第39話
織くんの話を聞いて、私は明確に自覚した。
なっちゃんの隣にいたい。
他の子がそこにいたら嫌だ、と。
まだはっきりと「好き」だとは言えないかもしれないけれど、とにかく今の気持ちだけはちゃんと伝えよう。
そう決心してなっちゃんの家に行ってみたけれど、あいにく彼は友達と出かけていて不在だった。
なっちゃんのお母さんとお茶会をしながら待っていたら、すっかり遅い時間になってしまった。
けれど彼は帰ってこず、結局、昨日は会うことを諦めて帰ってきたのだった。
◇
そして、翌朝。
登校して下駄箱で上履きに履き替え、教室へと続く廊下を歩いていた。
前を歩いていた女の子が、制服のポケットからポロリとパスケースを落とすのが見えた。
「あっ……落としましたよ」
私が小走りで拾い上げて声をかけると、彼女が振り返る。
その瞬間、サラサラの黒髪が美しく舞った。
(……あっ!)
息を呑む。
振り返ったのは、文化祭のステージで、なっちゃんと同じバンドで圧倒的なピアノを弾いていた――由利さんだった。
「……あ……ありがとう」
彼女も私の顔を見て少し驚いたように目を丸くして、私からパスケースを受け取った。
至近距離で見ると、彼女のピアノの音色と同じように、透き通るような綺麗な子だ。
「あの……」
私は、思わず口を開いていた。
「文化祭のライブ観に行ったんですけど、ピアノ、すっごく感動しちゃいました。本当に綺麗で……」
由利さんはもう一度少し目を丸くした後、私の顔をじっと見つめてきた。
「……ありがとう。朝井くんの幼馴染……だよね?」
「あっ、そうです」
なっちゃんの口から私の話題が出ていたのだろうか。
少し嬉しくなり、私は無意識のうちに、親しい家族か保護者のようなテンションで言葉を続けてしまった。
「なっちゃんが、いつもお世話になってます」
そう言った直後、彼女の整った表情が、ほんの少しだけ固くなった気がした。
(あっ……なんか今の、マウントっぽかったかもしれない……)
中学の時、なっちゃんファンの女の子から言われた『幼馴染だからって馴れ馴れしい』という言葉を思い出して焦っていると、彼女は少し俯きながら口を開いた。
「……いえ。私の方こそ、朝井くんにはいつも助けてもらってて。優しいし……あ、でも」
そこまで言った由利さんは、ふと何か特別なことを思い出したように小さく笑った。
「……ちょっと口が悪いところもあるけどね」
(……え……)
「……それじゃあ。パスケースありがとう」
軽く会釈をして、彼女はそのまま廊下の奥へと歩いていってしまった。
「…………」
私は、その場に縫い付けられたように動けなくなってしまった。
(ちょっと、口が悪い……?)
心臓の奥が、嫌な音を立てた。
なっちゃんは、学校で女の子と接する時は基 本的に誰に対しても平等に人当たりが良く、爽やかな優等生の顔を被っている。
ぶっきらぼうで、冷たくて、遠慮のない口の悪さは、幼馴染である私や、男友達にしか絶対に見せない『素』の部分だと思っていた。
(由利さんも、それを知ってるんだ……)
文化祭の準備期間、あの狭いプレハブの練習棟。
そこで二人は、どんな会話をしていたんだろう。
私に見せるのと同じような、あの気を許した冷たい顔で、なっちゃんは由利さんと笑い合っていたのだろうか。
あれは、『私にしか見せない、私だけの特別ななっちゃん』だと思っていた。
でも、そんなの……ただの、私の自惚れだったのかもしれない。
だって文化祭のステージで、二人はあんなにも息の合った素敵なメロディを奏でていたのだ。




