101 震える心を鼓舞して
「上を向いて。ほれ,満天の星の下で,風の精霊が踊っとる。嬉しい,楽しい言うてはる」
柔らかな言葉の響きは,凝り固まった俺の鼓膜をゆっくりと解いていく。
干からびたように,骨だらけの手が優しく俺の手を包み込んだ。
「胸はって,前向きなはれ。大丈夫や。儂の弟子は優秀やから,何も心配せんでも上手くいきますわ」
「サイイド聞いたか? ようやっと師範の口から優秀な弟子という単語が出たで」
「阿呆。他のに比べたらマシってだけや。十年チョイで出来たことと言えば何や,ホレ言うてみぃ」
「す,すいませんすいませんすいませんっ」
「ちょっと褒めるとコレや。この馬鹿弟子どもがっ」
千手でポカスカ金髪の頭を叩き,サイイドのデカい背中を足蹴にする老人の姿に,ラヴィは引きつった顔で身をよじって距離をあけた。
「お忘れかもしれませんが,全て終えてクマリに帰るには,ハルキ様に一仕事してもらわないといけないのですけど」
「あ……そうだった」
星の気脈で移動してきた事をすっかり忘れていた。無事にハンナを救い出して,すぐさまクマリの祭に合流してやらなければいけない事が山積みだった。
「そういう事で,絶対に無事で。これがハルキ様の任務ですから」
念押しして,素早く計画が失敗した場合も打ち合わせていく。万一,ハンナを見つけられなかった場合。誰かが捕まった場合。最終的に落ち合う場所。どれも想像したくない未来も考え,対処と覚悟を促す。全てを打ち合わせて,テンジンは確認するように頷く。
「ハンナさんを救出するのが目的ですが,くれぐれも無理をして神殿側に捕まらないよう。特にラヴィ,お前は何の訓練も受けてない」
「お,俺だってなぁ」
「船の扱いは一流だ。でも,いざ襲われたらどうする。呪術で攻撃されたらどうする」
その言葉に夜明け前の冷気が濃くなる。
テンジンは素破として訓練を受けた人間だ。ヨハンとサイイドは神殿の神官と学僧だから知識もあるし,呪術の心得もある。リュウ大師はその上に経験がある。
「いや,俺も素人だから」
「貴方は守るべき対象ですから」
「いや,でもいざって時は俺頑張るし」
「いざハルキ様が頑張るという時は,全てを諦めて撤退する時です」
テンジンの断言に,他の4人の視線が自分の顔に集まるのを感じる。
「ダショーがどういう人物か知っている人は,この世界にどれだけいますか? 先日,浜辺の天幕で神殿から一度襲われたと言いましたね? 今,この世界にいるダショーが青年の姿である事を知っているのは,その時の人数と,我々と,それを打ち明けたクマリの面々だけではないですか? それがどういう意味を持つのか,よく考えてください」
「俺の顔を知っているのは,アイと,その周りにいた襲撃者と,団長達と,ここのメンバーだけ,だ……」
テンジンの言葉に,事の重大さが肝を冷やしていく。
そうだった。この世界は以前の『俺』が死んでから10年しか経ってない。すぐに生まれ変わっていたとしても,次のダショーの肉体は子供のはずだ。
「そうです。本来なら,次のダショーはまだ子供です。そう考えている世間を最大限利用すれば,まだ自由に動くことができます」
「なるほど。もう知っとる深淵はともかく,後李や周辺の国は騙せるわけやな。この冬至祭には後李はもちろん他の国の有力者達が来ているし」
「そういう事です。もう知られている深淵はともかく,これ以上今生のダショーの年恰好や正体がばれるような事態に絶対にさせるなと,団長からの厳命です」
サイイドの頷きを肯定したテンジンが,懇願するように俺の手を握って頭を下げる。
「ですから,皆を守ろうとするのなら,尚の事,決して,自ら表に出るような無謀な行動をしないで下さい。そうしないとオレが団長に重りつけて海に沈められますからっ」
「う,うん……」
「皆を想うなら,どうか穏便に。まず自分の身を考えて逃げて下さい」
「分かったから,うん,分かったから」
サンギなら,実行しそうだ。本気でやりそうだから怖い。
壊れた人形のように首をカクカク上下運動させると,ようやくテンジンが大きく頷いて笑顔になる。
「では,そのように。絶対に貴方は表に出ないで下さいね。いざとなれば一人ででも玉獣で沖に行くなりクマリに帰ったりして下さいね」
「……え」
「はい,では各々やるべき役割をこなして下さい。以上解散ー」
何か,騙された? 嵌められた? 強引に約束させられた感に打ちのめされている間に,ラヴィはヨハンに「妹さんって,あんたに似てるの? じゃあ超絶に可愛いの? それとも綺麗系? 」などと聞き,サイイドの丸太のような腕の襲撃を華麗に逃げ回る。ヨハンはそんな2人を止めようと周囲をあたふたと回り,テンジンは荷の確認をして素早く帆柱のロープ調節に行ってしまう。
皆を見送りながら,もう一個サモサを味わいながら一人で頷く。
無謀は,自分の身と切り札を失う事になる,か。
とにかく自分が出来る事を懸命にするだけだ。やるべき役目を理解することだ。
テンジンが言った事を,よく頭に叩き込んでいくしかない。
「……っ」
もう一個。そうサモサに手を伸ばして気づく。包み紙に,小さく蠢く虫がいる。八本の足を絶え間なく動かしているその虫に,視線が外せずに固まる。
大声すらあげられず,逃げ出す事も出来ず,凍りついてしまう。
ソレは,青い糸を出すのか? 青い糸で再び俺を絡めるのか?
「怖い,ですかな」
皺だらけの手が,無造作に蜘蛛を摘まんでいく。
なんてことない手の動きが,ゆっくりと見える。
大師は,小さな黒い蜘蛛を指先で摘まむと,背を向けてふぅ……と息を吹きかけ飛ばす。
その小さな動きを終え,向かい合う。
「大丈夫や。あれはただの蜘蛛や」
「知って,いるんですか? 」
ダショーが神殿に縛られた訳を。
縛り付けた方法を。その呪術をこの老人は知っているんだろうか。
この老人は,蜘蛛を「ただの蜘蛛や」と言って目の前から逃がしてくれた。
知っているんだ。
「儂はこう見えて侍従やったしなぁ……詳しゅうは知らんが,そういう呪術で縛ってはるとだけは聞いとりましたからな。阿呆な弟子には言うてません。大丈夫や」
蜘蛛の形をした呪術の糸で,俺の魂を縛る。
その呪術の恐怖に,生まれ変わった今も囚われている。こんな状態で神殿に向かう無謀さ,焦燥,不安。
あふれ出す恐ろしさに,震えが止まらない。
その手を,もう一度,大師が包んだ。
「大丈夫や。みんな,ついとりますからな。大丈夫や」
「……はい。はい,もう,子供じゃない。俺は,大丈夫です」
この恐怖を乗り越えろ。
震える手で,頭に布を巻きつける。幾分か伸びたけど,現代の短い髪は目立ちすぎる。
空はまだ深く星は輝いている。夜明けの気配のない闇の中,浮かび上がるランプの灯りが力強く湊を照らし出して男達を浮かび上がらせている。
船が接岸する寸前に,船から二つの人影が飛び出してロープを船留めに結び付けていく。
「祭の日だがご苦労さん……おい,お前達新顔だな」
「すいませんねぇ。急に腹痛で屋敷の人達倒れちゃって。頼まれて持ってきたんですよ~」
「何だ,前夜祭のご馳走が痛んでいたのか? 」
「まったくねぇ,ついてない事で」
「お前も人がいいな。せっかくの祭なのに」
「いえいえ。こうやって仕事されている皆様に比べればとんでもない」
目ざとい警護の言葉に,人懐っこいラヴィいの明るい声が返事をする。
やっぱりラヴィにいてもらってよかった。その後に続く雑談が和やかに流れていく。
その邪魔をしないように,素焼きの油壷を背負い顔を伏せて湊の中に入る。
石畳の地面と,先を歩くテンジンの足を見て,ただひたすらに油壷を運び続ける。素焼きの壺が肩の皮膚に食い込んでくる痛みが,今は荷運びに専念することを命じていた。
ヨハンとすれ違うと,気遣わしげな視線に無言でうなずく。大丈夫,と。
「おいこの爺さん達は何だよ。巡礼者は正門からだぜ」
「あぁ,これはその」
警護の男達が,船から出てきた大師達に気づいたのだろう。手に長い棒を持った男達が小さな影を取り囲んだ。
「全ての巡礼者は正門からと決まっておる。今日は特に冬至祭だ。不審な者が立ち入らないよう,重々念を押されとるんや。爺さん,その外套を取れ」
久々の更新。夏休み最後にドドーンと連日更新です。
次回は明日 28日 木曜日の8時に。