌いたので、菜種油で揚げた唐揚げがメインであった。


 自分、唐揚げにはレモンを絞りたい派です。

 しかし、そもそもレモンはまだ日ノ本に渡来しておらず、手に入らない。

 代替に出来そうなものとなると、同じ柑橘系の蜜柑や柚子やカボスあたりだが、それも無理だ。

 緯度の高い奥州の、それも海の無い須賀川となると、どうしても入手出来る食材の種類が限られてしまう。

 仕方ないので酸味だけでもと、梅干しを濾した梅肉ソースを用意させていたのだが。


「は、母上。そんなに付けて、酸っぱくはないのですか?」


 唐揚げにべっとりと梅肉ソースを塗している南の方を見て、鶴王丸が若干引き気味だ。


「ああ、旨い」


 少量でもかなりの酸味のはずのそれを、南の方が美味しそうに頬張っている。

 その姿を見てるだけでも唾液が出て来てしまう。


「これは出来たのやも知れぬな。鶴王丸、其方が母の腹にいた頃もこうであった」


 稚児が腹に宿ると無性に酸味が欲しくなるのよ、と嬉しそうに笑う南の方。

 お甄が興味深そうにその話に耳を傾けている。


 そういえば一ヶ月ほど前、南の方を磐梯熱海城まで連れ出し、磐梯熱海の温泉を案内した。

 当然ながら、良い具合に火照った身体でその夜はスキンシップに勤しんだのだが。

 子宝の湯、とは言い得て妙だな。


 鶴王丸が生まれてから八年。

 南の方にしてみれば、ようやくだろう。

 俺も嬉しい。


 今の時点で懐妊となると、生まれるのは来年。

 史実の二階堂盛義の次子である二階堂行親の誕生年と符合している。

 間違いなさそうだ。


 しかし、俺の知っている須賀川史の中では、二階堂行親は元服直後の十四歳で病死する。

 俺が死んだ後の話になるが、なんとかその悲劇は回避する方向付けだけはしておきたい。

 行親には必ず牛の乳搾りをさせるようにせねば。

 あと肺を患った者には近づかせず、ソーシャルディスタンスを徹底させよう。


「失礼仕ります」


 つらつらと唐揚げを頬張りながら未来設計していたら、須田盛秀こと源次郎が家族団欒の場に割り込んできた。


「如何した?」


「会津で変事があった模様。守谷俊重よりの文です」


 受け取って中身を検める。


 その文は、会津の黒川城で紛争が発生し、蘆名家が二つに割れた事を告げる知らせであった。






<1569年 7月中旬>


「敵の数は八千か。無理をして絞り出してきたな」


 猪苗代城の南郭の櫓に立ち、遠くに見える猪苗代湖の眩しい湖面を眺めつつ、西から迫りくる敵軍を確認する。

 蘆名勢を中核とし、奥会津の山内、河原田、長沼の三家の旗印も見える。

 この数は会津領内で動員出来る最大数だろう。


「輝宗様は間に合いましょうか」


 共に櫓に上がっていた城主の猪苗代盛国が心配そうに尋ねてくる。


「例え間に合わずとも、この城は落ちぬよ。我が二階堂家の手勢が守ってみせる」


 輝宗殿の要請により、俺は三千の援兵を率いて猪苗代城に入城していた。

 今のところ金上盛備の、いや、その背後にいる蘆名止々斎の思惑どおりに会津を巡る戦いは進んでいる。


「それよりも奥方の一族から目を離されるな。あれは必ず裏切るぞ」


「ご忠告いたみいる。お恥ずかしい限りじゃ。この戦さが終わったら必ず離縁してくれん!」


 この猪苗代城にも金上盛備の謀略の手がしっかりと伸びている。

 入城早々に戦闘モードで猪苗代城内を見回ったら、敵方のマーカーが潜んでおり驚いた。

 猪苗代盛国に確認したら、彼の正室の一族の者たちであった。


 猪苗代盛国の正室が産んだ嫡男は現在五歳。

 将来の猪苗代盛胤だ。

 史実の未来では猪苗代盛国と猪苗代盛胤は互いに反目し合い、父子ながらも伊達方と蘆名方に別れて合い争う。

 理由の一端を垣間見た気がする。


 そこを突いてくるとは、流石は蘆名の執権と言うところか。

 このように伊達家と我ら二階堂家は、金上盛備にここ一ヶ月振り回されっ放しだ。


 ただそれは、あくまでもここまでは、の話である。

 輝宗殿の軍勢が到来するのを待って反撃開始だ。


 恐らく決戦の地は摺上ヶ原。

 歴史を二十年ほど前倒ししようではないか。






 三年前、亡き蘆名盛興の磐梯熱海城襲撃を発端とする一連の戦さは、伊達彦九郎が蘆名家の養子に入ることで決着した。

 彦九郎は蘆名止々斎の養女、亡き蘆名盛興の正室を娶り、蘆名盛重と名乗って蘆名家第十八代当主の座に着いた。

 蘆名止々斎は向羽黒山城に再度隠居し、蘆名家は金上盛備が執権として若い蘆名盛重を補佐する体制に移行する。

 金上盛備は、蘆名盛重をお飾りの君主に据えて時間を稼ぎ、蘆名家の捲土重来を図るビジョンを持っていたようだ。

 だが彼の誤算は、蘆名盛重に娶せた蘆名一族の姫の出所から始まる。


 勿論のことだが、弟を当主に送り込んだ輝宗殿の方も、蘆名家中への影響力を強める為に様々な手を打っていく。

 そのターゲットとなったのは、蘆名盛重の妻の実父の針生盛秋だ。

 針生盛秋は蘆名家十四代当主の蘆名盛滋の実孫である。

 蘆名盛滋が弟に家督を譲った後に針生盛秋の父は生まれており、父の盛幸の代で蘆名家の嫡流から外されていた。

 針生盛秋からすると、自分こそが蘆名家当主になるはずだったとの恨みが深い。

 伊達家の後押しもあり、また現当主の正室の実父という強みも有った針生盛秋は、次第に黒川城内で金上盛備に対抗する存在となっていく。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


<蘆名家系図>


蘆名盛高(十三代当主。会津一帯の土豪を滅ぼして戦国大名化。1448-1518)

├蘆名盛滋(十四代当主。松本氏に担がれ盛高に叛くも和解。1482-1521)

│ │

│ └針生盛幸(盛滋死去時に幼少だった為、家督を継げず。1515-1553)

│  │

│  └針生盛秋(蘆名嫡流を自負。現当主の義父として勢力拡大。1535-)

│    │

│    ├針生盛信(義兄として現当主の蘆名盛重をサポート。1553-)

│    │

│    └娘(元・蘆名盛興正室。現・蘆名盛重正室。1552-)

│     │

│    [蘆名盛重(十八代当主。伊達輝宗の同腹弟。1553-)]

├蘆名盛舜(十五代当主。松本氏や猪苗代氏の反乱を鎮圧。1490-1553))

│ │

│ └蘆名盛氏(十六代当主。止々斎。従甥となる蘆名盛重を後見。1521-)

│  │

│  ├鶴姫(小峰義親正室。白河を追われた夫と共に会津に潜伏。1545-)

│  │

│  └蘆名盛興(十七代当主。磐梯熱海の戦いで落馬事故死。1547-1566)

└娘(伊達稙宗正室。伊達晴宗の母)

  │

  └伊達晴宗(伊達氏十五代当主。1519-)

   │

   ├阿南姫(晴宗長女。二階堂盛義正室。1541-)

   │

   ├伊達輝宗(晴宗次男。伊達氏十六代当主。1544-)

   │

   └蘆名盛重(晴宗五男。彦九郎。蘆名氏に婿養子入り。1553-)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 両者の対立が鮮明になった端緒は、白河から逃亡した小峰義親一行についての俺からの捕縛願いであった。

 小峰義親の妻は蘆名止々斎の実娘であり、当然ながら金上盛備は庇おうとする。

 親伊達派の針生盛秋は追求する側に回り、一気に険悪な雰囲気となってしまう。

 現当主の蘆名盛重はまだ十七歳で、金上盛備と針生盛秋の二人を抑えるなど荷が重すぎたし、その分別も無かった。

 そんな中、金上盛備の独断専行が最後の一押しとなる。

 主君の蘆名盛重には知らせず、下越で反乱中の本庄繁長の上杉家への帰参を仲介したのだ。

 金上盛備はかつて敵対していた上杉輝虎に恩を売り、蘆名家への後ろ盾を頼もうとしていた。


 まだ反撃の準備が整っておらず、この時点での伊達家の武力介入を避けたかった金上盛備は、和解に動こうとしたようだ。

 しかし針生盛秋はその申し出を拒絶し、婿である蘆名盛重を煽りに煽りまくる。

 ついに蘆名盛重はその甘言に乗せられ、実家の輝宗殿にも無断で金上盛備追討の命令を下してしまう。

 黒川城内で暗殺されそうになった金上盛備は、最早これまでと反撃に着手。

 伊達家の威を借る親伊達派と対立を深めていた守旧派がこれに追随し、黒川城を占拠して針生盛秋を討ち取った。

 当主である蘆名盛重は、針生盛秋の嫡子で同年代の針生盛信に守られ、妻共々に命からがら米沢へ落ち延びていく。


 そこからの金上盛備の動きは早かった。

 向羽黒山城に隠居中の蘆名止々斎を再び黒川城に迎え入れ、国内の秩序を回復。

 その上で蘆名家中一の武勇を誇る穴沢俊光に蘆名盛重の追跡を命じ、一手を率いさせて会津の北辺の戸山城を攻めさせた。


 伊達家側も決して油断していたわけではない。

 長年に渡って旧稙宗派で丸森城代を勤め上げ、実績も十分な小梁川宗秀を戸山城に配置し、固く守備させていた。

 しかし、戸山城はもともと穴沢俊光の居城である。

 穴沢俊光はその弱点も熟知していた。


 北の尾根から戸山城へ迫り、城内に雪崩れ込む。

 守将の小梁川宗秀は蘆名盛重を米沢に落とすのが精一杯で、城を枕に討死を遂げる。

 戸山城は穴沢俊光の手に落ちた。


 戸山城を攻め取って米沢街道の閉鎖に成功し、北からの脅威を排除した金上盛備は、間髪入れずに猪苗代城攻めに乗り出した。

 主君の蘆名止々斎から全軍の采配を任され、黒川城を出撃する。


 ただ、その頃には輝宗殿も状況を把握し、兵の動員を開始していた。

 取り急ぎ輝宗殿は、猪苗代城に一番近い我ら二階堂家に救援を頼んでくる。

 そして、この俺自らが即時に動員可能な三千の兵を率い、蘆名勢に先んじて猪苗代城に入城して現在に至る。


 尚、金上盛備は、相馬と田村の両家に伊達と二階堂の後背を突くよう依頼しているようだ。

 更に元々が親蘆名だった白河領内でも反乱の気配があり、白河兵を動員出来ない状況を作られてしまっている。

 外交を縦横に振るい、派閥を御して領内をまとめ上げ、勝機を見せて劣勢の自軍を奮い立たせる。

 蘆名止々斎の腹心である金上盛備の、まさに面目躍如な活躍であった。






「義兄上、遅くなった。盛重の尻拭い、かたじけない」


「なんのこの程度。さて決戦とまいりましょう」


 猪苗代城の城門を開いて輝宗殿と合流する。


 戸山城の穴沢俊光の守りが硬いと見た輝宗殿は、桧原経由での南進を諦め、一旦仙道筋に進んで信夫・伊達郡の諸将と合流する。

 相馬への抑えとして刈田・伊具・亘理の兵は残し、総計八千の兵を率いて大森城を出陣。

 土湯街道で猪苗代北岸に至る。

 伊達軍の後詰めの接近を感知した蘆名軍は、包囲を解いて猪苗代城西方5kmの摺上ヶ原に布陣していた。


 蘆名勢を率いる金上盛備としては、上杉輝虎の後ろ盾を得てから我らとの決戦に臨みたかっただろう。

 しかし、東国の情勢がそれを許してくれない。

 武田信玄に裏切られた北条氏康が、なんと驚くべきことに宿敵の上杉輝虎と手を結ぶ決断を下し、越相同盟が結ばれた直後だったからである。

 関東管領を頼ってこれまで北条家と戦ってきた関東の諸将は、上杉輝虎に見事に梯子を外された形となり、大きな騒乱となっていた。

 今の上杉輝虎には、とてものこと奥州の小競り合いに構う暇など無い。


 蘆名勢にとってみれば、一か八かの乾坤一擲の大勝負となる。

 逆に言えば、我が伊達二階堂連合軍にとっても、会津を一飲みにする絶好機であった。


 輝宗殿率いる伊達家の本隊八千に、我が二階堂勢三千と猪苗代勢五百が加わる。

 摺上ヶ原で対峙した軍勢は、我が伊達二階堂連合軍の一万一千五百と、蘆名と南会津諸侯の八千。

 史実の摺上ヶ原の戦いに比して、これはちょうど二分の一の規模だ。


 しかし、戦いの経過と結果は、全く一緒なものとなる。






 猛烈な西風に煽られた砂塵が我が軍に襲いかかり、目も開けられない状況の中、蘆名軍が突撃してくる。

 今はただ耐えるのみだ。


「俊重!輝宗殿の本陣に行って、昼まで耐えれば風向きは変わると伝えてこい!」


「えー、ホントですかー?」


「我を信じよ!」


 うだうだと説明している時間は無い。

 納得してない様子ながらも、わっかりましたーと伝令に向かう守谷俊重。


「左近!風向きが変わった瞬間を見計らって、真横から撃ち掛けよ!」


「ははっ。仰せのままに」


 我が命に従い、保土原行藤こと左近が鉄砲隊を率いて一旦戦場を離脱していく。


 あとは猪苗代盛国だ。

 地理に聡い彼には、先回りして蘆名勢の退路となる日橋川の橋を落として貰おう。


 戦場を見れば、絶好期にも関わらず、会津四天の富田氏実の軍に動きがない。

 事前の輝宗殿の根回しが効いているようだ。

 この三年、調略の手を広げていたのは何も金上盛備だけではないのだ。

 伊達家による蘆名家中の切り崩しは確実に進行していた。


 そして太陽が中天に達する。


 風向きが変わった。






 これまで散々味方を苦しめていた砂塵が、一転して蘆名勢を苦しめ始める。


 ズダダダーーーンッ


 左近の率いる鉄砲隊の横合いからの射撃で、蘆名勢の先陣の動揺が増幅する。

 徐々に味方が戦線を押し返し始める。

 そこで会津四天の富田氏実の返り忠による戦場離脱が発生。

 蘆名勢の陣形は大いに乱れ、ついには総崩れへと発展していく。


 数で勝る我らの追撃は過酷を極めた。

 猪苗代盛国に命じて退路の日橋川の橋を落としておいた為に、蘆名勢は逃げるに逃げれない。

 討ち取った首級の数と溺死させた数は二千を超える。

 砂塵はいつの間にかピタリと収まっていた。


 最後まで奮戦の限りを尽くした敵方の総大将の金上盛備を討ち取る殊勲を挙げたのは、鬼庭良直の嫡男の鬼庭綱元である。

 また、会津四天の最後の一人の平田舜範は、我が配下の左近の手の者が捕縛していた。

 そして、我が父の仇の息子の畠山義継の一党も勇んで蘆名方に参戦していたようだが、これも皆儚く散っている。

 翻って味方の被害は合わせて三百人にも満たず、まさしく奥州では古今類を見ないほどの大勝利であった。


「ご苦労でござった。しかし、風向きを読み切るとは流石は義兄上よ!」


「土地の者に尋ね、事前に下調べしていただけのこと。それよりも大物が黒川城に残っておりましょう。ここは一気加勢に進むべきかと」


 蘆名家の首脳陣は壊滅していたが、まだ先の当主である蘆名止々斎が黒川城に控えている。

 会津領内でのその威光は衰えてはいない。

 敗兵たちが彼の下に逃げ込んで黒川城の守りを固める前に、これを急襲すべきだ。

 輝宗殿と語らって、急ぎ黒川城まで兵を進める。


 黒川城下は大混乱である。

 とてものことだが籠城の準備が進んでいるとは思えない。

 てっきり蘆名止々斎も向羽黒山城あたりに退去しているものと推測したが、どうやら違うらしい。


 城外に陣を布きつつ、情報を持ってきた守谷俊重に下問する。


「まことか。蘆名止々斎がまだ黒川城に残っているだと?」


「はい。お供の兵の数は百にも満たないようですよー。でも降るつもりも無いそうです」


 輝宗殿の使者をにべも無く追い返したらしい。

 そして既に城内から女子供は全て退去させていた。


 覚悟を決めた、ということなのだろう。

 いや、三年前にもう全てを諦めていた?


「殿。伊達家の本陣より、城攻めはこちらで行うので手出しは無用、との伝令がありました」


 左近が輝宗殿の伝言を持ってきた。


 死を覚悟した者たちを討ち取るには、攻め手も相応の被害を覚悟する必要がある。

 手伝い戦さの我が二階堂勢には、そこまでの迷惑は掛けられない、という輝宗殿の意向なのだろう。






 この日、蘆名止々斎は最後まで側に残った忠義の者たちを率い、攻め来る伊達勢と存分に斬り合った後、黒川城に火を放って自刃する。

 享年四十九歳。

 史実では六十歳の生涯を全うし、死後は会津の名君と偲ばれるが、その名誉は失われた。

 俺が奪ってしまったと言っても過言ではない。


 煙を上げる黒川城を眺めつつ、今回の、いや三年前からの蘆名止々斎の動静を思い返す。

 金上盛備の背後には蘆名止々斎がいると常々考えていたのだが、実は逆だったのかもしれない。

 金上盛備が主で、蘆名止々斎が従の立場でも、全ては成り立っていた。


 嫡男の蘆名盛興が二十歳の若さで亡くなり、蘆名止々斎は全てが虚しくなった。

 その蘆名止々斎を奮い立たせる為に、側近の金上盛備は辣腕を奮い、蘆名止々斎が返り咲く舞台を用意しようとしたのだ。


 蘆名止々斎は諦觀しつつも金上盛備の忠義に感謝し、金上盛備のやりたいようにやらせた。

 金上盛備が成功しても失敗しても、結果は受け入れると決めていたのだろう。

 そうでなければ自ら摺上ヶ原の戦いの軍配を握っていたはずだ。


 鬼庭綱元が怪訝そうに語っていたのだが、金上盛備と斬り合った時、彼の者は最後まで晴れやかな顔だったらしい。

 事が破れて無念なのは勿論だが、全てを委ねてくれた主君への感謝の気持ちの方が、余程大きかったのだろう。


 主君の信頼と部下の忠誠。

 その一つの究極形が、この会津の地に確かに存在した。






<1569年 11月下旬>


 武田信玄の駿河侵攻と越相同盟による関東の混迷は、ますますその度合いを深めている。


 掛川城の開城と今川氏真の相模への退去により、一旦は武田も北条も兵を退く。

 しかし、武田信玄は徳川家康との約定を破り、駿河だけでなく遠江にも進出してしまう。

 武田信玄に対抗する為に、今度は徳川家康と北条氏康が手を組むことになる。


 北関東では佐竹義重をはじめとする反北条の諸侯が上杉輝虎に反発し、武田信玄と結んでの北条氏康への反攻を開始する。

 佐竹義重は北条方の小田氏治を手這坂の戦いで破って小田城を占拠し、北条家を牽制する為に武田信玄へ小田原攻めを求めた。

 流石に上杉輝虎率いる十万の軍勢が攻めあぐねただけあり、小田原城は武田信玄の攻撃も容易に跳ね返す。

 だが、撤退する武田軍二万と追撃する北条軍四万が繰り広げた三増峠の戦いでは、高所から攻撃を仕掛けた武田軍に軍配が上がった。


 関東の混迷は北陸にも飛び火している。

 上杉輝虎に後背を襲われるのを嫌った武田信玄が、先年越中で反旗を翻した椎名康胤への支援を強化。

 これを無視出来なくなった上杉輝虎は越中に出陣し、椎名康胤が籠城する松倉城を包囲中である。


 各地共に、まだまだ予断を許さない状況が続いていた。




 関東の情勢に比べて、輝宗殿が率いる伊達家の会津経略は順調に進んでいる。

 黒川城を落として蘆名止々斎を討った輝宗殿は、弟の蘆名盛重を会津に戻さずに、会津併呑を宣言。

 会津盆地の蘆名方の城を片っ端から攻略していく。


 会津西方の新宮城や、蘆名止々斎の隠居城であった向羽黒山城は戦わずに降伏する。

 孤立無縁のまま戸山城に籠もっていた穴沢俊光については、大兵を率いて包囲して退路を断ち、一族の裏切りを誘発させて自害に追い込んでいる。


 また奥会津の三家に関しては、仙道筋の我が二階堂家からも圧力を掛けるよう輝宗殿からの要請があり、早速その効果が現れる。

 南会津東部の鴫山城に拠る長沼実国が輝宗殿に恭順し、伊達家への臣従を神仏に誓約した。

 残りの河原田氏と山内氏はこれに態度を硬化させ、上杉家の後援を頼んでの徹底抗戦を選択したようだ。




 尚、今回の一連の会津を巡る攻防の切っ掛けとなった小峰義親一家の身柄は、未だ確保できていない。

 どうやら蘆名止々斎が黒川城に籠もって敵味方の耳目を集めている間に、越後に脱出したらしい。


 本庄繁長の帰参に労を尽くした蘆名止々斎の最期の頼みということもあって、上杉輝虎も無碍には出来なかったようだ。

 それくらいならばと小峰義親とその妻子を匿っているのだろう。


 伊達家の会津と、我が二階堂家の白河。

 彼の一家はこれらの領土への進出時に絶好の旗印になる存在である。

 今は西へ南へと忙しい身の上杉輝虎であったが、いつその正義の刃が東に振り回されるか分からない。

 油断は禁物だ。


 越後の隣の会津という大領を得た伊達家は、上杉輝虎にとっても最早無視は出来ない存在になった。

 それは上杉輝虎に敵対している諸大名たちにも言えた。

 今後の伊達家は、関東を巡る戦いに間違い無く関与していくことになる。

 伊達家と一蓮托生な二階堂家も巻き込まれるのは必定だ。


 今まで以上に難しい舵取りが強いられるだろう。

 癒しが欲しい。


 ああ、早く吉次は帰ってこないものか。






<年表>

1569年 二階堂盛義 25歳


01月

☆三河の徳川家康(26歳)、井伊谷三人衆を調略。小野政次(29歳)潜伏。

☆三河の徳川家康(26歳)、遠江の曳馬城を攻め落とす。お田鶴の方(18歳)落命。

★京の近衛前久(33歳)が関白を解任される。政敵である足利義昭(32歳)と新関白二条晴良の排除の為、石山本願寺に寄宿。

★京の足利義昭(32歳)を三好三人衆が襲撃。本圀寺の変。岐阜の織田信長(35歳)、直ぐさま再上洛して三好三人衆を撃退。


02月

☆甲斐の武田信玄(48歳)、駿河の薩埵峠で相模の北条氏康(54歳)の軍勢と対峙。

☆三河の徳川家康(26歳)、今川氏真(31歳)が籠る遠江の掛川城を包囲。

★上洛した織田信長(35歳)、足利義昭(32歳)に殿中御掟を叩きつける。


03月

◆下越の本庄繁長(29歳)、会津の蘆名止々斎(48歳)の仲介により上杉家に帰参。

▷備前の宇喜多直家(40歳)、播磨の赤松政秀(59歳)と結んで主君の浦上宗景(43歳)に反旗を翻す。


04月

◇白河の商家の娘・吉次(19歳)、金と二階堂家の名産品を揃えて上方に出立。美濃に奥州屋の加納支店を構える。

★河内の三好義継(21歳)、織田信長(35歳)の仲介により、足利義昭(32歳)の妹を娶る。

▽豊後の大友宗麟(39歳)、大軍を率いて肥前に攻め込む。肥前の龍造寺隆信(40歳)と多布施口で対峙。

▽安芸の毛利元就(72歳)、大友軍の龍造寺攻めの隙を突いて筑前の立花山城を攻撃。

★上洛中の織田信長(35歳)、ルイス・フロイス(37歳)と対面。畿内での布教を許可する。


05月

☆井伊谷で小野政次(29歳)捕縛。蟹淵で刑死。

☆駿河の薩埵峠布陣の武田北条の両軍、撤収。

☆三河の徳川家康(26歳)、和議を結び掛川城開城。北条氏真(31歳)、相模へ落居。徳川家の遠江、武田家の駿河併呑完了。

◆常陸の小田氏治(35歳)、隙を突いて佐竹義重(22歳)を破る。

▶︎︎阿波で三好三人衆の三好宗渭(41歳)が病死。


06月

▽九州遠征中の毛利元就(72歳)、筑前の立花山城を降す。

◎須賀川にて二階堂盛義の正室の南姫(28歳)懐妊。

■会津の蘆名盛重(16歳)、針生盛秋と金上盛備の対立を制御出来ず。金上盛備(42歳)、挙兵して針生盛秋を討つ。

■会津の蘆名盛重(16歳)、針生盛信(16歳)と共に米沢へ逃げ出す。蘆名止々斎(48歳)、黒川城に復帰。

▼会津の蘆名止々斎(48歳)、穴沢俊光(38歳)を派兵して戸山城を攻略。

◆相模の北条氏康(54歳)、武田家に対抗するために越後の上杉輝虎(39歳)と和睦。越相同盟成立。関東の諸将反発。

▽薩摩の島津家久(22歳)、大口城を攻める。剣豪丸目長恵(29歳)の突出を誘い、菱刈相良軍を破る。

▷播磨で青山の戦い。姫路の黒田考高(23歳)、赤松政秀(59歳)を奇襲して撤退させることに成功。


07月

▼会津の蘆名止々斎(48歳)、金上盛備(42歳)に全軍を預けて猪苗代城攻略開始。

◎須賀川の二階堂盛義、伊達家の求めに応じて会津出兵。猪苗代城に入城。

■米沢の伊達輝宗(25歳)、摺上ヶ原の戦いで金上盛備(42歳)を討ち取る。

◎須賀川の二階堂盛義、摺上ヶ原の戦いで平田舜範を捕縛する。二本松一党を殲滅。

■米沢の伊達輝宗(25歳)、黒川城を攻め落とす。蘆名止々斎(48歳)、奮戦した後に自刃。

▽豊前と筑前で大友軍と毛利軍が18回合戦に及ぶ。多々良浜の戦い。

▼磐城の岩城重隆(69歳)死去。岩城親隆(29歳)、親佐竹家路線を継承。

▷京で尼子誠久の五男孫四郎(16歳)が還俗。尼子勝久を名乗り出雲に攻め入る。真山城攻略。第一次尼子再興運動開始。

▷播磨で土器山の戦い。姫路の黒田考高(23歳)、夜襲を仕掛け赤松政秀(59歳)を敗退に追い込むも、配下の母里家ほぼ全滅。


08月

■米沢の伊達輝宗(25歳)、新宮城と向羽黒山城を開城。小峰義親(28歳)、家族を連れて越後に向かう。

▷出雲の山中幸盛(24歳)率いる尼子再興軍、末次城を築城。月山富田城攻め開始。浦上宗景(43歳)、尼子再興軍を支援。

▶︎︎土佐の長宗我部元親(30歳)、八流の戦いで安芸国虎(39歳)を攻め滅ぼす。一条兼定(26歳)の援軍間に合わず。土佐東部平定。

☆岐阜にて蒲生賢秀(35歳)の嫡子鶴千代(13歳)元服。織田信長(35歳)が烏帽子親となり、蒲生賦秀と名乗る。


09月

▷出雲の山中幸盛(24歳)率いる尼子再興軍、原手合戦で毛利軍に勝利。

▽筑前の秋月種実(21歳)、大友軍に降伏。

☆南伊勢で大河内城の戦い。岐阜の織田信長(35歳)、南伊勢の北畠具教(41歳)を攻める。蒲生賦秀(13歳)初陣。

☆越後の上杉輝虎(39歳)、越中に5回目の出征。椎名康胤(70歳)の守る松倉城を攻める。

■米沢の伊達輝宗(25歳)、穴沢俊光(38歳)を討って戸山城を奪還。


10月

☆岐阜の織田信長(35歳)、次男信雄(11歳)を北畠家の養嗣子に押し込む。息女冬姫(8歳)を蒲生賦秀(13歳)に娶らせる。

◆常陸の佐竹義重(22歳)、手這坂の戦いで小田氏治(35歳)を破り小田城を占拠。

▷出雲で奮闘中の山中幸盛(24歳)率いる尼子再興軍、同胞の隠岐為清に叛かれて美保関で為清を討つ。

▽肥後の菱刈氏、島津家に降伏。大口城開城。肥後の相良義頼(25歳)、薩摩の領土を失う。

▽豊後の大友宗麟(39歳)、能島の村上武吉(36歳)を毛利包囲網に引き込み、大友水軍で大内輝弘(49歳)を周防に送り込む。

◎須賀川の二階堂盛義、蘆名方の小倉城を攻略。伊達家より猪苗代湖南岸の統治を任される。


11月

◆甲斐の武田信玄(48歳)の小田原城攻め。直ぐに撤退するも三増峠の戦いで北条軍を撃退。

▷周防で大内輝弘(49歳)挙兵。大内家残党が呼応。大友・大内・浦上・尼子による毛利三村包囲網が完成。

▽九州出征中の毛利元就(72歳)、撤兵を決断。大友軍追撃せず。

▽筑前豊前の毛利方の諸将、毛利撤退により後ろ盾が無くなり、豊後の大友宗麟(39歳)に降る。高橋鑑種(40歳)追放。

■米沢の伊達輝宗(25歳)、会津盆地制圧完了。長沼実国の後継の長沼盛秀の臣従を受け入れる。


12月

▷周防の大内輝弘(49歳)、吉川元春(39歳)と小早川隆景(36歳)に攻め立てられて自刃。

▷備前の浦上宗景(43歳)、赤松政秀(59歳)を攻めて龍野城を攻略。赤松領を占領。孤立した宇喜多直家(40歳)、宗景に降参。

▽豊後の大友宗麟(39歳)、戸次道雪(56歳)に立花氏、吉弘鎮理(21歳)に高橋氏の名跡を継がせ、大友家の豊前筑前支配を完成。

☆尾張にて前田利家(30歳)が荒子城主となる。前田利益(18歳)、実家の滝川家に帰参。奥村永福(18歳)、前田家を離れ浪人。



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▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州



<同盟情報[南奥 1569年末]>

- 伊達輝宗・二階堂盛義・石川親宗・岩城親隆・佐竹義重

- 山内舜通・河原田盛次

- 田村隆顕・相馬盛胤


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 24万6千石

・奥州 岩瀬郡 安達郡 12万1千石

・奥州 安積郡 3万5千石

・奥州 伊達郡 1万5千石

・奥州 白河郡 7万3千石

・奥州 田村郡 2千石


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