111 四章 〜迦楼羅哀歎〜 エレシュキガルの唄い手
北風は容赦なく鍛錬場を吹き抜け、砂を巻き上げていく。駐屯地の隙間だらけの宿舎内さえ、砂埃が音を立てて入り込む。建付けの悪さと、修繕すら手が回らない事実を突きつけられ、思わず男は舌打ちする。
「大隊長、春陽からの連絡が遅れてますね。あれから」
「何も連絡はないな。まぁ、な。焦りなさんな」
部下の言葉で、我に返る。舌打ちなどしたら不安にさせてしまう。この状況ですべき事ではなかった。意識して肩の力を抜いて振り返ると、案の定若い少尉の眉間は厳しい。
まいったね、こりゃ。
声には出さず、大隊長と呼ばれた男は薄汚れた天井を見上げた。ここ数ヶ月の配給は滞りがち。中央の春陽からの噂も、眉を顰めるものばかりだ。やれ、国境沿いで民の越境が頻発している……だの。食料を求めて暴徒が複数の都市で湧き上がっている……だの。それに対した大極殿は怠慢な動きしかない。これでは末端の兵も不安になるだろう。だからこそ、士官が奮起していくものだ。大隊長とはいえ、元大夫。その性根は腐ってないと自らに言い聞かせ奮い立つ。
「前線を拡げすぎてるから、この様だしな。まぁ、この冬の間の辛抱だ。春になりゃ、農作業で忙しくなるから農民達も大人しくなるさ」
「それは……そうですが、いえ」
副官が、言い淀む。言い淀む理由が痛い程分かる。もし、冬の寒さと飢えに耐えきれず種籾まで食べて越冬したら、春は本格的に叛乱が起きてしまうだろう。事実を追って考えれば、そうなってしまう。良い未来の要素など、何一つ出でこない。理性を持った者ならば、当然解ること。
不安げな若い副官に肩を叩いて笑いかけた。
「明日は、久々に剣術の勝ち抜けをするか? そうたな、報奨は厩戸の清掃を三日免除とかどうだ。気分転換にはなるだろ」
「……そうですね。皆が喜びそうです。でも報奨は、もう一声」
「何だ、足らんか」
「そこは、ほら。大隊長の心意気を見せてくださいよ」
そう言って副官が笑う。
何も無い現状だからこそ楽しく。部下まで気落ちしてはならない。その気持ちは伝わったようだ。男は肩を鳴らしながら、頭を捻る。さてはて。
「俺の紅老酒をだすか。十年物だ」
「ちょっ、それは本気ですね! 」
「本気も本気よ。どうだ。やる気になるか? 」
「十年物って、秘蔵の一品じゃないですか! 今更、撤回はなしですよ! 」
副官が飛び上がるように喜ぶ姿に、男は頬を緩める。同時に、この紅老酒を共に飲もうと語り合っていた上官を思い出す。あの御方は今どこにいるのだろう。いつも不敵に笑う顔を思い出しながら、喜び飛び跳ねる副官を見守る。あの御方も、部下を喜ばせる事が好きだった。戯れ合う事など許されない高貴な方だったが、自分達と同じ飯を食べて酒を酌み交わし、他愛ない話で夜を何度も明かした。笑う自分らを、こんな温かい気持ちで見てくださっていたのだろうと、今になって解る。
あの御方は、今どこにいらっしゃるのだろう。春陽の真中で輝くべき、あの御方。
「皆に知らせてきます! 紅老酒も知らせますからね! 撤回なしですよ! 」
繰り返し念押しされて、苦笑いしながら宿舎への廊下を小躍りしてく副官を見送り、やれやれと肩やら腰を鳴らせながら自室へと帰る。
もうすぐ日が沈む。明るいうちに上がってきた書類を読み込み、報告書をまとめておかねばいけない。今は灯りに使う油すら惜しいのだから。
扉に手を伸ばし、ふと止まる。僅かに扉が開いている。建付けの悪さと隙間風のせいか。
いや、音がする。唄のような、何か声がする。
考えるよりも早く、気配を消して扉の隙間に体を滑り込ませる。まだ夕刻とはいえ曇天で薄暗く、不届き者の影しか見えない。執務机の後に置かれた戸棚や机の上を、何やら探しているようだ。さて、駐屯地の大隊長の部屋に忍び込むと不届き者には一撃与えて構わんだろう。腰に手を伸ばし柄を握った、途端だった。
「っ!! 」
柄を掴んだはずの右手に激痛が走る。そのまま首元も衝撃と痛みが襲う。千切れそうな血管。締め上げられる筋肉と気管。細まった気管に、辛うじて通り抜ける息が甲高い音を立てた。
何者だ!
「玄恒卿の右腕とかいう割に、弱いね。年取った? 」
不届き者の影が笑う。
「まぁ? かつての右腕だし? 今やオッサンだし? あれ? 声も出ないの? 」
若い男の声。まだ少年のような甲高さ。でも、問いかける声の合間に、低く唱えることを止めない。地を這うように低く流れる旋律。背中に悪寒が走る。鳥肌が立つ。背骨から震え上がる響き。何処か、何時だったか、聞いたことのある不気味な唄。
夕闇の中で目を凝らそうにも、男の視界はどんどん色を失っていく。薄れる意識の中で抗う。あの御方の名を尋ねるコイツは、何者だ!
「ねぇ、オッサンなら知ってる? 玄恒卿は今どこにいる? 探してるんだけど見つからないんだ」
まるで失くした帽子を探すような声色で問いかけられる。人の所業ではない力で首を締められつつ、柄にかけそびれた手を必死に伸ばす。せめて一太刀。
「かつての直属の部下、劉大夫。玄恒卿の居場所を教えてくれたら、助けてあげてもいいよ」
黒い影が笑うと、首元を締めた何かが、僅かに緩む。不気味な歌も途切れた。
思い出した。
この唄を聞いた時、あの御方の傍らで立ち竦んでいた。雲上殿から見た焦土と化したクマリの惨状に、恐ろしさに、震えていた。風と共に流れていた怨恨の旋律。まるで地を這い染み込んで呪い殺すような唄。
男は激痛の手を伸ばす。柄を、刀を、せめて一太刀と。
「ほら、言っちゃいなよ。白玄恒は今どこ? 」
「……知ら、ねぇ! ……てめぇ一体……な」
「聞こえないなぁ。ほら、楽になるから言ってみろよ」
「……糞ったれ!! 」
低く声が響き、刹那男の首が床に転がり落ちる。吹き出した血は壁に飛び散り、残された体は幾度か痙攣をして動かなくなる。伸びた影が僅かに蠢いて、男の体が床の血溜まりに投げ出される。影はゆっくりと、人型になり再び机を探り出す。低い唄声が再び始まる。
「困ったなぁ。早く移りたいのになぁ。さっさと終わらして帰りたいのになぁ。また分かんなかったよ」
薄暗くなる部屋に血の匂いが充満していく。その中で人型の影は忙しげに蠢き続ける。
「早く見つけちゃお。そしたら、褒めて下さるかなぁ。へへへ」
書類を捲る音。隙間風が戸口を揺する音。やがて静かになり、血の匂いも夜の帳に包まれ、北風が砂と共に吹き荒れる。
いよいよ四章 迦楼羅哀歎 スタートです。
上手くいくか分かりませんが、取り敢えず書いていきます。いきなり、三人称視点に挑戦して敗れましたね。いやはや、読みにくくなり、すみません。
次回112話 6月29日 更新予定です。
親知らずが炎症しちゃって、痛い……。この忙しい時にもう……。歯医者、コワイ。