ヴィグの近習見習い日誌 19
北風が草を撫でていく。一面の草が色を変え揺れ動く。見えないものが動く様、その不規則な力強い形跡だけを残して消えていく。
この草原に、沢山の人が集まった。氏族どころか国も違う同士で、知恵を出し欲を出し、苛立ち笑い合って、十日間を過ごした。互いの顔に浮かぶ感情は何と表せばいいのだろう。少なくとも、最初に対面した強張った緊張は霧散している。
そう、今ここに流れる雰囲気は名残惜しさだ。
10日は、少なすぎた。
色んな事が起こりすぎた。
「ダワ様に教えを請うたって? 」
「……」
「お仕えするのは聖下お一人って言ってたじゃん? 」
「……」
一応、出立を控えた別れの儀礼の最中なんですけどね。
喉元まで込み上げる言葉を留めて、横からの視線を感じつつ、口元に笑みを浮かべて前を見つめ続ける。第三小隊特有の音無き声で掛けられる言葉は攻撃的だ。テンジンさん、今日は意地悪。何故かさっきから弄られる。昨夜、義兄達と天幕にいたからだろうか。モルカンさんから連絡で内容は知ってるはずだろうに。
「僅かな会話からでも情報は漏れる。返答をしないのは正解だ。……確かに、適性はあるよな。あの方が見込んだんだから」
不意の言葉に、思わず顔を向ける。と、テンジンさんも僕の顔を見ていた。視線が合わさった途端に、笑みを浮かべて頭を撫でられる。
「ダワ様は、大師に並ぶ司政官。クマリの懐刀だ。その方から指導して頂ける意味を、よく考えて励めよ。お前の微妙な立ち位置も考えられての事だろうが、ヴィグの実力で手にした幸運だ」
「テンジンさん? 」
「聖下の許可が出るといいな」
「は、はい」
何かを試された。そして認められたらしい。具体的には分からないけど、まぁ、良しとする。
頭を撫でられるまま大人しくしてると、再び音無き声に囁かれる。
「で、美人のお姉さんに挨拶はしたか? 」
「朝食前に。姉様も忙しいですから」
いつの間にか、別れの口上は終わっていた。小さな花束を持った子ども達が登場して、場は華やぐ。
ミンツゥ様はじめ役付きの方々の前に子ども達が並んで花束を渡していく。サンギ様の前にはマキシが頬を染めて立ち、綺麗に造られた花束を差し出している。
姉様はその様子を義兄の後ろで微笑んで見守っていた。穏やかな横顔が、もう記憶が霞んできた母上の思い出に重なる。母上も、あんな顔をして僕を見てたのかな。
「朝飯前だけ? いや、足らんだろ。今のうちに行っとけ」
「今ですか? 」
「雰囲気に紛れて行くんだよ。あぁ、しょうがないな」
有無を言わずに手首を掴まれ、当然の足取りでミンツゥ様とシンハの後ろに控える。警備担当の衛士
は突然の第三小隊隊長の登場に振り返るが「構うな。野暮用だ」の言葉と僕を見て頷く。申し訳ない。
『 おう、来たな。最後に挨拶するにゃ、ここしかないぜ 』
「僕、ここにいたらマズイと思うんですが」
「関係者だろ」
『 構わねぇよ。お、また何か始まるんか? 』
シンハの尻尾が上機嫌に揺れ始める。
先程、花束贈呈していた子ども達が、一列に並びだす。手に持っているのは、花冠だ。花束よりは草が多いが、色とりどりの花々を織り込んで編まれた冠を持って、ミンツゥ様にお辞儀した。
義兄様の姉の長子バトゥ。マキシより一つ上で、見るときは何時も一緒にいた子だ。
「僕たち、シンハといっぱい遊んで、とっても楽しかったです。だから、お礼をさせて下さい! ありがとうして、いいですか? 」
「えぇ。構わないわ。こちらこそ、一緒に遊んでくれてありがとう。聖下も、自身の分身を愛でてくれたこと嬉しく感じてらっしゃるはずです。シンハ、皆とお別れを」
随分としっかりした子どもだな。
旅装で 略式とはいえ着飾ったミンツゥ様は、シュウメイ曰く「天女様みたい」で大抵の大人達は正面切って話せない。あの子は、ミンツゥ様の目を見て礼を言えた。肝が座ってる。
とはいえ。やはり子どもだ。シンハが前に出るのを待ち切れないのか、シンハの首元に飛び込んでいく。他の子どもも、マキシも一緒に走ってきて、ミンツゥ様の横に子ども達が群がってしまった。
「シンハ、お別れだよ」
「いっぱい遊んでくれて、ありがと! 」
「また遊びたいな! 今度はいつ遊べるの? 」
口々に喋りだす子ども達に、ミンツゥ様は微笑んで後ろに下がり場を譲った。子ども達は、小鳥の囀りのように別れの挨拶をしながら、花冠をシンハの首元にかけていく。年少の者から挨拶させているのは、バトゥとマキシだ。この二人が、次の大狼の長と左腕か。はたまた青の民の氏族長となるのか。他の氏族の子ども達も自然と二人に従っている。
つい考えてしまう。
マキシは、大狼でどんな立ち位置になるのだろう。白銀の髪は目立ち過ぎる。今は無邪気にシンハに花冠をかけるマキシは、どんな大人になるんだろう。白鷺の名を名乗ることは、許されるのだろうか。ふと、懐に紫水晶の三日月刀を入れたままなのを思い出す。朝、姉様に渡さねばと忍ばせたままだった。
「ヴィグ兄様! シンハと笑ってお別れ出来たよ! 」
「……ん。良く出来ました」
幼子の頃のように両手を差し出されて、テンジンさんとミンツゥ様に目線で断りをしてから抱き上げる。ずっしりとした重さが腰にかかる。あぁ、大きくなったな。
僕の知らない重さ。懐かしい匂い。愛しい温かさ。全てを忘れたくなく、抱き上げたまま顔を髪に埋めた。まだ、このままでいたい。
「ねぇ、今度はいつ会えるの? マキシ、それまでに駈歩上手になるよ! 兄様と遠出に行けるよう乗馬を頑張るよ! ねえ、今度はいつなの? 」
「マキシ……」
言葉が、出てこない。同じ紫色の瞳が真っ直ぐに僕を映す。顔が、歪みそう。視界が歪みそう。言葉は、出ない。絡み合った感情が出てきてしまいそうで、息が出来ない。
『 暖かくなったら、マキシ達がクマリに来いよ 』
唐突な言葉に、息を吸いこむ。
見下ろせば、幾つもの花冠を下げたシンハが楽しげにミンツゥ様の横に歩いていく。歩くたびに花冠が揺れる。尻尾も盛大に揺れてご機嫌だ。
『 条約とやらは、さっさと結ぶんだろ? ダワ。最後の仕上げはいつ出来るんだ? 』
「来年の春には締結の会談をする予定ではありますよ」
『 よっしゃ! 皆、聞いたな? 来年、暖かくなったらクマリに来い! 雪が解けたら直ぐに来い! 』
「……さすが双子星。この無茶振り、聖下そっくりだわ」
ミンツゥ様の思わず溢した愚痴すらシンハは気にせずに、子ども達とはしゃぎだす。
マキシも「じゃあ、来年の春だよ! 約束! 」と叫んで僕の腕から飛び降りてシンハの所へ駆け出してしまう。
ああ、まだ予定は未定なのに、何だか決定の勢いだ。
まだ手に残る温かさが名残惜しい。溜息をついてると姉様がやって来た。ミンツゥ様の前には義兄様が最後の挨拶に来ている。周りも短い滞在で親しくなった者たちが、最後の挨拶を始めていた。身分も氏族も国も関係なく、あちこちで別れの輪が出来つつある。
「シンハ様のお陰ね。来年の春、楽しみだわ」
「いや、あれは無茶振りだよ。出来るかどうか……」
「大丈夫よ。アスラン様に、しっかり働いてもらうわ」
思わず姉様の顔をしげしげと見た。
「姉様、変わりましたね。前はそんな強気な言葉出なかったのに」
「私も変わります。ヴィグが変わったようにね」
「そう、ですかね? 」
「そうよ。すっかり大人になったわ」
輪になって飛び回るマキシ達とシンハを見てた姉様が、僕を見る。真っ直ぐに、強い眼差し。整った目元も口元も、強張っている。
「大人になったわ。ヴィグ」
名を呼ばれ、両手を差し伸べられるまま近付くと抱き締められた。
姉様は、僕の肩に顔を埋めた。確かに僕は、大きくなったな。叔父上の葬儀の時は、僕が姉様の肩に顔を埋めたのに。
暫くは、この優しい温もりとさよならだ。そう、顔を髪に寄せた途端だった。
「三日月刀は、ヴィグが持っていなさい」
囁かれた声に固まる。姉様の手が、僕の背中に強くしがみつく。姉様を抱こうとした僕の手が、宙で止まる。
「このままで聞いて。アスラン様は、あの人はマキシに白鷺の名を継がせない。いつか産まれる私達の子どもも多分、大狼の名。ヴィグ、貴方が最後の白鷺よ」
「姉様」
「貴方が、白鷺を名乗りなさい」
「しかし、それは」
草原を出た者が、白鷺を名乗って良いのか。最後の白鷺とは、何なんだ。
ただ、しがみつくような姉様の腕の感触が、温もりが、忘れるなと叫んでいる。この瞬間を、この言葉一句一句を、刻みつけろと。
「もう、ヴィグしかいないの。白鷺を名乗って生きていける者が、ヴィグしかいないのよ」
「姉様」
絞り出すような声に、僕は、姉様の細い背中を抱き締める。
かつて族長を名乗った父上と叔父上の縁者は、白鷺の氏から抜けている。残るのは僕ら兄弟だけだ。
だから、僕しかいない。白鷺は、たった一羽になってしまった。
「御先祖様は遥か北の雪の大地から来たというわ。白鷺は清流を求めて生きていくの。ヴィグ、貴方はクマリで生きていくのよ」
たった一羽で飛んでいかねばならない。
出来るのか、じゃない。やるんだ。飛んでいくんだ。クマリで生きていくと決心したのだ。白鷺の名を背負うとは思ってなかったけど、この名で僕は、飛んでいくんだ。
懐の三日月刀がずっしりと重い。でも、この重さすら心を奮い立たせる。
「大丈夫です。飛んでいきます。姉様、ヴィグはクマリで見事、飛んでみせます」
「うん……ヴィグなら飛べるわ」
背中をポンポンと叩かれた。まるで泣いたマキシをあやす仕草で、泣きそうになる。僕は姉様の弟だ。何年何十年経とうと、姉様は僕の背中をポンポンと叩いてくれるだろう。
「周辺上空域、異常なし! 出立準備整いました! 」
「先達出立! 第二小隊隊員、各自配置につけ! 」
無粋な声が響き渡る。別れを惜しむ声が上がり、幾つかの人の輪が千切れていく。再び結ばれるのはクマリでの再会だ。
「ソフィア。別れの刻だ」
「ヴィグ兄様! また春にね! シンハとまた会えるかな? 」
義兄様がマキシと手を繋いでやって来る。名残を惜しんで姉様と、もう一度強く抱きしめ合い離れる。離れていく。指先が、温もりが、離れていく。
「義兄様! 姉を、姉を泣かせたら許しませんから! 」
拳を握りしめて、髭面を見上げる。恐れを知らぬ草原の狼王。謀略に長けた、欲深い義兄を。
深淵の起こした双頭鷹の騒ぎを利用し、クマリの威光を利用し、他の氏族を押さえて大狼の絶対的優位を、この十日間で造り上げた。その手腕は認めざる得ない。今の僕では、敵わない相手だ。だから、頭を下げて願うしかない。どうか、どうか。
「姉様とマキシムを、どうか宜しくお願いします」
「当たり前だ。安心してクマリで励めよ」
「……」
励めよ、とは何だよ。
胸の奥で立ち上がった炎を押し隠し、微笑み返す。僕は、貴方の駒にはならない。僕はクマリの為に働くんだ。
握り締めた拳を解き、姉様に手を引かれたマキシに手を伸ばす。「クマリで待ってるよ」と頭を乱暴に撫でて、後ろへ下がる。
バラバラと名残惜しそうに全員が配置に戻る。僕もそっと、シンハの後ろへ控える。
クマリと青の民達、向かい合う間に風が吹いた。
ミンツゥ様が、丁寧に頭を垂れた。敬意を示す、最上の礼。それを合図に、僕らは更に片足を地につけ頭を垂れる。
この十日間の謝辞を表す。
「クマリでお待ちしております」
「その日を心待ちにして、文を交わしましょうぞ。聖下にお会い出来るのが楽しみだ」
最後の挨拶を交わし、義兄達が下がる。いよいよ出発だ。
「先鋒一班から飛翔! 周辺への警戒を怠るな! 」
「シンガリは私が務めます。工房班の荷も持ちましょう」
「テンジン殿、助かります! 」
「総員、隠遁を解け! 積荷の固定を最終確認! 」
ツワン様の号令の元、各小隊の伝達が一層激しくなる。掛け声と共に玉獣達が陰から浮かび上がり、青の民達からどよめきが起きた。これだけの玉獣達が勢揃いした光景は、珍しい。マキシとバトゥ、子ども達が飛び跳ねながら小さな手を精一杯に伸ばし、手を振る。
「シンハ、貴方その花冠を着けたまま行くの? 」
「当然。かっこいいだろ。落とさないように風除けの加護もさっき付けたからな。大丈夫だ! 」
何重にもなった花冠をガサガサさせ、胸を張り、ミンツゥ様を背中に跨れと促す。「そういう気配りを普段も見せなさいよ」とボヤキながらミンツゥ様がシンハの背に跨る。
「ほら。ヴィグも乗りなさい」
「し、失礼します! 」
僕がこの場所で良いんだろうか。気まずい雰囲気でミンツゥ様の前に跨る。
「悪いわね。ヴィグが一緒に乗ることでクマリとの友好が形になるから……私達も貴方を利用してるのね」
「僕の意思を尊重してくれてます。それに、これは僕の望む事です! 」
クマリとの友好は、青の民が生き残る手段だ。姉様達が安全に過ごす為に必須だ。なら、僕は道化にもなる。でも、顔が火照ってしまう。
背中のミンツゥ様の顔が見れなくてよかった。
「た、ただ、その、幼子のように前に跨るのが恥ずかしいだけですから! 」
「そう? それは青の民の感覚なのかしら? 」
「多分、そうですね。クマリでは普通なんですかね」
『 ウダウダ言ってんじゃねーよ。飛べねぇ奴が手綱握る方がオイラは怖いぜ 』
シンハが四肢に力を込めた。周辺の空気が一気に濃厚に変わる。耳が、少しツーンと痛みだす。
さあ、飛び立つ時だ。
「主翼、出立! 」
シンハの肩に付けられた革紐を握りしめて、咄嗟に顔を上げる。吹き荒れだした風の向こう、マキシを抱いた姉様が見える。その姉様の肩を、抱き寄せる義兄様。あぁ、さよならだ。
『 ちゃんと掴まってろよ! 』
掛け声と共にシンハが一気に浮上する。力強いその飛翔の様は、まさに王者。どよめきが風切の音の向こうで沸き起こる。
「お元気でーー! 」
子ども達の甲高い歓声が途切れていく。
宙を駆け上がり、姉様とマキシの姿が徐々に小さくなる。
『 あいつら、泣かないでお別れ出来たな 』
シンハの呟きが風に飛んで消えた。
草原の大地は小さくなり、冷たい風が容赦なく体を打ちつける。
吹き荒れる風の中、僕らは南へと進路を取る。
クマリは、この峰々の向こうだ。
次回は 5月25日 水曜日 更新予定です。
ようやく、ようやくクマリに帰ります。
はーーー。長くなってしまいました。GWあったし余裕だと思ってたんですが…。つい、コーチェラみたり、子どもオススメのSPY family 読んでたりしてたからかな……。面白いですね、アニメも一緒に見て会話を楽しんでます。
いよいよ、ヴィグの見習い近習日誌も最後の仕上げ。回収忘れが怖い。
サカナクション「プラトー」
AJR 「Bummerland」
この2曲をひたすら聞いて書いてました。オススメです。