100 闇夜の中で
昼間の暑さが嘘のように、夜明け前は肌寒くなっている。伏せた地面から湿気た臭いと冷たさを感じながら、息を潜めて闇をみつめる。
幾分も経たないうちに、足音をさせずテンジンが戻ってくる。
が、もう一つの影を伴っている。少し小柄な人影が河からの灯りで露わになった途端、思わず起き上がってしまった。
「ラヴィ、何でいるんだっ」
「お静かに」
音にならない声で制され、素早く手招きされる。
「ここから先は、大きな声は控えて下さい」
注意すべきはそこじゃないだろ。と言いたいが、そんな状況じゃない。
足元も見えないのに、テンジンは俺の手を自分の肩に乗せて小走りに走り出す。リュウ大師はサイイドが背におぶっている。
腰ほどの高さまで茂り露で濡れた草が生える河辺はぬかるんでいて、さらに暗闇で動きづらい。数歩先が分からない為に、テンジンの肩を持ってないと怖いぐらいだ。
そんなへっぴり腰の俺を素早く誘導して船に乗せると、次々と引っ張り上げて綱を外し休む間もなく動き回っていく。
座り込んだ俺が動き出した船の様子に気づいたのは、岸辺から幾分と離れてからだった。船の周りの水音と、揺れる動きがゆったりと変わっていた。
「あんまり動かんでお座りなさって。そこいらに油壷がありますさかいな、闇目が効かん者が動き回って倒したりしたらちょっと面倒や。若い連中に任しとったらよろし」
「大師、この船」
「なかなか大きい船を用意しはったわ。ほんまに大店の商船やで」
楽しそうに話す大師に従い、上げかけた腰を下ろす。なるほど、周りは素焼きの壺がぎっしりと並んでいる。香油か何かだろうか。ミントのような清涼感ある香りに包まれている。頭上を見れば、僅かに開いた三角帆がゆったりとなびき、夜風を受けて夜の黒い水面に帆の白さが浮き上がっていた。船はしばらく、河の流れにそってゆっくりと中州へと流れていく。
「随分と荷がありますなぁ」
「御用店の商船を用意するとは恐ろしい。どうやったんだか」
感嘆するのか困っているのか。サイイドとヨハンがやってくる。横を示して座るように促しても、そっと大師の後ろへ身を縮ませて座る。大柄なサイイドは、辛そうだ。
「まぁ、少々荒かったけどね」
「誰か危ない目にあってないよね? 」
「卸問屋の屋敷でちょっと腹下しが流行ったんだ。まぁ、今日一日は腹の具合が悪いだろうけど、治るってテン兄が言ってたよ。いや、兄ちゃんが心配するような……痛ってぇ」
「兄ちゃんとは何ぞ! この無礼者めがっ。このっこのっ」
油壷をまたいで来たラヴィに、大師が懐から棒のようなものを出して叩きつける。
「その言葉遣い直したるっ。根性入れ直したるっ」
「子供相手に本気出さんといて下さいっ」
「千手なんかで人叩いたらダメですよって」
師弟漫才が繰り広げられる中、原因のラヴィは揺れる船上と思えない軽やかな動きでオレの隣に移ってきた。手にした布袋を開けた途端に、香ばしい油の香りが広がる。
「お袋から差し入れ。一仕事の前に食っておいた方がいいよ」
「サモサか。気が利くな」
「ぎょうさん作ってくれはったなぁ」
植物の皮の包みから、シューマイほどの三角型の揚げ物が溢れ出てくる。文句を言っていた大師も、手を伸ばして食べ始める。
恐る恐る口に入れてみると、サクサクとした塩味の皮の中にマッシュポテトのような僅かに甘みがある蒸かした芋がある。
思わず二個目に手が伸びた。この食感はまるで
「『コロッケだぁ。幸せだなぁ』」
思わず日本語で呟くと、ラヴィは目を丸くして固まる。何か、こちらの世界でヤバい響きだったのだろうか。
慌てて「美味しい。癖になる」と言い直しながら、三個目を摘まむ。すでにサモサの山は半分近くになっている。
「でも何で、ラヴィがここにいるんだ? 家に帰ったよね」
「あんた達じゃ、ヤバそうだもんね。ここは都慣れしたオレの出番でしょ」
「でも何かあってはご両親に申し訳がないよ。君はまだ子供なんだから」
「荷運び船頭してもう2年だぜ? 子供じゃねぇよ」
サモサを口に放り込みながら、胸を張る。仕草はまるで子供なのだが、大師は頷いた。
後ろから、テンジンがため息交じりでやってくる。
「船頭してはるんなら、立派な男やな」
「親父さんとは、ちゃんと話しをしてるんだな」
「してるしてる。日が昇って2刻までに河口の南端で落ち合う約束してるし」
「……だそうです。本当に話がついてるか判りませんが、もう来てしまっているので、ここは、まぁ」
珍しく語尾を濁した口調でテンジンに、苦笑いするしかない。
いつだってはっきりした態度だったテンジンも、弟のような幼馴染には甘いようだ。もっとも、人手が足らないのは事実。猫の手すら借りたい状況とは、まさに俺達の事だから、しょうがない。
ラヴィは無邪気に握りこぶしを小さく天に上げて喜んでいる。
「申し訳ないが、こういう事情故に、少々作戦変更だ」
「本職の船頭がいた方がえぇのは確かや。だが無理せんとな」
「せぇーへん、無理せぇーへんて」
神殿言葉を真似たラヴィの返事に、サイイドも肩を竦めてテンジンを見上げた。
「ラヴィを入れて6人になったから、基本2人で組になって行動をする事にする。オレとヨハンで暁の神殿から侵入する。サイイドとリュウ大師で湊から深淵の神殿の裏通路を通って大聖堂へ抜ける」
そう言いながら、持ってきた麻袋をヨハンに渡す。その中身は巫女の装束だ。神官が着ている浄衣と似ているが、袖口や襟元に朱色の糸が使われている。線の細いヨハンなら、服装を変えるだけで十分巫女として怪しまれないだろう。忙しいどさくさに紛れて、変装したヨハンの手引きでテンジンは男性禁制の暁の神殿の内部に潜入する作戦だ。
作戦を確認しながらリュウ大師はにんまり笑うと、大きめの外套を被った。フードを被ると、皺だらけの口元しか見えない。これなら顔を知っている関係者に見られても誰か分からないはずだ。
「とにかく、2人は年老いた父親を背中におぶって中州で道に迷った田舎者の巡礼者のフリをしてください。サイイドさんも、外套をしっかり被って下さい。そのデカい体は目立ちますから」
「デカいのはしょうがないやろ。それで何処に何を細工するんだ? 」
率直すぎるテンジンの言葉にむっつりしながらも、サイイドは外套を羽織りだす。その2人に、ヨハンが懐から小さな巾着を取り出した。
「風の精霊を込めた虹珠を23粒。これを使って下さい」
「にじゅう……こんな沢山、どないしたん……」
「言うたでしょう。私が後李の採掘場に囚われてたと。その時の土産ですよ。少々、くすねといたんです。こんな所で役に立つとは思いませんでしたけど」
サイイドの大きな手の平にそっと巾着を渡して、ヨハンは微笑んだ。
俺を船で襲った時にも幾つか使ったから、全部で何粒くすねてきたんだろう。王子な外見だが、中身は随分としっかりしているようだ。
急に乳香の匂いがきつくなったので目を上げる。すると、テンジンが帆柱に下げていた唯一のランプから火種をとり、小さな3つのローソクに火を灯してランプに入れた。
「大きな柱や人の目に付く物の影に置いておいといて下さい。私の合図で一斉に疾風が起きるさかい」
「このローソクが燃え尽きるのに一刻。これを目安にするので、それまでには終わらせて、この船で待機です」
「はぁ……これ売ったら大した金になるで? 全部使うんかいな」
「師範、ここでケチってどないすんですか。妙な下心出さんと、景気よくばらまいておいて下さいよ」
よほど虹珠は貴重なんだろう。ラヴィは目を丸くして巾着袋から目が離せずに、半開きの口で固まっている。未練がましい大師の視線にも気づき、サイイドは小さな巾着を帯にくくりつけて外套の下に隠してしまう。
「あぁ、勿体ない。あれ全部使うのか? 」
「お前な、勿体ないって置かれた虹珠を拾い集めようとか考えるなよ。あれは全部白色だからな。契約済だからヨハンが解放させれば一斉に風が起きるぞ。オレはその風で殺されかけたんだからな」
「う、嘘だろ、それ」
絶句したラヴィに、ヨハンは絶世の美女も敵わないような微笑みで返す。サイイドもヨハンの力を知っているのだろう、何も言わずにサモサを食べ始め、それを見たラヴィは固まる。
「最後に、ラヴィと……」
「名前でいいよ」
「……では失礼して。ハルキ様は荷運びの下人のフリをしてください。幸い、ラヴィが入ったので2人はすぐに船に戻って河で待機です」
「最初の作戦通りに俺も虹珠を撒くよ。その方が早く終わるだろ」
「一刻も早く、船に戻って中州から離れて下さい。それが一番安全ですから。ラヴィ、いいな。絶対にハルキ様をお守りしろよ。何かあっては、この作戦は全て失敗だ」
言い切るテンジンに、ラヴィは勢いに飲まれて何度もうなずいた。
胸の中に、何かが冷えた。
俺が出来る事は、無事でいること。それが判るのに、この場にいるのが酷く場違いのように感じる。
分かっている。分かっている。
「下向かんと、上向いて」
冷気が張りつめた夜の空気に、ふんわりと大師の声が震えた。
立春の翌日が,5日でしたね……すみません。
時間の更新予告ですが,少々お待ちください。個人的な理由で著しく筆が遅いです。申し訳ない。
また時間が出来たときに,活動報告などでお知らせします。