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見下ろすループは青  作者: 木村薫
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106 求める者

 清々しい朝日に満たされた大聖堂に、ミルの唄声が響き渡る。

 空気の粒子が煌めくように、全てが磨き上げられるような音の振るえ。驚きで固まった人々の顔が、穏やかな笑みになっていく。

 

 「 願わくは 世界を巡る風の精霊 この喜びを この幸せを 大地に生きる全てのものの上を 穏やかに吹き渡りますよう 全てに幸あれ 光あれ 」


 祝福の唄が、余韻を広げて消えていく。

 唄に織り込まれた喜びが、胸を焼き尽くしていた碧い焔を消していく。冷たい焔に代わって、暖かな陽だまりの温もりが満ち溢れる。

 そして、ようやく自分が何をしようと息を吸い込んだかに気づいた。

 エアシュティマスに流されるままに、俺は破壊を望んでいた。ミルがそこにいるのに。テンジンもヨハンも、その妹すらいるのに。

 喉から震え出る呻きに、手を当てて床に伏せた。

 このまま消えてしまいたい。自分は何をしているんだ。押しつぶされそうな自分の意識に、ミルの声が再び聞こえる。懐かしい日本語が、静かに響いた。


 「『そこ、いる? 』」


 まるで耳元で囁かれたような優しい響きに、顔を上げ這うように小窓へ身を傾けて覗き込む。

 何十メートルその下に、ミルは凛とした立ち姿で、まっすぐに宙を見据えていた。


 「ここにいるクマリの人々。 助けてくれる深淵の友人。今日この日に、一筋の光を精霊は現してくれました。クマリの光が差し込もうとしています」


 紡がれる言葉は、俺に対して。そして、この場にいる人々達に優しく語りかけていく。ミルの持つ優しさと強さが秘められた言葉。

 不意に、ミルの指先の冷たさが口を覆った手の平によみがえった。

 小さな柔らかな手に包み込まれたような。繋いだ、あの冬の日が蘇る。

 神様に祈ったあの日。灰色の雲の合間から零れる光に、小さな幸せを祈ったあの瞬間を思い出す。

 神様、もう少しだけ夢のようなこの瞬間を続けて下さい。


 「あの地で聞いた精霊の唄や天鼓の泉から鳴り響く脈動を忘れた日はありません。でも、私は、もう少しここにいます。私は見つけたのです。自分が何を成すべきか」


 すっぽり包んでしまえる小さな肩の大きさを思い出す。甘い香りがした髪の感触を思い出す。いつどこだって、まっすぐな背筋。生命力に満ち満ちた、青交じりの瞳を。

 小さくか細かったはずの少女は、前を見据え、堂々と宣言した。


 「あの時救えなかった人々の手を、放したくないのです。私の手を求めてくれる人々に答えたい。ここに流れ着いた人で、私を求めてくれるのなら、私は答え続けます。……『もすこし、がんばる、できう』」

 「やめい! 」

 「 『あなたが、ここ いる。おんなじ そら みてる。だいじょうぶ』」

 「やめろ! 侵入者だ! 衛兵! 」

 「ぅおおおお!! 」


 シンハの咆哮が若い男の叫びを遮る。そして俺も反射的に口笛を鋭く吹く。

 ここで兵隊なんか呼ばれる訳にはいかない。分子の超高速振動は一瞬の耳鳴りのように空気を一気に濃縮させる。

 大聖堂の人々が一斉に耳を抑えた瞬間、二人の人物だけだ周囲を見渡した。

 一人は、ミル。そして、藍色と紫の重そうな法衣を着た若い男。

 祭壇前の最前列中央にいるその男は、素早くミルに駆け寄っていく。

 俺のミルに何すんだ! 指一本触らせない!

 再び傍らにいるシンハが低く吠えて、俺は口笛を狙って吹く。

 燃えろ。燃やし尽くせ!

 祭壇に掛けられた布と、男の袖が燃え上がる。

 悲鳴と一緒に、シンハが巻き起こした一陣の疾風が天蓋周辺を吹き荒れる。まだ燃える布端がチリチリと赤く人々の上に飛び散らかり、パニックが同時多発に発生した。

 神聖なる場所は、一転して群衆の本能を表す舞台となる。

 炎を見て泣く人、逃げようとする人、逃げようとする人を押しとどめる人、止めた人を殴り、殴り返し、罵倒し、その他諸々。そして騒動を収めようと、神官が学僧が果敢にも群衆の中に飛び込んでいく。

 あちこちで将棋倒しのようなパニックが起こりかけている。

 その騒動のど真ん中、若い男は燃える自分の袖を引き千切るようにもみ消し、蹲る。そして、駆け寄る幾人かの人を制して周囲を見渡し、ゆっくりと見上げた。

 男は何故、大聖堂の上を見上げたのだろう。

 何十メートルと離れた中で、男の視線が俺を捉える。

 緑交じりの、青い瞳。精悍な口元が酷く歪み、ゆっくりと笑みを浮かべた。聖職者に似合わない、肉食獣の凄惨な笑み。

 この笑みをする男を知っている。青い蜘蛛の呪術で俺の魂を縛る、アイと同じ笑み。

 

 「……シンハ、シンハ! 」


 戻ってこい! ここに来い! 早くここに来てくれ!

 男が差し出した手から、青い蛍火の糸が伸びてくる。細く光る青い蜘蛛の糸だ。

 囚われる。絡み囚われる! 真っ白な頭でシンハだけ呼び続ける。

 

 「おおおおお! 」

  

 天井の窓にまで突風が吹き荒れ、咆哮が耳をつんざく。神官達が誰も止められずに遠巻きになる中、怒れる獅子は毛を逆立てて祭壇の上で祭具を踏み荒らす。さすがに神官達が動いたその瞬間、天使のような浄衣を纏ったミルが若い男に飛びかかる。シンハから庇うように差し出した華やかな大きな袖が大きく広がり男の視線を完全に遮った。

 人々はパニックに陥る寸前、逃げるどころか腰を抜かし気絶し、動けるものは床を泳ぐように這い蠢く。その中を、二つの人影が、一人の巫女を抱えて大聖堂を走り抜けていく。

 祭壇前の騒動を後目に、群衆の上をシンハが飛び上がった。つむじ風のように大聖堂の小窓から出ると、胸に飛び込んでくる。

 体当たりを受け止めて、そのまま首にしがみつくように宙へ駆け出す背に飛び乗った。

 

 「姫さん、元気だったぞ! 」

 「あぁ! 」

 「もう少しここで頑張るってさ! ちゃんと分かってるってさ! 」

 「あぁ! 」


 俺の言いたいことは伝わっている。

 クマリを復興させる事も。目の前の人を幸せにする事も。同じ時間を過ごしているから、同じ世界にいるから頑張れるという事も。

 大聖堂の群衆を相手に宣言したあの決意に、全てが伝わっている事を確信した。

 だから、俺は頑張れる。やれるだけのことを、尽くそう。

 陽が昇り、世界は明るく暖かな光に包まれている。その中を縦横無尽に飛び跳ねる。立ち並ぶ過剰装飾な塔の間をすり抜けて飛んでいく。


 「うひょひょひょ! すげぇ爆発してる! 」


 大神殿後方の幾つかの建物が立て続けに煙を出して崩れている。虹珠が解放されたのだろう。小さな竜巻が立ち上り、煉瓦や柱の欠片を巻き上げていく。

 飛ばされてきたシーツをよけて地面をみれば、三つの人影が川岸に向けて走っている。

 巫女が2人、巡礼者の外套を着た男が一人。テンジン達だ。

 テンジンの影から玉獣が飛び出して2人を乗せようとしている。


 「シンハ、あそこ! 」

 「しょうがねぇなぁ。おいらの背中はハルルン専用だけどな」

 「前ミンツゥ乗せてたじゃないか! 女の子ならいいだろ、ほら! 」


 屋根から飛び降り、風に任せるままにシンハの背から飛び降りる。ツバメのような地面に頬を擦る低空飛行で風に乗り、音なく三人の背後に追い付く。

 そのまま後ろから掬い上げるように巫女服の少女を持ち上げ、下を潜ったシンハが素早く背に乗せて浮かび上がる。風で乱れる金髪の奥から、小さな悲鳴が上がる。


 「兄さん! 」

 「娘、ちゃんとしがみついときな! ちょいと飛ぶぞ! 」

 「ハルキ様! 」

 「一気に逃げるぞ! ついてこい! 」


 疾走する風に口笛を乗せ、そのまま舞い上がる。耳元に風切の音が鳴り、朝日を受けて光る聖堂の塔が小さくなっていく。

 背の高い影は、もう見当たらない。あれは、この河が見せた幻と思っておこう。

 光る川面に、一隻の船が帆に風を受けて河を下っている。

 大きく手を振り甲板で飛び上がるラヴィを見て、ようやく笑みが出た。

 帰ってきた。そう実感して、子供のように手を振り返す。

 差し出した手は、思い出の中で父さんの親指を握っていた小さな白い手じゃない。

 陽に焼けて海水で荒れた男の手だ。この俺の手で、救えるものがあるのなら何度でも差し出そう。

 これから、この手を魔法の手にするんだ。優しさを宿した、父さんのような魔法の手に。



 

 


 

 

 

 次回 9月2日 火曜日に更新予定です。

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