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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第四章 白河の女
25/83

1566 酒害

<1566年 2月上旬>


 須賀川城の奥。

 囲炉裏を囲んで餅を焼きながら近臣たちと談話中である。


「バレちゃいましたー」


「そうか、ついにバレちゃったかー」


「「あははははははは」」


 守谷俊重の報告を受けて一緒に笑う。


「殿、おふざけが過ぎますぞ」


 須田盛秀こと源次郎に怒られる。


 安達郡の統治が落ち着いたので、守谷俊重を会津方面の諜報任務に復帰させていた。

 その俊重から蘆名が高玉金山の存在を察知との報告が上がる。


「黒川城での正月の宴で、高玉金山をどう攻略するか謀議したようなんですよー。止々斎は止めたいみたいですが、当主の盛興が凄くやる気を出してるんですよね」


 二階堂家に攻め込むイコール伊達家との戦争だ。

 昨年の丸森の一件以来、亘理、名取、宮城の諸氏は大人しく伊達家に従っている。

 つまり戦力の大半を会津方面に注ぎ込める状況にあり、蘆名止々斎はそれ故に無謀と判断した。

 逆に蘆名盛興の方は、これ以上に伊達二階堂連合が力を付ける前に高玉金山を奪取すべきだと考えた。

 近年の二階堂家の隆盛の理由は高玉金山にあると断じ、今の時点で動かないと余計に手遅れになると恐れたのだろう。


 軍配は盛興に上がった。

 一昨年の見事失敗に終わった蘆名軍の下越侵攻は、止々斎とその腹心の金上盛備主導で行われた作戦であった。

 関東からあっという間に舞い戻って来た軍神に散々に蹴散らされ、蘆名家はかなりの損害を被っている。

 それこそ去年丸々一年対外的な軍事活動が出来なかったほどで、蘆名家中での止々斎の権威は低下し、逆に現当主の蘆名盛興の発言力が一気に増大していたのである。


 源次郎からも報告が入る。


「雪深い中、会津と白河で幾度も使者が行き来している模様。早い時期の出兵があるやも知れませぬ」


 伊達の大兵の動きを封じる為に、この冬期の出兵を企画しているのか。

 蘆名結城連合にとってタイミングが良いことに、我ら伊達二階堂連合の一翼である北常陸の佐竹家は現在混乱中である。

 若年の佐竹義重に家督を譲りつつも、家中の実権はそのまま握っていた佐竹義昭が昨秋に急死し、常陸の反佐竹の国衆たちの猛烈な反転攻勢に晒されていた。

 今ならば白河の結城家は全戦力を北に振り分けられる。


 ここが正念場であろう。


「雪溶けまで守りきれば我らの勝ちだな。輝宗殿と石川晴光殿に文を書こう。あと源次郎、酒樽を出来るだけ多く用意せよ」


 酒好きの蘆名盛興を須賀川で美酒でお出迎えしようではないか。






<1566年 2月下旬>


 磐梯熱海に蘆名軍襲来。

 その兵数は六千。

 山内、河原田、長沼の南会津諸氏の軍勢もその中に加わっている。

 率いるは蘆名家十七代当主の蘆名盛興。

 蘆名止々斎は黒川城に残り、会津四天の平田舜範、佐瀬種常、富田氏実が盛興の補佐を勤める。

 

 時を同じくして白河結城氏も出兵。

 蘆名止々斎の女婿である小峰義親を主将とした、千七百の軍勢が白河城から進発する。

 五年前に攻め取られた新城館を目指して進軍中だ。


 我が二階堂家はこれに軍を都合三手に分けて対応している。

 既に二本松の保土原行藤と塩松の大内定綱が、安達郡の兵二千五百を率いて磐梯熱海城と高玉城に入城済みだ。

 磐梯熱海には俺自らが二千の兵を率いて救援に赴き、新城館に向けては須田盛秀を主将とした千八百の兵が進発する。

 尚、新城館には石川晴光殿率いる石川勢の援兵五百が来着する手筈になっていた。


「源次郎、弟を頼む」


「はっ」


「資近、源次郎の側を離れるな。さすれば死ぬ事はない」


「兄上、白河の奴原など必ず追い払ってみせましょう!」


 弟の観音丸は今年で十六歳となり、先頃元服して大久保資近を名乗っている。

 子供の頃から乳製品とササミを食わせまくっていたので、俺以上に筋骨隆々になりそうな素養が見て取れる。

 烏帽子親は横田の叔父上が務めてくれた。

 今回は初陣となる。


「うむ、しっかりやれ」


 頷いて送り出す。


 そして南の方が鶴王丸とお(しん)を連れて見送りに来る。

 お甄はすっかり南の方に懐いてしまったな。

 政務が忙しく中々面倒を見れていないが、鶴王丸との仲も悪くないと聞く。


「武運を祈る」


「ああ、必ず戻る。須賀川城の守りは任せた」


 しっかりと南の方と抱き合い、しばしの別れを惜しむ。


「ほら、そなたたちも挨拶なさい」


 抱擁を解いた南の方に促され、鶴王丸とお甄の二人が揃って前に出てくる。


「父上、ごぶうんをおいのりいたします」


「お、お祈りします」


 鶴王丸には見慣れた光景の為にいつもどおりだが、お甄は照れてしまっている。

 随分とおしゃまな娘だ。

 いや、これくらい年頃の女の子は皆こんなものなのかも知れない。

 よくわからんな。


 だとすると、もしかして平然としている鶴王丸の方が実はマセてる?






 二千の兵を率いて磐梯熱海城の東方3.5kmに位置する安子島城に入城する。

 既に磐梯熱海城で戦闘は開始されており、我が軍はよく持ち堪えているとの戦況報告が入ってくる。


 会津から二本松街道を東に進軍する場合、渓谷の出口に位置している磐梯熱海城を抜かないと高玉金山へは辿り着けない。

 その磐梯熱海城には保土原行藤率いる千七百の兵が籠っていた。

 また大きく迂回して安達太良山麓を通るルートについても、大内定綱率いる八百の兵を磐梯熱海城の北方2kmの高玉城に配置して遮断済みであった。


 磐梯熱海城は史実には存在しないオリジナルの城だ。

 この時期の奥州には珍しい平城となる。

 しかし、すぐ側を流れる五百川から水を引いて川以外の三方を堀で巡らせており、防御力は見た目よりも非常に高い。

 流石に石垣までは無いものの、しっかりと盛土した上に建てた漆喰の城壁には数多くの狭間を設置してあり、火縄銃の威力と効果を最大限に発揮出来る作りにしてある。

 保土原行藤には鉄砲隊三百を預けている為、生半な攻め方では落ちないだろう。


 五年掛けて丹精込めて育てて来た城である。

 そう簡単に落とされてたまるものか。


 磐梯熱海城の支援に出ようとすると守谷俊重がひょっこり顔を出す。


「例の策、うまくいっておろうな」


「もちろんですー。小躍りしながら持っていきましたよ」


 突然の蘆名軍の襲来に驚いた体で、ちょうど城内に運び込もうとしていた酒樽を幾つも放棄。

 わざと敵方に略奪させてみた。

 中身は全て高価な清酒である。

 毒を仕込むなどと言う無粋な真似はしていない。

 むしろ酒自体が毒になればいいな、というちょっとした賭けであった。


 さて、敵方の若き大将の蘆名盛興に、あの清酒を家臣の皆に分けて振る舞うだけの度量がありやなしや。

 度量というか忍耐力?


 有るのならば、俺は敵に旨い只酒を大量に振る舞った愚か者。

 無いのならば・・・。


 はてさて何が起こるのやら。






<1566年 3月中旬>


 結論から言うと蘆名盛興の体を蝕む酒毒は度し難いものであった。

 史実における蘆名盛氏は、息子の盛興のアルコール依存を治療する為に、会津領内での造酒を禁じている。

 そんな口煩い父親の目が届かない戦場で、戦さで昂った盛興が飛び切り旨い酒を見つけたらどうなるか。

 当然自重など出来るはずも無い。


 磐梯熱海城の鉄壁の防御と見たこともない火力に被害は増えるばかり。

 ならばと猪苗代盛国に別働隊を編成させて山越えで高玉城に襲わせるも、二階堂方の大内定綱の機転によってそれも上手くいかない。

 後詰め決戦を望んでも、二階堂勢本隊を率いる俺がのらりくらりとそれを躱してしまう。

 そして白河の小峰義親の方からも何ら戦果の連絡は無い。

 当初の目算が狂って思わぬ長陣になってしまい、更に盛興の酒量は増えていく。


 自棄酒と深酒が増え、あまりの醜態に猪苗代盛国が諫言するも、盛興は諸将の面前で盛国の高玉城攻めでの失態を手酷く罵倒し、打擲まで加えてしまった。

 怒った盛国は勝手に陣を引き払い、居城の猪苗代城に帰ってしまう。

 そこに伊達家からの調略の手が伸びた。


 猪苗代家は蘆名家の支流だが自立傾向が強い家であり、本家に何度も歯向かって来た歴史がある。

 更に盛国の父は猪苗代家に養子に入った蘆名家十二代盛詮の次男盛清である。

 盛国にしてみればここまで盛興に軽んじられる謂れなど無かった。

 そして伊達家の現当主である輝宗殿は、盛国と同じく蘆名盛詮に連なる系譜である。

 あっさりその輝宗殿の誘いに乗ってしまう。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


<蘆名家系図>


蘆名盛詮(十二代当主。伊達持宗や結城直朝と抗争。1431-1466)

├蘆名盛高(十三代当主。会津一帯の土豪を滅ぼして戦国大名化。1448-1518)

│ │

│ ├蘆名盛滋(十四代当主。松本氏に担がれ盛高に叛くも和解。1482-1521)

│ │

│ ├蘆名盛舜(十五代当主。松本氏や猪苗代氏の反乱を鎮圧。1490-1553)

│ │ │

│ │ ├蘆名氏方(母が白拍子で家督を継げず。謀叛して討死。1516-1562)

│ │ │

│ │ └蘆名盛氏(十六代当主。天文の大乱で勢力拡大。止々斎。1521-)

│ │  │

│ │  ├鶴姫(小峰義親正室。1545-)

│ │  │

│ │  └蘆名盛興(十七代当主。酒好き。1547-)

│ │

│ └娘(伊達稙宗正室。伊達晴宗の母)

│   │

│   └伊達晴宗(伊達氏十五代当主。1519-)

│    │

│    ├阿南姫(二階堂盛義正室。1541-)

│    │

│    └伊達輝宗(伊達氏十六代当主。1544-)

└蘆名盛元(盛清。猪苗代氏を継ぐ。猪苗代氏十二代当主。1510-1560)

 │

 └猪苗代盛国(猪苗代氏十三代当主。1536-)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 蘆名家と二階堂家が戦端を開いてからすぐに、輝宗殿は武力介入の準備を進めていた。

 盛国の寝返りを奇貨とし、雪溶けを待たずに会津への進軍を決断。

 自らは米沢街道を上って桧原の戸山城に攻め掛かると共に、信夫・伊達郡の諸将には土湯街道で猪苗代城に入るよう命じる。


 もともと蘆名家側の基本戦略は、伊達家が動き出す前に二階堂家から高玉金山を奪取する、というものである。

 その目算が崩れた以上、磐梯熱海城攻略は諦めて素早く引き上げるべきであった。

 問題は二本松街道の上街道を通って直接黒川城に戻るか、下街道を通って猪苗代盛国を討つかの二択である。


 朝方の注進に叩き起こされ、二日酔いが酷く機嫌が悪い盛興は乱暴に盛国討伐を主張。

 会津四天の三名は止々斎の指示に従っての黒川城への退去を進言。

 意見が割れる。


 ただ蘆名方が呑気に軍議を構えて迷っている時間など実は無かったのだ。

 盛興はすぐに馬に飛び乗って黒川城に戻るべきであった。


 なぜなら我が二階堂家の反撃の一手がすぐそこまで迫っていたのだから。






 これまでこの戦さでは意図的に夜討ち朝駆けは避けてきていたが、それも解禁である。

 密かに高玉城を出撃した大内定綱の軍勢七百と合流し、朝闇の中で敵陣を伺う。

 既に磐梯熱海城内の左近とは連絡を通じ合っており、こちらの吶喊と共に城内から討って出る手筈となっている。


 さて決着を付けようか。


「放てぇーーー!!」


 采配を振り下ろして号令。


 バババババババババババーーーンッ


 始まりの銃声が五百川渓谷に響き渡る。


「かかれーーー!!」


 蘆名勢が混乱中である事を確認し、再び采配を振るう。


「「「うぉーーーーーー!!!」」」


 これまで力を振るう機会の無かった本軍の将士たちが、ありったけの気迫で敵陣目掛けて吶喊する。

 大内勢もまた定綱自らが十文字槍を振り回して先頭に立ち、負けじと敵陣に斬り込んでいく。






 蘆名勢は混乱の末に戦闘の継続を諦め、磐梯熱海からの撤退を選択。

 狭隘な五百川渓谷での追撃戦となる。

 蘆名勢の殿軍は会津四天の佐瀬種常が務めた。

 佐瀬種常は二階堂勢の攻勢を一手に引き受け、奮戦の末に玉砕する。


 流石は会津四天の一柱で、佐瀬種常を討ち取った頃にはもう蘆名勢の離脱は完了していた。

 与えた被害は限定的になり、当主の盛興も取り逃してしまう。


 とにかくこの勝利により我が二階堂家は蘆名家から高玉金山を守り切ることが出来た。

 これで我が領内に踏み入っている敵は白河結城勢のみとなる。


 蘆名勢の相手は輝宗殿に任せ、俺は急ぎ軍勢を転進させた。






<1566年 4月上旬>


 新城館を巡る南方の白河結城家との戦いは、小峰義親が兵を退いて決着する。

 俺が二千の兵を率いて戦場に来着するのに合わせて、小峰義親は陣を退いた。

 それまでは兵の数に勝る源次郎と互角の戦いを繰り広げており、小峰義親は中々な戦さ上手のようだ。

 それとも配下に優秀な将が揃っているのだろうか。

 とにかく助力してくれた石川晴光殿にはお礼の進物を送っておく。


 一方の会津戦線では輝宗殿が桧原の戸山城の攻略を完了させている。

 戸山城を守るのは会津の北の門番の穴沢俊光。

 蘆名家随一の猛将と名高い男であった。


 穴沢俊光はその噂に違わぬ剛勇振りで、輝宗殿率いる米沢衆の攻撃を幾度も跳ね返す。

 深い雪の中での戦いであり、大兵の米沢衆が数を生かせなかったというのもあるだろう。

 しかし、猪苗代城に進駐した伊達勢の別働隊が猪苗代盛国の案内でその背後を突く動きを見せた事で、穴沢俊光は戸山城の維持を諦め、黒川城に向けて撤退していた。


 尚、この時には既に会津一円にとある噂が広まっており、それが穴沢俊光の決断に影響を与えた可能性が高い。


「俊重、噂はまことであろうか」


「はい。すでに亡くなってますねー」


 諜報任務に従事させていた守谷俊重があっさり認めてくる。


 蘆名盛興死去。

 享年二十歳。


 磐梯熱海からの撤退時に手が滑って落馬し、その時の頭の怪我が原因であえなく落命。

 二日酔いの状態での飲酒運転が、彼の寿命を八年も縮めてしまった。


「しかし、お見事ですー。酒樽数樽で敵の大将の息の根を止めるなんて、流石我が殿!」


 キラキラした目で守谷俊重が称賛してくるが、なんとも苦い。


 確かに最初はそれを意図して清酒を製造した経緯ではあったが。

 本当に現実になってしまうと薄寒くなる。


 人の病苦を突いて更なる不幸に蹴落とすなど、善良な人間のする事ではない。

 まさに犬畜生より劣る鬼、悪魔の所業だろう。


 しかし今は戦国の世だ。

 俺に云わせれば、武者は鬼ともいヘ、悪魔ともいへ、勝つことが本にて候、だ。

 せめて我が家だけは同じ轍は踏まない為に他山の石としよう。






 昼食を取った後、南の方や鶴王丸、お甄、弟の資近を広間に集める。

 用意した大きな白紙を広間の真ん中に置き、太い筆を墨に浸して皆の前で大書する。


「夫殿、またか。次はなんだ?」


 南の方は呆れ気味だ。

 鶴王丸は平然としている。

 元服まで横田にいた資近や、須賀川に来て半年のお甄は、初めて見る俺の書道姿に興味津々である。


「まぁ見ておれ」


 気合を入れて『のんだらのるな のるならのむな』と一気に書き上げた。

 そしてその紙を掲げ宣言する。

 

「よし出来た!これを我が二階堂家の家訓その参とする!」


 子供にも読めるようにひらがなで書いた為、後半スペースが詰まってしまってるが、うん十分に読める読める。


 ちなみに家訓その壱は『はみがき てあらい わすれるな』になっている。

 その弐は『あさは みんなで ちちしぼり』である。

 もちろん牛の乳だ。


「えーと、これは兄上。どういう意味なのでしょうか」


「読んで字のとおりよ。酒を飲んだら馬に乗るな。馬に乗るなら酒を飲むな、だ」


 会津の若当主の死様を伝え、酒と落馬の怖さを皆に語る。

 最後は資近と子供たちに家訓を三唱させ、家訓の儀は終了だ。

 

 さて次は。

 新城館での資近の初陣の評価の時間だ。

 南の方には子供たちを連れて退出してもらう。






「字、汚いね」


「しーっ」


 子供たちが何か小声で語らいながら仲良く広間から去っていく。

 聞いていたとおり、大分打ち解けているようで安堵する。


 先を行く南の方の背中もクスリと笑っていた。






<1566年 10月下旬>


 輝宗殿と語らって数度出兵するも、当主に復帰した蘆名止々斎の巧みな用兵の前に、いずれも会津盆地への侵攻を阻まれていた。

 それでも兵数の差を生かしてジワジワと圧力をかけ続け、前線の押し上げには成功している。

 あと一歩というところだ。


 だがそんなタイミングで本陣に杉目城(福島城)に隠居している義父の伊達晴宗からの使者がやって来る。

 使者は四十くらいの細マッチョな美髯の男で、見ない顔だなと思っていたら、なんと蘆名家家臣の金上盛備と名乗ってきたではないか。

 金上盛備と言えば蘆名家一門であり、蘆名止々斎の一番の側近である。


「伊達の大殿からの文にございます」


 なぜ蘆名の執権が晴宗の使者になっているのか困惑するも、その文を受け取る輝宗殿。

 一読してクワッとその両の眼を見開いた後、ギリリと歯がみする。


「軽々には判断出来ぬ話よ。使者殿は一旦下がられよ」


 そして絞り出すように声を出して金上盛備を追い払う。

 金上盛備の姿が天幕の外に消えた後、撃発した輝宗殿の怒声が響き渡った。


「何を考えているのだ父上は!伊達の棟梁はこの儂ぞ!」


 乱暴に付き出されたその文を遠藤基信が受け取り、拝読仕ると読み上げる。

 すなわちそれは乱暴に言うと『会津との和睦を俺が取りまとめてやったので、ありがたく受け入れろ』というものであった。


 一つ、耶麻郡東部と猪苗代郡は伊達の領地とする。

 一つ、彦九郎を亡き蘆名盛興の妻と娶せて蘆名の当主とする。

 一つ、今後蘆名は伊達に忠勤する。


 桧原と猪苗代湖北岸は既に伊達家が抑えてあり、現状の追認でしかない。

 後家の亡き蘆名盛興の妻は蘆名一族の針生氏の娘となり、止々斎との関係性は薄い。

 そして言葉だけの降伏になんの意味もない。


 びっくりするほど中身がスカスカな和睦条件だ。


「彦九郎のようなお調子者を送り込んで何とする!あやつに蘆名のような大国の主人が務まるはずがなかろう!」


 彦九郎、酷い言われようである。






 輝宗殿のすぐ下の弟の六郎は、来年に宮城郡の名族留守氏の婿養子に入る事が決まっている。

 その下の小二郎は今は石川親宗と名乗り、既に石川郡の石川晴光殿の嫡男の座に収まっている。

 更にその下となると彦九郎と彦十郎。

 彦十郎は杉目城の晴宗と笑窪御前のもとにおり、将来はそのまま杉目城主となる事が内定していた。

 つまり現状遊んでいるのは彦九郎ただ一人であった。


 この彦九郎という人物、史実においては宮城郡の国分氏を継いで国分盛重と名乗る。

 国分盛重の統治は下手すぎた。

 国分氏の家来から再三政宗のもとに訴訟が届けられ、国がなかなか治らない状況が続く。

 結局盛重は国分氏から追い出され、国分氏は政宗直轄の侍衆扱いになってしまう。

 最終的に何を思ったか伊達家を出奔し、永年来の宿敵である佐竹氏のもとに身を寄せ、その生涯を終えることとなる。


 小領の国分でさえ治められないのに、いわんや大領の会津となればをや、である。

 いや、だからこそ適任なのかもしれない。


 額に指を当てて少し考えた後、輝宗殿に進言する。


「輝宗殿、この話お受けなされ」


「何!?」


 輝宗殿がギョッと驚いた顔でこちらを見てくる。

 目力強すぎ。


「彦九郎殿が名目だけの蘆名の当主となるは確実。近い将来必ず蘆名家中で騒乱が起きましょう。その時に彦九郎殿がいれば、伊達家が会津を併呑する大義名分が立ちます」


「しかし、あの軽薄な彦九郎のこと。蘆名の家臣共に唆され、実家の伊達家にまで立て付いてくるやもしれませんぞ」


 そこまでか。

 彦九郎殿、本当に酷い言われようである。


「それはそれで構いますまい。戦さでの一番の難敵は、有能な敵よりも無能な味方です。お調子者の大将を抱えた蘆名の奴ばらは、大変苦労するでしょうな」


 むむむむ、と唸って輝宗殿は黙り込んでしまった。






 遠藤基信を初めとして、他の家臣たちも挙って俺の意見に賛成してくる。

 誰もが当代の輝宗殿と先代の晴宗が相争う状況に陥ることを恐れていた。

 伊達家中には今も天文の大乱アレルギーが蔓延中である。


 その声に輝宗殿も折れざるを得ない。


「義兄上の申されよう故に今回は受け入れよう。だが父上にはこれ以上の勝手は控えて頂かねばならぬ!」


 しかし、ただでは折れないのが輝宗殿だ。

 流れ弾がこっちに飛んできた。


「妹の彦姫の嫁ぎ先がまだ決まっておらなんだ。儂は伊達家と二階堂家の紐帯をもっとキツく結ぶべきと思うておる。義兄上、彦姫を二階堂家でもろうてくれぬか」


 おっとそう来たか!

 輝宗殿、伊達家の手駒を先に消費してしまう作戦に出てきました。


 史実で彦姫が嫁いだ蘆名盛興はもういない。

 更に史実では、盛興を失って寡婦となった彦姫は俺の息子の鶴王丸、すなわち蘆名盛隆と再婚するのだけれど。

 一足飛ばしにそうなるのか。


 でもなぁ。

 確か彦姫は今年十五歳。

 六歳の鶴王丸が相手ではあまりにも釣り合いが取れなさ過ぎる。

 史実ではやむを得ない仕儀であったが、我が妻の南の方も流石に難色を示すだろう。


「義兄上には先ごろ元服したばかりの実弟がおられるだろう。確か資近殿と申されたか。年も彦姫と同じと聞いた。まだ資近殿の嫁御が決まっておらぬなら、この話是非ともお受け頂きたい!」


 え、そっち?

 そっちに嫁に来るの!?


 婚姻関係や生まれて来る子供についても、俺の知る歴史とは大きく違ってきそうであった。






<年表>

1566年 二階堂盛義 22歳


01月

☆駿河の今川氏真(28歳)、飯尾連龍(39歳)を誅殺。お田鶴の方(16歳)が曳馬城主となる。

◆筑波の小田氏治(32歳)、義昭の急死で佐竹家中が動揺する中、小田城奪還。

▷出雲の月山富田城籠城中の尼子義久(26歳)、側近の讒言で経久の代からの忠臣宇山久兼(55歳)を誅殺。尼子方の士気激減。


02月

▽日向の伊東義祐(54歳)、真幸院攻略のための小林城築城。薩摩の島津貴久(52歳)の妨害を排除。

▷備前の宇喜多直家(37歳)、備中の三村家親(53歳)を暗殺。嫡男の三村元親(25歳)が家督を継ぐ。

◎須賀川の二階堂盛義、高玉金山奪取に動いた蘆名盛興(19歳)と戦う。磐梯熱海城攻防戦。

◎須賀川の二階堂盛義、須田盛秀(36歳)に新城館に攻め寄せた小峰義親(25歳)の迎撃を命じる。弟の大久保資近(15歳)初陣。


03月

◆関東出征中の上杉政虎(36歳)、小田城を再度落とす。

★足利義輝の弟の覚慶(29歳)、逃亡先の矢島で還俗して足利義秋を名乗る。

■米沢の伊達輝宗(22歳)、猪苗代盛国(30歳)を調略して猪苗代城を奪取。会津桧原に出兵。

◎須賀川の二階堂盛義、撤兵する蘆名軍を追撃して会津四天の佐瀬種常(51歳)を討ち取る。

◎須賀川の二階堂盛義、新城館に援兵して小峰義親(25歳)を撃退。


04月

■米沢の伊達輝宗(22歳)、穴沢俊光(35歳)の退去した戸山城を攻略して耶麻郡を奪取。

▼会津の蘆名盛興(19歳)、磐梯熱海城からの撤退時の落馬が原因で死没。蘆名止々斎(46歳)、蘆名家当主復帰。

▽薩摩の島津義久(33歳)、家督を継ぐ。

◆関東出征中の上杉政虎(36歳)、北条方の臼井城を落とせず。足利義秋(29歳)の調停により撤兵。北関東で勢力を減退する。


05月

★河内の三好義継(18歳)、次期将軍として足利義栄(26歳)を担ぐ三好三人衆と反目。松永久秀(58歳)方に寝返り。

☆尾張で織田信長(32歳)の側室吉乃(38歳)が死去。


06月

☆三河の松平家康(23歳)、牛久保城を攻略して三河一国を統一する。

◆相模の北条氏康(51歳)、上杉政虎(36歳)の越後帰国を受けて宇都宮・小山・結城・小田の北関東諸氏を降す。

◆下野で塩谷弥八郎(8歳)、宇都宮家の支援を受けて叔父孝信から川崎城を奪還。


07月

★大和の筒井藤勝(18歳)、三好三人衆と敵対中の松永久秀(58歳)から筒井城を奪還。順慶に改名。

◆常陸の佐竹義重(19歳)、叔父の大掾昌幹を助けて大掾貞国を討ち、府中城を占拠。


08月

▶︎伊予の宇都宮豊綱(47歳)、豊後の大友宗麟(36歳)の支援を受ける土佐一条軍に呼応。河野通宣(44歳)と交戦。


09月

▽大隅の肝付兼続(55歳)、島津方の北郷時久(36歳)と戦い勝利。福島まで進撃。

◆下野で治部内山の戦い。那須資胤(39歳)、佐竹義堅(48歳)と大関高増(39歳)の連合軍に大勝。義堅降参。


10月

◆上州金山城の由良成繁、越後の上杉輝虎(36歳)に叛く。

☆若狭に逃亡中の足利義秋(29歳)、越前の朝倉義景(33歳)を頼る。

■米沢の伊達輝宗(22歳)、伊達晴宗(47歳)の調停で蘆名止々斎(46歳)と講和。弟の彦九郎(13歳)を蘆名家の当主に押し込む。彦九郎、元服して蘆名盛重を名乗る。


11月

◆甲斐の武田信玄(45歳)、上野侵攻。長野業盛(22歳)の守る箕輪城を攻め落とす。長野業盛討死。

▼檜山の安東愛季(27歳)、南部領の鹿角に侵攻。降雪により退却。


12月

☆能登で畠山義続(48歳)・義綱(30歳)父子、家臣の長続連(48歳)・遊佐続光(39歳)らに追放される。

◆越後の上杉輝虎(36歳)、関東出征8回目。沼田城に入り越年。

▽薩摩の島津義久(33歳)、肝付家の侵攻を跳ね返し、高山城を攻略。肝付兼続(55歳)敗死。良兼(31歳)が家督を継ぐ。


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▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州



<同盟情報[南奥 1566年末]>

- 伊達晴宗・二階堂盛義・石川晴光・岩城重隆・佐竹義重・大関高増

- 蘆名盛氏・結城晴綱・山内舜通・河原田盛次・長沼実国

- 田村隆顕・相馬盛胤


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 17万7千石

・奥州 岩瀬郡 安達郡 12万1千石

・奥州 安積郡 3万5千石

・奥州 伊達郡 1万5千石

・奥州 白河郡 4千石

・奥州 田村郡 2千石

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