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灰塵  作者: 銀城
6/20

05.個体番号:�3�3


 目黒(めぐろ) 凪人(なぎひと) は、時計を持っていなかった。


 だから正確な日数は分からない。

 ただ、身体のだるさと、指先の荒れと、雨水の味の濃さが、同じ時間を何度も繰り返してきたことだけを教えていた。


 ここへ来てから、およそ一週間。

 その程度は経ったはずだった。


 そこまでは、生き残れている。


 理由は二つあった。


 ひとつは、彼が恐ろしく臆病だったこと。

 もうひとつは、彼の前に淡々と表示された “スキル” が、無感情に発動し続けたことだった。


 《スキル付与:〈自動回避〉》

 《効果:致命的接触を回避する》

 《注意:回避は意思を介さない�

 《発動:条件成立時》


 臆病さは、無謀を奪った。


 茂みに隠れる。

 音を立てない。

 遠くの焚き火を見つけても近づかない。

 夜は眠らず、眠れず、湿った土へ身体を押しつけて震える。


 その判断の遅さと過剰さが、結果として彼を生かしていた。


 そしてスキルは、死を奪った。


 今日の夜もそうだった。


 背後で、草が裂ける。


 静かな音だった。

 だが静かであることが、むしろまずかった。

 大きなものが、音を殺して近づいてきている。


 闇の中で白いものが光る。

 牙だった。


 獣が、低い姿勢から一直線に跳んでくる。

 唾液の匂い。

 湿った息。

 腹の底へ響く唸り。


 理解するより先に、身体が勝手に跳ねた。


 《発動:〈自動回避〉》


 首の横を何かが掠める。

 耳のすぐ脇で、空気の千切れる音がした。

 牙が通り抜ける。


 触れていないのに、恐怖だけが皮膚の内側へ刺さる。


 土へ転がり、息を吸う間もなく、また奥へ跳ねた。


 獣の爪が木を削る。

 枝が折れる。

 地面を蹴る重い衝撃が、夜の森へ鈍く広がる。


 獣は諦めない。


 匂いを追う。

 音を追う。

 執拗に距離を詰めてくる。


 《発動:〈自動回避〉》

 《発動:〈自動回避〉》


 回避は、勝手に彼の身体を投げていく。


 倒木の下。

 石の陰。

 草むらの奥。

 転がり、跳ね、這い、また跳ねる。


 彼の意思は、その一歩も挟まらない。


 逃げている、という感覚だけが遅れて追いつく。

 走っているのではなく、走らされている。

 避けているのではなく、避けさせられている。


 それでも、生きるための理屈だけは残っていた。


 大きく動けば追いつかれる。

 止まれば噛まれる。

 なら、獣が嫌う場所へ。

 獣が追いづらい地形へ。

 踏み込みにくい、ぬかるんだ土へ。


 喉を鳴らさないように息を殺しながら、泥の浅い窪みへ転がり込んだ。

 水が足首まで沈み、冷たさが一瞬だけ痛みを遠ざける。

 匂いを散らすため、顔を泥へ押しつける。

 土の味が口に入った。


 獣が来る。


 来ているのに、見えない。

 近いのに、見えない。

 闇の中で、気配と唸りだけが移動していた。


 ――く、くる。


 そう思った瞬間、身体が勝手に反る。


 《発動:〈自動回避〉》


 顎の下を何かが通り、泥が弾けた。

 次の瞬間、獣の鼻先が水面を割り、白い牙が覗く。


 《発動:〈自動回避〉》


 回避が彼を横へ引きずった。

 泥の中を身体が滑る。

 獣は噛み損ね、勢いのまま窪みの奥へ踏み込み、足を取られる。


 苛立った声が夜気を震わせる。


 震えながら、泥をまとったまま伏せた姿勢で離れる。


 動きは遅い。

 だが、獣の動きも鈍る。


 数メートル。

 また数メートル。

 そのたび回避が発動し、最短の “噛まれない距離” へと身体を滑らせていく。


 どれほど続いたのかは分からない。

 時間も、方向も、恐怖の中で溶けていた。


 

 やがて、唸りが遠のく。


 枝を折る音が消える。


 最後に、獣が諦めたような低い声をひとつ落とし、森の奥へ引き返していった。


 その場で吐いた。


 吐くものがなくなっても、乾いたえづきだけは続く。

 生き残ったのに、胃袋だけが空っぽのまま痛みを抱えている。


 毎夜続く狩りの中で、身体は回避のたびに支払いを覚えていた。


 足首は腫れ、肩は外れかけた。

 筋肉は熱を持ち、関節はきしむ。

 それでも危険が近づけば、勝手に跳ねる。

 跳ねて、また傷む。


 助かったのではなかった。

 ただ、追い詰められ続けているだけだった。


 食べ物は雑草。

 水は雨水。


 喉は割れ、舌は腫れ、思考は少しずつ薄くなる。

 胃袋は空っぽのまま、夜が来るたびに 「もういい」 と言い始める。


 異世界転移。

 そういう言葉で想像されるものと、目の前の現実との差を、まだ飲み込めずにいた。


 それでも生きてしまった。


 臆病さとスキルが、死ねない程度に彼を生かし続ける。


 そしてまた、知らない世界の朝が来た。


 湿った森の匂い。

 曇った空。

 雨は降っていない。


 倒木の影で、少しだけ溜まった雨水を舐めるように飲み、土の冷たさへ頬を押しつけた。

 視界はふわふわと揺れている。

 そのくせ耳だけは、妙に冴えていた。




 ――足音。


 ひとつ。


 獣ではない。

 四つ足ではない。

 葉を踏む重さが、人間のそれだった。


 規則的で、迷いがない。

 距離が詰まってくる。


 ――休ませてくれ。


 そう思いながら、息を止めた。

 止めても心臓は鳴る。

 大きく、うるさく、自分がここにいることを森へ告げるみたいに。


 足音が止まる。


 静寂が落ちた。


 何も起きない一秒が、いちばん恐ろしい。

 経験のぶんだけ、次の瞬間に来る “何か” が確定しているからだった。


 視界の端に、影が差す。


 全身に甲冑を着用した人間だった。

 風格は男。


 金属の継ぎ目に布らしいものは見えない。

 面頬から胸当て、肩、腰、脚まで、すべてが固い殻で覆われている。


 動くたび、低い金属音が小さく森へ沈んだ。


 背には大剣。


 人の身で振るには大きすぎる。

 武器というより、かせそのものを背負っているようだった。

 それを甲冑の男は、道具として担いでいる。


 さらにその上から、真っ黒な羽織が肩を覆っていた。

 雨でもないのに濡れたような黒。

 光を吸い込んで、朝の薄さの中でも輪郭だけを重く残す色だった。


 顔は見えない。

 兜の下の影が深い。


 だが、そこにいるのは男だけではなかった。


 男の右、少し後ろ。

 草陰がわずかに揺れ、低い呼吸が重なる。


 獣が、いた。


 あれと同じ種類だ。

 泥と血の匂いをまとい、耳を伏せ、尾を低くし、鋭い目だけを上げて甲冑を見ている。

 狩猟犬に似ていた。

 だが、もっと不気味だった。


 意思がある。

 それでも従っている。


 甲冑の男が一歩踏み出す。

 獣も一歩だけ出る。

 止まれば、止まる。


 合図を待っている。


 その瞬間、背筋を冷たいものが走った。

 この獣は、偶然出会った野生ではない。


 最初から、送り込まれていたのだ。


 相手が、もう一歩を踏み出した。


 その動きが遅く見えた。

 遅いのではない。

 脳が、恐怖のために時間を細かく刻んでいるだけだった。


 甲冑の男が背中の大剣へ手をかける。

 抜かれた刃が、朝の薄い光を一瞬だけ吸い、影の線になる。



 ――次の瞬間、風が遅れて鳴った。



 違う。


 風ではない。

 空間が切られる音だった。


 刃が一振りされただけで、森の空気が真っ二つに割れる。

 見えない線が走り、遅れて木々が崩れた。


 枝が落ちるのではない。

 幹ごと、斜めに、綺麗に。

 切り口は湿って光り、匂いがまとめて噴き出した。


 獣は、その破壊の風圧に怯えない。


 むしろ耳をさらに伏せ、甲冑の男の背後へ半歩だけ下がり、刃の通り道を避ける。


 慣れていた。

 何度も見てきた動きだった。


 理解するより先に、喉が凍る。


 あれは攻撃ではない。

 ただ狩り場を作っているだけだ。


 そのために世界を削っている。


 そして――身体が弾けた。


 《発動:〈自動回避〉》


 視界が横へ飛ぶ。

 地面が回る。

 草が頬を裂き、肩が土に叩きつけられる。

 刃が空を切る音だけが、少し遅れて届いた。


 回避には成功した。


 同時に、全身へ痛みが走る。


 筋肉が引きちぎれそうになる。

 関節が逆に折れそうになる。

 肺が潰れるみたいに息が抜ける。


 身体がついてきていない。

 いや、身体はもう、これまでの支払いで擦り切れている。

 限界の上へさらに限界を積まれたまま、跳ばされている。


 転がり、起き上がろうとする。


 手をつく。

 腕が笑うように震えた。


 立てない。

 足が命令を拒んでいる。


 次の一撃が来る。


 見えた。

 見えてしまうことが、かえって恐ろしかった。


 《発動:〈自動回避〉》


 身体がまた跳ぶ。

 跳んだ先で膝が岩へ当たり、骨が鳴る。


 痛みが白く弾け、視界が一瞬だけ暗く潰れる。

 それでも次が来る。


 避ける。

 避けるたびに、壊れる。


 刃は触れていない。

 それなのに削れていく。

 砕けていく。


 猛攻だった。


 甲冑の男には、ためらいがなかった。

 試すようでもない。

 楽しんでいるようでもない。

 手順のように正確で、仕事のように冷たい。


 獣はその周囲を静かに漂っている。


 逃げ道を塞ぐ位置へ。

 草を踏まない足運びで。

 角度だけを変えながら。

 牙を剥かず、唸らず、ただ “逃がさない” という役割だけを果たしていた。


 《発動:〈自動回避〉》

 《発動:〈自動回避〉》

 《発動:〈自動回避〉》


 回避が続くほど、身体のほうが先に限界を越えていく。


 肩が外れる。

 あばらが痛む。

 呼吸が刺さる。

 背中が熱い。

 筋が裂けていく。


 指が痺れ、握るという行為の感触が思い出せない。


 地面へ伏せたまま、動けない。

 動けないのに、動かされる。


 回避は彼を救うふりをして、ただ彼の肉体を使い潰していた。


 それでも、回避は発動する。


 人間としてまともではない動きで、身体が跳ねる。

 痛みで視界が霞んでも、勝手に避ける。

 避けた直後に、倒れる。


 壊れた人形が、糸だけで踊っているようだった。


 そして唐突に、攻撃が止んだ。


 人形が、地面へ落ちる。


 静寂が戻る。


 近づく足音。

 金属の擦れる音が、耳の奥で冷たく鳴る。


 動けない。

 自動回避がなければ、一歩も動けない。

 手も足も、もう自分のものではない。

 呼吸だけが勝手に行き来する。


 黒い羽織が、視界の端に揺れた。

 その後ろで獣が一匹、ぴたりと座る。

 獲物がもう逃げないと知っている姿勢だった。


 そこで男が、言葉を落とす。


 最初の音は、言語にすら聞こえなかった。

 喉の奥で擦れる、短く割れた音節。

 単語の区切りが見えず、抑揚も不自然で、意味を結ぶ手がかりがどこにもない。


 人の声の形はしている。

 だが、人間の言葉には聞こえない。


 男はそれを一息で吐き捨て、次に、平然と切り替えた。


 「……聞こえるか」


 日本語だった。


 それだけで、彼の息が止まる。


 救いになるはずの理解が、逆に恐怖を確定させた。

 この相手は、こちらが理解できる形を選んで話している。

 つまり、伝える必要がある。

 伝えたいことがある。


 それが、なおさら嫌だった。


 理解できるからこそ、怖い。


 男の声は抑揚が少なく、底の冷えた発声だった。


 「お前たちは、選ばれたのでは――ない」


 言葉は短い。

 それなのに、胃の底が落ちる。


 何かの前提が、そこでひっくり返った。


 選ばれたのではない。


 自分がここにいることは、偶然でも、運命でもない。

 その可能性が声を持って突きつけられる。


 怒りが湧くより先に、虚しさが全身へ満ちた。


 こんなに痛くて。

 こんなに怖くて。

 こんなに必死だったのに。

 それが、選ばれてすらいない。


 笑おうとした。

 喉が鳴っただけで、声にはならない。


 そもそも、何のために。


 視界の端で、淡い文字が滲んだ。


 《運動負荷:臨界》

 《警告:神経伝達が断線します》

 《警告:回避は停止しません》


 停止しない。


 止めてほしいのに、止まらない。

 救いであるはずのものが、最後まで彼を逃がし続ける。


 心臓の音が遠ざかる。

 森の匂いが薄れる。

 黒い羽織の輪郭が、少しずつ溶けていく。


 意識が遠くなる。


 その最後の瞬間まで、彼の身体はわずかに震え、なお何かから逃げようとしていた。


 獣が静かに息を整えるあいだ、甲冑の男はただ立っていた。




• 対象:目黒(めぐろ) 凪人(なぎひと)/男/20代前半/通常個体

• 目的:����

• 付与:〈自動回避〉

• 結果:死�(生存 146h)

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