今夜も良い夢を。
その日。
いつもの時間になっても透子が来なかった。
それだけのことだというのに、背中が寂しいと思うのは何故だろう。
腕の根元、肩の付け根のくぼみにのっしりとした重みがないと物足りないと思ってしまうのは何故だろう。
ぽつりと呟く何気ない一人ごとに、返事がないとどんよりしてしまうのは何故だろう。
取り返しがつかないほど深みにハマってしまったな、と魔王はしみじみ思いつつ独りのベッドに突っ伏した。静かだ。厭というほどに静かで、シーツは哀しいほどに冷たい。いつの間にこんなにも彼女の存在が当たり前になってしまったのだろうか。たまたま次元の狭間をヒールで踏みぬき、落ちてきてしまった彼女。いつかは元の世界に返してやらなければと思っていたはずなのに、いつの間にか共にいるのが当たり前になってしまった。
「……我が悪い魔王だったなら、駕籠にでも閉じ込めてしまうところだが」
呟いて、いや無理だな、と思い直した。
己が邪悪な魔王であろうと善良な魔王であろうと、あの透子がおとなしく駕籠の中に収まるとは思えない。何せ、相手は奴隷として保護したはずがいつの間にかなりあがって魔王城の幹部にまでのしあがっていた女である。気づいたら宰相辺りを手懐けて、下剋上を起こされそうだ。
「…………………………」
むくっと身体を起こして、魔王はすっと虚空に指を滑らせた。
指で描いた軌跡に合わせて浮かび上がるのは、魔界全体の情報を統括した≪アカシックレコード≫だ。生命の根源たる魂に刻まれた情報すら網羅すると言われる≪アカシックレコード≫から逃れうる情報はない。
それこそ夕飯の献立からアンダーグラウンドなもろもろまでリーチ可能だ。
魔王は、そっと検索欄へと指を滑らせ……
「いやいや、人の心をこんな形で知るのは良くない」
モラルに縛られし魔王であった。
「いやでも知りたい」
指先が、『化野透子が魔王をどう思っているか』なんていう抽象的なワードを検索欄に打ちこみたがるのを懸命に耐えて、魔王はどりゃあっと≪アカシックレコード≫のトップ画面をベッドの向こうへとぶん投げた。仮想画面は、青白い光となって霧散する。
「………思えば、我は自分からは何もしていなかった」
反省するように、魔王は呟く。
いつでも行動に移すのは透子の方からだった。
毎晩魔王の部屋に押し掛けて、魔王のベッドへと潜り込んだ。魔王がしたのは、流されるままにそれを受け入れることだけだった。だから、今こうして透子からのアクションがなくなると、どうしていいのかわからなくなる。透子が側にいることを居心地良く感じていながら、魔王は透子を側に置き続けるための努力を何一つしてこなかった。
「こんなことなら……透子が提案した時に人間界を攻めておけば良かった……っ」
はた迷惑な後悔である。
そんな理由で攻めてこられても、人間界側としても困惑するばかりだ。やめていただきたい。
はあ、と魔王は深いため息をつき――…がちゃり、とドアが鳴ったのはそんなタイミングだった。
「遅くなりました」
「――、」
いつもと変わらぬ様子で、しれっと顔を出した透子に、魔王は静かに安堵の息を吐く。
「先に寝ていても良かったのに、待っていて下さったんですか?」
なんていいながらもそもそとベッドにもぐりこんでくる奴隷を迎えるために、少し身体を寄せて居場所を作ってやった。するりともぐりこんだ冷えた身体は、ぬくもりを求めるように魔王へと寄り添う。
柔らかな女性らしい丸みを帯びた肢体。
普段はかっきりとスーツを着こなしているから、その下がこんなにも柔らかいことに謎の感慨を抱いてしまう。前に太った猫の腹のようだ、と言ってみたところ、全力でどつかれた。
「仕事が長引いたのか?」
「宰相との打ち合わせが長引きまして」
「宰相と仲が良いのか」
「仲良しです」
はっきりきっぱりといわれた。
面白くない。
「一緒に寝るくらいにか?」
「一緒には寝たことないですね」
なら我の方が仲良しだな、と内心魔王はちょっぴり元気になった。
「……なぁ」
「なんです?」
「御前はどうして我を選んだ?」
冷え性で共寝の相手が欲しいなら他にもいくらでもいるだろう、と言外に聞いてみる。宰相だっているし、部下たちだって大勢いる。何故わざわざ魔王である己を懐炉がわりに使おうと思ったのか。
はッ、とした。
「我の地位が目的k」
ぐし。
「ぐふッ」
最後まで言う前に、わき腹に肘がめり込んだ。
思わず呻いた。
何千年か前に魔王討伐に訪れた勇者にも劣らぬ鋭い肘撃ちだった。
「い…、いい肘だった……ぐふ」
「褒めていただき光栄です」
しれりと言いながらも、背中を撫でてくれるあたりが優しさだと思いたい。
「…………」
「なんだ」
「知らないんですか、ひょっとして」
「何がだ」
「私が魔王様が好きだってこと」
「―――…は?」
心底間抜けな声が出た。
口がぱかーん、と開いた。
魔王の反応に、透子がおかしいですね、と不思議そうに首を傾げる。
「むしろ―――……なんで知らないんですか」
「御前、そんなこと一言も」
「≪アカシックレコード≫を読めばわかるでしょう」
「それはさすがに卑怯だろうと我が自重していたことを御前はあっさり勧めたなこのヤロウ」
ある意味魔王より発想が邪悪である。
思わず半眼になっていた魔王に対して、何故か透子の方も機嫌を損ねたように軽く眉を寄せて魔王を睨みつけた。仕事で普段尻にしかれている分、透子のそんな顔を見ると魔王は条件反射のように怯んでしまう。
「な、なんだ」
「ということは、私は好きでもない男の寝床にもぐりこむような女だと思われていたわけですか」
「言わない御前が悪いんだろうっ」
「敬愛してます、って言ってたじゃないですか」
「それでわかるかッ」
思わず吠えて、そのまま魔王はぐったりと力尽きた。
透子が飽きて部屋に来なくなってしまったと思って悩んだ数十分間の苦悩を返してほしい。
「まあいいです」
なでなでなで。
ベッドに突っ伏す魔王の背中を撫でる手が優しい。
ふと、気づいた。
「……もしかして御前、今照れているのか」
「………………何を根拠に」
「手が―――…熱い」
背中を、撫でる手がそれはもう、ぽかぽかと。
普段しれっと鉄面皮を貫くような彼女が。
そのときだけはやけにかわいらしく――…
「いやん」
―――…なかったかもしれない。
隣の魔王に向かって、女は語る。
静かに語る。
「私ね、ずっと一人で頑張ってきたんです。
極悪なブラック会社で身を粉にして働いて、身体壊しそうになって、それでも親には心配かけられないと意地になって頑張ってきてたんです。
いつしか心も身体も冷え切って、ただ職場と寝るためだけの場所を往復するような日々を送ってきて、頑張ってましたけど誰からも褒めて貰えなかったんです。
そんな時、魔界におっこちて、よくわからない森でひとりぼっちになりました。死んでもいいや、って思ってました。
そこにね、魔王様の部下に拾っていただいたんです。城に連れてこられて、今度はここで奴隷のように働かされるか、喰われるかして死ぬんだって思いました。私の人生、馬鹿みたいに働いてそれだけで終わるんだな、って思って手足が冷えました。
謁見の間で、手足を縮こめてうずくまって震えてた私の前に、魔王様はひょいひょいと何も考えてないような気軽な足取りでやってきて、私のことを抱き上げてくれましたよね。そして言ったんですよ。
『よく頑張ったな』って。
すごくあったかかった。嬉しかった。だから、好きになったんです。
元の世界には家族がいるのでその点に関してはやっぱり未練はありますが……帰れない間は魔王様のお側においてくれませんか?
その時がきたら、その時のことはその時考えましょう。ねえ、魔王様。ねえ。
……聞いてます?」
「ぐぅ」
聞いてなかった。
「…………」
じんわりと、透子の頬に朱色が昇る。
「いいですよ、もう言ってあげませんから。寝やがった魔王様が悪いんです。おやすみなさい、魔王様」
「…………」
フン、と息を吐いて透子は再び魔王の懐に潜り込んで目を閉じる。
ぬくぬくと温かい極上の寝台。
やがて響く小さな寝息に、眠っていたはずの魔王がそろりと目を開ける。
「――…おやすみ、透子」
こっぱずかしくて思わず寝たふりをぶちかました魔王が、隣で眠る透子へと優しく囁く。
そんなわけで、魔王とその奴隷は、きっと今夜も良い夢を見る。
END
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
会話中心で進む軽いノリのラブコメっぽい話が書きたくて、勢いで書いたらこんなことになりました。
楽しんでいただければ幸いです。
PT、感想、お気に入り、励みになっています。
ありがとうございました。