ヴィグの近習見習い日誌 5
秋が深まってきたとはいえ、陽の光はまだ暖かい。昼前の日差しに心地好く照らされ、何故かキラキラと煌めく風は足下から吹き上がって髪を揺らす。頭頂部分の人肌の温もりに困惑しながら、何度目かのため息を溢す。この状況を打破しなくては。意を決して上を見上げれば、僕の頭に顎をのせてた聖下がニッコリ笑う。
「『如何したか? 』」
「如何しますよ。さっきから、どうされたんですか? 訳が解りません」
「『解らぬか? 』」
疑問を疑問で返されて、助けを求めたくて視線を斜め下に動かす。聖下の私室の横の控え室辺りのバルコニーには、ヨハンさんと近衛第三小隊の隊長のテンジンさんが控えてる。僕に何かあった時じゃなくて、僕が何かしでかした時に備えて…なんだろうなぁ。大事なのは、聖下なのだから。当然だ。ちょっと今、聖下は変だけど。
朝議の場からバルコニーからバルコニーへと飛んだ聖下の肩に担がれ、奥宮の奥にある聖下の私室のバルコニーの端に連れてこられた。足下は絶壁で遥か下はクマリの城下町と田畑が広がる絶景。恐怖で固まった僕を、聖下は暖をとるように抱いている。
「『まぁ、よい。あのグズな会議から出てこれたのは、童のお陰だ。礼を言おう』」
「グズな会議って……さっきからの聖下、変です。なんか言葉遣いとか色々と違う人みたいで」
「『それはそうであろうな。別人なのだから』」
「ですよねぇ。別人ですよねぇ……別じ……?」
今、何て言った?
首を捻り、絶壁で自分を抱き抱えてる人を見る。青い瞳。優しげな目元。日に焼けたことないだろう、綺麗な肌と漆黒の髪。見慣れた目尻の黒子。いつもの聖下と同じ顔をしてるけど、雰囲気が違う。言葉遣いも、動作も、行動も、考え方も。
じゃあ、今、僕を抱えて笑顔の聖下は?
「……貴方、誰ですか?」
「『さぁてな。幾つもの名を名乗った吾は、どの名を名乗れば良いものかな』」
相変わらず風はキラキラと煌めいて下から吹き上げる。風の音と共に、微かに馬や人の営む物音が聞こえる。それがなかったら、まるで世界に二人しかいないと錯覚するよう。空は群青、足下は黄金の田畑。そして広がる城下町。
相変わらず人の頭頂部に顎をのせたまま、聖下の体の中の人は呟く。
「『とりあえず、ソンツェ……と名乗っておこうか』」
「ソンツェ様とお呼びすれば、いいですか?」
「『そなたの声で呼ばれるのなら、父様と呼んでもよいぞ』」
何を言ってんだ、この方は!
「僕の父様は、もういませんから呼びません! 」
「『……そうか。そなたの父は、いないか。……母御も居らぬ、か。……吾子と同じとは』」
「気にしないで下さい。父母はいませんが、姉様と弟がおります。何も困ったことはありません、が? 吾子?」
吾子って誰?
頭を動かして見上げようとすると、頭頂部がグリグリと押される。吐息が髪の中に広がってこしょぐったい。まるで、日向に干した洗濯物の匂いを嗅ぐような仕草。
「『吾の子だ。何故か……何度生まれても、何度生まれ変わっても、家族と最後まで暮らせぬのだ。幼い時分で、別れてしまうのだよ。何故であろうな……吾とも、まだ若い時分に別れてしもうた』」
「ソンツェ、様? 」
ちょっと待て。吾子ってのは、聖下の子ども? いや、違う。今喋ってるのは『ソンツェ様』だから、えーと、ソンツェ様の子ども、の、はず。ハルキ様に御子がいたら、エライ事だ。だから、ソンツェ様の御子の話なのか?
「『童は姉と弟がおるのだな。そうか、安心した。大事にせねばならぬぞ』」
「はい! 姉様も弟も、大切にします! 」
「『そなたは、大事な器。器が美しく光れば、吾子も喜ぶ。その魂を、決して汚すことなきように』」
「はい! 一生懸命に努めます! 」
「『よい返事だ』」
髪の毛が撫でられ、また吐息を感じてくすぐったい。でも、撫でられるままに任せた。何だか、嫌なことがあったら、姉様と洗いたての羊を撫でてたのを思い出す。どこか、お日様と草の薫りがするような、暖かな感触が心地好くて。
だから、きっとソンツェ様も、寂しいのかな。嫌なこと、あったのかな。僕の頭を撫でて、顔を埋めて、何かを思い出してるのかな。
身を任せ、体を温かな後ろへもたれ掛かる。聖下の体の中の人は、多分、悪い人じゃないと思うから。
それからどれくらい過ぎただろう。とびきり大きな溜息をゆっくりと吐き出した。
「『何だか心地好すぎだ。とても、とても眠くて堪らぬわ』」
ちょっと待て。足下絶壁の状況でそれは不味い。ギョッと身を固くした俺を、ソンツェ様は一際強く抱き締める。
「『ここのところ働きすぎた……童、吾は暫く表へ出てこれぬが、心を強く持てよ……吾子を支えよ……吾子にも、そう伝えよ……』」
「ソンツェ様? 寝るなら、その、寝台へ行きましょう! ここはマズイですっ 」
「『……童……名を聞いてなかったな……吾子の美しい器よ……名を何という……』」
「起きて下さい、ソンツェ様、寝ないで下さいー! 落ちるー!」
「『……童……名を何と申すのだ……』」
「ヴィ、ヴィグと、ホラン・ヴィグ・オユンと申しますっ!」
自分の名前を絶叫した途端に、耳元で小さくソンツェ様が笑った。嬉しそうに笑い声をこぼし、一際強く抱き締められた。息が、止まるほどに強く。
「『……あぁ……そなたオユンか……よく頑張った……よく、生きてここまで来た……』」
その言葉が耳を震わした瞬間に、体と頭に雷が落ちた。自分の奥底に密かに存在するモノが、歓喜に激しく震える。熱い感情の塊が込み上げる。ずっと、ずっと待ってた。その言葉を、その声を、この温かさを。
「『ヴィグ、よき名だ……』」
訳の分からないまま、抱き締められたまま、ゆらりと体が傾いていく。聖下の体を支えきれないままに、バルコニーから倒れていく。聖下となら、落ちても構わない。刹那に沸き上がった衝動に任せて、胸の前の腕を強く掴んだ。
「馬っ鹿野郎! あぶねーだろうが!」
宙に投げ出された足下から、金色の毛玉が飛び出して体当たりされる。下から巻き上がる風と共に体を引っ張りあげられ、バルコニーに落ちた。ぶつけた腕の痛みに助かったことを知り、止まらない涙が頬を流れ落ちる感触に戸惑い、動けない。
「大丈夫か? 泣いてるのか? どっかケガしたか? 」
「ヴィグ、ヴィグ、大丈夫かい?! 」
金色の獣が宙から飛び降りて、僕の頬をベロンと舐めてた。その緑の瞳の獣を思い出す。最終選抜の時に襲いかかってきた獣だ。ああ、この獣は聖下の星獣だったんだ。
ようやく気付いた。でも、それ以上は今は考えられなくて。ただ金色の美しい毛に包まれた獣に手を伸ばして、掻き抱いた。
「ヴィグ、怪我はない? 」
「ハル、ハルキ様? 」
「うん、もう大丈夫。ハルキに戻ったよ。心配かけたね」
青い瞳がニッコリと笑い、目元にいつもの笑い皴がうっすら線をひく。口元に小さくエクボが出来る。
間違いなく、毎日見てきた聖下だ。間違いなく、ハルキ様のほうだ。
訳がわからず、ただただ涙が溢れるばかり。金色の星獣を抱いて、ハルキ様に頭を撫でられて、何度も頷く。
「さて、ここから忙しくなるよ。ヨハン、ミンツゥ達を呼んでくれ。サンギ達も」
バタバタと慌ただしく駆けてきた足音に、声をかけられる。そのハルキ様のいつもの仕草に、ヨハンさん達が安堵した顔で走り出す。
ポンポンと頭を撫でられて顔を上げると、空から伝書鷹が舞い降りてきた。
「どうやら、あっちは寝てる間のことは知らないらしい。ようやく勝機がきたんだ。絶対に何とかしてやる」
次回 10月20日 水曜日 更新予定です。