First Turn 入口
この日は週末の土曜日。世間的には休日で、学生である橘慶太にとっても学校が休みなので好きなだけ寝坊できる自由な日ということで、ぐっすりと深い眠りについていた。昼過ぎまで寝られる貴重な日であり、学生の慶太がそんなチャンスを逃す手はない――はずだったのだが。
突如室内に響き渡った、壊れてしまうのではないかというほど乱暴に開けられるドアの音。爆音とも言えるような騒音に、慶太は一気に現実に引き戻されると反射的に飛び起きた。
「うわっ!?」
思わず声が漏れる。上半身を起こしたまま何事かとドアの方を見れば、二歳上の姉がつかつかと歩み寄ってくるのが見える。
「起きなさい、けーた!」
「……もう起きてるよ」
あれだけ大きな音をたてておいて何を言うのだろうかと半眼になるが、姉は気にすることなく慶太のベッドの真横までやって来ると仁王立ちになり、見下ろされた慶太は嫌な予感がして呆れ顔になる。
「今すぐ着替えなさい! すぐに出るわよ!」
「……初耳なんだけど……出るってどこに?」
「イベントに決まっているじゃない!」
興奮しっぱなしの姉のテンションは最高潮に達しているというのは、恐らくは誰が見ても一目で判る。こうなった姉に抗議をするのは無意味というもので、はぁ~と長い溜め息が自然と慶太の口から漏れた。
その間に姉は何やらごそごそと慶太の部屋のクローゼットを探っていて。
「服はこれでいいわね! ほら、早く着替えなさい!」
引っ張り出した数着の服を乱雑に机の上に置くなり姉は慶太へと近づき、おもむろに慶太のパジャマに手をかけた。その手は明らかに無理やりパジャマを引っぺがそうとしていて、慶太の顔がカァーッと赤くなる。
「いい! 判った、すぐ着替えるから手伝わなくていい!」
「そう? 二人でやった方が早いじゃない!」
「いいったらいいの!」
顔を赤くさせながら懸命に叫べば、姉は諦めてくれたようで大人しく部屋から出て行ってくれた。何とか危機を回避し、ドアの閉まる音の余韻が消えた頃、慶太は今一度長い溜め息をつくのだった。
朝からどっと疲れが溜まる。姉はいつもそうだ。慶太の都合などお構いなしで、強引で、いつもいつも振り回されている。
そこまで思ってから、姉が待っていることを思い出すとベッドから起きて机の方へと向かった。用意された服の一番上にある、フード付きのベストを手に取り、思わずがっくりと項垂れる。
「よりによってこれか……」
あまり着たくはなかったけれど、違う服を着て行けば姉にどやされ無理やり脱がされるのは目に見えていて、渋々ながらも着替えるしかなかった。そもそも慶太が持っている服の殆どが姉の趣味であり、姉の趣味を掻い潜った服装で出かけようとしても目ざとい姉に見つかり強制的に着替えさせられるということは日常茶飯事で、十四歳にもなればとっくに学習しているので諦めもするというものだ。
Tシャツを着、ハーフパンツを履き、ベストを着て上の方の一ヶ所を留め、踝までの短い靴下を履いた。枕元にあった携帯電話と机の上に置いていた財布をワンショルダーバッグに詰め込むと、ショルダーを肩にかけて部屋を飛び出した。
階段を降りた先の玄関を見て、慶太の足が止まった。そこにはスニーカーを履いて準備万端な姉と楽しげに会話をしている、自分よりも二十センチ近く背の高い爽やかという言葉が良く似合う赤茶色の髪の男がいた。
「よぉ」
「晴馬」
それは慶太の同級生でありクラスメイトであり友人であり幼馴染である晴馬だった。彼と姉が一緒にいる。そしてどこかに出かけようとしている。何となく予想していたことだったけれど、嫌な予感が頭を過ぎり慶太は顔を引きつらせた。
「オマエがここにいるってことは、まさかそのイベントって……」
「当然、コスプレのイベント」
姉と晴馬の声が綺麗にハモり、ねーっと手を合わせてはしゃいでいる。そこで漸く、姉のテンションの高さを理解した。
姉と晴馬は、所謂オタクという部類の人間で、アニメやマンガやゲームなどの二次元が大好きだ。キャラクター好きとコレクター。そんな二人に共通する趣味が、コスプレ。姉はレイヤーで、晴馬は出来を見るのが好きらしい。
そして出かけて行く先を知った時、姉が用意したこの服の理由も判った。晴馬が執事服のようなスラックスにカッターシャツにベストを着た格好をしている理由も。そうして慶太は二人に連れられ、会場へとやって来る羽目になってしまったのだ。
電車に乗って移動してきたその場所はオタクの楽園と呼ばれる電化製品と二次元の街で、今日と明日の二日間、メインの大通りを封鎖してオタク達の祭典が開催されるのだという。電車を降りて外に出てみればそこはすでに、現実の世界とは思えないような人でいっぱいだった。
「すげー人……」
いろんな意味でそう思う。隣に視線をやればキラキラと目を輝かせている姉と友人がいて、イベントが終わる夜まで帰してもらえないということを確信した。
「お姉ちゃんは着替えてくるから、けーたとはる君は好きに見て回っててね!」
言うや否や更衣室と札が出ている方へとダッシュする姉。
「だって。晴馬、どうす――」
「お、あれ魔法少女マジカルリリーじゃん! クオリティたっか! あっちはエンドオブファンタジーのクロード、マジかっけえ! 何だよあの剣の重厚感! 遠目からでも出来の良さが判るとか神だろ!」
付き合わされているおかげで、何となくは判るようにはなってきた。とは言ってもやはり一般人レベルの知識しかない。ちょっとアニメやゲームが好きです、というくらいのもの。名前を言われた所でパッと思い出すわけではないし、晴馬の守備範囲は広すぎて恐らく慶太は五分の一も判ってはいない。
正直、ここまでどっぷりハマりたいとも思わないのだが。
「すみませ~ん」
駅から少し離れた所で佇んでいると不意に声をかけられ、わらわらと晴馬の周りに制服姿の少女たちが集まって来た。
土曜日に学生服なんて着てるものだろうかと思って視線を頭まで向け、目に入ったド派手なピンクにそう言うことかと納得する。あれも何かのコスプレなのだろう。皆が同じ制服を着、違う髪型と髪色をしているということはグループで何かの作品のコスプレをしているのだろう。
「お兄さん、かっこいいですね!」
「写真いいですか?」
「あ、次わたしも撮らせて下さい!」
どうやら、晴馬が何かのコスプレをしていると勘違いしたらしい。けれども、ああいった光景はよく目にしていた。晴馬は黙っていればイケメンと言われる部類に入るほど顔立ちが整っている。モデル並みにスタイルも良く、運動神経も抜群で小学校、否、幼稚園の頃からファンクラブのようなものが出来ていた。中学生にしては大人びている為、よく年上の人からナンパされているのを目にする。
勝手に携帯で写メを撮られる事だって日常の事であり、そういったカメラを見つけると営業スマイルを浮かべている晴馬はもう、何のかは判らないがプロのように見えてくる。
暫く続きそうな撮影会に、慶太はボーっと周りを見て時間を潰す。今日一日、ずっとこれが続くわけなのだ。そう思うと憂鬱にならざるを得ない。
ふぅっと息をついて、不意に背後からフードを被せられた。
「ぅわっ」
思わず声を上げて振り返れば晴馬が立っていて。
「相変わらずケイは暇そうだな」
「晴馬は忙しそうだな」
「そうか? あー、やっぱお姉さんはお前のことよく判ってんな」
「……何が?」
不思議そうに眉を顰めながら返してくる慶太に、晴馬はニコッと爽やかな笑みを浮かべる。
「似合ってるぜ、ネコミミ」
言われてハッとする。そういえば先程、フードを被せられたような……。そこまで考えて、そのフードにネコミミがついていることを思い出し、カアッと顔が赤くなった。
「おま、何被せ、ここ公衆のっ」
「いいじゃん。周り見てみろよ、このくらい可愛いもんだぜ」
視界に映る人達に、今自分がいる場所を思い出した。際どい露出の高い服を着た者や、装身具を身に纏った者から比べれば自分など大したことはしていない。
そう納得しかけて、一般人でありコスプレなど一切していない自分がそんな人達と比べたところで普通なのは明らかで、慌ててフードを抜ぐ。
「そういう問題じゃないだろ」
「あ、もったいねえ」
「それより、もういいのかよ」
「何が?」
どうかしたのかと返した晴馬だったが、すぐに何のことか気付いたらしく後方を振り返ると、恐らく慶太と一緒にいる所まで撮影していたらしい制服姿の少女たちが遠ざかっていくのが見えて、ニコニコと笑いながら手を振っている。
そんな友人を見た慶太は半眼になっていて。
「相変わらず写真撮られるの好きだな」
「そりゃ、俺かっこいいから」
当然でしょと言うようにキラキラとしながら言いきった親友に、言葉が出なかった。何年もの付き合いの中で判ってはいる事だが、こう自信満々に言われるとどうしたものかと思う。
「ケイだって可愛い方なんだからもっと自信持てば?」
「いや、それはない。晴馬と違って普通なの、オレは」
「それ、俺が変人って言われてる気がするんだけど」
「え、違うのか?」
キョトンとしながら晴馬を見上げれば、これでもかという程ショックを受けた顔をされた。他人に見られることが好きで、写真を撮られるのも好きで、盗撮されて喜んで、慶太にネコミミフードを被せたがる男が変人以外の何だと言うのだろうか。けれども晴馬の表情から何かマズったことを言ったかと頭を掻いていると、突然話題と気分を変えるようにバシバシと背中を強く叩かれた。
「まあまあ、そんなこと気にしないでもっと楽しもうぜ! せっかくのお祭りなんだからよ!」
「……その祭りの内容に問題あるんだけどな」
顔を引きつらせている慶太のことなどお構いなしに、晴馬は人だかりの中へと慶太を引っ張って入って行くのだった。
何もしていなくても暑いというのに、人ごみの中に入るのは自殺行為とも言えるこの気温。人の体から放たれる熱というものは馬鹿には出来ない。遭難した時にはその熱で寒さを凌いでいるほどのものなのだから。コスプレの格好によっては、絶対この季節に着る服じゃないというようなものまである。そんな服を着ている人の汗の量が暑さを物語っていて、数十分もすれば合流した姉と晴馬を放って慶太は人ごみの中から退避していた。
ざわめく街の中。見渡す限りの人、人、人。人ごみ、人波、そんな言葉では言い表せないほどの溢れかえるような人の数。夏に差し掛かり、気温が上がってきたとはいえ、薄手のジャケットを羽織っている人もいるような時期に、周りの熱気のせいで慶太の額はじんわりと汗ばんでいた。
「あっちー」
額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。前髪が短くてよかったかもしれない。長ければ今頃、額にはりついていたことだろう。
イベント会場の中はどこもごった返していて、休息が出来そうなスペースが見当たらない。この辺りは幾分か他の所よりも人は少ないとはいえ、それでも道の先が見えることはない。
「この雰囲気、何回来ても慣れないなあ」
呟きのように漏れた言葉。これまで幾度となくこういったイベントを引っ張り回されてきた慶太だけれど、やはり人ごみと暑さには慣れない。とりあえず人ごみを通り抜けてみようかと歩いていた時、向かっている先の方がより一層ざわつき始めた。
誰か有名なコスプレイヤーかとても美形な人でもいるのだろうかと声のする方を見ていれば、道が自然と割れてその人物を目にすることが出来た。
色素の薄いラベンダーブルーの髪、透き通るような白い肌。胸元まで伸びた横髪は耳よりも下の位置で金のアクセサリーで纏められていて、後ろ髪はショートカットという変わった髪型をしている。胸元が大きく開いていて袖のない水色に白い淵のトップスに、青に白い淵の先の尖った三つ葉を逆さにしたような変わったデザインのスカート。同色の青いニーソックスに、トップスと同色の水色のブーツ。胸元と背中を二の腕の外側から繋ぐように青い布が付けられている。首、手首、足首には同様のデザインのアクセサリー。何のキャラクターかはよく判らないけれど、ざわついた理由が判るほどその少女は綺麗だった。美人というよりは、宝石などを見て思うような綺麗さで、どこか神秘的。
じっと見つめていれば、少女のルビーのような紅い目と慶太の黒い目がかち合った。数秒見つめ合い、そのまま真っ直ぐ歩いてきたかと思うと慶太の目の前で美少女は立ち止まり、至近距離から見つめられると思わずたじろいでしまう。百五十九センチある慶太よりも七、八センチは高い彼女。
表情のないその顔は、まるで人形のよう。
「貴方、普通?」
「へ?」
見つめられたかと思うと呟かれた言葉に、慶太は思わず間の抜けた声を漏らしていた。か細いようでいて、芯のある声はすぅっと心の中に染みわたるようだった。
「普通?」
答えなかったからだろうか、聞こえていないのかと思ったらしくもう一度訊ねられ、慶太はコクンと頷いた。
「勿論、普通だ。見た目も中身も身長も頭も運動神経もみんな普通だし」
これと言って特出したものが見当たらない。身長も平均で、体格も太くもなく細くもない。両親だって普通のサラリーマンと主婦で、姉と友人はアニメなどの二次元が大好きだけれど現代の日本でそれは最早普通だ。
趣味は姉の影響で漫画を読む事と、音楽を聴く事。
勉強はぶっちゃけ苦手で、テストは殆ど一夜漬けで平均点は取っている感じ。どう考えても普通だろう。
そう思っていると不意に右手首が掴まれ、何が起こったのか判らず数回瞬きをして視線を彼女へ向けると、掴んでいるのはやはり目の前にいる彼女だった。
「そう……来て」
「えっ、ちょっと」
言うなり慶太の手を引いて歩き出す。意外と力が強く簡単に引っ張られた慶太は転ばないように足を動かすしかなく、彼女が通ったことで割れていた道を戻っていく。
「どこ行くんだよ?」
しかし質問に答えてはくれず、ただ黙ってすたすたと歩く少女。振り返ることさえしてくれない。向かっているのは慶太が避難しようとしていた方向なのでとりあえず着いて行くことにする。何かあれば姉か晴馬から連絡が入るだろうし、こちらからも連絡ならいつでもできる。
そう思って歩いて行って、少しすれば人ごみから抜け出て高架下を通り抜けた時、漸く彼女は立ち止まった。
「ここ」
ただ一言言われ、彼女の視線の先を見て慶太は目を瞬かせた。これはつまり先程の、どこに行くのかという質問の答えなのだろう。しかし。
「えーっと……ここって、何もないけど……」
目の前にあるのは一本の街灯。極端に建物に密接したところにあるものの、街灯は街灯であり、それ以上でもそれ以下でもない。
「ここ、通る」
そう言って指差したのは明らかにその狭い隙間で。
「通るって、誰が? ……まさか、オレ?」
「そう」
人が通れるようにとわざわざ街灯が建物に寄ってくれているというのに、そのわざと道ではなくした所を通れと彼女は言うのだ。
いくら子どもだとは言ってももう中学生の慶太だ。小学校低学年や幼稚園児なら通れるかもしれないというほどの隙間に入れというのは酷というもの。
「何でオレが?」
「入口」
「何の?!」
確かに、机の引き出しに入ってタイムスリップをするものや、隙間を通って三途の川から出て来る妖怪なんてものもいるけれど、それらはアニメや漫画などの中の話。全てフィクションの中だ。今、目の前にいる少女は大真面目な顔で街灯と建物の間を入り口だと言った。
これはやはり、ここがオタクの街で、オタクの祭りをやっている最中だからこういう妄想じみた事を平然と言ってのけるのだろうか。そして慶太もオタクの一人だと思っているのだろうか。
当の本人である彼女は早くしてと言うようにじーっと慶太を見つめていて、困惑しながらも慶太は街灯と建物の隙間の前に立った。通ってと言われたのだから通るしかないのだと意を決するものの、何度見ても街灯の隙間から見えているのは向こう側の景色で、どう見ても慶太がこのまま通れる広さはない。せいぜい入るのは頭くらいだと少女の方を向く。
「これ、どう見たってオレ通れな……」
通れないんだけどと彼女を振り返ろうとした時、トンッと背中が押されたかと思うとバランスを崩して顔が街灯と建物の隙間に入り、そこから見えた景色は明らかに日本の街並みではなかった。
「…………え?」
漏れるのは疑問符のみ。
日本の街並みどころか街ですらなく、視界いっぱいに広がるのは晴れ渡る青空。快晴と呼べるほど雲のない空の下で、眼下に広がっているのは広大な大地。真下を見てみれば地面は遠く、東京タワーの展望台から下を覗いているような気分になって薄ら寒くなった。
森や山や川ばかりの景色。これではまるでアニメの世界ではないか。
「っつか、ちょっと待て。これ、このまま出たらオレ、確実に死……」
言いかけた所で再び背中に重みがかかり、勢いよく外へと押し出された。慶太の体はいとも簡単に空中へと投げ出され、助けを求めるように体を翻して、自分が出てきたのであろう石造りの時計塔のような細長い建物へと手を伸ばしてみたけれど触れることが出来ないどころか、壁から現れた先程まで一緒にいた彼女が、勇ましく飛び降りて来た。
「って、えええぇぇええ!?」
直後、重力に引っ張られるかのように自分の体が落ちていることが判るなり、慶太は声にならない声で叫んでいた。ジェットコースターやフリーフォールレベルの恐怖なんかではない。あれは落ちるは落ちるけれどもしっかりと固定されているが、今の慶太は、言うなれば紐なしバンジージャンプ状態。しかも、落ちれば即死は免れない高さ。
(兄ちゃん……!)
恐怖に眼をぎゅっと瞑った直後、突風のような風が吹き抜けた。衝撃に備えていたはずなのに、やってくるはずの衝撃はいつまでたっても来ず、まさか感じる前に死んでしまったのかと恐る恐る片目を開けてみて、見えたのは相変わらずの澄んだ青空だった。
まだ落ちているのかと思ったけれど、先程のように胸がスーッとする感覚はない。両目をしっかりと開け、思考が追いついて来たのか背中にひんやりとした感触があることも判り。
「……死んで、ない……?」
バッと上半身を起こしてみれば道のど真ん中に座っていて、腕や足などを動かしたりキョロキョロと体を見回したりしてみたけれど怪我をしている様子はない。
「あの高さから落ちて無傷? いやいや、普通ありえないって。何で? そもそも何でオレ生きてるわけ?」
振り返って見上げれば、後方に聳え立つ時計塔のような建物。どう見ても十数階建てのマンションと同じ高さをしていて、自殺まっしぐらの高さだった。
あの高さから落ちたのだと思うと顔から血の気が引いていくのだが、やはりどう考えてもおかしい。
「運が良かった、レベルじゃないよな……」
「助けた」
不意に横の方から聞こえた声にビクッと肩を震わせ、思わず身構えた慶太だったが、そこに立っていたのは自分の後に自ら飛び降りた彼女で。
「助けたって、アンタが?」
「違う」
「じゃあ、誰が?」
「……」
何故か黙りこくってしまった彼女に、慶太は困ったように頭を掻く。
説明をするつもりは毛頭なさそうだ。そもそも説明する気があるのであれば、こうなる前に何らかの話はされていてもいいはず。しかし、ないということはつまり伝えるつもりはないという事。どうしたものかと困っていると。
「おーい!」
遠くの方から声が聞こえてきて、塔とは反対の方から手を振って走ってくる人影があるのが判った。少し癖のあるシナモン色の髪の、慶太より少し年上の目がくりくりとした、可愛いと形容するような少年。袖を捲ったシャツに、胸元に宝石の埋め込まれた装飾品のついた丈の長いセーラー服のような襟のベストに、ひざ下まである細身のハーフパンツにショートブーツ姿の彼。前髪の左端に太目のピン留めがつけられていて、女の子にも見える容姿をしている。しかし、先程聞こえた声は明らかに少年のものだった。身長は、ラベンダーブルーの彼女よりも数センチ高いくらいだろうか。
走って来た彼は、慶太とラベンダーブルーの彼女の近くで立ち止まると、切れた息を整えるように深く呼吸する。
「良かった、早く戻って来てくれて。この子が、今回の?」
「そう」
「そっか。向こうで待ってるから、行こう」
ニコッと笑って差し出された手を思わず掴んで立ち上がると、彼女はスタスタと歩いて行ってしまい、シナモン色の彼もその後に続いた。
「僕はアルフォンソ。彼女はフィアレスティア。ある目的で、君を捜していたんだ」
「捜してた? 何でまた」
「それは追々ね。実はあと二人、君を待っている人がいるんだけど場所を移動してもいい?」
すでに移動を開始しているというのに訊ねられても、今更というもの。嫌だと拒否した所で聞いてもらえそうにもない。ここがどこなのかという事すら判らない慶太は鳥の雛よろしく、彼らの後について行くしかなかった。
道中、何か説明をしてくれるのかと待っていたけれど、どうやらそんなに甘くはないらしい。何か訊こうと声をかけてみてもアルフォンソは「後でね」と言って微笑むだけ。フィアレスティアに至ってはガン無視もいいところ。それはまるで、慶太の声など聞こえていないかのようだった。
舗装されていないむき出しの地面で出来た一本の道を道なりに進んでいき、途中で明らかに獣道だという木々の奥へと続く方へ彼女らは向かってしまい、渋々ながらも獣道を歩き、短い草むらを少し進んで抜けた先に泉があった。
太陽の光を反射してキラキラと輝いている泉の畔には、二人の男女。
一人は、エメラルドグリーンのふわふわとした髪をツインテールにして翼をイメージした髪飾りをつけた、若草色の長そでのふんわりとしたワンピースに、桜色に黄色い淵の丈の短いベストのようなものを着た、アルフォンソと名乗った少年と同い年くらいの愛らしい女の子。耳から垂れた大きな黄色い珠のついた耳飾りが揺れている。
そしてもう一人は、バイオレットの肩下まである髪をハーフアップにした、闇のような黒い忍び装束に似た服に身を包んだ細身ながらがっちりとした体躯の男。
男が慶太達に気づいたらしく、首から下げたクロスのペンダントを揺らしながら顔をこちらへと向け、その顔を見た瞬間に慶太は「あーっ!」と大声を上げて男に詰め寄っていた。
「良かったー、オレ、変なとこに迷い込んだのかと思ってたけど、ここ会場か何かか?」
「はあ?」
「ってか、コスプレはしないんじゃなかったっけ、晴馬」
髪の色も長さも服装も先程とは打って変わって別物になってはいるが、間違いない。身長も数センチ高くなっているが、靴が厚底にでもなっているのだろう。あの端正な顔立ちはそう見間違えるものではない。コスプレをするのは姉だけだと思っていたから、かなり意外だったけれど。
しかし、その男は不機嫌に眉を顰めて慶太を見下ろしている。
「おい。何だこいつ」
名を呼びはしなかったが、自分が呼ばれたのだろうという事が判ったのかアルフォンソが苦笑を浮かべながら口を開いた。
「今回の子だよ。知り合いじゃないの?」
「まさか」
「何言ってんだよ、晴馬。コスプレしたからってなりきりすぎだろ」
ケラケラと笑いながらバイオレット髪の青年の肩をぽんぽんと慶太は叩いていて、鬱陶しそうな表情の青年を眺めつつアルフォンソは慶太の方を見る。
「えっと、ハルマって誰かな? 彼の名前はクラウディオだよ」
瞬間、「へ?」と慶太の口から間の抜けた声が漏れた。
目をぱちくりとさせ、呆けたように口を半開きにさせると困ったように頬を掻く。
「オレそういうの知らないんだけど、オレの前でまでキャラ作る必要ないだろ」
「だ・か・ら……初対面だっつってんだろうが!」
ブチッと何かが切れる音がしたと思った直後、綺麗な回し蹴りが慶太の左脇腹に入り、痛みに脇腹を抑えながら慶太はその場に蹲った。声にならない慶太の声に、隣にしゃがんだフィアレスティアがじっと見つめてくる。
「大丈夫?」
痛みに涙目になりながらも頷き、顔を上げた。いきなり回し蹴りはないだろうと思うけれど、まだ声は出なかったので反論する事はせずに回し蹴りを繰り出したクラウディオという青年を見上げれば、蔑んだ目で見られた。まだ怒りは収まっていないらしい。
「お嬢、いい加減ちゃんと説明してくれよ。だからこんな面倒なことになるんだぜ?」
勘弁してくれよと言いたそうな彼はフィアレスティアを見るけれど、彼女は全く気にする事もなく、クラウディオをただ見つめ返すだけだった。訊きたい事があっても一切答えてくれそうになかった彼女の事をよく理解しているのだろう。そもそも、彼女が会話をするようには到底思えなかった。どこか人間味のない彼女が。
はあーっと肺の中の空気を全て吐き出すと、クラウディオは半眼で慶太を見やる。
「ここは異世界だ。お前と俺が知り合いなわけねえだろ」
異世界。その言葉を聞いて、目を瞬かせる慶太。
いつも姉や晴馬から事あるごとに聞かされている単語であり、嫌というほどテレビでも聞いて慣れ親しんでいる言葉。
「異世界……なのか。そっか、じゃあ、ホントに別人なんだ……ごめんな、変なこと言って」
言いながら苦笑を浮かべる慶太に、クラウディオも他の者達も呆けたようにぽかんとする。
その表情を見て、今何か変な事を言っただろうかと涙を拭いながらキョトンとしているとアルフォンソが腰を屈めて顔を覗きこんできた。
「えっと、驚かないんだね」
「みんなが異世界だって言うなら異世界なんだろ。オレ、ここ知らないし。それにオレのいたとこじゃ、異世界はあるっていう話だし」
ふと視線が突然、冷たいものへと変わった気がした。
その視線の正体はすぐに、クラウディオと、立ち上がったアルフォンソの呟きで知る事になる。
「ただの馬鹿か」
「素直って言っておこうよ。物分かりのいい子は大歓迎」
「馬鹿の面倒みんのとかごめんだからな」
「えー、僕に押し付けるの?」
「お嬢も嬢ちゃんも話なんかしねえだろうが。愛想振りまくのは得意だろ、ニコニコ仮面」
「自分がコミュニケーション取るの苦手だからって、妬いちゃ駄目だよ」
「誰が妬くか!」
終始イライラして不機嫌そうに眉間に皺を寄せているクラウディオと、終始ニコニコと笑みを浮かべているアルフォンソだったが、いつの間にやら慶太へというよりは互いに言い合いを始めてしまって、何をやっているんだかと慶太は呆れた視線を送る。
フィアレスティアは無表情のまま我関せずとしていて、もう一人のエメラルドグリーンの髪の少女はビクビクしたりオロオロしたりしているだけで、決して口を開こうとはしない。どちらも会話に参加する気はないらしい。
クラウディオも慶太の相手をする気にならなくなったのかそっぽを向いてしまい、仕方がないと息をつくなりアルフォンソがその場にしゃがむと、真っ直ぐに慶太を見る。
「この世界はね、誰もが特殊な能力を持っているんだ。だから何の能力も持たない普通の人間はとても珍しくて、僕達はそんな普通の人を捜していたんだよ。それがキミっていうわけ」
何の脈絡もなくとてつもなく簡単な説明をされ、慶太の目が点になる。
「それだけ?」
「それだけ」
「ってことは、オレじゃなくても良かったんじゃんか……」
地面に手をついて項垂れた慶太に苦笑を浮かべるアルフォンソは、慶太の頭をぽんぽんと優しく撫でる。まるで幼い子どもをあやすかのようだ。
「彼女には、キミが一番普通に見えたんだよ」
普通に見えたなど嬉しくないと思ったが、あの状況ではある意味良かったのかもしれない。何故なら、周りがコスプレイヤーだらけだったのだから。それでもし自分以外の、コスプレをしている誰かが選ばれていたとすれば、彼女にとってはそちらの方が普通に見えたという事であり、自分は変わっているという烙印を押されていた事になる。
「でも何か、複雑……」
良くも悪くもないと言ったところか。将又、良くもあり悪くもあると言ったところか。どちらにしろ、微妙な事には変わりない。
その時、どこからともなく軽快な音楽が流れ始め、皆の視線が慶太へ集中した。慶太自身はキョロキョロと辺りを見回し、音楽が自分の背から聴こえている事に気が付いてバッグを正面に持ってくると中から携帯電話を取り出した。
やはり音はそこから流れていて、開いて画面を見てみれば晴馬の名前が映し出されている。
「は、電話!? もしもし!」
慌てて立ち上がり通話ボタンを押して耳に当てれば、スピーカーからガヤガヤとした雑踏が聞こえてくる。
『ケイ、今どこ? お姉さんと、昼飯食おうって話になってんだけど』
電話の向こうから聞こえてくるのは間違いなく晴馬の声で、けれど目の前にいる晴馬そっくりのクラウディオは声を出していないどころか携帯電話を持ってすらいない。それに周りの雑踏も、今、慶太のいる静かな泉の畔でする筈のない音。成行きに任せて聞いていた今までの話が、途端に信憑性を帯びてくる。
晴馬にはどこにいるのかと問われたが、非常に言い辛い。しかし、嘘をついたとしてもこの先いつ、晴馬の所に行けるか判らない。つまり、正直に話すしかない。
「えっと……異世界」
『え?』
不思議そうな怪訝そうな晴馬の声に、途端に後悔が押し寄せてくる。
『異世界って、お前マジかよ! どこ? どんな世界にいるんだ! つーか、異世界リンク説はやっぱマジだったんだな! すっげー、感動もんだ! ケイ、ちょっと待ってろ!』
一気に言い切るとぶつりと電話が切れ、ツーツーという電子音に慶太は通話を切ってじっと携帯電話を見つめていると再び着信音が流れ出し、通話ボタンを押せば画面いっぱいに晴馬の姿が映し出される。
わざわざテレビ電話にしたらしい。
『ケイ、異世界って!』
このまま質問責めに合っても今の慶太に答えられる事はなく、自分と違ってコスプレを見慣れている晴馬であれば疑わないかもしれないと、慶太は携帯電話の画面をクラウディオ達に向ける事にした。それが手っ取り早いだろうと。
携帯電話を向けられたクラウディオやミーナローザはそれが何かというように興味深げに見つめていて、アルフォンソだけはにこやかな表情のままだった。
「初めまして。彼のお友達かな? 彼、異世界だって言ってもすぐに信じ込んじゃって、こっちがビックリしたよ」
『ケイは言ったこと、大抵は信じるよ。素直っつーか何つーか。しっかし、異世界な……ケイだけずりいよ。一番興味なかったのに』
「気が付いたら来てたんだからしょうがないって」
『ま、帰ったらいろいろ聞かせろよ』
「帰ったら、ねぇ……なあ、オレいつ帰れんの?」
携帯電話から視線をアルフォンソへと向ける。あの中でまともに説明してくれるのは彼だという事を、この短い時間で知ったからだ。
「う~ん、それは何とも……おおよその時期も答えられないかな」
「……だそうだ。今、姉ちゃん傍にいる?」
『ああ。ちょっと待ってな』
そう言うと画面から晴馬の姿が消え、数十秒後、画面に映し出されたのは痛々しい露出度の高い魔術師の恰好をした姉の姿だった。
『何、どうしたの、けーた』
「今オレさ、異世界にいるらしくって、いつ帰れるか判んないって。父ちゃん母ちゃんには上手く言っといてもらえる?」
『あらそうなの。判ったわ。もうすぐ夏休みだし、今の地球なら異世界に行ってても問題ないわよ。お土産、楽しみにしてるから、けーたも楽しんでおいで!』
手を振る姉と晴馬の姿が消え、慶太はどっと疲れが押し寄せてきたような気がした。やはり、話すのではなかった。何に疲れたのかと言われても答える事は出来ないけれども、一番は精神的にだろう。
何ともお気楽な姉と友人だ。理解していたつもりだったけれど、実の弟と、長年一緒だった友人が異世界に飛ばされてしまったというのに、羨ましがるばかりで心配など微塵もしてはくれなかった。あそこで怒られてもどうしようもないのだが、もう少し気にしてくれてもいいのではないかと思うもの。
何だか微妙な空気になっている事に気が付き、アルフォンソが空気を変えようとポンと手を打った。
「そうだ、ちゃんと自己紹介しようよ。これから一緒にいるんだから、ね」
「慣れ合うつもりはねえ。てめえがすりゃいいだろ」
「何でも人に擦り付けないの。自己紹介ができないほど子どもでも、恥ずかしがり屋さんなわけでもないでしょ」
ニコッと笑ってそう言えば、イラッとしたかのように眉を顰めるクラウディオ。それから頭を掻き、判ったよと返事をするのを見てアルフォンソは微笑んでいる。確信犯だというのは見ていれば判り、可愛い顔をして腹黒いのだという事は最早明白で、慶太は半眼になってしまった。
「キミは、ケイ?」
微笑みながら言われ、こうなったら知り合いのいないこの世界では彼らと居るしかなく、仕方がないと早々に諦めると慶太は頭を掻いた。
「橘慶太。呼びやすいんなら、ケイでいいよ」
「タチバナ、ケイタ……ケイね。さっきも言ったけど、僕はアルフォンソ・レアルディーニ」
よろしくね、と手を差し出されたので反射的に握り返す。姉や晴馬の影響で横文字の名前に慣れている慶太にとっては普通の名前で、憶えやすいので有り難い。
手を離すとアルフォンソは肘でクラウディオをつつき、促してやれば面倒くさそうに口を開いた。無理やり参加させられたクラウディオは、不機嫌そのもの。元から機嫌は悪そうだったけれど。
「クラウディオ・ブラス・フランドール」
「……なげーよ」
晴馬にそっくりで日本名でも通用しそうな外見なだけに、その長さには思わず半眼になってしまった。
それからアルフォンソは、自分の背中に隠れるように立っているエメラルドグリーンの少女に自己紹介するよう言った。その事で慶太は視線を彼女へ向けると、躊躇うように、見つめられて恥ずかしそうにしながらも少女は何とか口を開いて。
「……ミーナ……」
愛らしい声を必死に絞り出す。
「……ミーナ、ローザ……」
「へぇ、ミーナ・ローザか」
見た目と同じで名前も可愛いんだなと思った慶太だったが、少女は尚も言葉を紡ぐ。
「……ミーナローザ・ガリアード・シュバルゴ・オッフェンブルク……」
「長ッ。しかも何かゴツい」
可愛いのは最初のミーナローザのみで、それ以降は強そうだったりゴツかったりと、とてもこんなに可愛らしい少女の名前だとは思えないようなもの。そんな慶太の反応にクラウディオはその気持ち判ると同意するように頷いていて、アルフォンソも苦笑している。名前のギャップに驚いたのは慶太だけではなかったらしい。
そしてアルフォンソは、次は君の番だとフィアレスティアを促していて、彼女は静かに口を開いた。
改めて自己紹介をしてくれるらしい。
「フィアレスティア」
会った時も思ったけれど、声と容姿と同じように名前も綺麗だと思った次の瞬間。
「フィアレスティア・フィオーネル・シェア・ラ・ド・ヴァレンシュタイン」
ミーナローザの名前が序の口だとでも言うかのような長さに、慶太の思考が一旦停止する。
「え、えと、もう一回……」
「フィアレスティア・フィオーネル・シェア・ラ・ド・ヴァレンシュタイン」
頭の中を横文字がぐるぐると旋回していて、慶太は膝から崩れ落ちると地面に手をついて項垂れた。
「ダメだ、憶えらんない……」
ミーナローザどころか、すでにクラウディオのフルネームすら忘れかけているというのに、あんな暗記テストのような長い名前を記憶力すらも普通な慶太が憶えられる筈もない。
「もういいだろ。普通の人間も見つかったことだし、さっさと街行こうぜ」
終始面倒くさそうなクラウディオの言葉に賛成だと言うように、フィアレスティアとミーナローザも頷いていて、どこかへと歩き始めている。
しかし、慶太は未だ何が何だか判っていない状態だ。
「えっと……結局、何で普通の人間が必要だったわけ? アンタ達の目的って?」
声を投げかけてみれば、何とか立ち止まってくれて少しばかりホッとした。またガン無視されようものなら落ち込んでいた事だろう。
「目的? んなもん、決まってんじゃねえか」
全員の視線が一手に慶太に集まる。何だか威圧感のようなものが感じられて、ゴクリと生唾を呑んだ。
「世界崩壊、だよ」
瞬きを繰り返し、言葉を繰り返し脳内で再生する。今、彼は何と言っただろうか。あまりにも自然に、当たり前だと言うほど堂々と紡がれた言葉。世界崩壊。それはつまり世界征服と同じような意味合いになり。
「え、ええええぇえぇえええ!?」
森に慶太の叫びが木霊した。