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見下ろすループは青  作者: 木村薫
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番外編 春陽は遥か遠く、そして近く

 肌にまといつくような風が恋しく思っている自分に気づく。いつの間にか海辺が自分にとって心地よいと感じる場所の1つになっていたらしい。

 僅かに緑と土のニオイを連れた乾燥した風が下から吹き上がっていく。クマリ沖から来たから夏の薄い生地を風がすり抜ける。慌てて懐から布を取り出して首元に巻きつけた。


 「随分とこっちは涼しいね」

 「あと一月もすれば紅葉で燃えるような光景になる」

 「その時来れたらよかったなぁ。絶景じゃん、間違いなく」


 水墨画の中に入り込んだような世界。静かな川面から聳え立つ岩の塔。石灰岩が浸食されて作り出された絶景に見とれる。所々の絶壁の岩肌にしがみつく様に生えている松の枝に、仙人が枝垂れかかって霞を食べていても不思議じゃない。その下の水面を、禄山が漕ぐ小舟が滑るように進んでいく。

 

 「寒くなる前に春陽にお帰りになる予定故、仕方ない。それより急な知らせで来てもらったが、大丈夫か?」

 「一日ぐらい、どうってことないさ。むしろ一人でって言う条件が大変だったよ」

 

 黒雲が肩を揺らして笑う。おそらく、出発前の様子を想像したのだろう。サンギの渋顔。リンパやテンジン達の反対の怒号。ミンツゥの「一緒に行きたい」と駄々をこねる声。いやもう、その通り。

 クマリ復興の最中に、十年来の仇である後李帝国に一人で行くとの要求は無茶苦茶だ。分かっていたけど、これは黒雲からの招待だ。そうでなかったらサンギの承諾は得られなかっただろう。

 クマリ復興を宣言した冬至祭の直前に黒雲が「会わせたい人」に会うために、夜明け前に神苑の泉に飛び込んでやってきた。源流から河を下り黒雲達と合流したのが日の出前。そこから人目を避けるように移動してやってきた。随分と手の込んだ手順に、今から会う人が後李の重要人物だという予想は容易に出来る。


 「ここから先は太極殿に登る者だけが出入り出来る、宮中と同じと考えてもらっていい」

 「太極殿……宮殿か? 」

 「太極殿は政治と祭事を行う場所だ。まぁ、ここは宮殿とでも思っていてくれれば良い。皇族の私的な場所だ。申し訳ないが、そこへダショーと身が割れるのはまずい。今日は流しの楽師という事で通してくれ」

 「そりゃそうだ。いいよ。流しの楽師なら経験してるしさ」

 「そなた、許容範囲が広すぎる……まぁ、助かるが」


 頷く黒雲の横顔は凛々しい。それはクマリの浜で見てた服より豪勢だから、というだけではないだろう。黒地に銀糸を贅沢に使って刺繍された蛇と亀の紋章が光るから、か。光沢のある布が風を含んで大きくはためく姿だけ、か。豪奢な服装すら気負いなく自然体で着こなしている様子が、庶民で育った俺にそう思わせる説得力を持っているのだろう。常に身にまとっている根拠なき威厳は、些細なことから積み重ねられたに違いない。


 「春陽は帝国の中央を流れる緑河のほとりにある。冬も凍らない吉兆な土地だが、夏は蒸し暑い。その為に皇族が一時の涼を求めこの高地に建てたのが、これから行く夏の宮だ」

 「つまり『別荘かぁ……スケールでかすぎ』」


 思わず日本語で呟くと、黒雲は鷹のような目を瞬かせて少し困ったように笑った。

 

 「何? 」

 「その訳の分からぬ言葉を聞くと、そなたが本当にダショーだと思い出して吾はどうしたらよいか分からなくなるのだ」

 「そんなん思い出さなくてもいいよ」

 「いや、常に心に留めておかねばならぬ事だろう……あぁ、見えてきた。あれが夏の宮よ」


 まるで誤魔化すかのように、風で動いていく霧の向こうを指差す。薄いベールがめくれるように、朝日に光る緑の瓦と朱に塗られた可憐な建物が表れていく。

 そびえる岩肌に幾つもの建物が埋め込まれたように、張り付くように建てられていた。静かな川面に映る贅を尽くした建物。桃源郷だ。






唯一の持ち物である三線を背中から降ろし、弦を張りなおしていく。爪弾き音を確かめながら、眼下の絶景を見渡して。

 陸上の竜宮城のようだ。岩肌に張り付いて茂る木々が、深い緑の葉を風に揺らす。どこからか水鳥の声も聞こえるほど静かだ。

 この建物にいる人も限られているのだろう。最上階のこの部屋に案内されるまで、数えるほどの女官しか見なかった。この建物がある岩山自体、まわりの奇岩よりは大きいにしても、大きさに限りがある。

 警護の兵は下層の船着き場周辺しかいなかった。まさにお忍びで過ごす別荘という趣きだ。


 「大宮様のお越しまで間がある。何か弾かれるとよい」

 「……何か弾いた方がいいですか? 」


 開け放たれたテラスで茶器の準備をする女官の一人に「何か弾け」と言われて戸惑う。言われてから、今日は黒雲の連れてきた演奏者と偽って来た事を思い出す。隙なく化粧をした女性が睨みつけてくる視線が完全に疑いの眼差しだ。

 俺はただの楽師、流れの楽師。


 「いえ、どのような曲を好まれるでしょうか。即興など好まれますか? 」

 「そうさな……大宮様は穏やかな曲を望まれる事が多い」

 「では、そのように」

 

 笑ってバララン……と弦をつま弾くと満足そうに頷き、まだ作業をしている若い女官に「花器の置き場が悪い」「湯はお見えになってからじゃ」「香炉はまだか」と煩く歩き出す。

 異世界にもお局様はいるんだなぁ。ふと、学校の用務員さんを思い出して、弓に脂を塗りながら決める。

 ここは「椰子の実」にしよう。海辺ではないけれど、この雄大な光景の前に相応しい。

 テラスの端で弓を弾く。響く音は果てしなく広がる。明るい旋律の中に見え隠れする哀しさと寂しさ。問いかけるような音。はぐらかして答えを彼方に投げるような音。

 流れ流れて、異世界に来た自分にどこか重なる。何処へ行く。何処へ行く、と。

 最後の一音を広がらせて残響を楽しみながら視線を上げて、気づく。

 誰もいなかったテーブルの奥に、女性が座っていた。

 艶やかな髪は結い上げられ、金や赤サンゴで細工された簪が差されている。襟元にも刺繍が施された紅を基調とした豪奢な服。金糸で炎を纏う鳥の図柄を描いている。鮮やかな紅が引かれた口元だが、この女性が持つ独特の穏やかな雰囲気からだろう、身に付ける衣装も施された化粧も華やかであるが優しげな印象になっている。

 その横に座る黒い服を着た男と視線が合い、思わず弓を落としそうになる。

 黒雲だ。先ほどの衣装より袖も大きく装飾が大きな衣装。雛人形のお内裏様のような冠まで付けている。


 「見事な演奏ね。これは異国の曲かしら……玄恒の言っていた通り、良い音です」

 「英鳳からお褒めの言葉が聞けただけでも、夏の宮まで出た甲斐があります」

 「また玄恒は大袈裟な事を言う」


 白い指先を覗かせて、袖で口元を隠して小さく笑う夫人。異世界育ちの俺でさえ、目の前の女性の地位が高いのが予想できる。

 これはどういう事だ。

 指先だけで適当に旋律を流して動揺を誤魔化していく。幾人もいた女官が果物や茶器をセットし終わると、女性が軽く手を挙げた。

 

 「しかし……」

 「もうじき春陽に帰るのよ。今しばらく、楽を楽しませておくれ。ね? 」


 明らかに主人の女性からお願いされた形の女官のお局様は「茶の時間だけですよ」と念押しして、全ての女官達を連れて部屋を出ていく。

 軽くテニスは出来そうな大きな部屋から人が消え、テラスにいる俺達三人だけとなる。


 「不快な思いをさせてしまいすまない。紹介をさせてくれ」

 「もう、大丈夫か? 」

 「上を見てみよ」


 黒雲の言葉に視線を動かせば、綺麗な青空が広がっている。


 「ここは最上階だ。しかも絶壁で各階層でずらしてテラスを造っている。誰にも聞かれる恐れはない」

 

 手慣れた様子で茶器に湯を注ぎ揺らしていく。立ち上る湯気に、苦味と奥深い芳醇さを漂わせて小さな湯呑に深緑色の茶を注いだ。

 嗅ぎなれない豊かな香りに手招きされるまま、示された向かいの席に座る。


 「紹介する。こちらが吾ら後李帝国皇后陛下、英鳳様だ」

 「先程からの失礼、真に申し訳ありませぬ。朱雀家の大宮、英鳳と申します」


 揺れる簪の飾りが、まばゆいほどに煌めく。目の前で微かに頭を垂れる動作が、スローモーションのように流れていく。今言われた言葉が、頭に入ってこない。皇后、といったか? 朱雀家と言ったか?


 


 


 

 

 

 

 

次回は 明日 11日に更新予定です。

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