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二階堂合戦記  作者: 犬河兼任
第二章 高玉を獲れ
15/83

1560 膨張

<1560年 4月某日>


 行盛来々!


 おっとそれは高順の元同僚の張遼の方か。

 そちらの方が圧倒的に知名度は高いのに。


 先年の渋川合戦、郡山合戦での大勝を経て、田村家とは阿武隈川を境に互いの領土とする線で講和している。

 しかし、二本松の畠山家との停戦はまだであった。

 田村隆顕と共同で相楽勘解由と大河原弥平太に調略を仕掛けた件を責め、前田沢城の割譲を求めたら激怒された。

 まぁ当然だ。

 相楽勘解由と大河原弥平太を寝返らせようとしてた当事者は蘆名盛氏なので、畠山義国としては言い掛かりも甚だしいだろう。

 畠山家からの抗議を受けて白々しくも蘆名家に問い合わせをしてみるも、当然の事ながら蘆名盛氏は知らんぷりである。


 この時期、蘆名家の安積郡に関する対応はおざなりである。

 と言うのも、蘆名盛氏は越後の長尾景虎と手を組み、関東の勢力争いへの介入に没頭していた。


 長尾景虎は先年精兵二千を率いて海路で上洛し、征夷大将軍の足利義輝から管領並みの待遇を受けている。

 世に名高い上杉の七免許である。

 この時に正式に足利幕府から北条征伐の許可を貰ったようで、どうやら長尾景虎は今年暮れの関東出征を企画しているらしい。

 出征の為の下準備として、保護している関東管領の上杉憲政を通し、関東討ち入りの折には参陣するよう命ずる文を関東諸将に対して片っ端から出しまくっている。

 そして長尾景虎自身は、後顧の憂いを断つ為にこの春に隣国の越中に出陣。

 武田信玄の支援を受けて一向一揆勢を率い、越中を席巻していた富山城主の神保長職がその(まと)であった。


 また長尾景虎は下野にもちょっかいを出している。

 会津の蘆名盛氏に対して下野の那須資胤を圧迫するよう要請したのである。

 那須資胤は北条方の壬生綱雄の同盟者であり、長尾家に従わずに北条方へ付く事を広言していた為、やり玉に挙げられていた。

 一昨年の長尾勢の下野乱入は、多功ヶ原の戦いで今は亡き宇都宮老臣の多功長朝に先陣の佐野豊綱を討ち取られて瓦解していたが、それに続く下野諸将への恫喝第二弾である。


 長尾景虎の要請を受けた蘆名盛氏は、同盟国である白河の結城晴綱と共に下野に出兵。

 対する那須七騎を率いる那須資胤は、配下の大関高増を通して常陸の佐竹義昭に救援を求める。

 まだこの時期の佐竹義昭は、長尾景虎の関東出征に対する態度を表明していない。

 その佐竹義昭は大関高増の出兵要請に応じる構えを見せた。


 佐竹義昭には清和源氏義光流の末裔、常陸源氏の惣領としての誇りがある。

 関東管領何するものぞ!

 上杉も長尾も後北条も家の格では佐竹に断然劣るわ!

 そのような確たる認識が、佐竹義昭本人の中にはあるのだろう。

 北条氏康に河越夜戦で敗れた後の上杉憲政から、実際に関東管領と上杉家の家督継承を打診されていたが、その時も佐竹義昭はにべもなく断っている。

 長尾家でもなく後北条家でもなく、関東の第三極としての勢力保持に努めるべく、佐竹義昭は下野への派兵を決断したのだ。


 こうして蘆名結城軍と那須佐竹軍とが陸奥と下野の国境で激突する。

 後世に『小田倉の戦い』と呼ばれる戦さであった。


 我が二階堂家は、蘆名家と結城家が関東の覇権争いに介入しているその間隙を突き、二本松畠山家の安積郡拠点への攻略を開始。

 日和田城の北西4km強に位置する前田沢城に兵を進めていた。






 先年の渋川合戦と郡山合戦は防衛戦であったが、今回は外征である。

 領内の諸城に守備兵を配置する必要がある為、動員出来る兵も減る。

 安積北部まで連れて行ける兵の数は、岩瀬衆千三百、安積衆五百、傭兵部隊五百の総計二千三百。


 翻って二本松の畠山勢は防衛戦であり、郡山合戦の痛手が残る中、国力の限り兵を抽出してきた。

 安達衆二千二百、安積衆三百の総計二千五百。

 その内、前田沢城に四百、他の安積北部の諸城に合計二百が篭っており、残り一千九百が二本松からの後詰めとしての着陣であった。

 盟約中の田村家への手伝い戦さであった郡山合戦と違って、今回はかなり戦意が高いのが見て取れる。


 敵の兵力を遠目に見ながら、保土原行藤の報告を聞く。


「伊達家に二本松の北を脅かして欲しかったが、やはり無理であったか」


「はい。何やら名取を巡って係争中の亘理相馬との間に和睦の動きがあるらしく。こちらに兵を向ける暇は無いとの事でした」


 どうやら義父の伊達晴宗は名取郡や宮城郡の方面へ伊達家の勢力を伸ばすのにご執心のようだ。

 廃れて久しい多賀国府でも手に入れて、建武の新政北畠顕家時代の陸奥将軍府の再興でも気取りたいのだろうか。

 どちらにせよ元奥州探題の大崎義直を完全に屈服させたい、との思いが透けて見える。


「まぁ良い。妻の実家に借りを作らなくて良かったと考えようか。左近。父上に手筈通りに、と伝えてくれ」


 今回は二階堂家と畠山家が正面からぶつかるガチの戦さになる。

 防衛戦の為、敵の士気も高い。

 武装や練度は我が方に利があるだろうが、その代わりに忠誠心が低くて兵の士気もそれほど上がっていない安積衆を抱えている。

 出来うるなら楽に勝てる状況を作ってから戦いたい。

 だが畠山勢とタイマン張れる機会はそうそう無く、このチャンスを逃すわけにはいかなかった。


 だからと言ってはなんだが、僅かでも勝率を上げる為、色々と小細工を弄するのには余念が無い。


 畠山勢の後詰を確認した後、我が二階堂勢は籠城戦で健闘していた前田沢城から一旦兵を退いた。

 そして北から攻め寄せてくる畠山勢を迎え撃つ為べく、前田沢城北面の五百川を越えて布陣する。

 前陣の左翼に安積衆五百、本営に岩瀬西部衆七百、右翼に東部衆五百。

 そして後陣には俺の直衛と傭兵部隊の六百。


 こそばゆいが武名は武名だ。

 今回の安積北部への侵攻の前に、俺は己の軍旗を作っていた。

 白地に『在陥陣営』の四文字を記したシンプルな旗である。

 意味は、陥陣営ここに在り!である。

 その旗を左翼に配した戦意の低い安積衆に持たせる。


 敵が俺の名を恐れて左翼に兵力を集中すれば、それを利用して本陣と右翼が敵の薄くなった布陣を突き崩す。

 敵が俺の名を恐れて左翼への攻勢を緩めれば、それを利用して戦線を維持して敵への出血を強いる。

 そして前田沢城の城兵たちが二階堂勢の後背を襲う為に出撃をしてくるのを、我ら後陣が密かに待ち受ける。


 それが今回の戦いで俺が父上に提示した策であった。






 策が図に当り、畠山本軍との戦闘は膠着状態に移行している。

 しばらくして保土原行藤が馬を寄せて来た。


「若君、前田沢城の兵が動き出しました。五百川を渡ってこちらに向かって来ておりますよ」


 やはり兵数的に劣勢な本軍を支援すべく出てきたか。


「数は?」


「およそ三百になりますね」


 と言うことは、先の籠城戦での与えた損害を考えると、前田沢城に残った兵は五十程度だろう。


「よし、後陣反転せよ。前田沢城へ向かうぞ!父上にはそのまま畠山勢を抑えておいてもらおう」


 此度の戦さ、前田沢城さえ落としてしまえば終いよ。

 出てきた城兵連中を二倍の兵力差を持って一気に突き崩し、そのまま前田沢城に乱入してやる!






 半刻後、前田沢城から上がる煙を見て動揺した畠山勢が、五百川以南の勢力保持を断念。

 撤退を開始するも、我ら二階堂勢の追撃を受けて潰走。


 これを受けて、前田沢城の北東に位置する松峯城と梅沢城を守っていた安積伊東系の高倉氏は、戦わずして我らに降伏。

 安積郡の喜久田と日和田の全ては、我ら二階堂の手に落ちた。








<1560年 05月某日>


 安子ケ島城が開城し、城主の安子島右衛門大夫が約定に従って、二本松に向けて退去して行く。

 安子島右衛門大夫の息子だろうか。

 俺と同じ年齢の若武者が悔しげな表情でこちらを睨んできたのが印象的であった。

 あれが蘆名家に義理立てし、最後まで伊達家の大軍に敵対し続けたと伝わる安子島祐高かもしれない。


 前田沢の戦いの後、父上に願い立て安積衆を借り受け、直衛と傭兵部隊と合わせて一軍を組織。

 俺は安積郡北西部の制圧に乗り出していた。


 ちなみに会津の蘆名。

 小田倉の戦いで那須軍を追い詰め、那須資胤に手傷を付けるところまで迫ったらしいのだが。

 それが那須軍の戦術だったようだ。

 戦線が伸び切ったところを大関高増率いる上那須衆に急襲され、一気に統制が崩れてしまう。

 そこを佐竹義昭の伏兵によって散々に叩かれ、下野から敗退してしまったらしい。


 被害が思いの外に大きく、今の蘆名と結城には直ぐに他方に出兵するまでの余裕が無くなっている。

 今のうちに安積郡から畠山勢を全て叩き出してしまいたかった。

 その為には手早い用兵が求められる。

 この安子ケ島城の開城交渉も、須田盛秀に任せた高玉城の攻撃と並行していた。


 安子ケ島城に入城して仕置きを行っていると、高玉城の攻略が完了したという伝令が入ってくる。

 安子ケ島城の北西に4km進んだ場所にある高玉城。

 城主の年若い高玉常頼は畠山義国の庶長子で、最後まで抵抗したそうだ。

 畠山義国の援軍は、前田沢城に詰めていた父上率いる岩瀬本軍によって最後まで阻まれ、ついに安積郡に足を踏み入れることが叶わなかったな。


 高玉城の方向に手を合わせておく。


「若君、もう一つお伝えしたき儀が」


「左近、如何した」


「受天殿の仲裁により、伊達と亘理相馬の和睦が相成り申した」


「で、どのような条件か?」


 受天とは先の伊達家当主であった伊達稙宗の号である。

 この二階堂行盛の祖父にあたる。


 保土原行藤の報告によると、亘理家には小平城の代替地が名取に用意され、相馬家には嫡子の相馬義胤に伊達稙宗の末娘の越河御前が嫁ぐ事になったらしい。


 伊達稙宗は既に七十を過ぎているはずだが。

 最後まで息子や孫たちに祟るな。

 この婚姻もまた後々の伊達家と相馬家の争いの火種になっていく為、阻止したかったのだが。

 そこまで俺の手はまだ長くなかった。


「決まってしまったものは仕方無し。左近、少し城外を検分致す。護衛の兵には口の固き者を選抜せよ」


 さて、ここから畠山勢から安積北西部を奪い取った真の目的を果たしに行こうか。






 安子ケ島城から北に2kmほど先に連なる山々に向けて、道無き道を進む。

 どこだ、どこにある?


 それは1kmを切ったところで突如現れた。

 重要ポータルを知らせる黄金の矢印。


 戦闘モードの俺の視界には、その山が赤いベールで囲まれ、その上空に黄金色に輝く逆三角形が燦然と浮遊して見えていた。


「くくっ、くっくっく、あははっ、あはははっ、あはははははは!」


 自然と溢れてしまった笑いが止まらなくなる。


「若君、如何なされた!行盛様!!」


「あははっ。左近、お前には見えぬか。あの山から立ち昇る黄金色の気が!くくくっ我勝てり!これで結城も蘆名も佐竹でさえも、我が二階堂の敵ではなくなったわ!はははははははは」


 保土原行藤も護衛の兵も。

 狂ったように笑う俺を薄気味悪そうに見守るだけ。

 まぁそうだろうな。

 これまで頼れる若き後継と慕ってきた主人が突如壊れてしまったのだから。


「左近、岩瀬領内の山師を密かに集め、あの山を探らせよ。そして、ここで見たものを口外せぬよう山師たちを固く口止めするのを忘れるな!お主達もじゃ!」


 スラリと刀を抜いて、近衛の者たちを威嚇。


「この山の事が他国に露見せば、まず第一にお主達を疑う。家族にも言ってはならぬ。もし口外した事が判明せば、この俺自らが三族皆殺しにしてくれん!」


 存分に脅す。

 まぁ山の運営が軌道に乗ったら、後で特別ボーナスは出してやる事にしよう。


 火縄銃の購入と、これまでの田村家や畠山家との戦費。

 そして今年から本格化した永禄飢饉対策で、これまで殖産興業で必死に溜め込んできた分を散々に散財している。

 まだ数年は無茶が出来ようが、将来的には二階堂家の家計も火の車に陥る事は目に見えていた。

 その心配もこれで一気に吹き飛んでしまった。


 俺の好きなように使える懐の財布も、だいぶ膨らむことだろう。


 高玉金山発見!

 俺の戦国時代ライフの第二関門突破を告げるファンファーレが、何処かで聞こえたような気がした。






<1560年 08月>


 永禄三年五月十九日は桶狭間の戦いが行われた日である。


 どうやら東海一の弓取りの今川義元が、上洛の途上に尾張で織田信長と言う若輩の中小大名に討たれてしまったらしい。

 その噂が須賀川まで入って来たのが一ヶ月前の事であった。

 それから一ヶ月が経過し、その今川義元討死の報は確定情報へと変わる。

 そして織田信長という青年武将の知名度は一気に全国クラスとなり、この奥州でもクローズアップされつつあった。


 織田は織田でも尾張守護の斯波氏配下の尾張守護代の清洲織田家ではなく。

 そのまた配下の清洲三奉行の一家、織田弾正忠家の出で父の織田信秀の代に大きく下克上したとか。

 信長本人は幼い頃は大うつけと呼ばれており、須賀川の若殿のように牛乳を好んで飲んでいたとか。

 父親の葬儀の時に父親の位牌に灰をぶちまけて周囲の度肝を抜いたとか。

 あまりにうつけ過ぎて傅役の平手政秀が諌死してしまったとか。

 美濃のマムシと恐れられていた斎藤道三の娘の帰蝶を娶り、帰蝶は懐剣を抱いて嫁いできたとか。

 その斎藤道三との正徳寺の会見では長槍と鉄砲を揃えて現れ、斎藤道三をして息子達が門前に馬を繋ぐ事になると嘆かせ。

 その門前に馬を繋ぐはずだった斎藤義龍が斎藤道三を討った長良川の合戦では、斎藤道三から美濃譲り状を受け取ったとか。

 母親の土田御前と折り合いが悪く、同腹の弟の織田信勝と度々争い、最後は病気と偽って織田信勝を誘殺してしまったとか。

 そして今回の大金星である。


 そのドラマティックな半生の生き様と人間性が注目を浴び、人々の興味のランキングトップに一気に躍り出る。

 有る事無い事噂話が膨らまされて誇張され、遠く離れたこの奥州の須賀川の人々の口の端にまで上るようになっていた。

 逆を言えば、討たれた今川義元という存在が、いかに東国では大きかったのかという証左でもあろう。


 ただなぁ。

 この俺は桶狭間の戦いがこの年に発生するのは事実として把握していたわけで。

 周囲が感じたほどの驚きは当然無い。

 個人的には、松平元康という今川義元の女婿武将が父祖の根拠地である三河の岡崎城に帰還を果たしたらしい、という小さな噂話の方が気になってしまっていた。

 ああ、やはりそうなるのかと。


 しかし、それよりも、だ。

 自分だけでなく、我が二階堂家にとっても余程重要で重大なニュースが、今この目の前で発生していた。


「出来たのか」


「ああ、出来たようだ。やっとな」


 対面する我が妻、南姫のその言葉を現実感無く受け止める。

 いや受け止められているのか、俺は。


「月のモノがなかなか来なくてな。薬師に調べてもらったが、まず間違い無いらしい」


 我ながらかなり動転してるな。

 戦闘モードの事をスコンと失念してしまっていた。


 目を瞬いて戦闘モードに移行。

 南姫の体力ゲージの下に僅かな幅のバーが重なるように追加されてた。

 母の薫が観音丸を生んだ時と同じであった。


 起請文を焼き捨て、真の意味で夫婦となってから既に一年と数ヶ月が経っている。

 もうと言うより、ついにであった。


 この時代は照明器具が全然発達していない為、夜は本当に真の暗闇となる。

 夜にやる事と言ったら夫婦の営みしか無く、若い男女二人の俺と南姫も他と同様、ほぼ毎晩閨合戦に及んでいた。

 なまじ双方共に人一倍に鍛えており、体力があるものだから二回戦三回戦は当たり前である。

 オギノ式の知識も活用し、出来るだけ早く孕むよう頑張って注いでいたのだが。


 そう言う意味では、得られる快感の量は別にして、俺と南姫の体の相性自体はそんなに良くないのかもしれない。

 受精して着床にまで及ぶのに、結局一年以上も掛かってしまった。


 この二階堂盛義と阿南の方の長男で、蘆名に人質に取られて蘆名の家督を継ぐ事になる蘆名盛隆。

 確か永禄四年辺りの生まれだったはずだ。

 いずれ出来るだろうとダラダラと快感だけ貪ってきたが、まさに史実通りに生まれてくる事になろうとは。

 人の生誕や死に関しては天命か何かで決まっていて、俺がいくら頑張っても動かせないのかもしれない。


 するとやはりこの俺、二階堂盛義も37歳で死んでしまう事は確定なのだろうか。


「どうした?喜んでくれないのか?」


 気がついたら、南姫が拗ねていた。


 いけない。

 今はその事は考えないようにしよう。


「いや、いやいやいや!嬉しい。嬉しいさ。ただ、何というか現実感が無くてな」


 当然の事だが、まだ南姫のお腹は全く膨らんでおらず、スラリとしたままだ。

 そっと着物の上から、そのくびれた腰に触れてみる。


「ここにいるのか」


「ああ。私と其方の子がここにいる」


 優しげに微笑む南姫。


 父になるこの身はまだ16歳、いや今からだと出産は来年だから17歳か。

 随分と若い父親である。


 今から心配になってくる。

 父としての貫禄をこの子に見せつける事は出来るであろうか。

 反抗期の事を今から考えると不安になって仕方ない。


 いや、それよりもだ。

 この子が安心して生きていける未来の方を心配すべきだ。

 蘆名へ人質に出さざるを得ないような事態には絶対にしないぞ!


「ふふっ。顔付きが変わったな。精悍で好ましいぞ。惚れ直してしまいそうだ」


「ああ。決意が新たになった。この子の為に、やるべき事は全てやってやるさ」


 そっと南姫ごとその小さな命の光を抱き寄せる。


「心早いものだ。我が夫殿は、もう父親としての自覚が芽生えてきたらしい」


「何を言う。我が妻殿も、随分と優しげな母親の顔になっているではないか」


 軽口を叩きながらも自然と二人の体はぴたりと重なり、そのまま口を吸って互いの愛情を確かめ合った。


「んっ、そう言えばこの子は、鬼も惚れさせる絶世の美少年として生まれてくるのであったな。今から楽しみではないか」


 南姫が戯れてくる。

 そうか、そうだったな。


「どうした?また難しい顔をして」


「いや。生まれて来たら、衆道には絶対に転ばぬよう強く言い聞かせて育てねば、と思うてな」


 蘆名盛隆の死因は痴情の縺れである。

 寵臣に後ろから斬殺されたとか。

 やはり男色はいかん!


「ぷっ、何ともまぁ我が夫殿は気が早い事だ。くくくく」


 ええい、笑い事では無いぞ、南姫!






 一人縁側に座り、月を見る。


 この俺が父親か。

 この夢か現か分からぬ世界で、結婚して我が子を持つまでになるとは。

 こうなると翻ってこの夢がいつまでも覚めてくれるなと考えてしまう。

 我ながら現金なものだ。


「我が君、お寛ぎのところ失礼致しまする」


「左近か。如何した」


 保土原行藤が木陰から現れ、すぐ近くまで寄ってくる。


「例の山の件にございます。山師の調査が終わりました故、ご報告に上がりました」


 顔を伏せ、声を潜めて調査結果を伝えてくる保土原行藤。


「山師どもが震え慄いておりました。これほどまでのお山は見た事がない。今は昔の奥州藤原氏の頃にも、ここまでのお山は無かったであろうと」


「そうか。この事、決して他国には漏らさないように手配せよ。特に蘆名と伊達にはな」


「はっ」


「父上に願い出て磐梯熱海を我が直轄領とする。あそこには良い出湯があると聞く。人をやって館と湯治場を作ろう。子が出来た我が妻が冬も温めるようにな」


 あの辺りが熱海という地名になったのは、安積伊東氏が伊豆の熱海出身だからである。

 伊東祐長が源頼朝から拝領した安積の地に熱海と名を付けた。

 その名の通り伊豆の熱海と同様に温泉が湧き出ている。

 後醍醐天皇の側近の万里小路藤房の娘、萩姫がわざわざ京から湯治に訪れたことで有名であった。


「新しき城をお作りになられると?」


「ああ。しかし建前はあくまで湯治場の施設よ。人を多いに集めて、今までに誰も見た事ない規模の無い湯治場とせよ。そしてその陰で密かに金山の開発を進めるのだ」


 高玉金山の運営が軌道に乗るまで、まだ幾ばくかの時間が必要だろう。

 本格稼働するまでの間に、高玉金山を守る防衛体制をしっかり築き上げておきたい。

 磐梯熱海への新城建築の他にも、高玉城と安子ケ島城の防御力向上も喫緊の課題となる。


 また、せっかく発見した金山である。

 効率的に採掘して、得られる金を最大化するべきであった。

 灰吹法を入手する為、上方に人を派遣する事も本格的に検討する必要が出て来た。

 出来れば出先機関のような恒久的な形を取りたいのだが。


 何か妻の妊娠が発覚してから、一気に考える事が増えてしまった。

 父親になるって大変だなと痛感する。


 思考の淵に沈んでいたら、いつの間にか保土原行藤の姿は見えなくなっていた。






<1560年 11月>


 関東では長尾景虎が猛威を振るっている。

 初めての関東出征であり、関東諸将はまだ誰も長尾景虎の人となりを知らずにいた為、長尾景虎に掛ける期待値も大分大きかった。

 上州、武州だけでなく相州、豆州まで長尾方に転ずる者が続出して北条氏康は大ピンチだ。

 今はもう北条氏康も真面に勝負するのを諦めて、本拠地の小田原城まで兵を退いているようだ。


 ただ野州と常州、総州の諸将は未だ様子見に徹する者が少なくない。

 長尾景虎が想定していたよりも、関東管領の上杉憲政の名前の効きが悪かったのである。


 常陸の佐竹義昭もその一人であった。

 小田倉の戦いの後に下野の那須資胤と大関高増の間で仲違いが生じたが、佐竹義昭は北条方の那須資胤ではなく、上那須衆を率いる大関高増の支援に回る。

 更に北条方に転じた下総の結城晴朝を、小山秀綱や小田氏治らの上杉長尾方諸将と共に攻撃。

 この時点では北条氏康から長尾景虎に乗り換える動きを見せていた。

 しかしそれが一転、自軍の勢力圏を広げる為、長尾方の白河結城領の南郷へ本格的に侵攻を開始。

 長尾と後北条の戦いを尻目に、奥州棚倉の南方の玄関口にある寺山城を包囲する。


 かねてより南郷に向けての思いは熱く、東館や狐屋館や羽黒館と着々と北上して南郷の城館を手中に収め、棚倉進出の機会を狙っていた佐竹義昭。

 春先の小田倉の戦いの痛手がまだ癒えていない白河結城軍では、単独でこれに当たるのは難しかった。

 結城晴綱は同盟国の蘆名盛氏に出兵を要請。

 蘆名勢の助力を得て佐竹義昭の軍に対抗する。


 佐竹軍と蘆名結城軍は南郷の寺山城を巡って二ヶ月に渡って激闘を繰り広げる。

 この争いに目を付けたのが、小田原の北条氏康であった。

 長尾景虎に対抗する為に是が非でも佐竹義昭を懐柔したい北条氏康は、傀儡の古河公方の足利義氏を使って仲裁に乗り出す。


 結果としてこの仲裁案は結城晴綱を激怒させ、彼を一か八かの決断に追い込む事になる。

 足利義氏の提示して来た講和条件には寺山城の割譲が含まれており、結城晴綱としては噴飯ものであったと言えよう。

 佐竹寄りのその不利な和解案を跳ね除けた結城晴綱は、我ら二階堂家を警戒して温存していた北白河の兵力を南郷に向けて増派。

 新小萱篤綱を大将とするその援軍は、先陣の白石刑部大輔の活躍もあって、佐竹軍の重囲を見事撃ち破る事に成功する。


 この佐竹義昭の南郷侵攻の結末。

 誰が一番得したかと聞かれれば、もしかしたら我が二階堂家だったかもしれない。

 白河の結城晴綱は予備兵力を全て対佐竹戦に投入し、会津の蘆名盛氏はその娘の嫁ぎ先の結城家への支援に掛り切りだ。

 両家が仙道筋へ介入してくる余裕など全く無い状況が、この春先と同様に出来上がってしまっている。


 その隙を突いて、我が二階堂家は畠山義国の領国である安達郡に侵攻。

 既に小屋城と瀬戸川城の攻略は完了しており、現在は奥州街道沿いの要衝である本宮城の攻略に取り掛かっていた。






 畠山方の本宮城を包囲し、攻撃のタイミングを伺い続ける。

 安積郡北西部の磐梯熱海エリアを防衛するに当たって、北方の国境は出来るだけ遠くに押し上げておく必要がある。

 可能なら二本松の畠山家を滅ぼし、その領地である安達郡を全て接収したかった。

 だが、そこまで行く前に必ず他家が介入してくるであろう。

 それが親族血統が入り乱れた奥州という地の土地柄である。

 他家が邪魔してくる前に、最低でもこの本宮城までは自領に組み入れておきたい。


 南姫の懐妊が発覚してからというもの、日に日に膨張していく南姫のお腹を撫でるのが日課だった。

 出征中はそれが出来ず、ひたすら悔しい。

 もうどれくらい南姫のお腹は大きくなっているだろうか。

 早く須賀川城へ戻って南姫のお腹を撫で摩り回したい!

 籠城中の敵方の本宮城の城兵たちだけでなく、俺自身がもう限界に差し掛かりつつあった。


 城攻めを急ぎたい俺が、それでも本宮城への我攻めをしたがる重臣一門衆たちを押し留めているのには理由がある。

 俺はある知らせを待っていたのだ。

 どうやら待ち望んでいたその知らせを保土原行藤が持ってきたようだ。


「我が君。吉報にございますよ。大内義綱が宮森城主の大河内備中を斬り、主君の石橋尚義を相馬に追放。塩松地方を手中に収め、我が二階堂家に与する事を表明しております」


「よし!これで二本松の後詰は出てこれまい。左近、その旨を矢文にして本宮城に撃ち込め。其方らは見捨てられたとな!」


「承知仕りました」


 二本松城の東、塩松地方を治めていたのは塩松石橋氏。

 足利一門で奥州でも高い家格を誇っていたが、1550年に重臣の大内義綱らが主君の石橋尚義を幽閉。

 大内義綱を始めとする石橋四天王が合議制で塩松地方を統治していた。

 そのリーダー格の大内義綱を唆し、同じく四天王で畠山に傾注していた大河内備中を斬らせ、塩松の独占を条件にこちらの陣営に引き込む。

 史実では後年同じ様に田村方に転じるはずであったが、現時点でも目はあるはずと踏んで調略を保土原行藤に命じていたのだが。

 どうやら上手く行ったようだ。


 塩松の石高は更に東方の小手森も含めて約二万石。

 これで畠山義国は南と東に敵を抱える事になり、本城の二本松城を離れる事は出来なくなった。

 後詰の来ない籠城戦は地獄だ。

 本宮城の士気はガクンと落ち込むはず。

 攻城戦の準備がこれでやっと整った。

 早晩本宮城はこの手に陥ちる事になるだろう。






 俺の見立てに誤りは無く、この日のうちに本宮城は陥落。

 本宮城西方の玉井城も、合わせて二階堂方に帰属する。

 更に塩松地方が傘下に加わった事により、我が二階堂家は安積郡を越えて、安達郡の約半分を手中に収めるに至る。

 石高に換算すると約十三万石まで膨れ上がった。

 夢の二桁超えである。

 徳川幕府の伺候席で言うと、ギリギリ大広間が狙えるポジションだ。


 妻の腹も、懐の財布も、家の領土も。

 このまま順調に膨張が続いて欲しい。

 誰にも針の一穴を穿たせないよう、目を光らせる事が肝心だ。


 まずは早速須賀川城へ飛んで帰り、南姫のお腹を撫で回そうか。

 余りしつこくし過ぎると怒られるので、加減が難しいのだけれども。





〜 第二章完 〜


<年表>

1560年 二階堂行盛 16歳


01月

★摂津の三好長慶(38歳)、家督を三好義興(18歳)に譲る。

★洛中で正親町天皇(43歳)即位。


02月

▷山城の足利義輝(24歳)、毛利隆元(37歳)を安芸守護に任じる。


03月

◆甲斐の武田信玄(39歳)、川中島に海津城を築く。

☆三河の松平元康(17歳)、母の於大の方(32歳)の再嫁先の阿古居城を尋ねる。


04月

☆越後の長尾景虎(30歳)、一向一揆を討つ為に初めて越中へ出征。富山城の神保長職(55歳)を討つ。

▼下野で小田倉の戦い。那須資胤(33歳)、佐竹義昭(29歳)の援軍を得て、結城晴綱(40歳)と蘆名盛氏(39歳)の連合軍に勝利。

◎須賀川の二階堂行盛、畠山方の前田沢城を攻め落とし、畠山義国(39歳)率いる後詰めを撃破。

◎須賀川の二階堂行盛、畠山方の高倉氏降伏。松峯城、梅沢城を接収。

▼下野の那須資胤(33歳)、小田倉の戦いでの不手際を責め、大関高増(33歳)と仲違い。高増、上那須衆を率いて佐竹氏に内通。


05月

◎須賀川の二階堂行盛、畠山方の安子ヶ島城と高玉城を攻略。高玉金山発見。

▼登米の葛西親信(47歳)病死。弟の葛西晴信(26歳)が家督を継ぐ。

■伊達相馬和睦。相馬義胤(12歳)、伊達稙宗(72歳)の末娘・越河御前(11歳)を娶る。

☆駿府の今川義元(41歳)、山口教継父子を呼び寄せて切腹を強いる。岡部元信(42歳)を鳴海城に入れ、上洛戦開始。

▶︎︎土佐の長宗我部国親(56歳)、長浜の戦いで本山領の大部分を攻め取る。長宗我部元親(21歳)初陣。姫若子が鬼若子に変身。


06月

☆尾張の織田信長(26歳)、桶狭間の戦いで今川義元(41歳)を討ち取る。今川方の松井宗信(45歳)、井伊直盛(54歳)ら討死。

☆三河の松平元康(17歳)、今川方が離散して空き城となっていた岡崎城に帰還。

☆尾張鳴海城の岡崎元信(42歳)、今川義元の首と城を交換。水野信近(35歳)を討ち取って刈谷城を焼いた後、駿府に帰還。

☆駿河で松平元康(17歳)の正室瀬名姫(19歳)、元康の長女亀姫を出産。


07月

▶︎︎土佐の長宗我部国親(56歳)急死。元親(21歳)家督を継ぐ。

▲出羽の鳥海山で小規模の噴火。

◆下総の結城晴朝(26歳)、長尾景虎(30歳)に従わず、相模の北条氏康(45歳)と手を結ぶ。

◆常陸の佐竹義昭(30歳)、小山秀綱(32歳)・小田氏治(27歳)と共に兵七千で下総の結城晴朝(27歳)を攻め、降伏を強いる。


08月

◎須賀川で二階堂行盛の正室の南姫(19歳)懐妊。

★北近江の浅井長政(15歳)、野良田の戦いで南近江の六角承禎(39歳)、義治(15歳)父子を破る。

▽肥後の相良頼房(16歳)、叔父上村頼孝(43歳)の帰参を許す。

◆相模の北条氏康(45歳)、上総の里見義堯(53歳)を攻めて久留里城を包囲。


09月

▼常陸の佐竹義昭(29歳)、白河領の南郷に侵攻し、寺山城を包囲。

◆越後の長尾景虎(30歳)、関東初回出征。上杉憲政(37歳)、関東の諸将に長尾家の北条征伐への参陣を命じる。

◆相模の北条氏康(45歳)、長尾景虎(30歳)に対抗する為に上総から兵を引き上げ、武蔵の松山城に入る。


10月

◆越後の長尾景虎(30歳)、三国峠を越えて関東に乱入。北条方の沼田城、岩下城、厩橋城、那波城、羽生城を次々と攻略。

◎須賀川の二階堂行盛、二本松方の小屋城、瀬戸川城攻略。

★山城の足利義輝(24歳)、伊勢貞孝を日向に派遣し、伊東義祐(48歳)と島津豊州家の日向南部を巡る争いを調停。

◆京の近衛前嗣(24歳)、越後へ下向。


11月

◆相模の北条氏康(45歳)、長尾景虎(30歳)の勢いに押されて松山城から小田原城まで後退。

▼白河の結城晴綱(40歳)、古河公方の足利義氏(19歳)の仲介を跳ね除け、新小萱篤綱を派遣して寺山城を解放。佐竹義昭(29歳)、南郷から一時撤退。

◎須賀川の二階堂行盛、石橋氏を裏切った大内義綱(64歳)を配下に加えて二本松方を牽制。小浜城、宮森城が二階堂方に転ずる。

◎須賀川の二階堂行盛、二本松方の本宮城攻略。


12月

★大和攻略中の松永久秀(52歳)、拠点を信貴山城に移す。

◆越後の長尾景虎(30歳)、北条方の河越城と古河御所を包囲。関東で越年。


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▲天変地異

◎二階堂

◇吉次

■伊達

▼奥羽

◆関東甲信越

☆北陸中部東海

★近畿

▷山陰山陽

▶︎︎四国

▽九州


<同盟情報[南奥 1560年末]>

- 伊達晴宗・二階堂輝行

- 蘆名盛氏・結城晴綱

- 田村隆顕・相馬盛胤・畠山義国

- 佐竹義昭・大関高増・岩城重隆


挿絵(By みてみん)


須賀川二階堂家 勢力範囲 合計 13万1千石

・奥州 岩瀬郡 5万1千石

・奥州 安積郡 2万石 + 1万石 (NEW!)

・奥州 安達郡 3万5千石 (NEW!)

・奥州 伊達郡 1万5千石 (NEW!)

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