136 思惑巡る旅立ちに
風鳴の音が夜の帳を下ろしていく。身を割くような北風が上衣を巻き上げ、思わず前合わせを押さえた。外回廊へ出た途端、室内で蓄えた僅かな温もりが、あっという間に奪われてしまう心寂しさ。思わず見上げれば、夕暮れ特有の、淡く変化していく空の色。紫に、そして紺に。黄色味を帯びた橙、紅。遮るもののない空には、底なしの闇が広がる。
雲上殿の中程にある大きなバルコニーは、今は星獣や星輿の発着場になっている。元は狭いバルコニーだったらしいが、書簡や貨物の出入り口が激しくなり先の大規模補修の時に拡張工事をしてしまったらしい。少しだけ文化財の保護という言葉がよぎったが、そういう意識は希薄だ。日々の躍進に追い立てられるクマリでは、まだ芽生えないかもしれない。
「冷えますねー。これ、巻いときましょう」
ヴィグがストールを差し出してくれる。寒がりの俺には冬の必須アイテム。首に巻き巻き、辺りを見渡す。国内各地からの定期便や、荷を下ろした星獣から鞍や手綱を手早く片す横を邪魔にならないように歩いていく。誰も彼も忙しいので、平服に髷を隠すだけの略冠の俺に気づいてない。その心地良さに、自分は根っからの庶民だなと納得。ここぞとばかりに身軽な気持ちで周辺を観察しながら奥へと進む。
雲上殿の事務方の上衣を着た者達は、城下や地方への視察だったのか疲れた顔をしながらも慌ただしく殿内へと歩いていく。地方から陳情で来たのだろう、少しくたびれた一張羅らしき服装の者達は、辺りをく見渡しながら、担当の役人に引っ張られながら歩いてく。まだ地方は戦の焦土が残っている。復興しつつある巨大な雲上殿をはじめとした、街が放つ星星のように煌めく灯りも、何処かしこも珍しいのだろう。
「おや、こんな所に御出でになるとは」
「それは俺の台詞ですよ。見送りに来られるとは思いませんでした」
「ふん。フフタルも関わることになりましたからな」
発着場の一番奥で、北風に煽られながらフフタルの御二人が僅かな侍従を連れてきている。ツワンとサンギも立ち会っている。
先に話し合った結果、いよいよ第三小隊からの精鋭が、フフタルを経由して倶利伽羅に初接触する。その出発が夕刻と決められた。とにかく何が起こるか判らないので、ラウルは勿論シャムカンと隊長のテンジンも同行して、さらにフフタル側から大狼と氷狐の氏族から一人づつという合計六名が密命を帯びて旅立つ。フフタル側の二人は当然ながら星獣を持ってないのでラウルとシャムカンが乗せるという形になる。機動力は落ちるが、致し方なし。フフタルも倶利伽羅という集団が信用に足るか確認したいところだろうし。
荷物を星獣の鞍に固定する呂の手元を見ながら、バルが首を傾げる。荷物と言っても、簡易食や火起こしの道具やら最低限な物ばかり。この装備で何処まで行けるのだろう。偽名を使用して慎重に行動しているようだから、伏せた場所も安全が確認された場所なのだろうが。
「詳しくはここで言えませんが、星獣の足で一日あれば着きますよ」
「ふぅん。一日、か」
「大体ですよ」
となると、春陽ほど遠くないか。ここにいる大人達がそんな顔をして頷くのを、呂は笑う。
「本拠地も身を隠している場所も、禄山殿と当主様の許しを得れれば、全てお話致します。暫しの辛抱を」
「判っておる。無茶は言わんさ」
いや、バル殿ならば隙あれば聞こうとしてたはず。
喉元まで言葉が込み上げたが、笑って誤魔化して頷く。玄武家当主の玄恒は身を隠し、倶利伽羅の統括を代理で行っているという侍従の禄山ですら本拠地を伏せている。僅かな情報ですら喉から手が出る思い。
友好を結んだとはいえ、前途多難。全てを赦したわけではなく、取り敢えずの目先の利益と目的が一致したからなだけだ。まぁ、国同士の友好は、こういう面だから。
自分に言い聞かせるように考えていると、軽やかな足音が複数近づいてきた。
ミンツゥを先頭にハンナとリンチェンまで、両手いっぱいに包を抱えている。
「間に合って良かったわ! 寒いから直前に渡したくって! どうぞ! 」
「一人一包みですよ。冷めないうちに懐に仕舞われて下さいねー」
美人三人が手際よく包みを配っていくだけで、小春日和のよう。ご飯のお焦げの匂いが鼻先を掠める。
「炊き込み御飯を握って参りました。夜通し上空を飛ばれるのなら冷えますでしょ?」
「暖がとれるのは有り難い! 何から何までお世話になり、本当にかたじけない」
「何言ってるんですか。まだこれからですよ。頑張らなきゃ」
恐縮している呂にミンツゥが笑顔で話しかけている。そしてそこに視線を送るのはルドラ。あー、これは拗らせてるぞ。話しかけたいけど、主従関係があるからルドラから声はかけられない。これは見ててモヤモヤするぞ。
絶賛片思い中のルドラとすれば、ミンツゥに声をかけたいし、かけてもらいたいし。しかしミンツゥはその気はサラサラ無いし。
何も言えず、でもモゾモゾする口元を首元のストールを持ち上げて隠す。ダワとリンパ、さらにバルも「ははぁーん」と言わんばかりの視線でルドラの挙動不審を楽しそうに見始めた。おじさんズの生温かい視線に、幸いにも若者達は気付くことなく。
そしてその様子を、バータルが感情のない目で観ている。些細な事ですら、何かに使おうという気なのか、その様子に腹の奥が騒つく。彼は、フフタルの為なら何でもするだろう。それを批判するつもりはない。俺達クマリだって、変わらないだろうから。でも、ざわついてしまう。
「何から何までお世話になり、本当にかたじけない思いです。この御恩は忘れません。全てを当主様へと伝えます」
「あぁ……いや、当然の事だから」
「当然ではありえないです。このような恩情を授けてくれる国はないでしょう」
真っ直ぐに目を見てから、深々と頭を垂れる呂。思考から現実に戻されつつ、鼻先の臭いに気付く。淀んだ水のような、何かの腐敗臭のような、微かな臭い。さっきの炊き込み御飯の匂いは消え、呂の動きとともに何かが臭う。
「聖下? 」
ヴィグが俺の変化に気付いたのか、呂との間にさり気なく身体を挟んだ。ただ、その声は僅かに震えている。ヴィグも何かを感じているらしい。
当の呂はキョトンと俺を見ている。周りのダワやサンギ達も、バルとバータルも、俺が黙ってしまったのを不思議そうに見ている。
「失礼! 」
何かを察したテンジンが腰へと手を伸ばした瞬間、「ちょっと待ってくださーい! 」とシンの声と共にバタバタと足音が近づいてくる。
「ちょいと離れなされ! シン、止めぇ! ほれ、もちっと速よう走らんか! サイイド気張れ! 」
「む、無茶苦茶言わんといて、下さいよって、も、もう無理や! 」
夕暮れの薄闇の中から、足音を響かせながらリュウ大師を背負い息を切らしたサイイドが走ってくる。その影は熊のような巨体。迫力に押された俺達の中、仔犬の様に走るシンが俺と呂の間に飛び込んできて、素早く俺を後ろに遠ざける。
次回 9月24日 水曜日に更新予定です。
長らくお休みして、ようやく再開に漕ぎ着けることが出来ました。時折読んでくださった方の気配にどれだけ勇気づけられたか……ホントにありがとうございます。
まだ本調子てはないですが、無理せずぼちぼち進めていきます。
皆様も、どうか肩と首の筋肉には気を付けて下さいね。ストレートネック、ホントにキツいよ……。