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灰塵  作者: 銀城
7/20

06.個体番号:����


 美しい星空の下、そこは、何もない平地だった。


 ――いや、正しくは数刻前まで山であり、林であり、森だった場所。

 木々は根から消え、岩肌は削り取られ、起伏は均されている。

 地面は削り取られたように平らで、土の匂いだけが残り、風が通るたび、粉になった葉と樹皮の名残が灰のように舞っていた。


 台風の倒木でも、土砂崩れでもない。

 焼け焦げた跡もない。

 ただ、世界の一部が削り取られ、残骸が散らばっていた。


 地表には、まだ森だった頃の癖がわずかに残っている。

 浅い根の名残のような筋。

 石が埋まっていた場所だけ色の違う土。

 倒れたはずの木があった向きを示す、細かな葉脈のような擦れ跡。

 それら全てが、何か巨大なものに上から均されたあとで、無理やり静かになっていた。


 その中心には、一人の漢が佇む。

 全身から発せられる圧は、周囲の空間を歪める程に濃い。


 頭より足先にいたるまで、その身を覆うぼろ衣が、夜風の中でかすかに靡いていた。

 色はとうに褪せきり、土とも灰ともつかぬ鈍い色に沈んでいる。

 端は裂け、裾は擦り切れ、ところどころは長い旅路の途中で無理やり繕われたように縫い直されていた。

 まともな衣としては、もうとっくに役目を終えかけているように見える。

 けれど、そんな頼りない布切れが、かえってその中身の異様さを隠し切れていなかった。


 布の下にある身体は、彫刻みたいに無駄がない。

 厚い背と肩が、外から与えられた鎧ではなく、“積み重ねた時間” で形を保っている。

 皮膚の下に張った筋は、見せるためではなく、動くために存在していた。

 腕は太いのに、動きは鈍重ではないと分かる。

 余計な緊張が見られない。


 風が少し強く吹くたび、ぼろ衣の隙間から肌が覗く。

 古傷が何本も走り、肩から脇腹へ、前腕から手首へ、ももの外側から膝の上へ。

 どれも新しくはない。

 どれも痛みの記憶として残っているのではなく、長い時間を経て、既に肉と一体化した線として沈んでいた。


 立っているだけでわかる、重心の落ち着き具合。


 呼吸は浅く、長く、熱を外に逃がさない。

 拳の開き方ひとつに、力が滲む。


 強さ、というより――“整っている”


 そこには、昂りがない。

 漢は、この世界で必要なものを、最初から備えているようだった。


 その静けさが、凄みを醸し出す。


 夜気は冷えているはずなのに、漢の周囲だけ温度の輪郭が曖昧。

 熱を発しているのではない。

 空気の方が、彼を避けるように流れを変えている。

 立っているだけで場が歪み、場の側がそれを受け入れてしまっている。


 周りに転ぶ、数人の死体。

 軽甲冑、革鎧。

 胸当ては血で黒くなり、革紐は裂け、矢柄は折れ、皮の手袋は片方だけが落ちている。


 死体の表情は統一されていた。

 驚愕でも怒りでもなく、ただ “理解が追いつかなかった” ような顔。

 見えないものに殴られたみたいな、空白のまま固まった顔が並ぶ。


 獣の死骸。

 牙の折れた狼じみたもの。

 角を持つ獣は、異様な背骨の太さが垣間見える。

 どれも喉を潰され、胴を裂かれ、最期を遂げていた。


 離れた地面には、折れた剣が二本、突き刺さっている。

 折れたというより、折られた。

 折れる瞬間に、硬い意思すら奪われた折れ方だ。


 剣を残し吹き飛んだ何かは、遠くの土にめり込んだまま、まだ熱を持って息を吐いていた。


 その吐息は真っ直ぐには立ち上らない。

 空気が、そこだけ揺れている。


 瀕死の状況下でも、剣の柄は離さない。


 死体の配置にも、雑な乱れ方の中にひとつの傾向があった。

 逃げようとした者は背を向けた形で倒れ、向かっていった者は正面から砕かれ、横合いを狙った者は途中で軌道ごと折られている。

 

 それは戦闘の痕跡というより、一方的な試行錯誤の末路に近かった。




 ――うめき声。


 未だ意識を保つ者もいた。


 腹を裂かれ、片脚を失い、血で泥を塗り固めたような姿で、必死にその場から這って逃げようとしている。


 爪が土を掻く。

 掻くたびに赤みが伸び、声が細くなる。

 それでも逃げる。

 生きたいというより、ただ “そこから離れたい” という衝動だけで這う。


 漢は、追わない。

 見もしない。


 視線は遠い。

 遠いが、ぼんやりはしていない。


 周囲の死を “見落としている” のではなく、最初から興味の範囲に入れていない。

 まるで、ここにある全てが既に解決済みの問題で、彼は次の問いを待っているかのように。


 ――いや、待ってすらいない。


 漢はただ、終わった後の静けさを、そのまま内に沈めていた。


 ぼろ衣の裾が、血に触れた土の上をかすかに擦る。

 それでも汚れが増えたようには見えない。

 既にこの衣は、旅と戦いと風土のすべてを吸い込み切っていて、新たな血や土の一つ二つでは表情を変えないのかもしれなかった。


 風が吹く。

 粉になった草の名残が足元を流れ、血の匂いの上に土の匂いが重なる。


 それでも、その中央に立つ漢だけが、景色から少し浮いて見えた。

 世界に属しているのに、世界へ馴染んでいない。

 その不一致が、死体よりも何よりも、この場の異様さを際立たせていた。




 ――静けさを壊す、金属の音がした。


 現れたのは、灰色に染まった、騎士に類ずる者。


 全身が甲冑に包まれている。

 継ぎ目は詰まり、胸の面は傷だらけで、乾いた泥が固まっていた。


 そして、その甲冑の上からさらに――灰色の羽織が風に揺れている。


 布は風を含むのに、色は光を吸い込む。

 薄い灰ではなく、燃え尽きた炉の底のような灰。

 羽織の端は切れ、縫い目は擦り切れ、しかし形だけは保たれている。

 何度も修繕された布が持つ、頑固な重さがあった。


 背には、無相応な大剣。

 人の背丈を越える刃。

 厚みのある鉄塊のような質量。

 鋼というより、重力そのものを背負っているように見える。


 そして腕には、全身を覆うほどの巨盾。

 立てれば棺の蓋みたいに立ち上がり、構えれば人間の輪郭そのものを掻き消す、鈍い板。

 縁には擦り傷が幾重にも走り、盾面には刃が滑った跡が残っている。


 受け止めるための道具ではない。

 敵との “境界” を作るための板。


 騎士に類ずる者は、周囲を一瞥する。

 死体の数、獣の亡き骸。

 装備の散らかりに、血の撒かれ具合。


 視線は止まらない。

 ただ、確認は一瞬で終わる。


 理解した、というより、照合が済んだ、という動きだった。


 その視線が、うめき声へ向いた。


 近づき、屈む。

 鎧の関節が低く鳴り、巨盾が地面に触れ、土が沈む。


 呻く者は目を見開き、喉の奥から音を漏らした。

 助けを乞うのか、許しを請うのか、それともただ痛みの形なのか。


 判別する前に、小さく短く言葉を落とした。


 短い音の連なり。

 硬い子音が土を叩き、呻く者は必死に返す。


 唾と血が混ざる。

 会話は成立しているのに、意味は届かない。


 騎士に類ずる者は、ためらわない。


 うめき声が次の音に変わろうとする、その前に。

 ただ、指先が伸びる。


 傷口に触れるわけではない。

 触れない距離で、命を終わらせる動きだけを行った。


 走り抜けた刃。


 抜刀の派手さはない。

 大剣でも巨盾でもない、もっと短い刃。

 それがどこにあったのか気づかせないまま、必要な線だけを切る。




 ――途切れる、呻き声。


 痛みの義務が解かれるように、呼吸が一度だけ小さく抜け、それきりとなった。


 立ち上がりぎわ、甲冑が重さに軋み音を鳴らす。


 巨盾の縁が地面を擦り、低い音を残す。

 無相応な大剣は背にあるだけで、周囲の空気を少し沈ませる。


 顔は見えない。

 かぶとの奥は影で埋まっている。


 それでも――溢れそうな怒りが伝わってくる。


 怒鳴らない。

 刃を振り回さない。

 その代わり、空気が重くなる。


 灰色の羽織の端が揺れ、周囲の風が一瞬だけ止む。


 まるでこの場所全体が、息をするのを忘れたみたいに。


 その胸元、甲冑と羽織の隙間に、ひとつの装飾品が下がっていた。

 金とも銀ともつかぬ鈍い地金。

 古びた輪を幾つか重ね、その中心に、色の見えない薄石が嵌め込まれている。

 飾りというには実用の気配があり、護符というには研ぎ澄まされすぎている。

 長く使われ、長く身体の近くに置かれてきたものだけが持つ鈍い艶があった。


 ――視線が、中央へ向く。


 そこには、相反するものがあった。


 片方は、終わりを示す静寂。

 もう片方は、これから始めるための憤怒。


 一歩、踏み出した。

 金属が鳴る。

 土が沈む。


 それでも、目の前の漢は動かない。

 動く必要がないと言わんばかりに、ただ立っている。

 戦いの後の血が、ぼろ衣の裂け目から覗く腕の筋にわずかに残り、変わらず呼吸だけが整っている。


 ほんのわずかだけ間を置いた。

 その間に、灰の羽織が一度だけ風をはらむ。

 巨盾の影が地面に伸び、漢の足元にまで届く。


 そのとき、漢の視線がほんの少しだけ下がった。

 しかしそれは、死体でもなく、相手でもなく、地面に残った “森の名残” を見ているだけのよう。


 風が戻り、灰の舞い方が変わる。

 遠くの土からは、まだ微かに煙が立つ。

 平地は静かで、ただ静かすぎて、何かが始まる前の静けさにしか見えない。


 巨盾をわずかに傾けた。

 その動きだけで、視界が切り替わる。

 盾の立つ位置が決まる。


 背の大剣にも手が添えられる。

 しかし、まだ抜かれない。


 漢は、なお動かない。

 だが動かないことが、逃げではないと分かる。

 この静けさは、何かを受け止める静けさではなく、何かを壊す前の静けさに近い。


 整っている、という言葉の意味が分かってくる。


 一歩近づく。

 金属が鳴る。

 土が沈む。


 漢の足元の血は、乾き始めていた。

 周囲の死体は、既に冷たくなっている。

 それでも空気だけが熱い。

 熱いのに、音がない。


 平地の中央で、二つの “圧” が向かい合う。


 さっきまで山だった場所は、もう山ではない。

 ここから先も、山に戻ることはない。


 静かに輝く二つの月の下、騎士に類ずる者が口を開いた。


 その声が発せられるのとほぼ同時に、首から下がる装飾品が淡く光った。

 脈打つというほど強くはない。

 息をするように、ほんの一度、薄く灯る。


 そして二つの音が鳴った。


 ひとつは、耳には届かない。

 空気も震えず、金属も鳴らさず、それでも “何かが発せられた” とだけ分かる沈黙の音。


 もうひとつは低く、硬く、わずかに濁った響きとなって夜気を撫でた。

 人の声に添うように生まれ、言葉の輪郭だけを整えていく。


 「……伝令の誤りか。あるいは、報告にない孔でも開いたか」


 声は低く、抑えられている。

 怒りを押し殺した声ではない。

 怒りを既に飼い慣らしている者の声だった。


 装飾品がもう一度、淡く灯る。


 聞こえない方の音が先に放たれ、次いで、漢へ届くための音が言葉を連れてくる。


 「一体どこから、お前のような化け物が入り込んだ」


 問いかけでありながら、返答を期待した声音ではなかった。

 確認でも威圧でもなく、目の前の異物に対し、名付けの代わりとして投げられた言葉。

 それが最も近かった。


 漢は、返事をしない。


 まぶたひとつ動かさない。

 ただ視線だけが、わずかに首元――淡く光る装飾品へ落ちた。


 興味ではない。

 観察でもない。

 ただ、そこに何かの作用があると認識しただけの、無駄のない視線だった。


 騎士に類ずる者は、その沈黙ごと受け取る。


 再び一歩、踏み出す。


 甲冑が鳴る。

 装飾品が揺れ、短く光る。

 今度は二つの音の間隔が少しだけ短かった。


 「……スキルは、何を持っている」


 低い問い。


 聞こえない音が先に走り、後から届く音が、その意味を漢の耳へ滑り込ませる。


 まるで装飾品が、言葉をこの地のものへ変換しているみたいだった。

 あるいは逆に、この場に本来存在しない相手へ、届く形へ整えているのかもしれない。


 だが漢は、やはり何も言わない。


 沈黙は拒絶ではない。

 説明の必要を持たない者の沈黙だった。


 騎士に類ずる者の怒りが、そこで少しだけ質を変えた。

 相手への憤怒に、世界への苛立ちが混じる。

 報告の漏れか。

 見落としか。


 それとも、本当にどこからか落ちてきたのか。

 考えるより先に、目の前の現実が、全ての仮定を塗り潰していた。


 瞬間、漢の口から短い呟きがこぼれた。




 「――哀れ」


 応えはしない。


 騎士に類ずる者が先手を仕掛けた。

 踏み込んだ足元から、土埃が舞い上がる。


 攻撃に戸惑いはない。

 前に出る巨大な盾は視界を切り、空間を押し出す。


 漢には見えない角度、接近に合わせ、盾の陰から大剣が抜かれた。


 勢いそのままに振られる刃は縦一線、空間そのものを裂き、地面を砕く。


 風は遅れて唸り、見えない斬撃が飛翔する。

 割れた大地には、一本の閃が刻まれた。


 ――漢は、その線上にいない。


 身体を半身下げ、閃の軌跡の外へ退避済み。

 その体重移動が、斬撃の世界を容易くする。

 ぼろ衣の裾が遅れて翻り、裂けた布端が月光を受けて白く走った。


 ――踏み込み。

 下げた半身の脚に力が入る。


 土台を割るほどの脚力、土埃が白い輪となって脚先から広がった。


 一瞬で縮む距離。


 繰り出されるのは、縦拳たてけん

 飾りのない最短の線。


 盾に拳が触れた瞬間、衝撃波が後方まで突き抜ける。

 騎士に類ずる者の背後の空気が遅れて爆ぜ、粉塵が帯になって跳ね上がった。


 受けた体が、わずかに浮き上がる。

 甲冑の重さを超える威力は、地面との接点を一瞬薄くする。


 着地の折、土が沈む。


 すぐに盾に力を込め、構え直す。

 重い板を “壁” とし、漢の進路を再度潰そうと狙う。


 同時に剣を返す。

 下から上、空間の斬撃が走る。


 だが、正面にも、斬撃の先にも、漢は既にいない。


 漢は周りを縫うように移動する。

 前、横、背――方角が次々と塗り替えられる。

 そのたび、ぼろ衣がわずかに遅れて残像のように揺れ、肉体の動きではなく時間の方が追いついていないように見えた。


 繰り出される手刀しゅとう裏拳うらけん、下段蹴り、掌底しょうてい

 どの技にものし掛かる衝撃波が、受けた瞬間に身体の制御を奪う。


 盾の縁が跳ね、肩が持ち上がり、膝が軽くなる。

 幾度、甲冑に助けられたかわからない。


 状況は騎士に類ずる者にとって、後手に回る一方だった。


 そんな攻防を繰り返す中、突き出した盾の縁が、漢の肩をかすめた。

 通常であれば、これだけで腕を失うほどの威力。


 しかし、ぼろ衣は裂けても、その下の腕には傷一つ見られず、漢の表情は変わらない。


 ただ、踏み込む力が深くなる。

 土を割る音も太くなる。


 胸元で、あの装飾品が激しくはなく、しかし確かに明滅した。

 戦闘に反応しているのか、

 相手を測っているのか、


 あるいは警告を発しているのか。

 だが、そのどれであっても、もう遅いと分かる光り方だった。


 ――闘いが、一段階変わる瞬間だった。


 騎士に類ずる者もその空気を感じ取り、斬撃の密度を上げ始めた。


 平地に斬撃の網が撒かれたように、裂け目が交差する。

 土埃が遅れてまとめて舞い上がった。


 盾の挙動も荒くなる。

 押し、叩き、回し、間合いを奪い取ろうとする。


 漢は、その “網” の外へ出るのではなく――網の「起点」を崩しにいく。


 ――直突ちょくづき。


 意図も容易く斬撃をすり抜け、漢は拳を放つ。


 拳から発生する衝撃波が、身体を吹き飛ばした。


 漢は、常に先へ回り込む。


 着地の一拍には、回し蹴り。

 衝撃波で再度膝が軽くなる。


 盾を持ち直す前に、掌底しょうてい

 衝撃波で腕が噴き上がる。

 

 受けるたび、甲冑に包まれし身体が制御を失い、受けるたびに耐えて立て直す――その循環が、少しずつ追いきれなくなる。


 加速し続ける闘いは、音速を越えていく。


 遅れる音。


 次の瞬間には、衝撃波と斬撃だけが鳴り響く。

 二人の姿には、残像がつき回る。


 パン、と乾いた破裂音が連続し、粉塵が輪を描いて広がる。


 漢の踏み込みが音の壁を叩き、衝撃波が白い輪になる。


 大剣は、振られるたびに斬撃が音速で走り、空気が裂けて尾を引く。

 盾は、押し、叩き、回しで漢を “線の上” へ押し込もうとする。


 そんな音速で繰り広げられる戦闘の中、騎士に類ずる者の判断は速かった。


 巨盾を、横へ放った。

 棺の蓋のような板が回転し、土を抉り、遠くで突き立つ。

 盾を失った瞬間、全身の輪郭が露出する。

 守りを捨てたのではない。


 “足枷”を捨てたのだ。


 両手に握り直した大剣が、先より軽く振り抜かれる。

 空間を斬る斬撃が今までより薄く、鋭く、速い。


 線が増え、間が消える。

 世界がより繊細に切り分けられていく。


 漢は一度だけ距離を取り直し、次の瞬間、踏み込んだ。


 更なる加速に、音が遅れて割れる。

 ぼろ衣の裾が大きくはためくが、まとわりつくことはない。

 あの布ですら、彼の動きの邪魔をすることを許されていないようだった。


 複数の衝撃波が重なる、正拳突き。


 斬撃の線は、線が生まれる前に消失した。


 当たる拳。

 衝撃波が背後へ抜け、身体が後方へ浮き上がる。

 盾がない分、受けが足りない。


 構うものかと空中で剣を振り、斬撃を飛ばす。

 だが空中の起点はぶれる。

 漢はそのぶれを逃さない。


 着地を許さない回し蹴り、反撃を許さない縦拳。

 衝撃波で空気が爆ぜ、粉塵が跳ねる。



 そして、最後の、直突き。


 拳が甲冑の正面へ吸い込まれた瞬間、衝撃波が背後へ抜け、音速の破裂音が平地に響き渡った。


 粉塵が一斉に空中に跳ね、遅れて地へ沈む。


 身体は浮いたまま全身の力を失い、そのままだらりと地に顔を落とした。


 何かを言う余力すら与えられない。


 灰色の羽織が、力を失って垂れる。

 盾は遠くに突き立ち、無相応な大剣だけが、手の中で重く鳴ったまま動かない。


 首元の装飾品が、そこで一度だけ明滅した。

 最初に見せた淡い光よりも、さらに弱い。

 もう役目を終えた合図のように。

 二つの音は鳴らない。

 あるいは鳴ったのかもしれないが、夜気にも、土にも、誰の耳にも届かないまま消えた。


 胸を貫く漢の腕が、終わりを告げる。


 平地に残るのは、粉塵が落ちる音と、遠くの歪みがほどける気配だけ。


 漢は拳を抜き去り、下ろし、呼吸を戻す。

 全身から放たれる "圧" を制御し、口から熱を放出した。


 「――無益」


 ぼろ衣が、その吐息にわずかに揺れた。

 裂けた端が落ち着き、月光の下で再び沈黙の形へ戻っていく。


 整っていく静けさが、また体内に沈んでいく。


 静寂さが戻る月夜、視界の端に、薄い文字が浮く。


 透けたガラス板のような――いつもの “表示”。

 世界が勝手に貼り付けている冷たいUI。


 漢は、見向きもしない。

 視線は遠いまま、呼吸も変わらない。


 まるで、表示の方が余計なものだと言いたげに。


 板には文字が並ぶ。


 《スキル付与:ー》

 《効果:ー》

 《注意:ー》

 《発動:ー》


 空欄、線、機械的な枠だけが記載されている。


 漢に、スキルは付与されていない。


 どこから来たかも、わからない。


 月光は平地を白く撫でる。

 かつてそこにあった森を知らない者が見れば、ただ広いだけの荒野に見えるだろう。

 何が起きたのかを、大地がまだ受け止めきれていない。


 漢はその中央に立ち、倒れた騎士にも、消えた森にも、浮かぶ表示にも、何ひとつ感想を持たないまま、ただ次へ進むための静けさを保っている。


 ぼろ衣は、そんな彼の上で静かに垂れていた。

 みすぼらしく、頼りなく、今にも朽ち果てそうな布。

 それなのに、その衣をまとった姿だけが、この二つの月下の平地で最も揺るがぬものに見えた。


 ――記録はここで途切れている。



• 対象:取得不可/取�不可/取�不可/特異個体

• 目的:���

• 付与:-

• 結果:取得不可

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