番外編 春陽は遥か遠く、そして近く 2
目の前で名乗った貴婦人の言葉が頭の中で響く。でも理解が出来ない。
皇后って、皇帝の奥さんで。皇帝は朱雀家だったはず。十年前のクマリ侵攻は朱雀家が主導してたはずで。
「混乱しておるな。まぁ、いい。英鳳様、こちらが今生のダショー聖下であらせられます」
「お会いできて光栄です。本来なら私から出向くのが筋。ご足労を願い申し訳ありませぬ」
「あ、いえ、あぁ……はじめまして。『関口晴貴』です。ハルキと呼んでください」
口元にニヤニヤ笑いを残した黒雲が丁寧な手つきで、数個の茶菓子を取り分けてくれた。どれも一流の職人が丹精込めて創ったのだろう。羽根を広げる鳥の細工が施された小さな饅頭から、甘い湯気が立ち上っている。
「で、吾はここでは玄恒と名乗っておる。黒雲でも御前でも、何でもよいが。まぁ、取りあえず何か食べながら話そうか」
「また玄恒は名を変えてあちらこちら、行っているのですね」
「吾ら帝国は広大ですから。自らの目で陛下の威光が領土の隅々まで行き届いているか確かめるのが、臣下となる吾の務めの1つ」
「もう……玄恒は口ばかり達者なのだから。聖下、玄恒の非礼どうかお許しを」
流れるように喋る黒雲の様子に、唖然としてしまう。こんなに喋るタイプではなかった。まるで道化の役。
「遠慮するな。朝食替わりだ」と勧められるまま饅頭を頬張ると、甘い餡が口いっぱいに広がる。
こうなると、止まらなくなってしまう。急な冷えで縮こまっていた体が、熱と糖分を求めていく。
貴婦人を前にして行儀悪いのを自覚しながら、遠慮なく食べ進める。蒸したての饅頭から、点心のようなモノ。どれも美味い。
「玄恒……聖下の前では黒雲と名乗っていますが、幼名なのです。私と玄恒は幼馴染ゆえ」
「英鳳様は、玄武家遠戚の出身。その繋がりで宮中に入られたのだ。婚姻の際に名を朱雀風に改名されているが、元は先先代の当主の叔父に当たる武人から流れた家の出身。遠戚とはいえ、気の合う唯一の幼馴染なのだ」
「屋敷の中庭で遊んだ時が懐かしいわ。ほら、池の鯉を釣って怒られた事とか」
「下人達が飼っていた鶏を玩具の弓矢で追いかけまわした事もあったなぁ。あれは酷く怒られた」
「今思えば、無茶をしていたものです」
「優しげな顔をして言うがな、「やれ」と命じたのは英鳳だ」
「将来の将軍殿下に、鶏を射させましたね」
「おう、将来の皇后陛下に命じられれば、致し方なきこと」
思い出話が流れるように出てくる。そうして、黒雲の顔が柔らかく微笑んでいる事に気づく。愛おしそうに、英鳳を見つめている。饅頭を齧りながら、その横顔を眺めていて気づく。
黒雲がここに俺を連れてきた訳を。
新生クマリの勢いと反対な、内乱が絶えない後李帝国。農民たちの乱が各地で頻発しているという情報は俺にも上がっている。不安分子を突いて内政を傾けようかという策略をしなくても、俺の目には後李帝国は傾きつつある。その中で微笑む、黒雲の幼馴染。皇帝の后であり人妻であるけれど、黒雲が抱える胸の中の想いは違うのだろう、多分。
傾国の渦中で咲く美しい英鳳を、黒雲は守りたいのだ。それが多くのものを裏切る事になろうとも。
それだけ、英鳳を好いているのだろう。ひょっとしたら、好く以上の感情を持っているのかもしれない。
そうなれば、黒雲がここに連れてきた訳が分かる。彼女と会わせた訳も分かる。
「ハルキ様は異世界の出身と聞きました。異世界とはどんな場所なのでしょう? 玄恒から身分のない世界だと聞きましたが」
「……あぁ、いえ、確かにこちらのような明確にされた身分はありませんが」
不意に声を掛けられて、目の前の彼等に意識を戻した瞬間だった。
眩暈のように視界が歪み、その間に炎が見えた。
見覚えのある、石畳の中庭。四角く縁どられた空に向かって伸びる柳の大木が揺れている。巻き上がる熱風と火花に枝を揺らして、赤く照らされて。その奥の建物から、火柱が飛び出る。一羽の雀が飛び立つ。
空へ舞う火花と、銀色の羽毛。
瞬く間に流れた幻と、目の前で微笑む英鳳がいる現実との落差に固まる。
今のは、以前にも見たことがある。
「どうした? 」
「いや……ここに、柳はあるか? 」
「柳? 日陰が少ない柳は夏の宮にはないぞ」
「玄恒……違います。聖下は春陽の後宮を見られたのです。燃える柳を見られたのでしょう」
「英鳳? 」
断言した英鳳の言葉に、黒雲の顔が強張る。
「後宮の、東の中庭にある柳の大木ですよ。あの下で楽しむ茶ほど、心休まる時はないのに……皮肉なものです」
「英鳳」
「陛下は、英鳳様は……見えるのですね」
「吾が李薗の血は、遡れば初代エアシュティマスの長女リ。厄介な先見の力だけですが、受け継いだようです」
紅の唇を僅かに歪ませて笑う英鳳に、黒雲が深く息を吐き出した。
俺と英鳳は、同じ映像を見たようだ。
後李の宮殿が炎に包まれると、英鳳がはっきりと認めた。あの映像は、後李のモノ。終末へ向かう火の映像。
という事は、いつか自分の国が傾きつつある気配を感じながら、宮殿が燃える映像を見ている事になる。
これほど辛い事はないだろう。
「朱雀は先の王朝から能力は皆無。白虎家と青龍家がない今、玄武家のみ血を継いでいる。その能力も近縁者に限られて、すっかり弱くなっている。それどころか、玄武には宮中での勢力は皆無に等しい。もう、太極殿に警告を出すこともままならぬ……誰も、信じぬだろう」
「じゃあ」
「吾と玄恒しか、この事を知りませぬ」
英鳳が言い切り、目を伏せる。長い睫に隠れた瞳が、一瞬青色を帯びて光ったのは気のせいか。
カラクリという近代化をひた進む巨大な帝国の下、共生者は虐げられている。最高位にいる英鳳が先見をしても、それは極秘扱いだろう。権力の近くに、国威を否定する力があってはいけないのだから。そして、その能力から出る警告を信じる者も少ないのは想像に難しくない。
身内で数少ない能力者同士、二人の中で傾国を憂いている。
「ハルキ……英鳳が見る未来は、本当か? 変える事は出来ぬか」
「黒雲」
「そなた、長く生きているのであろう? ならば、何か手を知らぬか? どうにかする手立てがないものか、未来を変える手立てはないのか? どんな手段でもよい、何かないのか」
いつだって強気な黒雲に、縋るように見つめられて。
豪奢な彫りが施されたテーブルの上で握り拳が震えている。その拳を包められる言葉も手段も判らない。
手の中の茶碗から立ち上がる湯気を追いながら、ふと思い出す。
未来を変えたい。そう思った大昔が自分にもあった。そうもがいた過去世の自分を思い出す。
「ハルキ、何か」
「……っ。……っ」
部屋の奥から何か揉める物音がしたと同時だった。誰も開ける事を禁じられた扉が勢いよく開けられて、小さな人影が走ってくる。
「叔父上! 」
影がまっすぐ玄恒と英鳳の間に走り込み、立ち止まる。
黒い服を着た玄恒と対比するように、鮮やかな朱色の服を着た子ども。
漆黒の髪は、この世界の男子のように髷を結い上げられている。桃色の唇から飛び出す歯切れ良い言葉。明らかに部外者である俺に気づいて、切れ長の目尻をきりりと上げて睨んでくる。青い目に気づいたのだろう、動揺したように僅かだけ視線が泳いだが、それでもまっすぐに射すくめてくる。
「申し訳ございません! お止したのですが……その」
「構わぬ。扉を締めよ」
英鳳の言葉と共に扉が閉まる音を聞く。そして、改めて目の前の子どもを見る。
雄弁な茶色の瞳が「誰だ」と語っていた。英鳳譲りの美形だ。
「何者だ」
博多人形のような滑らかな頬を怒りで薄紅色に染める。
気の強そうな様子は、まだ見ぬ皇帝譲りなのだろう。穏やかに微笑む英鳳と対比する、炎のような雰囲気を纏っている。が、陰の中から囁くシンハの笑い声に目を見開く。
『おぅ、こりゃ珍しいな。ハルキ、この子ども、女だぞ』
次話は明日 12日金曜日に更新予定です。