24話 男爵令嬢は待機する
私の手の平の傷は幸いにも、十日もすれば痕も残らず完治した。
医者曰く初期の対応が正解だったようで、もし使用人の皆による応急処置が間に合っていなかったら不清潔な園芸用鋏によって傷口が化膿して、完治までもっと時間が掛かっていたり、最悪一生傷痕が残ることになっていたりしたかもしれないとのことだった。
利き手を使えないことは何かと不便で、その中でも包帯を巻いている間はペンを手に取ることができなかったのが一番辛かった。ベルンハルド様から届いた手紙を読むことはできても私の直筆での返事が書けなくて、母様に代筆してもらった。
ちなみに両親もリオンも、私の怪我を聞いて最初こそ驚いたけれど、きちんと手当をしてもらったことやそもそも私がイアンの許可を取る前に鋏を手にしたことなどを説明すると、落ち着いてくれた。
父様も母様もイアンを必要以上に責めるつもりはないようで、最初に取り決めたように台無しになったドレスの弁償だけしてもらえば十分で、今後はよく気を付けてほしい、とベルンハルド様に伝えるということになった。
リオンに至っては「おっちょこちょいな姉上が悪い」と一刀両断でちょっと虚しくなったけれど、なんだかんだ言って片手が不自由な私のために代わりに扉を開けてくれたり、荷物を持ってくれたりした。
優しい弟を持てて私は幸せだよ、ということを伝えたら、すごく嫌そうな顔をされた。そこまで露骨な顔をしなくてもいいじゃないか、と姉上は思う。
そうして怪我が完治したことだし、改めてベルンハルド様のお屋敷に行くことにした。
私の怪我に関する経過報告は母様の代筆で知らせていたけれどあのときはばたばたしていたし、使用人の皆はよく動いてくれたので、むしろお礼をするべきだと父様から立派な手土産を持たされている。
それを手に、私はヒルダを伴ってベルンハルド様の屋敷を訪問した。
そして、出迎えたイアンに改めて平謝りされたので彼をなだめてから、ベルンハルド様のことを尋ねたのだけれど――
「……えっ? 戻ってらっしゃらないの?」
「はい、申し訳ありません……」
そう言うイアンは、本当に申し訳なさそうな顔をしている。
私が今日訪問することは、既に知らせている。ベルンハルド様の仕事が終わる夕方に訪問して、夕食の時間までには帰宅できるようにしていたのだけど……。
「ひょっとして、お仕事が立て込んでいるのかしら? それなら日を改めるけれど……」
「いえ、ベルンハルド様は間もなく戻ってこられます。……ただおそらく、アーシェ様にお会いすることを怖がってらっしゃるのです」
「えっ、怪我ならもう完治したわよ?」
ほら、と傷痕も残っていない右手をひらひらさせると、イアンはそこをじっくり見た後、苦笑した。
「怪我のことでしたら、ベルンハルド様もご理解なさっています。ベルンハルド様が心配なさっているのは……別のことです」
「……別の」
イアンは頷き、私たちを中に通してくれた。
どうせベルンハルド様が戻ってくるまで時間が掛かりそうなので、まずは先に父様から預かっていた手土産を渡すことにした。
これらは「怪我をした娘を介抱してくれた使用人の皆へ」ということで、城下町でも有名な高級菓子店の商品の詰め合わせだ。手当をしてくれたのは皆女性だったので、イアンが渡すととても喜んでくれたし、「お嬢様の体に傷が残らなくて、本当によかったです」と言ってもらえた。
私も以後、気を付けます!
そうして応接間に通してもらい、お茶を飲んで待っていたのだけれど……ベルンハルド様、戻ってこられないな。
「……遅いわね」
「そう、ですね」
「……。……イアン。あなたがさっき言っていた、ベルンハルド様が心配されている『別のこと』についてだけど」
私が切り出すと、背後でヒルダが身じろぎする気配がした。
イアンは苦く笑うと私のカップにお代わりを注ぎ、憂いの籠もった眼差しで窓の外を見やった。
「……詳しいことは、ベルンハルド様の方から伺ってください。ただ、先に私の方から申し上げられることですと……。……アーシェ様はお怪我をなさった際の、ベルンハルド様の口調を覚えてらっしゃいますか?」
「……口調?」
イアンに尋ねられ、私は当時のやり取りを一生懸命思い出そうとした。
……でも、手の平ざっくり血まみれだった私は混乱していたし、ベルンハルド様の言葉一つ一つを完全に記憶しているはずがない。
……ただ、微かに覚えているのは。
「……いつもより流暢に喋ってらっしゃっていた、くらいかしら」
「……そう、ですか」
「ごめんなさい、はっきり覚えていなくて。……でも、ベルンハルド様が悩まれているのは、このことなのよね?」
「ええ――」
イアンは頷き、目を細めた。
彼の視線の先、ガラス窓の向こうの庭は、もうそろそろ夜の色に染まろうとしていた。
結局ベルンハルド様が帰宅されたのは、お茶を飲み始めてさらに四半刻ほど経った頃のことだった。
「……ったく、うじうじするなって! ……あ、すまないな、イアン。邪魔するよ」
「これはこれは、ルーカス様……」
ぶつぶつ言いながら応接間に入ってきたのはベルンハルド様ではなく、黒髪に緑色の目をお持ちの男性――公開模擬試合のときに知り合った、ルーカス・カンプラード様だった。
騎士団の上着が肩から半分脱げた状態の彼は乱れた前髪を掻き上げると、私と視線を合わせて「どうも」と苦笑した。
「お久しぶりです、アーシェ様」
「お久しぶりです、ルーカス様。……その、どうしてこちらに?」
「聞き分けの悪い男の尻を叩いて、連れて帰ったのです。……ほら、観念しろ」
振り返ったルーカス様がそう言うと、応接間にベルンハルド様が姿を現した。
ベルンハルド様は騎士団の制服姿で、少し顔色が悪い。
私を見ると気まずそうに視線を逸らしているし――何より、彼の胸を飾るスミレの花がまた萎れそうになっていた。
ルーカスは無言のベルンハルド様の背中をパンッと叩き、私に向かってお辞儀をした。
「どうやら込み入った話があるようですし、僕は帰りますね」
「申し訳ありません、助かりました、ルーカス様」
「お気になさらず。……そういうことだから、ベルンハルド。僕はもう帰る。もし気が向いたらでいいから、君たちの間に何があったのか、教えてくれよ」
ルーカスはベルンハルド様にそう声を掛けると、もう一度背中を叩いてからきびすを返した。
……ルーカス様もベルンハルド様のことが気になっているはずなのに、深追いせずに帰っていかれた。
本当は問い詰めたいし、この場に残って話を聞きたかったのかもしれないのに……。
ルーカス様が去ってからようやく、ベルンハルド様は顔を上げた。
――はらり、とスミレの枯れた花びらが音もなく消えて、胸が痛い。
「ベルンハルド様……」
「……。……すまない、アーシェ嬢。……待たせた」
「いえ、お気になさらないでください」
ルーカス様に引きずられるようにして帰ってきたことからして……きっと仕事が立て込んでいるからではなくて、私と会うのが気まずくて尻込みしてしまったのだろう。
確かに大遅刻だけど、それを責めるつもりはない。
今、この場にいる人間で一番辛い思いをしているのはベルンハルド様だろうと、予想できているから。
「……怪我は? 辛いところは、ないのか?」
「おかげさまで、完治しました。痛みもありません。使用人の皆にも父から託された差し入れを渡しましたし、皆のおかげです」
「……それならば、いいのだが。……ご両親は」
「両親ですか? 手紙にもあったと思いますが、そこまで気にしていませんよ。むしろ、ベルンハルド様やイアンが思い詰めないように、これからも娘をよろしく、と申しておりました」
私が言うとヒルダも同意をするように頷き、イアンは「……寛大なお言葉に感謝します」と頭を垂れ、ベルンハルド様も「……申し訳なかった」と謝罪なさったことで、この話は終わり、ということになった。
もう遅い時間になったから、イアンの指示で新しいお茶と軽食が運び込まれた。
帰宅までもう少し時間が掛かりそうだということを、イアンが男爵家まで伝えに行ってくれて、ヒルダもそれに同行すると申し出た。私の負傷について、イアンが自ら説明と謝罪をしに行くという意味合いもあるのだろうと察せられた。
……ちらっとヒルダを見ると、小さく頷かれた。二人でゆっくり話をしろ、ということだろう。
イアンたちの配慮に感謝し、応接間には私とベルンハルド様だけが残された。
ひとまずお腹が空いているのでお茶を飲んで軽食を摘み、ベルンハルド様の方から話をしてくださるのを待つことにした。
――ベルンハルド様のことを小馬鹿にしていた、兄二人。
――「喋るな」と怒りを露わにして怒鳴っていた、伯爵。
――ベルンハルド様について、「馬上で戦えないのなら、雑魚と同じ」と陰口をたたいていた騎士見習いたち。
――以前ヒルダが言っていた、「媚びを売った下働きを母親に持つ、ド田舎者」のこと。
そして――イアンが気にしていた、焦ったときのベルンハルド様の口調について。
色々なことが、私の頭の中で飛び交っている。
そうして――
「……アーシェ嬢。少し長くなるが……言っておきたいことが、ある」
ベルンハルド様が、徐に切り出した。
私は彼の胸元で枯れかけたスミレの花が怯えるように震えているのを見て、しっかりと頷いた。
「はい。……ベルンハルド様のお気持ちのままに、お話しください」
「……ありがとう。言いたいのは……俺の、生まれについてだ」
ベルンハルド様はそこまで言うと紅茶で口内を潤し、再び口を開いた。




