102 潜入
ランプの明かりが届かない暗がりで、大師の外套のフードが落ちたのが僅かな影で分かった。
体中の血管がギュッと縮んだ感触。
このままばれるのか。
「あぁ、この爺さん達は」
「儂ぁ、神殿には入れんかのぉおお」
ラヴィの言葉に重なるように、悲壮な嗄れ声が悲鳴を上げる。
「儂ぁ、眼が潰れて足もあかんなってようやっとここまで来たんが、こんな儂ぁ神殿に上がれんかのぉおおお。冬至の明かりの聖水は効くぅ聞いて来たんが、こんな田舎の爺さんは綺麗な神殿上がるんは駄目かのぉおおお」
「じ、爺さん、なんだ、爺さん……」
「すいません、耳はいいんですが、足が悪うて痛うて聖水もらいに来たんですが」
「い、いや。駄目とは言うてないで。ただ、正門から」
「今日は人が多てかなわんよ。じゃけえ、この荷運びの兄ちゃんがな、船に乗せてくれよったんよぉ。ほんに親切な子でなぁ。よう出来た子じゃあ。儂と孫がなぁ、これ儂の孫なんだがなぁ、田舎から背負ってきたんな~、まぁようやっと都に来たん。でも人が多ぉて多ぉて敵わんわ。すっかり迷ってて難儀やったわぁ。で、どこまで話したんかのぉ」
のんびりと、それでいて強引に、大きな声で田舎から出てきた爺ちゃんを演じ続ける大師の勢いに、その場の雰囲気が完全に作られてしまった。のっそりと、怠惰で、終わりのない無益な話が永遠に続くような、あの独特の、しいて言えばゴミだしして戻らない主婦らの井戸端会議のような独演会。
護衛の男達は「厄介な爺ちゃんが来た」とうんざりと互いに目を合わす。
「分かった分かった。爺ちゃん巡礼にわざわざ来てくれたんやな。じゃあ、こっから大聖堂に行きな。こっから行けば夜明けにゃ間に合うだろう」
「すいませんねぇ。お兄さん達、いい人達やなぁ」
「はいはい、判ったからさっさと行きな」
明らかに邪魔者を追い払う勢いだったが、大師は「ありがたや~ありがたや~」と拝みだす。
この怒涛の田舎者の物まねの大師を、サイイドは頬の筋肉一つ動かさずに無表情で背負い船を下りていく。大きな背を縮め、警護の男達に頭を下げ、背中には田舎者の物まねをした師匠を背負い歩く。屈辱もあるだろうけど、ここは耐えてもらうしかない。
最後の油壷を置いてすれ違う時、うんざり顔のサイイドの背で大師の目が楽しげに輝いたのを見て、黙っていようと決めた。ご老人、逞しすぎる。
テンジン達は、この騒ぎに便乗して麻袋を奥の倉庫に運ぶ素振りをしながらその場を離れていく。
何となく、肩が小刻みに揺れていたようなのは、気のせいじゃないだろうなぁ。
「あぁ、じゃあお前、爺さん達を大聖堂まで連れてってやってくれよ」
「は? 」
「どうにも初めての奴にはこの中州は迷路みてぇな場所だろうしさ」
「お前も夜明け前の聖会見ときたいだろ。今日は少々遅くなってもいいからよ」
裏返った声のラヴィに、男達が次々と厄介事を押しつけていく。明らかに、田舎者の厄介な爺さんを追い出す口実だ。「またこの爺さん達が「道はこっちでいいんですかいのぉ」って戻ってきたら困るだろ」と小声でラヴィを小突いている。
ここは、予定が変わっても素直に流れに乗った方がいいだろう。その直感を信じて、諸々が詰めてある麻袋を掴んで船から飛び降りて、サイイド達の傍へ走り寄る。
背後でラヴィと警護の男達の押し問答が聞こえたが、適度に切り上げて追いかけてきたラヴィの顔は汗びっしょりだった。
「待ってよ。予定と違うじゃんか」
「あの場合は頑なに断っても不自然や。ここは大人の余裕で予定変更やな」
「そうやってオレの事子ども扱いするんだからなぁ。神殿の人ってこうなの? もっと徳のある優しい人ばっかだと思ってた」
サイイドに軽くあしらわれて拗ねる様子は、子供そのものだ。
自分がどれだけ警護の者達を安心させて、最初の危機を乗り切った事に自覚がないのだろう。
そんな様子に、最大の功労者で混乱の張本人の大師は笑いながら千手でサイイドの向こうを指し示す。
「人数は増えたが、目的地は同じやしな。さっさと仕込んで休むで。年寄りは疲れやすいんや」
「さっきはえらいはしゃいで活躍してましたがね。田舎の爺さんが」
「年寄働かせるもんやないでぇ。あぁ、しんど。腕が重うてかなわんわぁ」
千手が大きな音を立ててサイイドの頭にクリーンヒットした。
サイイドは呻き声を上げつつも、歩みの速度は落とさない。不審がられないよう、船乗りの恰好をしているラヴィと麻布を担いだ荷夫の俺を先に歩かせながら「道案内されている田舎者巡礼者」を装いつつ、進行方向を素早く小声で指示していく。
白い漆喰に青いタイルで装飾された廊下は、蟻の巣のようだ。どこも同じような特徴のない壁が続き、幾度も道は交わる。それでも、次第に大きな廊下に近づいているのか幾度も神官達にすれ違う。
が、どの神官も忙しいのだろう。少し不審そうに視線を送ってくるが、「もう少しで大聖堂だからな爺ちゃん」「すいませんねぇ。兄ちゃんえぇ人やわぁ」というラヴィと大師の漫才のような掛け合いを聞くと、如何にも忙しい雰囲気を出して走り去ってくれる。願ったりかなったり。
俺はそんな彼らの様子を俯きながら眺め、きょろきょろと周りを見渡す。
これが、俺が閉じ込められていた場所。この壁に、この神官達に、この空気感に、俺は何世紀も囚われていた。その事が信じられなく、どこか夢物語を見ているかのような、フワフワした落ち着きのなさをお腹に感じていた。体の奥底では、この場所の雰囲気を感じ取って興奮しているが、頭はそれに追い付いていない。
「ここらはどうですか? 」
「あかん。ここの上は書庫やろ。貴重な文献に傷つけられへん。楽器庫もあかん。沐浴場は皆が使うとこやしなぁ。この先に上級神官の舎があるやろ。そこどうや」
「性格悪いですよ、それ」
個人的な恨みでもあるんですか、といいつつもサイイドは髭で隠れた口元を歪ませてラヴィに方向を指示する。
性格悪いのは弟子も同じらしい。曲線のアーチが美しい回廊に出て、小さな噴水に緑あふれる中庭を通りながらリュウ大師は指で虹珠を弾く。回廊を照らすランプの灯りに小さな真珠は煌めきながら葉の茂みへ落ちた。
「まだ先があるなんて……随分大きい建物ですね。ここが河の中州なんて信じられない。まるで島ですよ、ちょっとした」
「そうやろ、そうやろ。深淵いうたら、小さな国と同じ規模やからな。深淵以外にも、他の神殿もあるで。暁の神殿もそうやし、太陽神殿も月神殿も」
動かす金、政治、全てが世界に大きな影響を与える場所。それに相応しい規模と華麗さ。
そして一層、装飾されたタイルが目に付く建物の前を通り過ぎる時に、大師は素早く虹珠を弾きいれる。一つ、二つ、三つ、四つ。
五つ目も弾こうと手の中で虹玉を動かす仕草の大師を、さすがにラヴィが「その辺にしとかないと、後の分がなくなるしっ」と遮る。闇の中で舌打ちが二つ確かに聞こえ、ラヴィは身震いして項垂れる。
「神殿って、怖い所だな……」
「ほれ、次行くで。さっさと行きや」
空の闇は次第に藍に変化している。手の中のランタンで、小さな炎が揺らめいて蝋が残りわずかと主張した。残された時間は、半分だ。
次第に濃くなる乳香の匂いに、鼓動が早まる。冷や汗が出てくるのを気のせいで誤魔化して深呼吸を繰り返す。
自分が誰であるか、何度も心の中で繰り返す。懐かしい日本の光景を、過ごした学校を、友人の顔を、両親と祖父母の写真を思い出しながら。遠い昔に握った大きな手の感触を思い出しながら。
自分はもう、小さな囚われ人ではない、と。
次回 29日 金曜日に更新します。