ヴィグの近習見習い日誌 18
「ぃやあだぁぁあ! 」
「マキシム」
「やあぁぁあ! シンハとさよなら嫌ぁだぁ!」
全身全霊のマキシムの泣き声と拒否に、姉様は手で顔を覆い、アスラン兄様は肩を震わせて笑い声を噛み殺している。僕は、膝の上で仰け反りイヤイヤをするマキシムを支え持つので精一杯。幼児特有の頭の中で反響する鳴き声に辟易。
聞き分けの良いマキシムが、何でこうなったのか。暴れる幼子の身体を抱えながら色々と思い返し、その訳に、さもありなんと納得はする。
ここ数日を、マキシム達はシンハと遊び転がりまわっていた。大人達が会議に振り回されているのを横目に、シンハは好き放題遊んでいた。遊ばされていた、のか。どちらかは分からない、が、双方相性が良かったのだろう。仲睦まじい様子は、進まぬ会議に疲れた大人達の癒やしになっていた。
が、しかし。
昼間の宴も終わり、今日だけは『家族水入らずで過ごしなさい』とミンツゥ様達の御配慮で、家族の天幕で夜を共にしようとしてただけなのに。
で、「明日はクマリに帰るよ」と、言った途端にこれだ。なんてこった。
「マキシは、シンハ様が大好きなんだね」
「うわぁぁん! 」
「けどね、シンハ様は帰らなきゃいけないんだ」
「やぁだぁぁあ! 」
盛大に鼻水が垂れ始めた。懐から手ぬぐいを取出して、仕方なく拭ってやる。鼻にあてがってやると、キチンと「チーン」するから冷静さは残ってるようだ。
「姉様、シンハ様は一応、聖下の玉獣なのはマキシムは知ってる? 」
「勿論よ。失礼がないように伝えたんだけど……難しかったかしら」
ぐずるマキシムを支えながら何とか説得の糸口を探そうとすると、姉様が特大の溜息をつきながらやってくる。そろそろ日も沈んだ時刻。夕食を済ませたし、ゆっくり最後の夜を過ごしたい。暖炉の上のヤカンに水を注いでから、隣に座りマキシムを僕から受け取った。途端にマキシムは、姉様の胸にグリグリと頭をこすりつけて甘えだす。背中に小さな手でしがみつき、顔は胸に押し当てて絶対に離れない意思表示。頑固なのは変わらずだ。姉様が語りかけても、顔を上げないでしがみついてる。
「マキシム」
アスラン兄様がやって来て、姉様にしがみついたままのマキシムの頭をそっと撫でた。思いの外、優しく触る大きな手を凝視してしまった。刀や馬具が似合う武骨な手で、くせっ毛の銀の髪を何度も撫でていく。
「素晴らしい日々を過ごさせてもらえて、良かった。マキシムは、その日々を泣き顔で終わらせるのか? 泣いて別れを言うのか? 」
胸に押し当てる頭がピタリと止まり、ゆっくりと振り返る。泣きはらした目元も頬も、擦れた鼻の頭は赤くなっていた。それでも可愛らしい顔を、歪ませた。あぁ、また泣きそうだ。
「これからマキシムは、沢山の人と出会って別れていく。勿論、俺とマキシム達のように家族になる事も出来る。でも、それは稀な事だ。沢山の出会いがあって、別れがある。大切なのは、どう同じ時間を過ごしたか。お互いに何を考えていたか。どんな感情が残ったか」
一旦、言葉を留めてゆっくりと笑った。何かを思い出すように、慈しむような笑み。
「過ごした時間を思い出せば、力が湧いてくる。俺が狩りや遠征で家を空ける時は、ソフィアやマキシムを思い出す。そうすると、元気に仕事が進む。マキシムも、ヴィグがいない時は楽しく過ごした時間を思い出していただろう? 」
あぁ、そうか。
アスラン兄様は、もうマキシムの兄様なんだな。こうやって優しく語りかけて、触れ合って、家族になったんだ。
自分のいない間に流れた時間を、目の前でハッキリと見せられた。でも、悪くない。
「……ヴィグ兄様も? クマリにいた時、ボク達のこと思い出してた? 」
「雲上殿で、いつもマキシを思い出してたよ」
「寂しかった? 」
「寂しかった。でも、マキシや姉様の笑った顔を思い出して頑張れた。楽しかった事が、力になったんだ」
「楽しかったの、思い出すと元気になるの? 」
「うん。元気になるよ」
夜、寝床で泣いてしまったこともある。頭を伏せて耳飾りが鳴るたびに、姉様を思い出してた。
でも、流石にそれは言えず笑って返す。くせっ毛の頭をぐるりと撫でて、柔らかな感触を心に刻む。きっと、この体温も感触も匂いも、愛おしく思い出すのだろう。次会うときは、大きく成長しているはずだから。
ようやく泣き止んだマキシムを挟んで、僕らが笑い合っていると戸口を叩く音がする。人払いはしたはずなのに。
「夜分すみません。ソフィア様、宜しいでしょうか」
トヤおば様の声に、姉様が扉を開ける。遠慮気味の声と共に、ちらりと顔を覗き込んできたのは息子のバータルさんだ。
「お寛ぎの時間に、申し訳ありません。実は子ども達が泣いている家が幾つか、手を焼いております。こちらも泣き声が聞こえて伺ったのですが」
「おう。泣いているぞ。どうかしたか」
「マキシ、泣いてないよ! 」
泣き腫らした顔で言っても説得力ゼロだ。戸口の中に入ってきたトヤおば様も、バータルさんもマキシムの顔を見て、苦笑して事情を話してくれる。
何でも、シンハと遊んでいた子ども達が別れを惜しんであちこちの天幕で大泣きしているらしい。よほど楽しかったんだろう。シンハは、今どうしてるかな。玉獣は精霊であり獣だ。人より鋭い聴覚で、ミンツゥ様の側で、子ども達の鳴き声を聞いてるんだろうか。ふと、話を聞きながら金色の毛並みを思ってしまう。
「マキシと一緒ね。お友達もシンハ様と別れたくないみたいよ」
「なぁ、マキシ。さっきの話を皆にしてやれ。明日、シンハ様とのお別れをどうすれば良いか、話してこい」
アスラン兄様の言葉に、マキシムは半開きのぷっくりした唇を、一文字に結ぶ。泣き腫らした紫色の瞳が、力を持って光りだす。しがみついていた姉様から降りて、スタスタと歩き「ボク、みんなとお話しに行きます」と大人びた口調で宣言をした。さっきまで大泣きしてたくせに……とは絶対に言わない。言うと振り出しに戻ってしまうに違いない。小さな手を姉様と繋ぎ、振り返ることもせずに天幕を出ていく。
「はぁ……」
「大変でしたね」
「大変というか、大きくなったなぁって。甘えん坊で泣き虫のマキシが、知らないうちに大きくなってくから溜息出ちゃいました」
「貴方もですよ。立派な官僚候補になって帰ってきましたね」
バータルさんが笑顔のまま、音もたてずに戸口の内側に入ってきた。
急に静かになった天幕に、アスラン兄様とバータルさんと僕がいる事実に気づいて、息を飲む。
今、官僚候補と言われた。バータルさんは、僕をクマリ側の人間として見ている。つまり。
「ヴィグさん。貴方には聞きたい事が山程あるんですよ。近習としてお仕えする聖下は、一体どんな人間なんですか? 異世界から来た人とは、どんな考えを持ってるのですか? 」
「バータル、さん」
「雲上殿には、どれだけの人がいるのですか? その人数で、大体の規模が分かるのですが……せめて出入りの商人を紹介して頂けると潜入しやすいのですが」
「するわけないです! 」
「バータル。待て」
立て続けに問い詰められて、息が出来ない。
あぁ、そうか。バータルさん達にとって僕は間者なんだ。いくら友好だの言って握手を交わしても、探るべき交渉相手に変わりはないんだ。
現実を突きつけられて、思わず嗤ってしまう。
僕ら青の民は、生粋の商人だ。生まれながらにして相手の懐を探り、弓矢で狙いを定める狩人だ。
クマリで僕は鈍ってしまったらしい。なら、もう一度、砥ぎ直せばいい。青の民が持つ狩人の感覚を。目の前にいる狡猾な生き物と、対峙するんだ。
口元で笑みを作り、睨み返す。
「僕は、近習見習いです。僕が仕えるのは聖下ただ御一人。長の左腕に何も話すことはありません」
「近習の前に、同じ青の民でしょうに」
「国は捨てました」
「家族は捨ててないでしょうに」
「……っ」
「そこまでだ、バータル」
痛い所を突いてくる。
兄様が止めなければ、また血が吹き出していた。無意識に胸を押さえて、息を吐き出す。油断大敵。やっぱり怖い人だ。笑いながら言葉を突き刺してくる。
「バータル、悪いが天幕から出てくれ」
「しかし長の」
「ヴィグが傷付けば、ソフィアが哀しむ。俺はソフィアには嫌われたくない」
兄様が髭をひと撫でして立ち上がる。促すようにバータルさんの背を押して戸口の外に出した。
助かった。まさか、助けてくれるとは思わなかった。
「アスラン様、しかし今しか機会がありませんよ」
「あぁ、分かってる。だから俺が聞く。兄との会話で、何かをポロリとこぼす事はあるだろう? 」
「成程。兄との会話でなら、有りえますね。では、団欒の時をお過ごしください」
バータルさんが晴れ晴れとした笑顔を見せ、戸口を向こうへ出ていった。憎々しい程の清々しさだ。
静かに戸口が閉められ、本当に僕とアスラン兄様の二人になる。
暖炉の灯りに照らされ振り返る兄様の笑顔は、舌舐めずりをした狼そのもの。
揺るぎない自信。ずば抜けた才能。そして傲慢さ。この草原で無敵の王者。
「さぁ、家族の時間だ」
やっぱり、僕はこの人と、家族ではない。
拳を握りしめて、微笑み返す。
この野郎。
「大丈夫だったか? 」
「知らぬ存ぜぬで通しましたよ。姉様も直ぐに戻ってきたし、大丈夫です」
「いや、そうじゃなくて。そういう扱い受けるのは嫌だろ。本当に無理すんなよ? 」
「はは……モルカンさん、良い人ですね」
「お前なぁ、ホントに心配してるんだぞ」
星獣の背にモルカンさんと二人で、荷物を固定する。荷造りなら、人生を移動して暮らす僕の得意技だ。四苦八苦してる他の人の荷物も、どんどん二人で括り付けていく。昼前には出立して暗くなる前に雲上殿に帰還予定だ。幸い、今は風は強くないが、山々に灰色の雲がかかり始めた。天気は午後にかけて急変するかもしれない。急がねば。
モルカンさんと次から次と手を動かしながら、話をした。
昨夜、天幕の中で義兄と二人きりになった僅かな時間。本当に僅かな時間だったが、モルカンさんは知っていた。何故知っていたかは聞かない。検討はつくけど、聞かない。聞いても互いにいい気持ちではないのは、何となく察していたから。ただ、何もなかったとだけ伝えようとしたのだけど、まさか僕の心配をしてくれるとは思わなかった。
「とにかく、素人に手ぇ出すタァ許せん」
「弟ですから。一応、義理の」
「義理だろうと家族だろうと、ヴィグは俺達の仲間だからな。許せん」
広場中央では、出立を見送る為の準備が進められている。主役のミンツゥ様は、サンギ様を付き添いに幾度も会議が開かれた大天幕で義兄と最後の会談をしている。友好を、平和を語らうために。
「おう、二人共お疲れさん。荷物はこれで最後か」
「どうでしょね。確認は俺達の担当ではないですから、分かりません。でもまぁ、多分」
いい加減な会話に顔を上げると、ツワン様とダワ様が手荷物を持ってやって来た。星獣に騎乗するから今日は軽装だ。ようやく帰れるからか、久し振りの穏やかな雰囲気だ。とはいえ、ツワン様の目元は笑ってない。
「元気そうだ。昨夜は大変だったらしいな。大丈夫か」
ツワン様が、いつもの大声を潜めて問い掛けてくる。ツワン様にも昨夜の事が伝わってるのか。参ったな。
「ヴィグくん、誤解しないで欲しい。けど、確認をしなくてはいけないので聞きますが……」
「何も話してないですよ。モルカンさんにも伝えたとこです」
横でモルカンさんが頷く。
でも、実証が出来ない。どうしようか。
「だから疑ってませんよ。そんな酷い顔をしないで」
酷い顔。ダワ様に言われて、ぺろりと手で撫でる。どんな顔してんだ、僕は。
しっかりしろ。実証しろ。
あの僅かな時間を思い出せ。僅かな会話を。
「バータルさん……バータル様もアスラン様も、聖下に興味がお有りでした。何度もどんな人かと問い詰めてきました。印刷技術にも興味持ってましたね。異世界の智慧なのかと気にしてました。それから、雲上殿に出入りする商人のことも、あとは」
「もう結構です。止めなさい」
不意に、ダワ様が僕の手を掴んだ。強く握りしめられる。思いの外強く、そして冷たい指先。
「私は、君に間者の真似事は求めていません。家族を売るようなことは」
「義兄は、あの人は、僕を家族として見てない。最初から僕を」
僕を間者扱いしたのは義兄様です。
その言葉は言えなかった。
これ以上喋れないようにか、僕の口はダワ様の肩に押し当てられていた。掴まれた手を引き寄せられ、抱きしめられていた。僕の頭を包んだ腕は震えている。
「君を帰らすんじゃなかった……こんな事になるなら、連れて来るんじゃなかった! こんな思いをさせるなら、ただ良かれと、ただ家族の時間をと」
「ダワ、落ち着け」
「私達が味わった思いなど……誰にもさせるつもりはなかったのに……っ」
ダワ様達が味わった思い。
あぁ、そうか。
旧クマリの人々が味わった思い。国を失った哀しみだ。還る場所を失った哀しみだ。
ダワ様は、お優しい。
震えて僕を抱くその腕を、ポンポンと叩いて解く。誤解を解かなければ。
「僕は、大丈夫です。最初に言ったじゃないですか。義兄は難しいと。切れ者だと。あぁいう人なんです。自分と大切な人以外はどうだっていい人です。姉様を嫁にする時から、僕は解ってました。だから僕は家を出たんです」
「しかし」
「僕の意志で、国を出たんです。でも、大丈夫。僕には姉様と弟の場所があります。離れてても、還る場所があります」
実家は居場所ではない。それでも、二人の存在は僕の還る場所。それも、何十年と経てば、僕のことを忘れてしまうかもしれない。
なら、還る場所が無くなってしまったら。
「もし、それも無くなったら、僕は還る場所を創ります。出来れば、クマリで創りたいなと思うんです」
僕はクマリで生きていく。
姉様とマキシの思い出を大切に守りながら、草原に想いを寄せながら、二つの国が穏やかに時を重ねられるように、見守って生きたい。僕が出来うる方法で、二人と、僕らの遥かな先祖が愛した土地を見守って生きたい。
「僕は、クマリも、この草原で生きる二人も、この土地を愛した御先祖様も穏やかに過ごせる世の中にしたい。でも、僕は、不器用で、まだ足らないことが沢山です。だから、ダワ様。どうか、僕を導いて下さいませんか? 」
知らなくてはいけない事が、山とある。
身に付けなくてはいけない事も、やらねばならぬ事も。
僕は何も知らない。自分が子どもだと、痛い程解ったんだ。そんな僕が強くなる為に必要な事を知っているのは、多分ダワ様だけだ。武力でも恐怖でもない、智力で闘う方法を知っているのは、ダワ様だ。
「僕は、強くなりたいんです。ダワ様のように、強くなりたいんです。だから教えて下さい」
いつも笑みを浮かべている顔が、くしゃりと歪んだ。痛そうに、苦しそうに。それでも、ダワ様は僕の手を離さない。僕も強く握り返す。
「私は厳しいですよ? 」
「知ってます」
「笑ってるのは、面の皮だけですよ? 」
「それも知ってます。構いません」
天を仰いで、深呼吸をして、まっすぐ僕を見下ろした。笑ってない顔、初めて見たかもしれない。息を止めて、僕もまっすぐに瞳を見詰め返した。
「私の全てを教えましょう。知るうる限りの、知識と知恵を、そっくり移し替えるように伝えましょう……但し、聖下の許可を頂いてからですよ」
「……っ! はい! 」
「許可が出たら、ですよ? 」
「はい! 」
強く強く、手を繋いだまま何度も頷く。
「もう許可貰った気になってるだろ」とモルカンさんとツワン様にも小突かれてしまうが、構わず頷く。
許可が出なかったら悲しいが、これは僕の決意表明。僕の進むべき道を見つけた。僕の一生を賭して挑むものを、見つけれたんだ。凄い幸運じゃないか!
「宜しくお願いします! 」
「こちらこそ、宜しく」
北風が、火照った頬を心地良く撫でていく。
冬の訪れを告げる北風さえ、祝福のようだ。
手を繋いだまま、僕とダワ様は微笑んだ。
長くなってます。
次回更新予定は 5月11日 水曜日です。
取り敢えず完結目標でやってます。伏線の回収も何とかなるかな。
ヴィグ編、あと少し、お付き合い下さい。