137 羽音
137
「相すみません! 師範の指示です。呂様、暫しの間動かずにお待ち下さい! 」
「一体何が……、私が何かを」
「あー、テンジンや! 客人に荒っぽいことしたらあかんで! そない慌てなさんな! ホイ、お待たせさん」
何事かと動けない俺達の間に、息も絶え絶え倒れるように崩れたサイイドの背中から降りてきたリュウ大師が、ニコリと呂に笑いかける。飄々とした様子で漂った緊迫感を霧散させた。
「すんませんなぁ。客人に妙なモンが憑いとるんや。ちょいと動かんどくれな」
「じっとしていればよろしいのか? 」
「そや。じっとや」
丸い背中を僅かに伸ばし、呂の腕をポンポンとあやすように叩いていく。腕から肩、肩から首元。そして一瞬、大師の手が素早く翻る。まるで蚊を捕まえるような動作に、シンが首を傾げた。
「こんなに冷えてるのに虫ですか? 」
「……誰か筒を持っとるか? 」
シンの問には答えず、低く何かを唄いながら指示を出す。リュウ大師には珍しい余裕の無さに気付いたリンパ達が懐を探り出す。
「筆筒ならありますが」
「蓋がきっちり閉まる筒や」
「そない急に言われても……」
「紅入れならあるわよ」
「筒や」
囁く唄を止めず、両掌の中に何かを捕らえたまま動かない。サンギが近くに控えた補佐官に手を上げたところで、ようやく起き上がったサイイドが帯の間から小さな薬筒を引っ張り出した。
「ちょっと待ってて下さいよって」
「はよせい」
サイイドの太い指先が器用に、そして慣れた動きで中身の丸薬を懐紙に移し包み、空になった筒を差し出す。
囁く唄を止めず、そっと掌の隙間に筒を差し込ませ、中身を移していく。慎重に、ゆっくりと、優しい仕草で。その様子を、頭をくっつけるようにしてサンギ達も見守る。ただ、俺とヴィグだけは半歩後退したまま動けずにいた。鳥肌がたって変な汗が吹き出している。恐らくヴィグもそうなのだろう。俺の陰からシンハが飛び出し、毛を逆立てて唸り出す。
大丈夫、落ち着け。
金色の毛の中に震える指先を入れて撫でてやる。
大丈夫。
指先から伝わる温もりが、僅かに凍りついて思考停止になりそうな頭の中を現実に引き止める。
気を失うな。倒れるな。逃げるな。平然と見せかけろ。動揺を悟られるな。踏ん張れ、自分。
「さぁさ 天道観てござる 一寸の虫 翡翠の目を閉じよ 足の節々 瑠璃の羽根は仕舞い仕舞い さぁさ 天道観てござる」
リュウ大師はいつもと変わらず飄々とした語り口で、童歌のような、単調なリズムと繰り返す言葉を唄い出す。蓋をきつく締めて、唄と共に筒の周りを絶えず指先で叩いていく。
「東より昇り 西沈む 巡り巡りて 伸びる影 より生まれし目を凝らせ 耳を澄ませ 還る場所へ主元へ さぁさ 天道観てござる 観てござる」
トトトン、と指先で蓋を叩く。と、明らかに中で蠢く微かな音と気配がする。
羽虫が苦手なミンツゥが肩を震わした。確かに筒の中に虫がいるような軽い音がする。
「……紐をくれんか」
リュウ大師の言葉で、一同が再び懐や袖の中を弄る。
「細い丈夫な紐がえぇ。はよ出してくれ」
「帯の飾り紐なら……」
「太過ぎるわ」
「コヨリならありますが」
「そんな紙のはあかん」
「手拭いを裂きましょうか? 」
「もちょっと細うて丈夫なのがえぇな」
「注文多いわね。そんな都合よく持ってないわ」
いつの間にかサンギの影に隠れたミンツゥが音を上げる。皆がパタパタと懐や袖の中を探っていると、間の延びた声がやってくる。
その声を耳にした途端、金縛りが解けた。悪寒のような震えも止まり、無意識に深呼吸をする。
「ようやっと追いついたー! サイイドさん足が速いわぁ」
「何やラヴィか。今それどころじゃないん」
「いや、落とし物しとるん」
「それ、俺達のじゃないで。まぁ、えぇか。預かっとく」
「で、皆さんお揃いで何しとりますん? 」
小さな小袋をサイイドに渡し、ニカッと笑う邪気のないラヴィの様子に、場の雰囲気が和む。二人をを除いて。
「ちょっと立ち込んでるのよ。関係者以外立ち入り禁止! 」
「何やそれ。相変わらずのキッツい顔しよる」
「何それ! 女の子に対してそういう……」
「痴話喧嘩はえぇで。それより早う紐くれ」
「紐? 」
「痴話喧嘩じゃないし! ちょっと大師! 」
次代としての威厳ある雰囲気から年頃の女の子に変様するミンツゥ。そして、その変化に気付いて固まるルドラ。
あー、気付いてしまうか。一瞬、おじさんズの間に緊迫感が走る。本人達が気付いているか解らない、この三角関係。いや、多分そうなのか?
言葉なく、リンパ達が国を越えて目配せをしている。
そんな中で外野の思惑に気づくことはないだろうラヴィが、事のあらましを上司のテンジンから聞き、ダワに声を掛ける。
「報告書かい? そりゃ、まぁ、あるが。今月のの財務報告書かい? 」
「あ、それぐらいあればえぇですよね」
ダワの懐から出された分厚い報告書を、ラビィがひょいと取り上げ、綴紐を器用に解いてしまう。
あっという間の出来事に、呆然とする。
丁寧に報告書を奏上したであろう補佐官達が、後方で震えている。多分、動揺と怒りで。
「そやな。こんぐらいで……うん、丁度えぇわ。ラビィ、ちょいと手伝いし」
「大師、人遣い荒いよー」
まさか書類を束ねていた綴紐が使えるとは思いつかなかった。ラビィの発想に、場にいた全員が息を飲んでいた。そう、ラビィは時折、こういう事を起す。僅かな事で、些細な気遣いで、突拍子もない発想で、持っている運で、一瞬で場の雰囲気を変えてしまう事をする。
ラビィは、また場を変えてしまった。恐らく事態をいい方へ。
「こう、蓋の上で交差してな」
「結べばえぇの? 固結びで? 」
「二度と解けんよう、カッチカチに結びぃよ」
「こう、こうでえぇ? 」
「よしよし。上出来や。あとは封をしとくで。サイイド、ちょいと」
本人はリュウ大師の指示を聞いて作業に没頭している。その様子を見ながら、呂とバル、さらにバータルまでが「彼は何者なんですか」と囁き尋ねる。
気になるだろうな。ただの近衛であるけど。
「大師殿、これは一体何が起きたのでしょう……」
「蠱術の一種やな。呪詛の類に近いもんや」
筒の結び目に、大師が親指を切って血を押し付ける。拇印のように封をして一息ついたところで、ようやく困惑気味の呂が言葉を発した。
切った親指を手拭いで止血しながら、大師が笑いかける。
「お前さんから妙な音が微かにしてたんでな、気にはなっとったんだが、蠱術なんぞ久しぶりでなぁ。出立前に思い出して良かったわ」
「蠱術……呪詛の類とは? 」
「普段我々が接しとるのは、精霊の加護を頂くもんです。風の精霊に帆船の帆を押してもらったり、の」
サイイドが塗り薬を出しながら、説明を補足する。
「呪詛というのは、人の強い念を利用しとるんです」
「恨みとか妬みとか? 」
「えぇ。蠱術は思念を蟲の形にして使役する呪詛と。まぁ、滅多矢鱈に使うもんじゃないんで、資料として覚えとけと、そう習いましたが。ねぇ、師範」
「ゾッとする術ね……」
さっきまでと打って変わり、及び腰で大師の手の中の筒を見るミンツゥは、さほど怖がっていない。
俺や『ダジョーの器』のヴィグと違い、蠱術の記憶がないからだろうか。
次回 10月4日 水曜日に更新予定です。
この頃には、少し涼しくなってるといいなぁ
皆さん、暑さにはお気をつけて……。暑いわぁ。