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見下ろすループは青  作者: 木村薫
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ヴィグの近習見習い日誌 4



 板の間の大勢が見守る中、工房の者達による作業は続けられる。朝餉の匂いの中に墨や蝋の匂いが漂い出して、もう箸を持っているものはいない。前列の者は身をのりだし、後列の若衆は背伸びをしたり、隙間から顔を争うように押し出したり、幼子が辻芸人を見るかのようにしている。幸いにも、聖下達の座近くに控えた俺は、作業の様子を逐一観察することが出来た。

 目の細かい薄布に蝋を縫ったモノに、ペンのような棒で蝋の層を引っ掻いて線を書き、上から粘度のある墨を薄く塗り、蝋を引っ掻いて書いた線を下に置いた紙に墨を写していく。

 その仕組みは、墨を弾く蝋の性質を使ったもので、知ってしまえば何てことない。でも、これを思い付くには、どんな賢さが要るのだろう。細かな試行錯誤をどれだけ繰り返したんだろう。

 途方もない手間と時間にクラクラする。


 「と、まあ、とりあえず試作品として献上出来るものがこちらです!」

 

 誇らしげにまだ墨が乾いてない紙を掲げると、どよめきが広がった。その間にも工房の人達は次々と紙に墨を写していく。手書きよりも早く、全く同じ紙面が途切れることなく出来上がる様に、出来上がる紙を引ったくるように手が伸びている。

 工房の者で一番偉いのだろう、小岩桜のつけ襟をしたおじさんが、恭しく上座の聖下へ進み出て印刷したばかりの紙を差し出した。

 まずはと、リンパ様が受け取ろうとしたのを、聖下は手をあげる動作で止めた。騒がしかった板の間が一瞬で静まり返る。


 「俺のいい加減な説明で、よくここまで形に出来たね。凄いな、これは」

 

 自ら膝を進め、聖下本人が紙を受け取った。その仕草が流れるように自然で、当たり前のように流れた動作に目を見張る。クマリより小さな青の民の族長でさえ、献上されたものを長が直接受け取ることは絶対にない。そういうものだと、当たり前のように思ってたことが目の前で今、崩れていく。

 下座の者から物を直接物を受け取り、直接言葉をかけていく。奥宮で接する僕達と、何ら変わらない普段と同じ動作。いいのかな……そう心配になって周りの大人を見ると、二分されていた。聖下のざっくばらんな仕草に心配してソワソワしてる人と、にこやかに微笑みながら見守る人。どちらがいいのか判断しかねるが、聖下の先生であるリュウ大師はにこやかに微笑んで「まずは下の者に受け取らせなさい。そういうものです」と注進をしている。

 

 「まぁ、小言はここまでや。うん、見事なもんやな。手で書くよりずっと早いわ」

 

 大師のふさふさの顎髭を撫でながらの感嘆に、聖下は頷く。「自分の発明でもないし、自分が作った訳でもないんですが、そこまで感心されると嬉しいですね」と笑顔で大師に話しかけた。誇らしげに大師と話す聖下に、工房の人達も嬉しそうだ。ボサボサ髷のあいつも、手を止めて上座の和やかな様子を見ている。

 

 「さて、聖下はこれをどないするんですかな」

 「それなんですが、まずは皆に宿題を出そうと思ってます」


 笑顔で聖下がいい放った。


 「この新しい印刷技術で起こり得る弊害を思いつくだけ考えてほしい」

 

 にこやかに、朗らかに、楽しげに。

 聞き間違いだろうか。「弊害」じゃなくて「改革」とか「進歩」とか、何かそういう良い事じゃないのか? 新しい印刷技術で、何か不都合が起こることなんかある?

 板の間がざわめき、戸惑い顔を見合わせる大人達。想像してた言葉が送られず、工房の人達も固まってしまった。


 「あぁ、誤解しないで。ガリ版印刷を造ってくれた工房の皆には感謝してる。もちろん、大変な労力をかけてくれたことも分かっている。この技術を使えば、今まで以上に事務仕事が進むのは間違いない。けどね」


 立ち上がり聖下が上座から降りられた。あわてて俺とヨハンさんが反射的にそっと下座から側へと膝で進み出た。何か目的があるか分からないけど、お側に従っておかないと。何事か起こった時に盾にならないと! 

 そんな僕達二人に気づいた聖下が、笑顔を俺達二人に向けた。こっちを見ないで欲しい。僕達侍従は空気のつもりなのに。でも、聖下はそういう気遣いは通用しない。


 「ヨハンとヴィグは、どう思う?」

 「と、言いますと?」

 「この新しいガリ版印刷で、何が起こると思う? 」

 「便利になりますわな。祐筆が何人も会議に張り付かんでも、配布する文章が出来上がるんやから」

 「そうだね。写し間違いもなくなる。便利になるのは当たり前。でも、それで何が起きる?」


 疑問が再び繰り返される。ヨハンさんは「次はお前」とばかりに紫の瞳をちらりと動かして俺を見た。聖下もニコニコと俺を見ている。

 求められる答えが分からない。板の間中の視線が突き刺さる痛みに耐えかねて、呻くように言葉を紡ぐ。


 「えーっと、皆、この印刷技術を欲しがりますよね? 省庁が使って噂になれば、街の商売人も欲しいですよね? 祭文とか、その、黄絵?、とか……人々が欲しがるものを、いっぱい印刷していっぱい売ったりする人が出ますよね? だから、えーと、その」 

 

 ぼんやりと浮かぶ考えを、言葉にしていく。正解がわからないまま、紡いでいく。


 「たくさん印刷するから紙の値段が高くなる、とか」


 沈黙。そして失笑。小さな笑い声と話し声が、一つ一つは小さく雑然とした音なのに、突き刺さるモノが鋭く急所を抉る。そして何も考えられなくなる。ただ、小さな笑い声なのに。なのにこんなに苦しくなる。小さくひれ伏し、揃えた指先が震える。駄目だ、落ち着け。耳元の飾りがチリチリと音を立てる。震えるな、自分。姉様、どうしよう、姉様……。


 「『流石、吾子が一等目をかける童」』


 床に揃えた指先がひんやりと冷たくなった。指先の床板が白く染まっていく。ゆっくりと広がる白い染みは、黴のよう。でも、冷たい。何だこれ。思わず伏したまま目線を上げて、固まる。

 床板に霜が降りている。

 聖下の足元を中心に、霜が床板を覆い広がってく。まるで雪山のような冷気が聖下の周りから吹き出してる。


 「『それを自らの意見も言えない者共が、笑うとはの。これこそ笑止千万』」 


 良く通る軽やかな声。でも、いつもの聖下の喋り方じゃない。冷たい風はますます冷たく、強く吹き出す。板の間に印刷したばかりの紙が舞い踊る。まるで冬の高原のよう。


 「失礼致しました。この不始末、私につけさせてもらえませんか?」

 「『どうするのだ、次代』」


 紙が舞う中、誰もが固まってしまった中で、突如ミンツゥ様の言葉だけが風の中を通り抜けた。


 「まずは、序列というものを躾直します」

 「『ふふふ』」


 上座の脇に見えるミンツゥ様は伏したまま、でも顔を上げて青い瞳で睨み付けるように、冷風の中心で立つ聖下を真っ直ぐに見据えていた。この広間にいる大人よりも、武人よりも、強く猛々しく向かい合う。


 「『まぁ、序列が乱れたのは、吾子のせいでもあるからの。吾子は身の差に馴れてない故に、こういう問題が起こることは時間の問題だったか。ふん』」


 吹き荒れる風は弱まり、広がる霜が止まる。バサバサと紙が落ちてくる音。ざわめき始める板の間。


 「どうか、私にお任せくださいませんか。聖下におかれましては、暫し休息をとられては如何でしょう」

 「『そうだな。左様にせい。では吾は暫し席を外すとするか』」

 「畏まりました」


 ミンツゥ様と話ながら、何故か聖下は伏した僕を立たせて、肩に担いで歩き出す。鼻唄を唄いどして、いつの間にかご機嫌になってる。

 ちょっと待て! 席を外すって、僕を連れてどっか行くの?!

 

 「あ、あの、この後は来客との面談のご予定がありますが」

 「『童が気にすることはない』」

 「い、いえ、その、そうではなく!」

 

 聖下がどっか行ったら、殿中の予定がみんな狂ってしまう。どうしよう、聖下が予定から逃げる前に何とか止めなくちゃ。分かっていても、担がれた自分が暴れる訳にもいかないし。助けを求めようと周りを見下ろせば、唖然と事態を見守る各省庁の大人達は口を開けたまま。こうなれば最後の頼みの綱、ミンツゥ様! リュウ大師!

 

 「後はお任せ下さい」

 「予定は如何様にもなります。聖下のお気のままに」

 「『ふん』」

 「えーー?!」

 

 伏して聖下を送り出し、肩に担がれた俺と目があった途端、リュウ大師は、僕に手を合わせた。ミンツゥ様は、満面の笑顔。

 がんばれ。声に出さず、そう言った。間違いなく、二人ともそう言ったぞ! ミンツゥ様のその胸の前で握られた拳はどういう意味!?

 何が、何がどうなってるの?! 何を頑張れっていうの?! 誰か、とりあえず、何か助けて!

 次回 10月13日 水曜日 更新予定です。


 補足

 作中に「黄紙」とありますが、ズバリ「エロ絵」。春画というやつです。やっぱりね、新しい文化が生まれる時に必要な力って、下半身の欲望だと思うんですよねー。ネットやゲームの黎明期をリアルタイムで見た方は、解ってくれると信じてます(笑)。

 黄紙、という名称にしたのは、単にエロは色で表すもんだろうという、軽い考えです。作中で売春宿を描いた時に「赤い腰布を軒先に下げて」とか感じで表現したので、「赤紙」かなとも思ったんですが、それだと別のモノを連想するので、無難に黄色を選択した次第。深い意味はありません。

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