99 冷え込む草に伏せて震え
夜がやってきて、街は仕事帰りに一杯する男達や宿探しの巡礼者たちで喧噪に包まれる。貧民街も、活気着く。この安宿も。
大荷物を持って夕闇に紛れるように帰ってきたテンジンは、神殿から帰ってきたサイイドの話を聞くこの療院から、二三手に分かれて貧民街の安宿に移った。
サイイドの顔を知ってた女将は首を傾げたが「以前別れた女が療院まで押しかけてきてる」という嘘に苦笑いをしながら馬小屋を提供してくれた。
人数分の毛布と簡単な食事は提供され、少々馬糞の臭いもするが藁に腰掛けて香辛料と魚を煮込んだ何かを腹に流し込みながら、互いにこの数時間で得た情報を話し合う。
「厄介な知らせしかありませんねぇ」
地面に描かれた略図を睨んで、テンジンがここ数時間で集まった情報を要約する。
オレとヨハンは療院で留守番をしていただけだけど、残りの三人は目まぐるしく街の中を動いていた。
大師はヨハンの妹ハンナと連絡を取ろう、あわよくば外出願いを出して外へ連れ出そうと、暁の神殿へ赴いてくれたが、面談不可となり帰ってきた。
深淵の顔なじみに情報を教えてもらおうとしたサイイドは、一言だけ「反逆罪の候補にあがっている。何をしたんだ」と警告されてしまったらしい。
あぁ、だから追手を警戒して療院からここに場所を移したんだな、と理解。
さらに神殿群のある中州への渡し船は、僧兵による監視が厳しく、巡礼者は外套を脱いでいくように指導されているらしい。
「あ、それなら大丈夫です。船は用意しましたから」
堅いナンのようなパンを食べながら、軽くテンジンは受け流す。
「香料問屋の船を調達予定です。下人のフリをして頂かなくてはいけませんが、中州の搬入口に接岸出来ます」
「問屋の商船など、どうやって手に入れたんや。あの小坊主を使ったんか」
「ラヴィは、ちゃんと家に帰ったんだよね? 」
あの子は巻き込むべきじゃない。身の安全をテンジンにお願いしたはずだった。
思わず声をあげると、テンジンが軽く頭を下げて微笑んだ。
「家族にも、この街を明日の昼までに出るように伝えてあります。大丈夫。あの家族はクマリからの難民です。故郷に帰れることを喜んでおりますから」
「ラヴィは無事なんだね? 」
「きちんと家に届けましたから。大祭が終わるまでに街を出れば大丈夫です」
先回りをしたテンジンの言葉に、ただ安堵のため息をつく。
巻き込んでしまったあの子に何かあったら、親御さんに申し訳ない。
クマリで会えたら、十分な御礼をしよう。そう言うと、「団長にも伝えておきます」と頷いた。
「随分な警戒だな。深淵は、どこまで把握出来てるかは分かっているのか? 」
「分かっていたら楽なんですが。そうですねぇ」
サイイドはすでに食事を終えたようだ。「堅くて食べれん」と差し出されたリュウ大師のナンまで食べて、イチジクのような柔らかい果物を大師に剥いて渡しながら唸る。
「後李の虹珠採掘場の件は知ってるんやろうなぁ。あれはオレも船着き場の兄ちゃん達が居酒屋で噂してるのを聞いたからな」
「どうして、そんなに早く伝わるんだ? この世界の通信手段って、そんなにないと思うけど」
「船乗りや伝書は航海の途中で行き交えば、手持ちの食料や水を融通したりするのです。その際に航海に役立つ些細な情報もやり取りする。その方が互いに安全ですから」
この世界の知恵を聞かされ、納得。そうやって、遠くの国で起こった出来事を伝えていく。インターネットはないけど、そうやって情報をやり取りしているのか。
「神殿も独特の情報を伝達する方法があります。各国に神殿がありますからね、その伝手を通して通常の国や人々が手にするより早いんです。それが厄介で」
「水鏡の術、です。水脈を使って精霊に言葉を運ばせるのです。私もそうやって神殿に指示を受けたり流したりしましたから」
ヨハンは注釈を加えると、申し訳なさそうに頭を垂れる。
妹を人質に取られてやった事とはいえ、それはかなりの強敵だ。正確な情報を最速の方法で送るんだから。それって、電話に近いかもしれない。
気にするなと、肩を軽く叩いて苦笑い。
「ただ有利なのは、その水鏡って術は高度なんだろ? それだけの術を使える者は限られてる」
「かなり疲れる術やから」
「その上、ヨハンからの情報は途切れたわけだし。クマリでは冬至の祭が行われているから、間者から見ればオレは祭に参加してることになってるし」
ばれてなければ、こちらが有利。
その意外な所をもって攻めていくしかない。
「師範がハンナに会えないのは、何故だったんでしょう」
「良い方にとれば、神殿はお前が死んだという情報を信じていて、周辺から兄が死んだと知らせを妹に聞かせないようにって事か。兄がまだ生きているかもしれない事にしておいた方が、妹を動かせやすいだろうし」
「なるほど。ヨハンがダショーを襲って死んだとなれば、反逆罪。友人のオレに共謀の罪をつけて遠ざける事も出来るさかいな。悪う考えれば、ヨハンに命じた暗殺が失敗したんに気づいて警戒している,ともとれるな」
サイイドは大きな手で次々と果物の薄皮を剥きながら、周到に考えを巡らせていく。
「油断は禁物やな。悪い方に考えて行動したほうがいいんじゃないか? 」
「オレもそう思う。ハンナはどこに配置されるか。どの隙をついて奪えばいいか。悪く考えば、罠が張られている。逃げる手段も用意して計画した方がいいですね」
「そう、だね。みんなでクマリに帰るんだ。罠が張られていたらどうするかも、考えておくべきか」
「そうなると,アイーダ様に権限が移ったのは好都合。切れ者のアイ様では,ほんまに恐ろしゅうてかないません」
「アイーダ? 」
ヨハンの口から出た名前に、思わず首を傾げる。
「神殿の執行官はアイだろ? 」
「ここ最近急に代わりはったんです。今はアイ様の甥、アイーダ様が深淵の臨時執行官を務めています。史上最年少の紫の大僧正ですわ」
神殿の話題になると,次第にヨハンの言葉使いが変わりだす。
半年程前、クマリの宿場廃墟で襲われたのを思い出す。
木偶の術でテリンの体を奪い、襲いかかってきたアイをオレは大黒丸で刺して燃やしかけた。肉体ごと燃やそうとした。あの時、術をかけた本体のアイ自身も何かしらのダメージを受けたんだろうか。
「アイは儂より歳上。さすがの化け物も歳には勝てんと、甥に譲ったか。あのアホな甥っこになぁ。まぁ,どうせ影で自分が糸引いてるんやろな。あいつは何でも自分自分や」
「師範も化け物並みに元気ですけどね」
「そりゃあ、弟子が心配やからに決まってんやろ。はようしっかり成長せんか。こっちは隠居も出来んわ」
「そろそろ若人に道を譲っても罰当りまへんよって……」
口からマシンガンのように果物の種を飛ばしている大師を見て、ヨハンとサイイドが肩を落とす。師弟の漫才ような会話を眺めながら、妙な実感につつまれた。
記憶の中で若々しい声で縛られていたが、もうあの声ではなかった。差し出された大きな手は、リュウ大師のように、きっと木の枝のように骨が浮き出て皺に包まれているのだろう。
あの頃とはずいぶん変わったんだろうな。全てが。
流れた時間が、急に生々しく首筋を撫でていくような寒気が襲い掛かる。
「貴方は何度も青い瞳で蘇る」とささやいたアイの言葉が再生された。そうか。確かにオレは青い瞳で何度も蘇っているんだ。
天上に輝く星灯りと神殿に灯された無数の明かりで、漆黒にぬめりと動く水面が時々煌めく。耳をすませば、遠く巡礼者を運ぶ渡し船が何艘も浮かんでいる水音もする。
まだ夜が明けるまで随分と時間がある真夜中なのに、大勢の人達の興奮で空気までザワザワと蠢くような感じだ。
日中に僅かに仮眠をとっただけだったが、神経がとんでもなく高ぶっているのか眠くはない。この河の向こうに、ミルがいるのだから。
「ここでお待ちください」
音にならない声でそう囁いたテンジンは、音も立てずに小走りで建物の影へと入っていく。
草むらの青い臭いの中、おとなしくしゃがみこむ。素破だけあり、テンジンの身のこなしに驚くばかりだ。目立つ金髪を泥で汚したうえに頭にターバンみたいな布を巻いて隠したヨハンも横で息をひそめている。荷運びの下人の恰好をしているが、俺とヨハンじゃ忍び込むなんてとてもとても頼りなさすぎる。
反面、サイイドは屈強な大男で草むらに体を隠すのに困っている。
「音立てんと走ってったで……怖いヤツやな。どうやって香料問屋の商船を調達したんだか」
「まぁ、金で買ったんやないのは確かやな。あいつ,結構ケチくさいで。血ぃ流れてないんを祈るしかないやろ」
「怖い事言わんで下さい。師範、冷えてきましたが大丈夫ですか」
「興奮で寒いどころやないわ。この年でこんなおもろい事する思うてなかったわ」
声を上げずに、大師が幾ばかり歯が抜けた口をにいぃっと広げて笑った。
まるで悪戯をしかけるガキ大将のような顔だ。
もう70歳になろうかという人なのに、何て逞しいんだろう。俺は胃袋が裏返ってしまいそうなぐらい腹が脈打っているというのに。こんな緊張、初めての教育実習以来か。いや、それ以上か。
まだ学生の時に初めて遭遇した40人の視線の束を思い出して,否定する。当時はあれほど緊張する事はないと思っていたのに,それ以上の場面に行こうとしている自分が不思議だ。
今から,何万もの人々が祈りを捧げる神殿へ忍び込もうとしているのだから。
「無理せんといいんよ。キツかったら、ここの若いもんらにやらせますよって」
緊張して強張った俺に気づいたのか、大師がそういって幼子に聞かせるように言い、微笑んでくれる。
もうオユンではないが、大師の前では俺はいつまでも幼子になるのかもしれない。
「いえ。自分がいた場所を見てみたいし、姫宮のそばに行きたい。大丈夫」
甘えれる歳はすでに過ぎた。大師の心だけ受け取り、覚悟を決める。なるようにしかならない。
あとは全力を尽くすだけだ。
そう決心すると、わずかに草に落ちた影が揺れた。シンハが笑った、そんな気がした。
次回 2月5日 水曜日に更新予定です。
節分の翌日ですね。まだ寒い日が続きますが,お体に気を付けて下さいね。