1561 家督
〜 第三章 仙道筋の覇者 〜
主人公:二階堂行盛 17歳
正室:南姫 20歳(懐妊中)
実父:二階堂輝行 54歳 須賀川二階堂家6代目当主
実弟:大久保観音丸 9歳
義父:伊達晴宗 42歳 伊達家15代目当主 奥州探題 従四位下 左京大夫
<1561年 2月末日>
建造を命じてから半年余り。
二本松街道沿いに位置する磐梯熱海に、二階堂家肝煎の新たな湯治場が完成した。
五百川の川岸にある源泉から湯が引かれ、敷地内には屋根付きの露天風呂がいくつも整備されている。
もちろん座って湯に浸かる二階堂式だ。
規模的にはまだまだ城館とも呼べない掘立小屋レベルの建屋である。
防衛拠点として使うには心許ない出来栄えではあったが、湯治場としてはもう稼働可能な状態にあった。
まずは早速湯に浸かって完成を祝おう。
「ふー、いいお湯だ。少し緩めだけど十分十分」
源泉の温度がそれほど高く無い為、外気の影響で湯を引き込むだけで浸かれる湯加減になっている。
冬空の下、須賀川から磐梯熱海までの約七里(28km)の道を馬で駆け、寒さで悴んでいた身体には極楽であった。
緩めの湯に浸かりながらこれからの展望を考える。
この湯治場の建造の陰で、高玉金山の採掘も始まっている。
目眩しの為にも、またこの湯治場自体の防衛力強化の為にも、施設の拡充は必須だ。
現在考えているのは、すぐ側を通る二本松街道に関所を設置してこの湯治場と連結する案である。
磐梯熱海の五百川渓谷を縫うように二本松街道が通っており、関所を築きやすい立地でもあった。
関所の設置は通行税の徴収により収入が増えるが、交易量自体が減少して領内の経済が停滞する諸刃の剣である。
しかし関銭を極力安くし、その代わり希望者にのみ湯治場の使用を許可し、入浴料を取る形態にしてみればどうであろう。
他には無い最新式の風呂、それも大名が整備する贅沢な風呂を一般人も味わえるのだ。
話題になって逆に人が集まってくるのではなかろうか。
「若殿」
つらつらと考えを巡らせていたら、湯船の外に守谷俊重が控えており、声を掛けてきた。
須賀川からのお供の中にはいなかった顔だ。
調略先の会津から参じた模様。
「なんだ?俊重。お前も入るか?」
「是非!と言いたいところなんですけどー。会津が動くようです」
「数は?」
「ざっと五千」
それはまた随分と本気だな。
「どうやら畠山義国が田村方から蘆名方に転じたようです。二本松の求めに応じた出兵みたいですよー」
一昨年の郡山合戦と渋川合戦の敗戦の痛手が深すぎて、同盟相手の田村家は兵を出す余力が無く。
我が配下の保土原左近の根回しにより、奥州探題職の伊達家は和睦の仲介役を引き受けてくれず。
追い詰められた二本松城主の畠山義国は、なり振り構わずに長年敵対してきた蘆名に助けを求めざるを得なかったのであろう。
蘆名盛氏は盛氏で、白河や下野にかまけていたら、いつの間にか仙道筋を二階堂家が席巻。
蘆名方の片平城の伊東大和守は、周囲が全て二階堂方に転じてしまい、汲々とした状況に追い詰められている。
盛氏からすれば、ここでちょこざい二階堂家など一気に蹴散らして、仙道筋における蘆名の影響力を大幅に回復させておきたいはず。
「当然二本松も動くであろうな。それに蘆名がそれほどの軍勢で押し寄せて来るとなると、安達衆や安積衆も浮き足立つだろう」
「それと白河も動くんじゃないですかねー。佐竹は遠く武州に出兵中ですし」
まさに四面楚歌。
大ピンチである。
だが俺と守谷俊重に焦りは無い。
「ならば仕方無し。ここで手札を切るとしよう。俊重、手筈通りに事を進めよ」
「了解でーす」
湯船に浸かったまま守谷俊重に指示を出す。
仕込みの発動させるべく立ち去り、姿を消す俊重。
ちゃぷん
ブクブクとお湯に顔を沈め、これから起こる新たな戦さに思いを馳せる。
我が妻の南姫の出産まで約二ヶ月。
それまでに必ず蹴りを着ける!
<1561年 3月上旬某日>
まだ雪溶けも始まらないタイミングで、深い雪をかき分けて会津からの使者が須賀川城を訪れる。
蘆名盛氏からの文は、先年の畠山家との戦さの折、相楽勘解由と大河原弥平太の裏切りの一件について疑われた事が不快、との何のことはない唯の難癖であった。
いけしゃあしゃあと謝罪するよう威丈高に要求してくる蘆名方の使者。
最初から破談を狙っての喧嘩腰である。
端から戦さを仕掛けたい相手に交渉は無駄である。
狼狽える重臣たちを尻目に泰然自若とその喧嘩を買ってやる。
使者は驚いた顔をして会津に戻っていった。
「会津は大国じゃ。行盛、勝算はあるのか」
岩瀬の西の守りの要である横田城主の義信叔父が心配げな顔を見せている。
史実では1562年に蘆名盛氏盛興父子が横田城を攻め取り、この義信叔父が捕らえられた事で二階堂家は蘆名に屈する。
だが今は状況がまるで違う。
「叔父上、安心めされませ。此度もこの行盛に必勝の策がござります」
策の内容は伏せたままであったが、自信満々な態度を見せてやる。
これまで戦功を積み上げて来た甲斐があり、将たちの俺を見つめる顔に不安はあれど不信は無い。
父の輝行の許可を得て采配を取り、諸将への防衛戦の指示を出す。
「この策は蘆名方の軍勢を引き付ける事で成立いたす。我が二階堂家はここで蘆名軍を待ち受ける!」
ズビシッ
閉じた扇子の先で、大楯の上に描いた領内の一部を指す。
岩瀬の西端で、白河街道に程近い長沼城。
先ずはここを固めるとしよう。
<1561年 3月中旬>
先月嫡男盛興に家督を譲ったばかりの会津の蘆名盛氏が、精兵五千人を率いて黒川城を出陣。
その報は岩瀬・安積・安達の三郡を駆け巡った。
蘆名盛氏は出兵を隠さず、蘆名軍の威勢を喧伝して我が方の動揺を誘う作戦に出ていた。
蘆名の仙道筋への出兵に呼応し、安積伊東氏の惣領家である片平城の伊東大和守祐明が挙兵。
また蘆名と血縁同盟にある白河の結城晴綱が、南から岩瀬を脅かそうと出兵準備中だ。
更に北の二本松では、畠山義国が旧領を取り戻すべく兵千人で本宮城に攻撃を仕掛けようとしている。
翻って我が二階堂方では、安積郡の各所で反乱の火の手が上がっていた。
主だったところでは松峯城と梅沢城の高倉氏が昂然と我が二階堂家に反旗を翻す。
その他の成山城の伊東氏、小和田城の小和田氏、久保田城の久保田氏はサボタージュである。
また安達郡では塩松の大内義綱が不穏な動きを見せていたので、表立って敵に回らないよう先んじ、今回の戦さは様子見に徹する旨を命令してある。
日頃の行いが良かったせいで本拠の岩瀬郡での動揺は少なかったのは救いではあったが、まさに四面楚歌な状況である。
そんな中、我が二階堂家は領内の各所に兵を配し、徹底抗戦の構えを取っていた。
安達衆五百人を率いた保土原兵部が本宮城に籠って畠山軍と対峙。
安積衆五百人を率いた須田秀行が郡山城にて待機し、伊東諸氏と三春の田村の抑えに回る。
岩瀬衆千人を率いた我が父二階堂輝行が須田盛秀と共に須賀川城に控え、白河の結城軍の北上に備える。
そしてこの俺二階堂行盛が岩瀬衆千人と傭兵部隊五百人、鉄砲二百挺を率いて長沼城に入り、保土原行藤と守谷俊重を従えて、蘆名盛氏率いる蘆名本軍の来攻を待ち構えていた。
「流石に大軍だな」
長沼城に押し寄せて来た蘆名本軍の五千。
長沼城に篭る我が二階堂勢は千五百。
攻撃三倍の法則に従えば我攻めでも城攻めは成るはずであったが、蘆名盛氏は慎重であった。
先ずは兵の疲れを取る事を優先し、長沼城を包囲する形で陣を敷いて休息のようだ。
早速にも鉄砲の威力を味合わせてやりたかったのだが。
「戦さは明日からですかね」
「白河軍を待ってるんじゃないですかー?あとは畠山勢の本宮城攻めが始まるのを待ってるとか?」
側近の保土原左近と守谷俊重を引き連れ、城壁から敵陣を観察。
「どうします?夜襲でも仕掛けますか?」
「いや、やめておこう。流石は蘆名盛氏、軍気に乱れが無い。この分では待ち伏せされておろうな」
左近からの提案は却下する。
戦闘モードで見る戦場。
蘆名軍の士気は高く、練度も中々に見えた。
策が成るまでの間、まだしばらくはこの長沼城で耐えねばならない。
余計な損耗は避けておくに限る。
夜半。
明日の激戦に備えてしっかり睡眠を取ろうとしていたら、左近が寝所に駆け込んで来た。
「我が君!蘆名軍に動きがございまする!」
「夜襲か」
「いえ、退陣の様子!」
「何!?」
ガバッと起き上がり寝所を飛び出す。
城壁まで駆けて櫓に駆け上がる。
確かに蘆名本軍は白河街道に向けて移動を開始していた。
かなり焦っているようで、軍勢の士気が下がっている。
早すぎる!
「俊重!これはどういうことぞ!」
思わず視界の端に現れた腹心に怒声を上げてしまった。
「えーと、蘆名氏方殿。思いのほか堪え性の無いお方だったようでー。昨日夕刻にはもう黒川城へ攻め寄せたとの事」
「ちぃ!それで首尾は?」
「黒川城は占拠出来たとの話ですー。ただ留守居役の蘆名盛興は取り逃したそうで。向羽黒山城に逃げ込んだとか」
蘆名氏方は蘆名盛氏の庶兄で、白拍子の母を持ったために蘆名家中で重く用いられていない不遇な人である。
史実でも盛氏に対して反乱を起こしていたが、僅か数日で鎮圧され殺されている。
その氏方を密かに援助して指嗾して蘆名家中を二分させ、蘆名家の仙道筋への介入を阻止するという我が策。
出来るだけ会津の混乱を長引かせようと論んでいたが、この分では早々に蹴りがついてしまうやもしれん!
事前の段取りでは、会津から増派が必要になるまで我が二階堂家が長沼城で粘る事になっていた。
折を見て氏方が援軍の将を申し出て、隙を突いて蘆名盛興の命ごと黒川城を奪い取るはずだったのだが・・・。
氏方め、我が二階堂家の武威を信じられなかったと見える。
「左近、叔父上たちを叩き起こせ!追撃じゃ!ただし深追いは無用。勝った証さえ立てれば良い!」
「承知!」
「俊重、須賀川の源次郎(須田盛秀)に使いをだせ!兼ねてよりの仕込みを使って白河を牽制せよ!とな」
「了解ですー」
蘆名の混乱が長く続かないとなると、安積と安達の経略は急がねばなるまい。
蘆名盛氏を追い払った後は、急ぎ片平城を攻める!
いくら戦さ上手の蘆名盛氏と言えども、蘆名方にとっては条件が悪過ぎた。
撤退戦の準備は万全だとしても、本拠を落とされて士卒が動揺している上に、難易度の高い夜間戦闘での退き戦さである。
かつ地の利も無い。
そんな中で蘆名勢の殿軍を務めたのは会津四天の一柱の松本図書助。
士気旺盛な二階堂勢の攻勢を捌ききれず、激闘の末に討死となる。
史実に比べてだいぶ早い退場である。
蘆名勢を撃退し、長沼城の防衛戦に勝利した我ら二階堂勢は高らかに凱歌を上げる。
そして、その後の我が二階堂家の反転攻勢は苛烈を極めた。
僅かばかりの守備兵を残して、この二階堂行盛自ら兵を率いて長沼城を出陣。
我が方の郡山城攻略に兵を出払っていた敵方の片平城を襲撃する。
蘆名方の安積郡で唯一の拠点となっていた片平城は、籠城しようにも兵が足らず、鎧袖一触であっさり我が手に落ちる。
郡山攻め中であった伊東大和守の軍勢は、本拠の片平城を落とされた事を知るとあっという間に瓦解した。
部下が雲散霧消してしまった伊東大和守は、止む無く会津に向けて逃亡していった。
蘆名に梯子を外された形となった高倉氏は居城の松峯城と梅沢城に篭城。
サボタージュしていた成山城、小和田城、久保田城は当主の面々が頭を丸めて須賀川に出頭し、許しを乞うて来る。
北方の安達郡では、様子見を命じていた塩松の大内氏が改めて二階堂家への従属を表明。
大内義綱が二本松城に攻め入る態勢を見せた為、畠山義国は本宮城経略を諦めて兵を引かざるを得なくなる。
本宮城主の保土原兵部がこれを追撃して、多大な戦果を上げていた。
南方の白河では蘆名に歩調を合わせて出兵する予定が狂い、蘆名への支援の為に派兵するかどうかで結城家中が揉めていた。
その間隙を突き、須田盛秀が白河結城方の新城備後守を調略して新城館を占領。
我が二階堂家の逆攻勢を受けて、派兵どころの騒ぎではなくなる。
蘆名という鬼の居ぬ間に、仙道筋での二階堂家の威勢は揺るぎないものに成りつつあった。
<1561年 4月末日>
安積郡で二階堂家に逆らっていた松峯城と梅沢城の高倉氏を征伐を終え、須賀川城に帰城する。
妻の南姫の出産が間近に迫っていた。
我が父の輝行にとっても初孫である。
父と二人、その刻を待つ。
「懐かしいの。お主なら覚えておろう。観音丸のときもこうしてお主と夜を明かしたな」
「はい父上、もう十年近くも前になりますか」
あれから九年。
父も既に五十も半ばだ。
改めて見ると白髪が大分増えている。
寄る年並には勝てないか。
「此度こそ母子共に元気で生まれてくれぬかのぉ」
「安心召されませ。南姫はそこらの男など片手で吹っ飛ばすほどの女丈夫。子を一人捻り出すくらい朝飯前でございましょう」
「・・・あとで吹っ飛ばされぬようにな」
「・・・はい」
父は出産に絡んで妻を二人、赤子を一人失っている。
また病で幼子の普賢丸も失った。
二階堂家は難産の家系という思い込みがあるのだろう。
いつになく不安気であった。
自分にとっても初めての子供であり、不安が無いわけでは勿論無かったが。
自分以上にテンパってる父が側に居てくれるお陰が、不思議と落ち着いていられた。
「ときに行盛、新城館は大丈夫であろうか。やはりワシかお主のいずれかが兵を率いるべきではなかったか」
「そちらも安心召されませ。源次郎と左近の二人で有れば見事敵を討ち払いましょう」
不安を紛らす為に話題を振ってくる父上。
白河結城方より先月に須田盛秀が調略でゲットしたばかりの新城館。
その新城備後守と須田盛秀が籠る新城館に、新小萱篤綱を大将とする白河結城軍が攻め寄せて来ていた。
白河結城軍の先陣白石刑部大輔は、先年の南郷での寺山城を巡る佐竹との戦さで名を挙げた剛の者である。
これに対抗する為に、我が二階堂家は保土原行藤に一軍を預けて新城館への援軍としていた。
自分が率いても良かったが、妻の出産への立ち会いを優先した結果である。
史実では同じ組み合わせで二階堂方が圧勝してるっぽいので、大丈夫だろうという目算もあった。
その予想は早速的中する。
須賀川城に注進が駆け込んで来る。
「ご注進!新城表にてお味方が敵の結城方と激突いたしました!」
「うむっ、それで如何相成った!?」
父がスックと立ち上がり、伝令に結果を問う。
「お味方大勝利!敵方は大いに乱れて退散のよしにございまする!」
「おおっ、吉報也!」
喜ぶ父上。
その傍らで冷静に伝令に問う俺。
「戦さはどのような按配で決着が付いたのか?」
「はっ。新城館を攻めあぐねる敵方に、我が方の援軍が襲い掛かり散々に撃ち破ったよし!」
「そうか。では敵方の損害は?」
「敵先陣の白石刑部大輔は新城館に入った須田盛秀殿が自ら鉄砲で。敵方大将の新小萱篤綱は保土原行藤殿自らが三矢にて射殺したとの事で御座いまする!」
俺の腹心たち、はしゃぎ過ぎだろう。
主君の慶事に華を添えようとでも言うのか。
「よし!この大勝利を大々的に城中と城下に知らしめよ!・・・うん?」
父上が控えていた小姓に命を発したその時、微かな泣き声が聞こえて来た。
オギャー、オギャー
新たな命の誕生を告げるその産声。
時は永禄四年閏三月十六日。
我が正室の南姫が待望の第一子、鶴王丸を無事出産する。
奇しくも鶴岡八幡宮での上杉政虎こと長尾景虎の関東管領就任式と同日の事であった。
<1561年 11月下旬>
「アゥー、アーーッ」
「おー、よしよし、元気でちゅねー」
「ウウンッ、その言葉使い、なんとかならぬものか」
俺と鶴王丸の触れ合いを見守る南姫が居心地悪そうにしている。
俺の赤ちゃん言葉の喋り方が、生理的にダメらしい。
鶴王丸が産まれて半年。
赤子は育つのは早いもので、もうハイハイ出来ているようなっていた。
久しぶりの須賀川、久しぶりの家族三人水要らずの至福の時間である。
俺がはしゃいでしまうのも無理あるまい。
この春先に蘆名を会津に追い返し、結城の所領を奪い取ってやった。
西と南の憂いを取り除いた我が二階堂家は、本格的に安積郡と安達郡南部の領国化に取り掛かっていた。
磐梯熱海の新城と高玉金山の開発など、やる事は幾らでもあり、領内を飛び回る日々である。
「安積衆たちは大分従順になって来たようだな」
「うむ。蘆名が割れていてくれて助かる。今しばらく蘆名氏方殿には頑張って欲しいものだ」
「フッ、良く言う。どうせ夫殿が裏で手を回して、会津の戦さを長引かせておるのだろうに」
バレたか。
テヘペロしそうになるが、これも我が妻に殴られるので自重である。
蘆名氏方の反乱ではあるが、史実と異なりかなり長引いていた。
と言うのも、二階堂家の仲介もあって南会津の三家が一致団結して氏方の支援に回ったからである。
我が配下の守谷俊重の尽力の賜物であった。
ただ元々の自力の差は如何ともし難く、先月激戦の末に黒川城は盛氏盛興父子の手に戻ってしまっている。
氏方は新宮城に退いて未だ反抗を続けているが、新たなテコ入れが必要だろう。
「おほんっ、それで二本松の方はどうなのだ?相変わらず妻殿の実家に泣きついているのか?」
「ああ畠山義国か。我が父にいくら訴えても埒が明かないと思ったのか。今は中野殿を頼っているようだ」
中野宗時、牧野久仲父子か。
伊達家中での彼らの権勢は益々高まりを見せており、義父殿も手を焼いていると聞く。
「しかし中野殿も強欲でな。生半な贈り物では首を縦に振らぬらしい。フフッ、逆に集られて二本松の面々は困っていると聞く」
「そうか。会津が割れている内に二本松は抑えておきたいところではあったが。中野殿が後ろに着くとなると厄介だな」
たとえ今二本松に攻め寄せたとしても、中野宗時の懐に入る和睦の仲介料を吊り上げるだけになりそうだ。
それに和睦を結べたとしても、また会津と事を構えた時に二本松方は必ず裏切って旧領回復に動くだろう。
二本松については現状維持でジワジワやっていくしか無さそうだ。
「それよりもだ。夫殿。今日は義父殿に呼ばれ、評定に先んじて須賀川に戻ったと聞く」
「うむ。何用かわからぬが、大分顔を合わせておらぬ故、良い機会だ。諸々を報告しようと思うておる」
先月は高玉金山の開発を優先して評定を欠席し、書状で報告を済ませていた。
先々月の評定は夏風邪が長引いているとのことで、父上はすぐ下がってしまい、ろくに会話をする暇も無かった。
都合三ヶ月ぶりになるか。
「そうか。では言うておかねばなるまい。夫殿、義父殿の夏風邪だが未だ治ってはおらぬ」
はい?
急に居住まいを正した南姫が深刻な顔で告げて来た。
「義父殿だが、夏過ぎまでは良く鶴王丸の顔を見に来てくれていたのだが、ここ二月程はとんとこの奥に立ち寄ってくれぬのだ」
「何?」
「私も避けられているようでな。なかなか顔を合わせてくれぬようになった。何か理由があるのか、義父殿のお付きの侍女らを召し出して聞き出そうにも、侍女らも許してくれの一点張りでな。口止めされているらしい」
「・・・」
「埒が明かない故につい先日強引に義父殿に会いに行ったのだが。けんもほろろに追い返されたわ。その時、義父殿が咳をされてな。イヤな咳の響きであった。あれは労咳の咳やも知れぬ」
妻の南姫に喝を入れられ、気を取り直して父上の待つ広間に向かう。
しかし、頭の中はすぐにグワングワンと色々な考えが渦巻き始める。
労咳。
結核。
日本人の国民病。
この時代では的確な予防法は無く、治療も出来ない。
俺の知っている二階堂輝行は何年まで生きる?
確か1564年ではなかったか。
となれば余命は後三年?
今結核に罹ったとすれば計算は合うのか?
考えが纏まらぬ内に広間に到着。
広間には父上の姿のみがあった。
父上は上段に座って俺を待っていた。
「よう来た。行盛」
化粧でもしているのか、その顔色の血色は良い。
だが戦闘モードで見た父輝行の体力ゲージ。
それは確かに不治の病に侵された証である紫色に鈍く光っていた。
そこで良い、と上段から離れた場所に着座させられた。
言われるがままに従い、無言で首を下げる。
挨拶の言葉が口から出て来なかった。
「その瞳としっかと正面から向き合って、薫が言うていたのを思い出したわ」
優しい口調で語りかけてくる父上。
「竜王丸の瞳は時折この世ならぬ光を放つと。きっとあの子には私たちには見えてないモノが見えていて、もしかしたら人の命数さえも見通しているやも知れませぬと」
そう。
母上はこの眼に宿る力を見抜いておられた。
この力で須賀川の皆を導くよう望まれていた。
「行盛、その瞳に見えるこの父の命数を教えてくれぬか。ワシはあと幾日生きられようか」
「父上、そのような・・・」
思わず見上げた父上の瞳は、全てを受け入れて澄んでいた。
これもまた母上が望まれた事なのであろうか?
「行盛、答えよ」
「・・・」
「答えいっ、行盛!!!」
それはまさに歴戦の武士の獅子吼であった。
その熱さに気圧され、ガバッと面を上げて父上と向き合う。
「・・・おそらく後三年程かと」
ギリギリと奥歯を噛みしめながら、絞り出すように声を発しての余命宣告であった。
「三年、か。意外と保つものじゃのう」
ぽつりと呟く父上。
「ありがたい。三年あれば色々と準備が出来よう。行盛、よう言うてくれた」
「父上」
「行盛、そのような顔をするでない。人間五十年と言うではないか。この身は既に五十五ぞ。存分に生きたわ」
そう言ってカラカラと笑った父上はこう告げて来た。
しからばこの二階堂家の家督を行盛、そちに譲る、と。
この年、永禄四年(1561年)は一年を通して戦国の世の混乱が一番煮詰まっていた時期と言える。
陸奥では、会津にて蘆名氏方・盛氏兄弟が骨肉の争いに興じている。
関東では、長尾景虎の北条征伐が上杉家や近衛家の威光を持ってしても飢饉には勝てずに失敗。
景虎は鶴岡八幡宮にて上杉家の家督を継いで政虎と名を替えるも、その采配に不満を抱いた下野の小山高朝をはじめとする北関東諸将の離反を招いていた。
小田原城攻略を断念して越後に戻った上杉政虎は、北条氏康と結んだ武田信玄と川中島で激突。
甲越両軍互いに甚大な被害を被っている。
東海では、岡崎城で自立した松平元康が今川氏真に公然と反旗を翻して西三河を奪取し、東三河経略を開始。
尾張では、織田信長が斎藤義龍の急死により代替わりして弱体化した美濃の経略を加速させていた。
北陸では、加賀一向一揆と朝倉家の争いが過熱しており、近江では先年に引き続いて浅井長政が北近江を席巻中である。
近畿では、三好家の柱石であり頼れる弟であった十河一存の急死によって、三好長慶の威光に陰りが生じ始める。
紀伊河内の畠山高政と南近江の六角義賢が手を組んで大兵を率い、三好政権と将軍足利義輝への圧迫を強めていた。
四国では、姫和子と呼ばれていた長宗我部元親が頭角を表し、土佐中部統一への道を邁進している。
山陽では、宇喜多直家が蠢動を開始。
山陰では、急死した尼子晴久の後継の尼子義久が雲芸和議という大オウンゴールをかます。
門司では、関門海峡を挟んで大内遺領を巡って毛利と大友が争い、互いに退くに退けずに戦さの出口がいつまで経っても見えない状況にある。
九州では、龍造寺、伊東、島津が各々周辺に喧嘩をふっ掛けまくって勢力を拡大中だ。
つまり日本全土、六十余州全てがしっちゃかめっちゃかな状況にある。
そんな中、この身は二階堂家の家督を継いで須賀川城主となる。
現時点での二階堂家の所領は、従属した大内家の領地も含めて約十四万石。
数え年で弱冠十八歳の若年大名の誕生であった。
いずれこの戦乱の荒ぶる力は一つに収斂され、大きな波となって奥羽に押し寄せて来る事を自分は知っている。
史実と同じく天命が尽きようとしている我が父上と同様に、その時にはおそらくもう己の天命も尽きてしまっているはず。
それでも後に残す愛しい妻と子の為に、その大波を防ぐ算段は付けておきたい。
父上から譲り受けたこの十四万石は、その為の元手に全て使わせてもらおう。
そう決意し、俺は家督相続を告げる評定の場に臨もうとしていた。
しかし、俺は思い至っていなかった。
父上が自分の余命を聞いた時に抱いた覚悟の激しさに。
そして俺は、戦国の世を半世紀の渡って生き抜いてきた、二階堂輝行という一人の戦国武将の生き様を見せつけられ、己の未熟さを痛感させられる事となる。
<年表>
1561年 二階堂行盛 17歳
01月
▽豊前で第三次門司合戦。安芸の毛利元就(64歳)、仁保隆慰(38歳)に一軍を率させ門司城を急襲。門司城を取り返す。
▷出雲の尼子晴久(46歳)急死。尼子義久(21歳)が当主となる。
02月
◎須賀川の二階堂行盛、磐梯熱海城を築城。
◎須賀川の二階堂行盛、高玉金山を稼働させる。
▼会津の蘆名盛氏(40歳)、向羽黒山城を築城。家督を嫡男盛興(14歳)に譲る。
03月
▼二本松の畠山義国(40歳)、蘆名方に転じて援軍を要請。蘆名盛氏(40歳)、五千の士卒を率いて長沼城に進軍。
▼会津で蘆名氏方(45歳)謀反。黒川城を乗っ取って山内兄弟と合流。蘆名盛氏(40歳)、蘆名氏方討伐のために軍を翻す。
◎須賀川の二階堂方の保土原兵部、本宮城を防衛。畠山義国(40歳)を撃退。
◎須賀川の二階堂方の須田盛秀(31歳)、白河結城方の新城備後守を調略して新城館を占領。
◎須賀川の二階堂行盛、蘆名方の片平城を攻め落とす。伊東大和守、会津に逃亡。
◆関東出征中の長尾景虎(31歳)、十一万の大軍勢を率いて小田原城を包囲。
04月
▼会津の蘆名氏方(45歳)、南会津三家の山内氏、河原田氏、長沼氏と同盟。
★和泉の十河一存(30歳)、病死。三好長慶(39歳)落胆。
◎須賀川の二階堂行盛、謀反を起こした松峯城と梅沢城の高倉氏を征伐。安積郡内の反乱勢力を制圧。安積郡の領国化開始。
◎須賀川の二階堂行盛、保土原行藤(22歳)を派遣し、新城館に攻め寄せた白河結城軍の先陣白石刑部大輔と大将新小萱篤綱を撃破。
◆関東出征中の長尾景虎(31歳)、鶴岡八幡宮で関東管領に就任。山内上杉家の家督を継ぎ、上杉政虎を名乗る。
◎須賀川で二階堂行盛の嫡男鶴王丸(後の二階堂盛隆)誕生。
05月
◆下野の小山高朝(53歳)、関東管領就任式での上杉政虎(31歳)の采配に不満を抱き、相模の北条氏康(46歳)と手を結ぶ。
◆関東出征中の長尾景虎(31歳)、佐竹義昭(31歳)らの無断撤兵と武蔵松山城の謀反を受けて小田原城攻略を断念。鎌倉に引き上げる。
▶︎︎土佐の長宗我部元親(22歳)、攻勢を強めて本山茂辰(36歳)を朝倉城に追い込む。
▽日向の伊東義祐(49歳)、従三位補任。幕府の調停を無視して七度目の飫肥侵攻を開始。
☆三河の松平元康(18歳)、今川方の牛久保城を攻めて今川氏真(23歳)と手切れ。
06月
▷備前の宇喜多直家(32歳)、松田元輝家臣の穝所元常を謀略で討ち取る。
☆美濃の斎藤義龍(34歳)死去。斎藤龍興(13歳)、美濃国主になる。
◆近衛前嗣(25歳)、親友の上杉政虎(31歳)を助けるために越後から関東に入る。前嗣から前久に改名。
◆関東出征中の長尾景虎(31歳)、北条方に裏切った武蔵の松山城を攻略。
☆尾張の織田信長(27歳)、斎藤龍興(13歳)を攻める。森部の戦い。前田利家(22歳)帰参を許される。
07月
▷京の足利義輝(25歳)の仲介により雲芸和議成立。出雲の尼子義久(21歳)、石見の尼子方国人衆を見捨てる。
◆関東出征中の長尾景虎(31歳)、近衛前久に古河御所を任せ、越後に帰国。
08月
▽豊後の大友義鎮(31歳)、豊前に派兵。第四次門司合戦開始。
▽薩摩の島津貴久(47歳)、大隅の肝付兼続(50歳)と廻城を巡って争う。廻坂合戦で島津家久(15歳)初陣。
▽大隅の肝付兼続(50歳)、竹原山の戦いで島津忠将(41歳)を討ち取る。禰寝氏と伊地知氏、日向の伊東氏と結んで島津に対抗。
◎須賀川の二階堂輝行(54歳)、労咳に罹患。
09月
◆越後の上杉政虎(31歳)、北信濃に出撃。妻女山に陣取る。甲斐の武田信玄(40歳)、茶臼山に布陣。啄木鳥の戦法発動。
☆尾張で木下秀吉(24歳)がねね(14歳)と祝言を挙げる。
10月
◆第四次川中島の戦い。上杉軍、武田信繁(36歳)、諸角虎定(61歳)、山本勘助(61歳)らを討ち取るも、被害大きく撤退。
▽肥前の龍造寺隆信(32歳)、川上峡合戦で東肥前の神代勝利(50歳)を破る。
☆三河の松平元康(18歳)、藤波畷の戦いで吉良義昭を降し、東条城を陥とす。西三河制圧。
▼会津の蘆名盛氏(40歳)、蘆名氏方(45歳)から黒川城を取り返す。氏方、新宮城に退く。
11月
▽第四次門司合戦終結。豊後の大友義鎮(31歳)、門司城奪還に失敗。毛利軍の追撃を受け大損害。
◎須賀川の二階堂行盛、二階堂輝行(54歳)の隠居を受けて二階堂家の家督を継ぐ。
12月
★摂津の三好長慶(39歳)、将軍地蔵山城の戦いで畠山六角連合に敗れる。長慶方の足利義輝(24歳)、石清水八幡宮に逃れる。
◆上州旗頭の箕輪城主長野業正(70歳)死去。長野業盛(17歳)が継ぐ。
-------------
▲天変地異
◎二階堂
◇吉次
■伊達
▼奥羽
◆関東甲信越
☆北陸中部東海
★近畿
▷山陰山陽
▶︎︎四国
▽九州
<同盟情報[南奥 1561年末]>
- 伊達晴宗・二階堂行盛
- 蘆名盛氏・結城晴綱・畠山義国
- 蘆名氏方・山内舜通・河原田盛次・長沼実国
- 田村隆顕・相馬盛胤
- 佐竹義昭・大関高増・岩城重隆
須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 14万石
・奥州 岩瀬郡 5万1千石
・奥州 安積郡 3万石 + 5千石 (NEW!)
・奥州 安達郡 3万5千石
・奥州 伊達郡 1万5千石
・奥州 白河郡 4千石 (NEW!)
ブックマーク登録、いいね、☆☆☆☆☆クリックでの評価を頂けると大変励みになります。
よろしくお願いします。




