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見下ろすループは青  作者: 木村薫
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 109 福音 

 不安げに袖を摘まむミンツゥに気づいて、微笑み返す。

 栗色の髪を撫でて、そっと手を繋いだ。


 「ミンツゥは、十年前の事は知らないね」

 「うん。でも、話は聞いてるよ」

 

 話す事も憚れる雰囲気に、周りの浄衣を着た男女に頷くと視線を落とした。

 誰も思い出したくないだろう。あの時に、運命が大きく変わっただろう。戻りたくても戻れず、何も知らずに生きてきた事を知ったんだろう。それは、俺も同じだ。いや、俺はこの光景を500年前に知っていた。それなのに防げなかった分、罪は重い。


 「この地に住んでいた者も、いるだろう。まだ生まれてなかった者も、遠い祖先の場所だという者も、まったく関係がなく成り行きでここにいる者も」


 ヨハンとハンナに視線が集まり、俺が小さく笑いかけると皆が少しだけ強張った顔を緩めた。つい半日前まで深淵の巫女だったハンナにとって、怒涛の一日だ。この兄妹は一目を引く容貌からか、その事を知っているのだろう。子ども達もハンナに近づき、ハンナも微笑んで差し出された手を繋ぐ。

 

 「ここから始まるのを、どうか見届けて欲しい。憶えておいてほしい。クマリの大地は、もう一度蘇る。この時を縁あって集まった貴方達に、立ち会ってもらいたい」

 

 これから為そうという事は、途方もない事。

 焼き尽くされ、塩を撒かれた大地を蘇らせる。精霊すらいない穢された大地を、冬至の太陽と共に蘇らせる。

 その為に必要なことを、これから為そう。俺が、そう思う全てを。心を込めて尽くそう。

 ミンツゥの小さな手を繋いだまま、夜空を見上げる。

 今日も煌めく星の下を、灰色の雲が流れていく。その向こうに広がる底なしの闇。無限に深く広がる時間と空間の気配を感じて、深呼吸をした。

 足元のシンハが、萌黄の袴に身を寄せた。

 何も怖くない。怖いのは、自分の中の戸惑いと欲望。

 為すべきことを全霊、為せばいい。

 そう心が研ぎ澄まして、旋律が浮かぶ。浮かぶままに声に出して震えていく。


 「 静聴せよ 星の囁く声を 母なる大地が呟く声を 耳を傾け静聴せよ 」

 

 小さな響きが、夜気を震わす。闇に消えていかずに、遠くまで風が飛ばしていく。風の精霊達が飛ばしていく。

 広がれ。響け。この大地の底で蠢く怨念に届け。

 踏みしめた足を、さらに踏みしめようと足の指を広げて力を込めて。


 「 連なる山々よ 荒野よ 私はその一部となる 湧き上がる泉は私の涙 朝霧は私の夢 」


 意識が広がる。地の底から煮えたぎるマグマの熱さも、凍えるような大気圏の間の澄み切った感覚も、体の内面に共存していく。手を伸ばせば、届きそうな錯覚。

 美しい世界と、汚された大地。

 足に絡みつくように、地の底から呪詛を吐く棘が突き刺さっていく。

 大地を復活させるのに必要なのは、癒しだ。意志に反して命を断ち切られたモノへの、理解と諭し。認め、そうして指し示す。

 虹珠採掘場の怒り狂った精霊達を思い浮かべ意識した途端、鋭い痛みを感じて目を見開く。


 「ハルキ! 何か変! これ怖いよ! 」


 悲鳴を上げる子供達を女達が抱きしめ、素破達が声を掛け合い刀を抜き放つ。

 一瞬で異様な冷気が漂い、背筋に悪寒が走る。まだ姿すら現していない何かに、この場にいる全員が恐れおののいている。

 

 「ハルルン、こりゃ違うぞ!」

 「ミンツゥを守、れ……っ」


 シンハの緑色の瞳が、焦りの色に染まっていく。金色の毛が逆立ってミンツゥに寄り添う。 

 足を伝い背骨を駆け上がっていく激痛。悲鳴を寸前で止めて歯を食いしばる。気を失うな、正気を保て。唄を、この激痛の奥の感覚から旋律を探さないと!

 この恐怖が大地に染みついた怨み辛みだけじゃない。

 誰も供養出来なかった分だけ得体の分からないモノに変化しつつある。積み重なった汚泥の底に、かつてどんな木々が生えていたか分からないように、積もり積もった悪意と呪詛は、この地を底なし沼に変えていた。

 泥の底が分からなくても、これだけは分かる。これは、癒すことなど出来ない。理解など出来ない。共感など出来ない。

 圧倒的な、恐怖と悔しさ。真っ暗闇の絶望。吐き出した呪詛に固まった怨み。理不純な、やるせなさ、孤独。

 底なしの底に吸い込まれる感覚と痛みが際限なく続く感覚に、ミンツゥの手を放す。このままじゃ、得体の知れないモノを溢れ出してしまう。自分の体を通して、世界に具現化してしまう。

 ミンツゥの悲鳴が遠ざかる。視界が消えていく。音が、消えていく。

 体の奥底に隠した怨みも、憎しみも、貫く痛みが探し当てていく。そうして大きくなっていく。自分の中に巣食っていたエリドゥに対する怨みや、エアシュティマスに対する恐れが、増長される。無限に広がる、広がる、全ての感覚を喰らっていく。

 自分という意識すら、消えかけていく。

 この地に巣食う闇は、深い。人間の勝手な殺戮で、この地の歴史も文化も縁も全て消された。この地に関わる命の歴史が、途絶えさせられた。

 人間も、植物も、動物も、虫も。この地を耕して、根を張り、命の唄を唄い継いできたのに。見守ってきたというのに。

 全てを奪われ、拒絶され、否定され、そんな世界への闇の感情。

 駄目だ、このままでは駄目だ! 何かしなければ、何か!

 闇に喰われていく。そんな感覚の中で、知る限りの唄を唄い続ける。聴覚も視覚も薄らいでいく中、唄を唄い続ける。

 祓い、清め、磨き上げる唄。

 時間の感覚もなくなった中で、唄だけを唄い続ける。

 やがて喉の奥が熱くなる。体の奥から痺れるような疲れが湧き上がる。疲れは絶望を運んでくる。

 何一つ状況が変わらない事に、焦りが襲う。無力感に辺り一帯の雰囲気が変わっていく。

 取り囲んだ人々の焦りと諦めが、沈黙となって襲ってくる。

 誰だけの時間が流れたのか、それすら分からない。

 夜明けはまだなのか、まだ宵なのか。感覚がない今は、何も分からない。

 

 「……」


 ここまで唄っても駄目なのか。体が震える限り、大地へ祈りの唄を響かせたけれど、何も変わらない。出来得る限りを尽くした。これでも駄目か。

 不意に、視覚を失って見えないはずなのに、天を仰ぐ。 

 天命は? これ以上は、もう俺や精霊の範疇を越えているんだ。

 だから神様、もう貴方の意志に従います。

 これで駄目なら、クマリの大地に二度と人は立ち入らない。穢した人類は、もう二度とこの地を踏めない。でも、もし許されるのなら。もう一度機会を与えてくれるのなら。

 今度こそ生きるもの全てに恩恵が行き渡る世界を。続く限り恵み多き大地を保とう。

 頬に涙が流れた。

 どうか、全て貴方の意志に従います。

 灰色の雲の切れ間に一筋の光が差し込んだ、あの冬の光景が蘇る。神様に祈った、あの時が。

 天から差し込む光を当ててくださいと、願ったあの時が。光の中で歌うミルの姿を思い出す。

 消えたはずの音が蘇る。頭に響くのは、あの大聖堂で見た柔らかな光の唄。

 見えないはずの陽の光に手を宙へ伸ばす。

 いつだったか見た、青い星の声が聞こえる。見下ろした青い星の囁きが聞こえる。囁く声は唄となる。


 

 「あぁ」


 見開いた目から、涙が溢れ流れる。ぼやけた視界に光り輝く何かが揺れた。

 視覚を失ったはずなのに、空間に光が瞬き大きくなる。この光は、きっと神様だ。神と呼んでいる存在の何かだ。

 人智の及ばないこの絶望のどん底から見上げるものは、手を差し伸べるものは、言祝ぎ(ことほぎ)のみ。祝福を求めるだけだ。

 溢れる涙を拭くこともせず、伸ばした手の向こうを見つめる。体を貫く痛みが、大地を癒やそうなど傲慢な事を考えていた自分への懲罰のようだ。

 闇が消えていた。ただ、夜空に輝く星ではない光に腕を伸ばしている。

 見上げた空の光に向かって、問いかけた。

 恋しい、あの人が唄うべき唄を、俺が唄っていいですか?

 そう問いかけてから、音を紡ぐ。


 「 偉大な精霊達よ この至高の贈り物が大切な方に届きますよう祈ります あの方が立つ大地に光が届きますよう祈ります 」


 ミルが大聖堂で唄ってくれた、あの唄。空気に柔らかな光が煌めくような、あの優しい唄。

 きっと、あの唄は祝福の唄。喜びと幸運の祈りの唄。

 この大地に触れながら、大国と人の傲慢に振り回され苦しんだミルの内面から生まれた祈りの唄。

 この唄を捧げます。ミルの魂の祈りを、俺が唄おう。一音一音に心を籠めて一心に。

 生まれる光と音が、喜びとなりますように。


 「 願わくば 世界を巡る風の精霊達 この喜びを この幸せを 大地に生きる全て者達を 穏やかに吹き渡りますよう 全てに幸あれ 光あれ」


 まるで空から光が降ってくるようで。涙でぼやけた視界で光った何かが、キラキラと輝きながら降り注いでくる感覚に満たされていた。

 闇に喰われた体に、温かさを感じた。凍り固まった体が、陽だまりの光を浴びたように解れていく。

 これは恵み。輝く金銀の光が、雨のように降ってくる。喜び、慈しみ、温かさ。そんな心が光りながら舞い降りてきている。

 まるで天女が空を舞っているようだ。美しい天女が優美に袖を一振りするたびに、地上に落とされる光る宝のようだ。

 最後の音が、空気に溶けていく。辺り一帯に張りつめた異様な冷気も雰囲気も、消えていた。

 固まったままのミンツゥ達に、小さく微笑んで手を差し出した。


 「唄おう。みんなで」


 悲しみの後に訪れる、この至宝の雨を受けよう。そうして、この大地を濡らしていこう。涙と血で濡れた以上に、慈しみの雨に濡れていこう。この恵みを、体中で感じて感謝しよう。

 目を閉じれば、まだ聞こえる。まだ感じる。

 煌めきながら降り注ぐ慈雨の中、ミンツゥの小さな手を取る。


 「……姫宮様の、唄や」


 ハンナの呟きに微笑む。この唄は、ミルの唄。

 離れていても祖国を思う巫女の唄。俺は、また君に救われたんだね。

 ゆっくりと囁いた言葉は、広がっていく。唄う響きは、柔らかく温かく伝わっていく。手を繋ぎ輪になって、唄う声は広がっていく。

 最初の旋律に、女達が高音で華やかに声を添え、男達が低音で響きを増幅させる。そうして一層華やかになった唄に、素破達まで加わっていく。

 声は次第に、楽しげに広がる。この騒ぎが聞こえたのだろうか。次第に幕の外で聞こえる声は大きく膨らんでいった。

 空から本当に光の雨粒が降り注ぐような錯覚に、子供が笑い声をあげて飛び跳ねる。

 その心地よい声と振動に、地面から大地の精霊が顔を出す。冬眠明けのような、寝ぼけた顔で四股を踏んでいる。

 ミンツゥには見えるんだろう。青い瞳を輝かせている。


 「ハルキすごい! 見て! みんな踊ってる! 空から色々降ってくる! キラキラ光った宝石が降ってくる! 」

 

 夜空に輝く無数の星々が降り注ぐような光景に、俺も手を伸ばす。

 空へ、空へ。そうして伸ばした手は、唄と共に踊りとなる。慈雨に濡れて、足で大地を踏んで、光を受け止めるように踊る。

 盆踊りのような、フォークダンスのような。そんな俺の奇妙な踊りに皆が笑い、その笑いが新しい慈雨を呼ぶ。

 本物の雨が霧のように降ってきたが、濡れたままで踊り続ける。これすら甘露のようだ。

 

 

 


 

 

 

  


 



 

 

 

 

 次回 5日に更新予定です。

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